何度、名前を呼んでも体を揺さぶっても、怜央は目覚めない。
「徹、怜央に何て事をするのよ!」
「大丈夫、ただの睡眠薬さ。危険はないよ」
徹は良恵の手を握り、「君の大切な人間を俺が害するわけないじゃないか」と優しい笑みを浮かべながら諭すように言ってきた。
確かに怜央は静かに寝息をたてているだけ。しかし素直に納得も出来ない。
「君だって、この子が起きてると色々と困るじゃないか」
「それは、そうかもしれないけど……でも、眠らせなくたって」
「だから、ほんのしばらくの間だけだよ。俺の部下が彼の面倒を見るから、君は俺と――」
「待って徹、怜央と離れたくはないわ」
徹の眉間が僅かに歪んだ。
「この子は本当に可哀想な子なの。そばにいてやりたいのよ」
「……君のその優しさに俺は恋したんだ。いいよ、OK。君の望みのままに」
徹はにっこりと笑顔で良恵の意志を受け入れてくれた。
ほっとする良恵、どさくさに紛れて額にキスをされたのは迂闊だったが。
「怜央、私はここにいるわよ」
怜央の手を握ると、握り返してきた。それが良恵には嬉しかった。
鎮魂歌二章―23―
「国防省の警備がこんなに手薄だとは知らなかった」
「思い上がっているんだ。常に恐怖で異常なほど厳重な警備網をしいている臆病者の宇佐美と違い簡単だ」
国防省の連中は自分達を国家の番人と称し増上慢な面があった。
その傲慢さが油断を生む事を瞬は知っている。
例えば立花薫。特選兵士であり、国防省の超エリート。
一見、完璧にみえる男だが、瞬にとっては穴だらけともいえる欠点があった。
つまり女。その派手な異性関係は、叩かなくても埃がでるほど。
妹かわいさに良恵を貶めようとした前園、瞬としては殺しても飽き足らない人間。
だが前園が外門の警備官で、妹が立花薫に捨てられた女ということろに瞬は目を付けた。
薫の名前を出したら、前園莉子は簡単にひっかかった。妹の頼みで前園もすぐに響介を中に入れた。
後は響介が外門のセキュリティを破壊すればいい。敷地内に入ってしまえば、後はどうにでもなる。
「瞬、門壁の高圧電流がオフになったぞ」
「行くぞ」
二人はあっさりと侵入成功。
「斗真はつかえるんだろうな?」
「ああ、期待しても罰はあたらないと思う」
後は斗真が囮になってくれる。その間に自分と要で本丸を攻撃する。それが瞬のたてた作戦だった。
聡美は心地よい眠りに身を任せていた。
完全に安全が保障されている、この金庫室にいる限り、もう謎の化け物に命を怯やかされる心配はない。
(こんなに、安心して眠れるなんて本当に久しぶり)
思えば、あのバス事故以来、聡美は一日も心が安まる日はなかった。
元々、ストレスとは長い付き合いだったが、この数ヶ月はそんな簡単な言葉では言い表せない。
所持していた睡眠薬もすぐにつきた。夏生がお情けで贈与してくれた睡眠薬も残り僅か。
そういえば睡眠薬もなく自分は眠りにつこうとしている。
最大の命の危険を乗り越えた安堵感がもたらしてくれたのか?
災い転じて福と為す、そんな諺が頭をよぎった。
(もう何があってもあたしは平気……だって今より最悪な事なんか、この先おきるわけないもの)
冷静な優等生として一点の曇りもない人生を送ってきた。
ちょっと人より劣っているとしたら、コミュニケーションが少々下手なことくらい。
でも、それだって他人に劣るほどではない。
クラスの女子グループのリーダーの座は幸枝に渡したが、優劣の差に負けたわけではない。
幸枝は、そう、ほんのちょっとだけ自分よりも他人にいい顔をするのが上手かっただけだ。
聡美は自分では認めたくなかったが、心のどこかで友達であるはずの幸枝に劣等感を持っていた。
同じ優等生なのに、クラスメイトの人望が幸枝の方がずっと勝っているのが理由だろう。
(あたしってお固い女って思われてるのかな?)
一人で密室にいると普段考えないような事まで思いを馳せてしまう。
冷静沈着で理知的な判断と行動をとることが聡美のモットーだった。
それに比べたら幸枝は公平ではあるが、やや感情的な人間ではないか。
しかしクラスメイト達は、幸枝のそんな面を温かみのある人柄として歓迎していた。
幸枝が圧倒的支持を得てクラス委員長に選出されたときは笑顔で拍手したが少し頭にもきていた。
(そりゃあね。あたしが委員長になったら口うるさいだけかもしれないわよね。
幸枝はその点、上手いことやる女よ。
相手を褒めて伸ばしてやれるんだから。そんな事はあたしにはできない相談だわ)
嫉妬に似た気持ちを抱いていたが、聡美は幸枝の事が嫌いではなかった。
だから一年以上、それなりに良好な関係を保ってもいた。
(あたしが大人しく幸枝をリーダーとして立ててやっていたからだけどね)
それに幸枝は自分と違い今も危険と隣り合わせ。下手したら、すでに絶命しているかもしれない。
そう思うと、不思議なことに幸枝に感じていたコンプレックスは完全に息を潜め、同情心しかわいてこなかった。
幸枝の長所を素直に認めてやれる気持ちが自然と沸きあがってくる。
勝者の余裕かもしれないが、聡美は心底、幸枝の身を心配した。それに他の仲間も。
その時、ようやく聡美は大事な事に気づき、慌てて上半身を起こした。
「……知里!」
そうだ。知里を置いてきてしまっていた。
「た、大変……!」
知里もすぐに連れてきてやらないと。聡美は金庫室のドアに手をかけた。
だがドアを押そうとした瞬間、静まりつつあった恐怖が再び燃え上がった。
(このドアを開けたら、あいつが入ってくる)
聡美の心臓がどくんどくんと大きな鼓動をたてだした。
額からどくどくと油汗が発生し、滴となって足下に落ちる。
知里は同じグループの仲間だ、友達だ。だが、その友達を助ける為には自分の命を再び死のゲームに晒す覚悟がいる。
「……だ、駄目」
聡美は、ぺたんと床に両膝をついた。
「で、できない……できないわ」
友達、そう友達だ。でも、特別な親友というわけではない。もちろん家族なんて重要な存在でもない。
そんな、ただのお友達の為に自分の命を賭けることなんてできない。
「ごめんなさい知里。でも、あなただって立場が逆なら、そう思ったわよね?だからわかってくれるわよね?」
こんな時、幸枝ならどうしただろう?多分、扉を開き「知里、早く!」と叫んでいただろう。
皮肉な事に、聡美はなぜ自分が幸枝より劣っていたのか、はっきりとその意味を知ってしまった。
でも悔しい気持ちは発生しなかった。
自身の命の前には綺麗事は無用。こんな時はなおさら命を縮める欠点でしかない。
「知里、許して……!」
聡美は呪文のように、ただ謝罪の言葉を繰り返した。ぽとぽとと涙まで溢れてくる。
ぼたっと大きな粘着液が床に落ちた。
「……!」
涙などではない。聡美の目は恐怖で視点が定まらず、口は半開き、がたがたと歯も手も足も小刻みに震えた。
震えながら、ゆっくりと顔の角度を変えてゆく。
視線が天井に向いた瞬間、視界に入ってきたのは、この世のものとは思えないおぞましい怪物の姿だった。
「松井、俺から離れるなよ」
「うん」
三村の言葉に他意はないのはわかっている。単にクラスメイトに忠告しただけ。
お情け程度の思いやりだと自分に言い聞かせながらも知里は胸が高鳴るのを押さえることができなかった。
(あたし、今、三村君と二人きりなんだ。あの三村君があたしに離れるな……って)
華やかにもてる三村は遊びとはいえ付き合う相手にも水準以上の魅力を求めていた。
知里が知っている女など三村の彼女のほんの一部だろう。
それでも世間的にいえば、誰もが知里より『いい女』だった。
学校で一、二を争う美少女として名高い美恵や貴子、それに光子よりは随分劣るが、どの子も綺麗な子に違いなかった。
それに何より体の発育がいい。知里は不意に自分の胸に視線を落とした。
(ぺっちゃんこ、だよね)
女子中学生の平均的体型で、特に卑下するような事でもない。
それでも三村が絡むと知里は自分が美貌や抜群のスタイルの持ち主ではないことに大いに落胆してしまうのだ。
あんな綺麗な子を相手にしている三村が自分のような地味な女を相手にするわけがない。
知里の恋は告白する以前に諦めきった状態だった。今もその気持ちに変わりはない。
この先、三村に振り向いてもらおうなんて高望みは一瞬たりとも抱かないだろう。
そんな知里にとって、思いもかけぬ三村とのツーショットは、こんな状況だというのに嬉しいものだった。
「……こっちか」
もっとも三村は、そんな自分の気持ちなど全く気づいてないようだ。
もっとも気づかれても困るが。
それに今は聡美の捜索が最優先だ。
あんな化け物がうろうろしている以上、こんな所に長居は無用。
一刻も早く聡美を見つけだし三人で逃げなければ命の保証はない。
「こっちだ松井」
三村は冷静に状況を把握し廊下を進んでゆく。どうして聡美の足跡がわかるのか知里には不思議だった。
「よし、今度は右に行こう」
「あの、三村君」
「何だ?」
「どうして、そんなにはっきりとわかるの?あたしは聡美がどっちに逃げたかなんてさっぱりなのに」
「よく観察すれば痕跡は残ってるって事さ。例えば土だ」
「土?」
「ああ、見ろよ、これ」
三村が懐中電灯で照らした床をじっと凝視すると確かに土があった。
それも靴の底を形どったものだ。
「妙な生物の足跡じゃないことは確かだ。野田はこっちに走って逃げたんだ」
やはり三村は頭が切れる、知里は感心して三村の背中を見つめた。
それに三村は運動神経も素晴らしいし、あの怪物が突如姿を現しても簡単に負けるとは思えない。
いや、今の三村は丸腰ではないのだ。圧倒的有利にすら思える。
知里は安心しきって三村についていった。
「この部屋だ」
三村は懐中電灯で室内を照らした。
「聡美、いるの?」
知里も扉の陰からひょこっと顔をのぞかせようとした。
だが三村が「駄目だ、くるな!」と知里を押し返した。
「三村君?」
三村の様子がおかしい。
「ど、どうしたの?」
「……ここで待ってろ。俺が逃げろと言ったら全速力で逃げろよ」
知里はぞっとした。三村がそこまで言うからには余程の事があったのだ。
三村は慎重に室内に足を踏み入れ、知里は廊下から恐る恐る中をのぞき込んだ。
静寂すぎる部屋の中は乱雑で、試験管やビーカーが砕け散ったらしきものが散乱している。
その際、中の液体が床に飛び散り嫌な臭いを放っていた。
独特な悪臭に知里はハンカチを鼻に押し当てた。
三村は悪臭に耐えながら、部屋の中をゆっくりと歩いている。
「み、三村君、もう行こうよ」
聡美の事は心配ではあったが、この雰囲気にはこれ以上耐えられそうもない。
「ねえ三村君」
再度、呼びかけたが三村の返事はない。ただ、微かな足音だけが聞こえてくる。
「……何て事だ」
唖然としたような三村の声が聞こえてきた。
(三村君、どうしたんだろう?)
三村は待っていろと言ったが、知里はこれ以上自分を押さえる事ができなかった。
一歩踏み出す、もう止まらない。徐々に三村の後ろ姿が見えてくる。
「三村君、どうし……きゃあ、何これ!?」
「松井、待ってろって言っただろ!」
「……あ、ご、ごめんなさい」
知里は泣きそうになった。
それを察したのか三村は「悪い」と言ってくれたが、険しい表情や口調は変わってない。
知里が見たものは壁だった、ただの壁だ。異様なのは、その壁に大きな穴が空いている事。
幼子なら通れる程のサイズ、しかも何かで溶かしたような痕がある。
「な、何だろう、これ……?」
「わからない」
三村の顔を見ると明らかに困惑した表情だ。本当にわからないのだろう。
「誰かが溶かしたんだよね?」
「……ああ、誰かだろうが――」
聡美はここにもいない。
「聡美、どこに――」
「きゃぁぁー!!」
廊下の彼方から、おぞましい悲鳴が聞こえてきた。
「あ、あの声は……聡美の」
襲われてるんだ!
知里は恐怖のあまり、その場にペタンと尻餅をついた。
「ちっ!」
三村が走っていた。
「危ないと思ったら俺にかまわず逃げろ、いいな!」
その姿はあっと言う間に闇の中に消えていった。
「……み、三村君、そんな」
取り残された知里は、ただガタガタと震えていた。
国防省・西門。国防省関係者以外の者専用の門。
その中でも、一般人専用の出入り口がある。
通常は国防省の職員の身内や、国防省御用達の出入り業者などが使用していた。
例えば面会希望者も、まず最初にこの場所に訪れ、受付にて申し込み手続きをしなければならない。
国防省は24時間眠らない機関。よって、この受付所も常に稼働されていた。
だが、さすがに深夜を回った時刻に一般人の来訪はあまりなく、今夜も静かなものだった。
受付では警備を兼ねた職員が、特に何もすることも椅子に座っている。
そんな時に自動ドアが開く音が聞こえ、警備官はゆっくりと顔をあげた。
サングラスをかけた男が近づいてくる。顔はわからないが随分と若い。高校生くらいだろう。
こんな時間に国防省に何の用があると言うのだ?
その若者はガラス一枚隔てた、すぐ向こう側に立ち、こう言った。
「中に入れてくれ」
警備官は呆れたが、一応確認を取ることにした。
「許可はとってあるんだろうね?この先に行くには許可が必要な事くらいは知ってるだろう?」
若者は、はい、とも、いいえとも言わない。非常識な上に、無口で愛想がないと警備官はさらに呆れた。
「まさか見学希望者じゃないよね?あれは月に一度決まった日だけだ」
警備官は苛立ちを隠さずにいった。
「立花薫の友達だ。中に入れてくれ」
「た、立花薫!?」
その瞬間、眠気は一変にふっとんだ。
「こ、これは失礼。立花中尉のお知り合いでしたか?」
妙な事を告げ口されてはかまわない。
特選兵士にかかれば、自分のような下っ端をクビにするなど簡単な事だ。
警備官は先ほどまでの横柄な態度が嘘のように巧みに敬語を使用しだした。
「そうだ。さっさと中に入れてくれ」
「待って下さい。失礼ですが中尉からは、そのようなお話は伺っておりませんが」
「……」
「中尉はただいま任務中ですので連絡も取る事はできません」
まして今は(お偉いさんが来ているらしく)誰も通すな、と上から念を押されている。
しかし立花薫の名前を出されては無碍にも扱えない。
「そこの長椅子に腰掛けてお待ちになってください。ただいま、上に連絡をとりますので」
若者は少し頭を動かして辺りを見回している。
警備官は受話器を取り内線ボタンを押そうと指を伸ばした。
「また来る」
「え?」
若者は向きを変えると歩きだした。再び自動ドアが独特の音を発しながら開閉する。
そして再びシーンとした空気が辺りを包んだ。
「何だ、あっさり帰るような用じゃなかったのか」
ともかく一件落着だ。ほっとしたら、飲み物が欲しくなった。
デスクの隅にある冷めたコーヒーに腕を伸ばした。
遠くから車の音が聞こえてくる。
近くの公道を走っている車の音だろうが、今夜はやけにエンジン音が大きい。
「書類のチェックでもするか」
引き出しから書類の束を取り出した。エンジン音はさらに大きくなっている。
「……ん?」
おかしい、いくら何でも大きすぎる。いや、それどころか音が随分近い。
異様な違和感を感じ顔を上げた瞬間、ヘッドライトの強烈な光が見えた。
光は自動ドアを突き破り突進してくる。
「うわぁぁー!!」
何だ、これは!おい冗談だろ!!
驚愕のあまり、言葉がでない。
次の瞬間、光はこの受付のガラスまで盛大に破壊した。
車だ、車が激突してきたのだ。
そう気づいたのと同時に警備官の体は車体に接触。その衝撃で全身に強い痺れが走った。
そして警備官意識は消えた。数分後には命の灯火をも消えていた。
それは三村が金庫室を発見する数分前に遡る――。
聡美の理性は完全に恐怖に塗りつぶされた。
今まで見てきた生物以上の化け物が聡美を見つめているのだ。
「ひぃぃー!!」
聡美は転倒しそうな勢いで後ずさりした。
謎の液体が陳列されている移動式の棚が派手な音を出しながら倒れていったが、聡美はそれすらも気づかなかった。
(逃げないと!逃げないと!)
金庫の扉に飛びついた。
(重い!こんなに重かったの!?)
聡美は完全にパニックになっていた。
ほんの数十秒前までは頼もしく思えていた分厚い扉が今は悪魔にすら見える。
ゆっくりと扉は動き出した。すると、どん、と音がして聡美はひぃっと小さな悲鳴をあげた。
肩越しに、あの化け物が飛び降りたのが見えた。
間違いない、自分を殺そうとしている。
聡美は全力で扉を押した。必死の形相でフルパワーを放出しているのに、扉の重みは変わらない。
ようやく人一人がやっと通れるほどの隙間ができた。聡美は半身を扉の向こうに出した。
化け物が身体を低くして向かってきた。
「いやぁ!」
化け物が陳列棚にぶつかりガラス瓶の中身が降り掛かり、ぎゃあと甲高い鳴き声をあげた。
酸性の液体だったのだろう、皮膚が溶け流血している。
頭にきたのか、スピードを増し聡美に襲いかかってくる。聡美は悲鳴もでなかった。
強引に隙間をくぐり抜けたと同時に、化け物が壁に激突。その振動のせいか、扉が閉じた。
聡美はへなへなとその場に座り込んだ。ロックされたのか扉は開かない。
「た、助かった……?」
しかし素直に喜べない。確かに金庫の扉は超合金製の頑丈なものだったが、この世に絶対などない。
この扉が突破されたら、もう助かる見込みなど零に等しい。
どうしたらいいかわからずビクビクしながら扉を見ていると、変化が起きた。
「……な、何よ、何なの!?」
扉の中央からじゅっと嫌な音がした。泡が発生している。
どういう事だろうと凝視すると、僅かだが金庫内が見えた。
(と、溶けてる、扉が溶けてる!!)
どうして?などという疑問はなかった。
聡美が思った事はただ一つ。穴が広がれば、あの化け物が出てくる、それだけだ。
「ひっ……ひぃぃ!」
今のうちに逃げなければ。でも腰が抜けたのか思うように動けない。
聡美は何度も振り返りながら這うようにして廊下に出た。
壁づたいに何とか立ち上がると、最後にもう一度だけ振り向いた。
穴は特大サイズにまで広がっている。しかし化け物が通るには、まだ小さすぎる。
(大丈夫、今なら、まだ大丈夫……!)
聡美は必死に走り出した。そのフォームはがちがちで、速度はお世辞にも早くない。
(もっと、もっと安全な部屋。そうよ、きっと、あるはずだわ。早く、早く逃げないと!)
あの穴が化け物の通行を許すほど広がるまでには、まだ時間がかかるはず。
その間に逃げるしかない。本当に聡美には、それしか希望といえるものはなかった。
だが、そんな聡美をあざ笑うかのように、がちゃんと妙な音が聞こえた。
「……え?」
それは聞き覚えのある音だった。あの金庫に入る時に聞いた音と酷似している。
(ま、まさか。だって、あいつは動物じゃない。凶暴なだけの低脳動物なはずよ!)
聡美はある可能性を必死に否定した。
ぺたん、ぺたん、と今度は聞き覚えのない音がした。だが、そのリズムから足音だと即座に連想できた。
「あ、ああ……そんな」
もう疑いようはない。あの化け物は穴から手を伸ばしてロックを解除してしまったのだ。
聡美の命がけの全力疾走が再び始まった。
「だ、誰か、誰かぁ!!」
暗闇の廊下を走った。
「あ……っ!」
壁にぶつかった。何と行き止まりだ。聡美は泣き叫んでいた。
「死にたくない、死にたくない!」
あの不気味な足音はどんどん近づいてくる。聡美は反射的に近くにあった部屋に飛び込んだ。
ドアを閉め、鍵をかけ、部屋の隅に飛び込むように移動。
小さくなってドアを見つめながら、じっと息を殺してがくがくと震えた。
ぺたん、あの足音だ、ドアの向こうにいる!聡美は悲鳴をあげそうになり、両手で口を押さえた。
涙でこれ以上ないほど顔はくしゃくしゃ。眼は血走っているだろう。
それほどの恐怖、それほどの危険なのだ。
(お願い、お願いだから、どこかにいって!!)
そこには冷静沈着な優等生の姿などなかった。あるのは恐怖で怯える一人の少女だけだった。
ぺたん、ぺたん、あの足音が遠ざかってゆく。
(い、行ったの?)
足音が聞こえなくなった。聴覚に全神経を集中させているから間違いない。
あの化け物は去ってくれたのだ。
助かった、そんな思いが冷たい汗となって聡美の背中を流れた。
「……あ、あぁ」
ほっと熱い溜息がもれた。まだ安全になったわけではないが、とりあえず最大の危機は去ったのだ。
「本当によかっ――」
背後の壁からバキバキとおぞましい音が発生した。
瓦解した壁の破片が四方八方に飛び散っている。
聡美は何が起きたのか理解すらできなかった。
ただ、頭部だけを後ろに動かした瞬間、恐怖が猛スピードで蘇った。
「……そんな」
破壊された壁。その、ぽっかりと空いた穴の向こうに奴は立っていた。
「そんな……!!」
あの化け物だ!奴だ、奴が……!!
化け物の腕が伸びてくる。聡美は絶叫していた。
「きゃぁぁー!!」
どすっと鈍い音がして、聡美の悲鳴は強制的にストップされた。
(……え?)
全身に麻痺したような感覚だけがあった。それにポトポトと口から大量の血が吹き出している。
(……あ、あたし……あたし……)
聡美の目の焦点はあってない。そのまま聡美の体はがくっと崩れた。
化け物の腕が自分のボディを貫いていたことなど聡美は気づかずに、その短い生涯の終焉を迎えたのだ――。
「到着まで後どのくらいかかる?」
「この速度で国防省に最も近い民間の飛行場まで20分とかかりませんよ。
手続きなどに費やす時間を加えれば10分ほど」
徹は顔をしかめた。梅宮はすぐに「速度を落としましょうか?」と尋ねてきた。
「おまえは気の利く人間だ。だが、もう少し配慮というものを覚えておいた方がいい」
梅宮は少しだけ呆れた表情を見せた。それは一瞬だったが徹にとっては気分のいいものではない。
「申し訳ありません。どうやら、この機体は思ったよりスピードがでなかったようです。
気候状況も思わしくないでしょうし、遺憾ながら私の一存で安全優先の為、少し速度を落とさせていただきます」
「俺は今の話は」
「もちろん聞いていらっしゃいません。私が事後報告したということで」
その答えに徹は満足してニヤっと口の端をあげた。
「ついでに、これも事後報告ですが、例の飛行場は手違いがあり着陸が困難になりました。
仕方ないので他の飛行場を使用します。国防省からは距離はありますが、他に手だてもないので」
徹はさらに愉快な気分になった。
「梅宮、ボーナスを少しアップしてやるよ」
「ありがとうございます。ところで、あのお子様は自分が預かってどこかに監禁しておきましょうか?」
「……それはいい」
徹は一気に不愉快な気分になった。
(あのクソガキ、どうしてくれよう)
良恵と引き離したのは山々だが、こればかりは焦って事を進められない。
下手すれば良恵に嫌われてしまう。
「……この世に愛ほど厄介なものはないよ」
溜息を吐きながら徹は窓の外を見つめた。
「ん?」
「どうしました大尉?」
「飛行物体だ」
「こんな夜中にですか?」
「……方角を変更。距離をとった方がいい」
「民間機に警戒なさってるんですか?」
軍用機でも輸送機でもない。ただのセスナ機。
ただ機体の色が黒く、この真夜中では闇にとけ込んだように目立たない。
「……おまけにライトをつけてない」
「まさか犯罪者のものですか?」
「さあね、知らないよ。良恵が搭乗してなければ、脅しの一つも仕掛けてやるところだけど」
下手に挑発して攻撃でもされたら良恵を危険に晒すことになる。徹はそれだけは避けたかった。
やがて謎のセスナは漆黒の彼方に消えていった。
【B組:残り38人】
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