広々とした大理石の浴室。
光子は薔薇の花びらが散りばめられた浴槽に浸りリフレッシュしていた。
「みっつこちゃぁぁーん」
薄曇りのガラス扉の向こうから下心丸出しの陽気な声が聞えてきた。
「あら、なあに?」
「なっちゃんも入りたいんだ。いいだろぉ?」
「だーめ」
「そんな意地悪言わないでくれよ。俺と光子ちゃんの仲じゃない」
「そんなこと言わないで。あたし恥ずかしがりやなんだから」
そんな押し問答に割って入った人間がいた。
「なっちゃん!なっちゃぁーん!!大変だよ!!」
夏生曰く、さわやか馬鹿こと理央が両腕を振り上げて飛び込んできた。
勢い余ってガラス扉にぶつかり、扉を粉々に破壊しながらバスルームに転がり込んだ。
「ちょっと!乙女の入浴を何だと思ってるのよ!」
「あ、ごめんね光子さん」
理央は二回ぺこぺこと頭を下げた。
そして夏生に向き直り、またしても両腕をばたばたと動かした。
「なっちゃん、大変だよ!なっちゃんが匿ってる連中が襲われてるらしいよ!」
「何だと!?」
夏生の眼差しがスケベ男から緊張感みなぎる戦士のそれにと変化した。
「どうしよ、ねえどうしようなっちゃん!なっちゃんの関与がばれたらやばいよ!」
光子は腕を伸ばしバスタオルを手にすると、それを胴体に巻きつけながら浴槽からあがった。
「夏生さんの関与がばれたらどうなるの?」
「やばいんだよー!!なっちゃん、証拠は残して無いだろ?な、なっ?!」
「ああ残してない。俺は偽名使ってたし、スラム街の連中に会った時もサングラスと帽子で顔隠してただろ」
「よかった~。それなら安心だね」
「夏生さん、あなた、まさか美恵を見捨てる気?」
「見捨てるも何も無いよ光子さん!
なっちゃんだけじゃない、なっちゃんの家族の命もかかってんだよ!
反乱分子に手を貸してたなんてばれたらじいちゃんに叱られるだけじゃすまないよぉ!」
夏生は床にペタンと座り込むと頭をかいた。
『夏生!この大馬鹿者め!』
厳格な祖父に怒鳴り声が次元の彼方から聞えてきたような錯覚に陥った。
『おまえはしばらく勘当する、せいぜい頭を冷やせ!
次に不情事を起こしたら、わし自らおまえに刺客を送るぞ!!』
夏生は考え込んだが、しばらくすると「貴子ちゃんがいるエリアに行く」と吐き立ち上がった。
「なっちゃん!」
「理央、おまえはすぐに家に帰れ。おまえは何の関係もない、わかったな?」
鎮魂歌―14―
「それで誰がやる?まさか特撰兵士全員でやるっていうのかい?」
水島はにやにやと笑っていた。それに反応したかのように携帯の着信音が部屋に響く。
「克巳、てめえどういうつもりだ。電源くらい切っておけ」
「悪いね小次郎。俺は携帯の電源は切らない主義なんだよ。おや、生憎と仕事用のほうだ」
水島は地味な携帯電話を取り出して耳に当てた。
「俺だよ、ああ、おまえか。……そうか見つけたか」
水島はすくっと立ち上がった。
電話の相手は言った。『連中の居所がわかりましたよ』と。
その場所は女の割合が高いことで有名な街だった。
「おい克巳、てめえどこに行く?」
「広島に。男日照りで苦しんでいる女性達を処女地獄から救いだすのさ」
戸川は顔をしかめた。任務に関してだけは真面目で忠実な戸川には癇に障ったらしい。
「水島先輩、ぜひ僕もご一緒に」
薫が挙手した。今度は五期生たちが顔をしかめた。
「立花君のほかについて来る子はいないかい?」
今度は和田勇二が無言のまま立ち上がった。
「和田君も行くかい?他の子は……働きたくないってことかな。
それとも俺のお膳立てはお断りってことかな?」
勿論後者だった。四期生と五期生はかつて殺しあった仲なのだ。
その戦いに加わらなかったのは四期生の薬師丸涼(やくしまる・りょう)と、雅信や志郎や勇二、薫や直人だけ。
志郎は元々Ⅹシリーズ以外の人間に対しては無関心、直人の家は水島家とは代々仲が悪い。
「随分と嫌われたものだな。じゃあ俺は手柄を立てさせてもらうよ」
「俺も行こう」
扉が開いた。この場に今だ姿を現してなかった唯一の四期特撰兵士・薬師丸涼だった。
「……涼!」
四期生たちの形相が変わった。
四期生たちは常につるんでいたが、薬師丸だけは一匹狼で彼らとは常に一線を引いていた。
そして彼は四期生の筆頭特撰兵士でもある。
(ちなみに五期生の筆頭特撰兵士は高尾晃司である)
「……涼、随分と遅かったじゃないか。科学省は速水君しか出さないと思っていたよ」
「単に離陸時間が遅れただけだ」
薬師丸涼も科学省出身の兵士。だがⅩシリーズではない。
科学省はⅩシリーズ以外にも、あらゆる分野から優秀な遺伝子を収集し人工的に人間を生み出してきた。
薬師丸涼もその1人。
Ⅹシリーズを除けば科学省最強の戦士といえるべき存在だった。
『なぜ俺をだす?科学省は速水志郎しか出さないのではなかったのか?』
『そうもいえなくなった……奴らはK-11と関与しているという情報がある』
『K-11……奴らはそのメンバーなのか?』
『いや、そんなはずはない!!奴らに他人とつるむことなどできはしない、奴らは、奴らは……!』
宇佐美の興奮気味に立ち上がった。
目は血走り、呼吸が乱れ、手足は小刻みに震えている。
まるで何かに怯えている小動物のように。
『長官、何を怯えている?』
『お、おびえてなど……とにかく、K-11はあんな連中とはつるまない、つるめるわけがない!!』
宇佐美の様子は異常だった。
度胸のある男とはいえなかったが、これほど恐怖する宇佐美を見るのは薬師丸も初めてだ。
『だ、だが……真実とは思えないが完全なデマだという証拠も無い。
何かK-11の情報を掴んでいるかもしれない。
おまえは他の特撰兵士に捕獲される前に、奴等を捕らえろ』
『…………』
『必ず捕らえて吐かせろ!他の特撰兵士にK-11の居所を知られるな!!
必ず、必ず、おまえの手で捕らえろ。
それがかなわないときは……他の特撰兵士に捕らえられるくらいなら』
宇佐美は拳を振り上げてデスクを叩きつけた。
『殺せっ!!』
「克巳、俺も行くぞ。それが俺の仕事だからな」
薬師丸は淡々と言ってのけた。
(宇佐美は何かを隠している。よほどK-11の存在が怖いらしいな。
奴らが逮捕されては困る事があるらしい。
だらかといって野放しにもできないような恨みでも買っているのか?
まあいいさ。あいつの尻拭いにはもう慣れた、それが俺の仕事だ)
「はるか早く!」
「ま、待って幸枝……あたし、もう」
はるかの足元がふらついたかと思うと、その場にがくっと膝をついた。
「はるか!何をしているの、逃げなければつかまるのよ!」
「そんなこと言ったってもう駄目よ。幸枝、あんただけでも逃げて」
「そんなことできるわけないじゃない。さあ立って、立ちなさいよはるか!」
幸枝ははるかの腕をつかむと無理やり立たせようと引き上げた。
はるかはふらつきながらも立ち上がったがそれまでだ。もう一歩も歩けない。
火の手がすぐそばまで迫っている。このままではつかまる前に焼け死んでしまう。
「あんた達、まだこんなところにいたのかい!」
車が走り迫り、タイヤがターンを描きながら停車した。自警団の幹部の女性だった。
「さあ早く乗って、街外れの空き地まで出れば炎から逃げられるわ」
2人は慌てて後部座席に乗り込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「かまわないわよ。あんた達のことはそれなりの報酬もらってるからね」
街の人々は誰もが炎から逃げる為に空き地に向かって走っていた。
空き地までくると自警団のリーダーが車に駆け寄ってきた。
「死傷者は?!」
「そんなことは後よ。それよりも発見した生存者はその子達だけなの?」
「ええ、そうよ。この子達の仲間はどこにいったのかしら?」
「それならすでに西の河岸に避難しているわ」
それは幸枝とはるかにとっては喜ばしい情報だった。
「そう、だったら私達もすぐに空き地から地下水路を通って避難しましょう」
「そうはいかないねえ」
その冷めた口調に幸枝もはるかも、そして自警団のメンバーも思わず恐怖して固まった。
業火の中から平然と涼しい顔をした男が現れた。
まるでギリシャ神話の太陽神のような神々しい美貌ではあったが、
その反面堕天使ルシファーのようなおぞましさを漂わせている。
「だ、誰だい、あんた?」
自警団の問いに男は答えず、ただゆっくりと彼女達を見渡した。まるで品定めでもするように。
「ふーん、悪くは無いけど。俺の相手をするにはまだまだだね、合格点はやれないなあ」
「おまえ、誰なんだい!?」
「俺の名前を知らないなんて、とんだ田舎者だねえ。耳の穴かっぽじってよく聞きな」
「水島克巳」
「み……!」
「水島克巳!?特撰兵士の!?」
特撰兵士という名詞に彼女達は震え上がった。
「西の河岸っていってたねえ。あそこには俺の恋人が向かってるんだ、悪いけど君達は終わりだよ」
タイミングよく無線機がはいった。
『団長、女が……女が1人襲ってきました。政府の回し者です!』と絶叫に近い悲鳴が聞えてくる。
「1人?女1人だって。特撰兵士ならいざしらず女1人で……おまえ、自分の恋人を死なせたいのかい!」
「ふふっ、俺の真知子は雑魚相手に負けはしないんだよ!」
「……お、おまえ……何者だ。たった1人で……たった1人で!!」
自警団として危険なスラム街で戦ってきた人間がたった1人の女の前になす術もなく倒れていった。
「まだやる気?私の目的はおまえ達薄汚い連中じゃないわ。
引くというのなら命だけは見逃してやるわよ」
真知子は自警団の背後にいた聡美や知里達を指さした。
「そのお嬢ちゃんたちを渡してもらえるかしら?」
「ひっ」と誰かが小さい悲鳴を上げた。
同時に小柄な少年が真知子目掛けて突進してきた。
「皆、皆逃げて!俺が食い止めるから!!」
滝口だった。滝口は棒を振り上げて向かってきた。
勝とうなんて考えて無い。ただクラスメイト達が逃げるまでの時間稼ぎが目的だった。
「ぼうや、相手をみていう台詞だったわね」
滝口は棒を振り回し真知子を襲った。が、次の瞬間には利き腕をとられ、そのまま地面に押し付けられていた。
「悪いけど、ぼうやじゃ100人いても私の敵じゃなくてよ。大人しくつかまりなさい。
大人しく自分達の正体と目的、何よりもK-11の情報を包み隠さず吐くのよ。
そうすれば少年院で臭い飯を食べるだけで済むのよ。
でも、これ以上逆らったら未成年だろうと死刑か終身刑を喰らうことになるわ」
「お、俺達はただの中学生だ!」
「……まだ、そんなことを。いいわ、だったら望み通りにしてあげる」
「うわぁぁ!!」
「助けに行ってあげないと幸枝たちがつかまってしまうわ」
美恵の言うとおりだった。いやすでに遅すぎるくらいだった。
「そうだよ、委員長たちを見殺しにしてたまるか。すぐに助けに行こう!
俺達全員でかかれば特撰兵士だろうがなんだろうが絶対に勝てる!!」
七原もすぐに助けに行くことを提案した
「待て、冷静になるんだ七原。今さらいっても手遅れだ。
何よりも政府の正規軍相手に俺達なんかが勝てると思うのか?
助けに行ったところで犠牲者が増えるだけだ」
七原の意気込みに水を差すように、川田が冷静な意見を述べた。
「何言ってるんだ川田!委員長たちを見捨てるのかよ!!」
「慌てるな七原、俺も川田の意見に賛成だ。もう手遅れだ」
今度は木下が七原をたしなめた。
世話になった上に、百戦錬磨の成年の意見と合って七原も少し大人しくなった。
「問題はもっと他のことにあるぞ。おまえ達自身は大丈夫なのか?
おまえ達の仲間の居所がばれたということは、おまえ達がここにいることもばれたかもしれないんだぞ」
「夏生さん、あたしも行くわ。美恵を見殺しにはできないもの」
「光子さんは駄目だ。これを」
夏生はパスポートのような手帳と、札束が入った封筒を手渡した。
「何よ、これ」
「こんなときのために作らせておいた。おまえの身分証名書さ、偽造だが本物よりよく出来てるぜ」
夏生は名残惜しそうに光子の手を握り締めた。
「これを持ってれば東海自治省に簡単に入れる。
あそこに入れば政府の追っ手も簡単には手出しできないぜ、保証してやるよ。
もし、困った事があれば……」
夏生はポケットからメモを一枚取り出した。電話番号と女の名前が記載されていた。
「そこに電話して俺の名前をだせ。そうすればきっと助けてくれる。
いいか暗記したらすぐにメモは棄てろよ」
「あんたの彼女?」
「そんないいものじゃないって。
また会おうぜ光子ちゃん、その時は今度こそ記憶に残るにゃんにゃんしような」
夏生にはわかっていた。巧妙に隠したはずの連中が見付かったのだ。
おそらく、他の連中の居所もすでにばれているだろう。
内海幸枝たちは可哀想だが、もう助けてやる事はできない。
しかし他の連中はまだ間に合う。
美恵も貴子も、そして他の連中も。
急がなければならなかった――。
「本当にあいつらにはまいったわよ……いっそ、あたしと弘樹はあいつらと別居させてもらおうかしら?」
貴子は最近非情なことを考えていた。
杉村の優しさに甘えて引きこもっている連中に愛想をつかしたと言ってもいい。
「おーい貴子!」
振り向くと杉村が走ってくるのが見えた。
「弘樹、ご苦労様。疲れてない?」
「俺は大丈夫だよ。体力だけが俺の取り柄だからな、おまえこそ大丈夫なのか?
おまえは無理するなよ。いざとなったら俺が仕事増やすから」
無口で不器用で、そのため普段は上手に優しさを表現できない杉村。
そんな杉村だからこそ、貴子は憐れでならなかった。
「弘樹、あたしね昇給したのよ。当然でしょ、ひとの倍は働いてるんだから。
だから、あんたも少しは楽してもいいのよ。せめて夜間の仕事はやめなさいよね」
「すまない貴子、でも大丈夫だ。さっきも言った通り俺は体力だけは……」
杉村ははっとして、貴子の手を握ると路地に駆け込んだ。
「弘樹、どうしたの!?」
「し!静かに」
2人はこっそりと路地から顔を出した。アパートの前に人だかり。
「様子がおかしい……ちょっと、ここで待ってろ」
杉村は貴子をその場に残し、路地裏を通ってアパートに隣接する廃ビルの中に入り込んだ。
その窓から外の様子を伺う。アパートの様子を一望し杉村はぎょっとなった。
(飯島、江藤……他の皆も!)
杉村や貴子と同居していた飯島以下6名が連行されているではないか。
(どういうことだ、どうして俺達の居所がばれたんだ?
夏生さんは俺達の居場所はちょっとやそっとではわからないように裏で手を回してくれたはずだ)
夏生は貴子に未練があるらしく何度もコンタクトをとってきた。
その度に貴子は杉村と離れることを拒んできた。
夏生は溜息をつきながらも、「政府にはばれてないから安心しろよ貴子ちゃん」と
ありがたい一言を付け加えるのを忘れなかった。
夏生はさらに貴子に生活費にと大金を渡そうとした。
しかし貴子は「もう十分金銭面でも面倒みてくれたじゃない」と丁重に断っていた。
そんな貴子だからこそ夏生は余計に心配してほかっておけなかった。
スラム街のリーダーには大金を握らせて警官や捜査官の手が貴子達に及ばないように裏工作していたのだ。
だが、そんな生活がいつまでも続くわけが無い。
いつかは、こんな日が来ることは予想していた。覚悟もしていた。
しかし、まさかこんな突然の形となってくるとは。
何の予兆も前兆もなかった。あまりにも急すぎる。
(全員捕まったのか。どうする、助けるか?)
見たところ、飯島達を逮捕した兵士達は数人。
隙をつけば倒せないまでも、逃げるチャンスを作ってやることくらいは出来るかもしれない。
(……やるか)
悲愴な決意を固めつつあった杉村だったが、その杉村をぞっとさせる一言を兵士が言い放った。
「探せ!この街には杉村弘樹と千草貴子という学生がいるはずだ!!
この雑魚どもでは話にならん。すぐに2人を探せ!
千草貴子は凄い美人らしいぞ。さっさと探せ!!」
(貴子……!貴子がつかまってしまう!)
杉村は背を低くして走りぬけた。貴子の元に急ぎ戻った。
「弘樹!どうだったの?何があったの?」
「話している暇は無い。飯島達は兵士に捕まっていた、逃げるんだ貴子、時間がない!」
杉村は貴子の手を握ると路地裏を全力疾走した。
行き先などわからない、とりあえずこの街からでるんだ!
「弘樹、あれ!」
もう少しで街から出られる、というところまできて2人は固まった。
火の手が上がっている。兵士とスラム街の住人の間でいざこざがあったらしい。
そして追い詰められた住人が自ら街に火を放ったのだ。
炎は見る間に巨大化している。住人達はパニックになっていた。
逃げ惑う人々。その向こう側に軍用ヘリが飛んでくるのが見えた。
ヘリから男が1人飛び降りてきた。
(な、何だ、あいつは!あんな高さから落ちたら死ぬぞ!!)
男は三回転して華麗に着地を決めた。明らかに他の兵士とは雰囲気が違う。
「大尉、戸川大尉、お待ちしてました!」
女性兵士が駆け寄るのが見える。
「泪、奴らは捕獲したか?」
「はい、ですが杉村弘樹と千草貴子が今だに。
街を封鎖しているので逃亡は不可能、どうかご安心を」
「ふん、俺は任務を完了するまでは安心なんかしない主義だ。
捕らえた連中はどうだ?おまえの目から見て、どう映った?」
「素人です。K-11と係わりがあるとは思えません」
「だろうな。K-11は今までの行動から見て、大群をなすのを嫌っている。
仮に関与しているとしても、連中の中の一握りの人間だけで、後は雑魚だろう」
スラム街の住人達は絶叫しながら火の粉から逃げようと必死に走っていた。
「見ろ泪、見苦しい限りだ」
戸川は蔑んだ目で住人達をにらみつけた。
「誰もが小次郎様のように生きられるわけではありません。人間は弱い生き物です」
「貴子、今がチャンスだ。この騒ぎに乗じて逃げるんだ」
杉村は自分のフード付きパーカーを脱ぐと貴子にかぶせた。
少しは火の粉を防いでくれるだろう。第一、貴子ほどの美人は目立ちすぎる。
顔を隠す必要があった。
奴らが探しているのは男と女、男2人なら怪しまれずに街を抜けられるかもしれない。
「男物のパーカーを被って走り抜ければばれないかもしれない。行こう」
杉村と貴子は走った。炎から逃げるふりをして街から出る、一番自然なシナリオだ。
これだけの数の群集だ、怪しまれることもないだろう。
群集の叫び声よりも、体内から聞える心臓の鼓動の方がはるかに大きい。
2人は戸川の真横をすり抜けた。やった、街を出た。
「ちょっと待て」
どくん……杉村と貴子の心臓が大きく脈打った。
「女、どうして顔を隠している?」
2人の心拍数はさらに上昇した。今にも心臓が胸を突き破りそうだ。
「女?男の服装ですが……」
泪と呼ばれた女性兵士は見破れなかったようだ。他の兵士も。
だが、たった1人、杉村が知恵を絞って出した秘策を簡単に見破ってくれた奴がいた。
「フードを取れ。そんなもので顔を隠したつもりか」
戸川が近付いてきた。そして強引にフードを剥ぎ取った。
「女!?」
戸川の周りにいた兵士達は一斉に驚いた。
男だと思っていた相手が女だったからではない。
戸川自身も一瞬目を見張り呆気に取られた。
女だと見破ってはいたが、まさかこれほど美しい女とは思わなかったらしい。
これが水島克巳か海老原竜也なら、即座に寝室に連れ込むことだろう。
だが戸川にとっては任務は何より優先するべきものだった。
「……似顔絵をよこせ」
泪はすぐに2枚の紙切れを手渡してきた。
戸川は、その2枚の似顔絵と、杉村と貴子を交互に睨みつけた。
「違うな。似ても似つかない」
「他の6人は似顔絵と一致したそうです。その2人は無関係なら釈放しますか?」
「……そうするべきだろうが何か引っ掛かるな」
戸川は腑に落ちなかったらしい。第六感とも言うべき直感がそう告げていたのか。
(この女の目、素人が持つ凡庸なものとはまるで違う。まるで、あの女のような――)
「大尉!東側方面に杉村弘樹が出現したそうです!」
無線機から受けた報告。誰よりも驚愕したのは杉村本人だった。
それを表情に出さなかったのは、我ながら良くやったと言ってやりたいくらいだ。
だが、一体誰なんだ?
「本人に間違いないのか?!」
「白州副官が尋問したところ、杉村だとばれ逃亡したとのことです!
すぐに包囲網を引き、奴を捕らえます」
「白州が逃げられただと?!あの馬鹿、らしくない失態をかましやがって!!
行くぞ、白州の手を振り切ったということは奴は素人ではない。
K-11と関連があるというのもあながち嘘じゃないな、そのつもりで全力でかかれ」
戸川は兵士達を引き連れ風のように去っていった。
「助かった。さあ、今のうちだ貴子」
「ええ、でも……」
「でも何だ?」
「一体、誰が?……まさか!」
心当たり約1名――。
「俺は行くよ」
良樹は勇ましい決意を暴露した。
「勿論、これは俺1人の勝手な行動だ。誰かに同行してもらおうなんて言うかよ。
鈴原はすぐに逃げたほうがいい。あんたは桐山や三村が付き添うだろうから安全だよな」
そうだ。仲間を助けに行く事も大事だが、今ここにいる仲間を逃がす事も重要だった。
夏生はこの場所だけは他のクラスメイト達には明かさなかった。
念には念を入れたのだ。
幸枝達の居所がなぜばれたのかは後で考えるとして、やらなければならないことは山ほどあった。
幸枝達は今頃捕獲された可能性が高い、次は誰が襲われる?と、いうことだ。
杉村や貴子たちか、それとも友美子たちのグループか、もしくは月岡たちか。
条件はどこも同じだ。だとしたら次に選ばなくてはいけないことは助けに行く優先順位だった。
「俺は貴子さんと杉村を助けに行く。これは私情だ」
良樹のモットーは迷うときは感情のまま行動する――だ。
杉村は友達だし、貴子には憧憬の感情すら抱いている彼としては当然の選択だったのだろう。
「俺は慶時を助けに行く」
七原も即優先順位を決めていた。兄弟のように育った一番の親友、それに勝る存在はいない。
「七原、俺も行くぜ。竜平や博を助けないとな。
ヅキは、あいつは助けなくても死なないだろうけど……まあ一応」
沼井は七原に同行を申し出た。
不良と蔑まれていても、いやだからこそ人一倍仲間意識の強い男、それが沼井充。
「シンジ!俺……俺……」
それまで黙って俯いていた豊が悲壮な決意を秘めた表情で立ち上がった。
「もう手遅れかもしれないけど……だけど、だけど!」
「豊、おまえ……」
三村は豊の言いたいことがわかった。
幸枝達が住んでいる街が襲われたと知った時から豊はずっと黙り込んでいた。
幸枝のグループの中には金井泉がいる。
豊は同じクラスになってからずっと泉の事が好きだったのだ。
豊は人一倍優しいが、こんな異常事態には恐怖するごくごく普通の人間。
それでも勇気を振り絞り泉を助けに行きたいと思っている。
もしも、これが美恵だったら必ず自分も助けに行った。
「わかったよ豊、行こうぜ金井を迎えに」
三村はあの独特の笑み見せながら親指を立てた。
「ちょ……ちょっと待ってよ、あんた達!
助けに行くどころじゃない、逃げなきゃあんた達もつかまるのよ!
あんた達のクラスメイトは気の毒だけど、助けにいったってプロ相手に勝てるわけないじゃない。
可哀想だけどここはつまらない感情なんか捨てて逃げるのよ。
そうすれば、あんた達だけは助かるわ。
これはちっとも卑怯なことじゃないのよ。仕方の無いことなんだから」
加奈はもっともな熱弁をふるった。非情だが良樹達のことを思っての言葉だった。
ありがたい説得ではあったが、良樹達の決意は固く、加奈の言葉では崩すことができない。
「あいつら俺達の大事な仲間なんだ。見捨てられないんだよ」
「……馬鹿ね。あんた達みたいな馬鹿みたことない」
加奈はちょっと怒りちょっと寂しそうに涙ぐんだ。
「待てー!」
「誰が待つかよ!」
サングラスに深々と被った帽子、さらにスカーフで口元を隠すといういかにも怪しいいでたちの男。
その男が全力疾走し、少し距離を置いて何人もの兵士がぴったりついてくる。
(逃げられたか貴子ちゃん?)
杉村弘樹として追われていたのは夏生だった。
兵士達が自分に気を取られている間に貴子が無事に逃げ出してくれればいい。
ああ、杉村もついでにな。
「ん?」
夏生の前方に凄まじい殺気、夏生はその気配を感じ急停止した。
(……誰だ、あいつは)
男の姿を確認した。今まで見てきた兵士とは何かが違う。
「おまえが杉村弘樹か?」
冷たい声だ。夏生は心の中で唾を吐いた。
「さあ、どうでしょうね。力づくで吐かせたらどうだ?」
「そうか、だったら――」
男は羽織っていたロングコートを取り払った。
「光栄に思え、海軍最強の戸川小次郎様が相手をしてやるんだからな」
(戸川小次郎、こいつが特撰兵士の戸川か。
と、いうことは貴子ちゃんは無事に逃げたってことだな)
夏生は懐から缶詰のようなものを取り出しニヤッと笑った。
「死んでもらうぜ小次郎ちゃん」
「ば、爆弾!こいつ自爆する気?大尉、早く避難を!!」
爆音、そして閃光が辺りを包んだ。直後に熱を含んだ爆風が襲ってきた。
兵士達は一斉に地面に這いつくばり、その熱風を避けた。
ただ戸川だけが直立不動したまま微動だにせず爆煙の向こう側を睨みつけている。
「……蛆虫め。こしゃくなマネを」
爆煙が消えた。夏生の姿はそこにはない。
マンホールの蓋が空けられ、その傍らの地面にとんでもない捨て台詞が書き込まれていた。
『悔しかったら追いかけてきな小次郎ちゃん。GOOD BY』
【B組:残り45人】
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