「静かなものだ、女の喘ぎ声すら聞こえやしない」

鍋島は煙草を捨てると靴底で火を踏み消し、形ばかりの報告書に、すらすらと手描きで一行書いた。
「完全に異常なし。石崎や家重と共に帰還、本来の任務を遂行……と」
内ポケットから新しい煙草を取り出し火をつけた。中央中庭の警備じゃ一服もできない。
ヘビースモーカーの鍋島にとっては、突然の任務はラッキーとすら思っていた。
しかし、いつまでも呑気に徘徊しているわけにはいかない。
無線機を取り出すと鍋島は石崎に連絡した。


「おい石崎、そろそろ戻るぞ」
返事がない。無線機特有の雑音に混ざって微かな風の音が聞こえてくるだけだ。
「聞こえてないのか?どこに居るんだい?」
おそらく守衛所だと思い、鍋島は面倒そうな足取りで歩き出した。
ところが石崎どころか今夜の守衛である前園すらいないときている。


「見張りさぼってどこに行きやがった!?時間給じゃないんだぞ、門番くらいしっかりやれよ」

守衛所の中に入ると電気もついてない部屋の中に回転式のアームチェアーに座っている人影が見えた。
特徴的な髪型と、月明かりで唯一はっきり見える腕時計から、石崎だとわかった。


「いるなら返事くらいしろ。おい、そろそろ戻ろうぜ」
鍋島は煙草の吸殻を床に落としながら促したが、石崎はまるで反応なしだ。
「寝てるのか?」
無言を貫く石崎に鍋島は妙な違和感を感じた。熟睡しているのかとも思った。
「疲れは残すなよ。明後日は例の仕事だ」
鍋島は新しい煙草を取り出しながら言った。


「例の女のマンションに盗聴器とカメラ仕込んで鍵もコピー。立花中尉のご命令だから念入りにやらなきゃな。
しかし佐伯大尉の彼女を力づくでモノにしようなんて中尉の女に対する執念はすごいよなあ。
佐伯大尉の女だぞ。俺達じゃあ恐ろしくて、ちょっとできないぜ。
けど中尉は簡単にやろうとなさる。そういう所が痺れるよなあ、憧れるぜ」

石崎が座っている回転椅子がゆっくりと動いた。


「異状なしなんだろ?だったら家重を呼び戻してさっさと戻――」

窓から差し込む月光に照らされた石崎は、ライフルの銃口にボディを貫かれ動かぬ肉塊となっていた。




鎮魂歌二章―22―




「ふ、文世っ……!!」

知里は自分の目を疑った。これは悪い夢だとさえ思った。
でも夢なら覚めるはずなのに!それどころか異様な臭気がリアルに嗅覚に訴えてくる、これは現実だと。


「ふ、文世……文世が……!」


天井に張り付いているのは間違いなく同級生の文世だった。
ただ血走った両目をカッと見開いている。命の色がすでにない、その目には恐怖が焼き付いていた。
そして樹脂のようなものに包まれている。異常すぎる死体だった。
突然の惨事に声を失った知里だったが、一つだけ理解している事があった。
それは、この建物の中に文世の人生にピリオドをうった殺人者がいるという事だ。


「ひぃぃー!!」
最初に動いたのは聡美の方だった。転倒しそうなフォームで廊下を走ってゆく。
「ま、待って聡美、待ってえぇ!!」
知里も慌てて聡美の後を追うように全力疾走。もはや文世の遺体に哀悼の意を示す心の余裕すらない。
廊下を駆け抜け階段を駆け上がり屋外に通じるドアに突進した。
だが近付くにつれ気づいた。自分達でバリゲードを張っておいたことを。
どかさなければ逃げる事は不可能。
相談したわけでもないのに、2人は同時にバリゲードの一部となっていた机を持ち上げた。
その時、外からガサガサと妙な音が聞こえてきた。


「あ、あの音……まさか!」

知里は思い出した。この建物に逃げ込んだ理由を。
外にも敵はいるのだ。出て行ったら殺される。
聡美も気づいたらしく慌てて手を引っ込めた。机が大きな音をたて床に落ちる。
2人は廊下に続くドアを閉めると鍵をかけた。しかし、これからどうしたらいいのかわからない。


「……聡美、あたし怖い」
「あ、あたしだって怖いわよ……っ」


部屋の隅で2人で抱き合った。今のところ襲ってくる気配は無い。
だが文世が殺されたように、必ず次の標的になるのは自分達だ。
武器もなく退路すら絶たれた2人は、ただただ恐怖に震えるしかなかった。




「……さ、聡美、あれからどのくらい時間すぎたの?」

しばらくして知里は声を絞り出すように言った。
何時間たったのか、それすらもわからない。 時間の感覚さえも狂ってしまっている。
しかし聡美は知里以上に精神的に疲労しているようだ。
髪は乱れ、憔悴しきった表情。いつもの毅然とした目はどこにもなく、クールな眼鏡はずれている。
「聡美、時間……」
「……あ、ああ……時間ね」
聡美はゆっくりと腕時計に視線を移した。


「……15分くらいたったみたいね」
「まだそれだけなの?」

知里は愕然とした。だとしたら状況は何も変わっていない可能性が高い。
文世を殺した謎の殺人鬼も、自分達を襲ってきた化け物も、まだ近くにいるに決まっている。
けれども、このまま手をこまねいていても結局は殺されるのだ。




(……三村君)

知里は三村の事が好きだった。
幸枝達には三村の評判が悪かったため、友達にもこの気持ちを打ち明ける事ができなかった。
『女癖悪いひとはだめよ』
そう言ってクラスメイト達は三村を非難していた。
知里だって三村の素行について噂の一つや二つ知っている。それでも知里は三村が好きだった。
単にハンサムとかスポーツマンでかっこいいというのも理由だったかもしれない。
でも何よりも、あの自信に満ちた独特の笑みが好きだった。
あの笑顔を見ると、悪い男だとわかっていても大勢の女のひとが三村に入れ込んでしまう気持ちがわかる。
プレイボーイなんて事、忘れてしまうくらい、とにかく魅力的だったのだ。
それに三村は頼りになる男だった。もしも、この場に居てくれたら、きっと生き残るべき指針を示してくれただろう。
いや、そばにいてくれるだけでもいい。


(……三村君、助け――)

がちゃがちゃと妙な音がした。知里は「ひっ」と声をあげ屋外に続く扉に反射的に目を向けた。

「あ、あいつだわ!」

聡美が髪の毛をかき乱しながら立ち上がった。


「殺される!もう、終わりだわ……あ、あたし達、殺されるのよぉ!!」


聡美が廊下に飛び出し走り去って行った。凄まじいスピード、もう後姿も見えない。
ただ足音だけが聞こえてくるが、それも徐々に小さくなってゆく。


「……ど、どうしよう……さ、聡美……まっ」
ついに足音が完全に消えた。同時に再びドアノブを回す音がして知里はびくっと硬直した。
「……あ、あぁ……も、もう……ダメ」
知里は自分の死を予感して動けなくなった。
(……せめて最後に……もう一度……)


「誰かいるのか!?」


(……え?)
聞こえてきたのは血に飢えた野獣の咆哮ではない。
知里が最後にもう一度聞きたいと望んだ愛しい男の声だった――。














「い……石崎っ!」
反射的に後ずさりしながら鍋島はホルスターに手を伸ばした。
民間人ならば男といえど甲高い悲鳴をあげずにはおられないほどの残虐シーン。
恐怖よりも戦闘態勢を優先させる事ができたのは国防省兵士としての訓練の賜物だ。
そんな鍋島も背後から感じた妙な物音に振り返った途端に絶句した。
天井から縛られた死体が降ってきたのだ。
「……っ!」
後数センチで床に接触という位置で止まり、ぶらーんと吊り下げられた状態。
その哀れな肉塊は見覚えがあった。
「……前園」


鍋島はこの異常な事態に戦慄を覚えた。これは、ただ事ではない。
恐怖を感じたのは、その残酷さではない。
仮にもプロである人間がほとんど無抵抗に近い形で殺害されたという点だ。
加害者は猟奇殺人鬼などではない。一流の暗殺者だ。
そんな恐るべき人間が、総統が居る国防省本部敷地内に侵入を果たしているのだ。

「……へ、陛下の身に万が一の事が起きたら」

危惧に過ぎないと半ば呆れてさえいた鍋島は国防省が大きな渦中に飲み込まれていることを肌で感じた。
もはや一刻の猶予もない。鍋島は屋外に飛び出した。


無線機を取り出しながら車に走った。
「家重、応答しろ!」
『大きな声を出さなくても聞こえるわ』
「さっさと車に戻れ、今すぐにだ!」
『どうしたのよ。少し待って、車庫の確認がまだ――』
「ふざけた事ぬかすな!いいか、すぐに戻れ!!」
鍋島は車内に飛び込むとロックをかけた。石崎と前園をあの世に送った殺人者を警戒したのだ。


『説明して。何があったっていうのよ』
「とにかく戻――」

そこで鍋島の言葉は止まった。背後から腕が伸びてきて口を塞がれたのだ。

「……っ!!」
『鍋島?』

無線機が足元に落ち、つーと無機質な音を出した。
鍋島は、もはや話をするどころか思考することすら出来なかった。
その喉はナイフで切り裂かれ、鮮血が流れていた――。














「そ、その声は……三村君!」
知里は一瞬幻聴かと思った。
「もしかして松井か?」
幻聴ではない、確かに三村だ!知里は窓に駆け寄ると鍵を開けた。
「三村君、良かった無事だったのね!」
「松井こそ、おまえ1人か?」
「……あ、聡美が」
聡美は我を失って逃げてしまっている。
「み、三村君、聡美もいるの。でも驚いて逃げて……ふ、文世が文世がぁ……!!
いるの、あいつが!姿はみてないけど、あ、あたし達も殺そうと狙って……うわぁ!」
「落ち着けよ松井」
知里は自分でも何を言ってるのかわからなかった。でも舌が絡まったように上手く説明できない。


「文世が天井に、は、はりついて……ひっ、し、死ん……どうしよう、どうしたら……!」
「松井、喋るな。深呼吸しろ」
知里は初めて自分が泣きじゃくっていることに気づいた。
三村がハンカチを差し出してくれている。
「とにかく涙ふけよ」
知里は素直に三村の好意に甘えた。


「話すのが嫌なら俺の質問に頷くだけでいい。野田も一緒なんだな?」
知里は頷いた。
「藤吉は死んだのか?」
知里は頷くことができず、俯いてぽろぽろと涙をこぼした。
「……そうか」
三村は悟ってくれた。肩に手置いて「辛かったな」と言ってくれたのだ。
「……うん……うん」
知里はただ嗚咽しながら頷くことしかできなかったが、今までとは違い温かみのある涙だった。


「野田はどこに行ったんだ?」
「……あ!」
知里は重要な事を思い出した。
「聡美、三村君をあいつらだと勘違いして逃げちゃったの。廊下のずっと先……どうしよう」
三村は廊下にでると懐中電灯で照らした。何も無い直線が見える。
「松井はここで待ってろ。野田を探して連れて来る」
「え?い、嫌だよ……」
三村が少し眉を歪めた。知里は嫌われたかと思いびくっと反応した。


「そ、その……怖くて1人は嫌なの……ごめんなさい三村君」
「OK、わかったよ」


三村はあっさりと知里の意見を受け入れてくれた。それも笑顔で。
よかった嫌われたわけではない。知里はホッとした。
「武器になるものは……これでも無いよりはマシだな」
三村はモップを見つけると柄をはずし知里に差し出してきた。
「いいか、いざとなったら俺にかまわずに逃げるんだぞ」
「うん、ありがとう三村君」
三村がついてくれているのなら勇気百倍だ。知里は、こんな時だというのに胸が少しときめいていた。


(あのね三村君、あたし少しだけ嘘ついたんだ。
怖いからっていうのも嘘じゃないけど……本当は三村君と一緒にいたかったの)














「鍋島、どこにいるの?」

家重藍(いえしげ・あい)は辺りを見渡した。だが鍋島の姿はどこにもいない。
「……どこに行ったのよ。ひとに至急戻れと指示を出して起きながら」
無線機からの連絡も一方的に途絶えたきりだ。
藍はその静寂さに本能的に不気味な気配を感じ車に乗った。
小さな溜息を吐いた直後に背後からシートを軽く蹴る震動が伝わってきた。


「早く出せ」

聞き慣れた声に藍は「居たのなら早く言いなさいよ」振り返ろうとした。
その途端再びシートを蹴られた。今度は先程よりも強い。

「さっさと出せ」
「……わかったわよ」

藍は不満を押さえ込みエンジンをかけた。
国防省本部の敷地は広大だ。延々と信号や標識の無い道路が続いている。
鍋島は渋い男を気取っているが、随分と饒舌な男だ。しかし、なぜか無口だった。
早急に引き返さなければならない理由ができたはずなの、全然説明がない。


(……この男が私に対して、こんな不遜な態度をとるなんて)


藍はいつもと違う鍋島の態度に内心立腹していた。
犬は飼い主に似るというが、薫の影響なのか鍋島も女癖がいいとはいえない男だった。
常に行動を共にする身近で手頃な女ということで、同僚の藍にすら言い寄っていた時期があったくらいだ。
それがぴたっと止まったのは改心したからではなく、藍が他の男と関係を持った事を知ったから。
その途端に鍋島は腰が低くなり、「今までのはほんの冗談だ。水に流してくれ」と冗談交じりに謝罪すらしてきた。
以後、過去の馴れ馴れしい態度が嘘のように腫れ物を扱うように藍に接していた。
藍は「小さい男ね」と蔑みながらも気楽になり、鍋島とは、それなりに上手くやっていたのだ。
その鍋島が自分に対して上から目線で命令口調。何かがおかしかった。
気の強い藍はいつもなら「何様のつもり?」と、食って掛かっていたが、それすら許さない威圧感を今の鍋島には感じる。
それもおかしかった。


もう一つ違和感を感じる。
鍋島に対する奇妙な感覚に気をとられ、わからなかったがフェンスが近付くにつれて、それが何なのか藍は気づいた。
国防省本部はいくつものエリアをフェンスで区切り、各ポイントに守衛所が設置されている。
出入りの際は警備官が厳しくチェックしていた。
自分達はここに来る時も、藍と鍋島、そして石崎の3人でチェックを受けた。
だから戻る時には3人一緒でなければならない。しかし石崎がいない。
藍はようやく妙な違和感の正体を知り、同時に重要な事実に気づいた。

(待って……私は乗車してから)

藍はぞっとした。凍りつくというのはこういう事だと思った。

(私は鍋島の顔を見ていない!)

恐ろしい可能性に、藍は反射的に急ブレーキをかけ銃に腕を伸ばした。














(助けて、誰か助けてよ!!)
聡美は必死に叫んでいた。声にならない悲鳴を何度も上げていた。
何かにつまずき派手に転倒、起き上がろうとした途端に足首に激痛を感じた。
「……痛い」
おそるおそる靴下を下げてみた。赤く腫れあがっている。
(まさか骨折?)
痛みは酷いが何とか動く。聡美は壁にもたれながら立ち上がった。
歩ける。骨折はしてないようだ。しかし一歩踏み出す度に聡美は激痛と戦わなければならなかった。
こんな足では逃げるどころか、まともに歩く事もままならない。
駿足の化け物達を相手にしているのだ。聡美は死刑宣告を受けたような奈落の底に突き落とされていた。


「……ど、どうしよう」
残された手段は隠れる事だけだ。制限時間まで生存していればいい、それがルールだったはず。

(そ、そうよ……あいつらから隠れてさえいればいいのよ)

聡美は幾分冷静さを取り戻した。眼鏡を掛けなおすと、カタツムリのようにゆっくりと慎重に歩き出した。

(隠れる場所を探すのよ。どんな化け物でも所詮は動物、知能は低いに決まってるわ。
声を出さず石のようにジッとしてれば問題ない……そうよ、死んでたまるものですか)

問題は身を潜める場所だ。今までのように、ただの部屋にバリゲードをしいただけでは駄目だ。
鉄鋼のように丈夫で、入る隙間のない密室がいい。
聡美は震えながら廊下づたいに歩き、一室一室を調べた。
事務室らしき部屋、研究室らしき部屋、安全を確実に保証してくれそうもない。


「……ここも研究室。駄目だわ、こんな場所じゃあ――」

がっかりと肩を落とした聡美。退室する前に未練がましく振り返ると奥の方に奇妙な扉があるのが見えた。
(丸いわ……あの形は確か)
そのデザインは平凡だが誰もが知っている有名なものだった。
「金庫の扉にそっくり」
よくドラマの銀行などに登場する金庫の扉によく似ている。
実物を見るのは初めてだが、テレビで見たそれよりも大きい。
懐中電灯で照らし、そっと中を見ると、資料や化学物質らしきものが保管されている。
だが聡美が目を輝かせたのは、それら研究物の類ではない。


「何て頑丈そうな扉……それに、この中なら天井も壁もきっと分厚いに決まってる」


聡美は目を輝かせた。ようやく安堵の場を発見できたのだ。
重たい扉を全力で引いた。がちゃんと音がして扉が閉まると聡美はホッとして、その場に座りこんだ。

「……助かった」

もう安全だ。後は制限時間まで篭城するだけ、勝利は確定。
安心した途端に眠気が襲ってきた。
床は冷たかったが、そんなもの気にならないほど、今は安らかな気持ちになっている。
聡美は、その場に横になり、そっと目を閉じた。

「……何、これ?」

べとっとしたものが手についたが、きっとのりか何かだろうと思い、聡美はそのまま眠りについた。














「……あっ」
藍の動きは完全に停止していた。力が緩んだ手からは愛銃が落ち、声はでない。
白い喉にはぴたっとナイフの刃が宛がわれ、藍は唾を飲み込むことすら出来なかった。
完全に不利な体勢。迂闊に動けば即死。
藍は自分の状況を把握すると供に、鍋島と石崎が、すでにこの世にいない事を察し眩暈がした。


「死にたくなかったら、このまま走れ。警備には適当に作り話をしろ」


それは鍋島とは明らかに違う声だった。藍は簡単に騙されていた事実に唇を噛んだ。

「……何を馬鹿な事を。私は国防省の人間、外敵などに手を貸すと思うのか?」

僅かにナイフが動いたような気がして藍の筋肉は緊張で引き攣った。
耐えて見せたのは死への恐怖よりも国家への忠誠が優先させるべきだと理解していたからだ。

「私達が戻らなければ上が動く。おまえもそれまでだ」

謎の男はカッとなって自分を殺すだろうか?それとも人質にでもするだろうか?
先手を打って藍は「国防省を甘くみるな。私の殉職など彼らは躊躇などしない」と口調を強めて言い放った。
これで利用価値はないとみなされ殺される。藍は覚悟はしたものの吐き気がした。
だが男が次に言った言葉は藍が全く予測してないものだった。


「立花薫も道連れ。それでも構わないのか?」


「何ですって!?」
思わず振り返ろうとして後頭部を押さえつけられた。
「俺の顔をみるな」
「……薫様に何をした?」
薫がこの男の手の届く場所にいるわけがない。仮にそうだったとしても特選兵士の薫を殺せるはずがない。
はったりだ。藍は即座にそう考えた。
「俺がここまで侵入できたのは立花薫のおかげだ」
藍は今度は無言で男の話を聞いた。額からは熱い汗が流れていた。


「立花薫の責任問題になる。わかったか馬鹿野郎?」
「……か、薫様の責任問題?」


藍は混乱した。しかし最終的に出した結論は薫を守らなければならないという事だった。
「車を出せ。早くしろ馬鹿野郎」
車はゆっくりと前進を始めた。間もなく守衛所が見えてきた。
藍が少し車窓を開けて許可証を提示すると、警備官が「1人いないな」と尋ねてきた。
シートから三度目の震動が伝わってくる。藍は舌打ちしたい気持ちを抑えた。
「……残って、もうしばらく確認作業をすることになったのよ」
「そうか。よし通っていいぞ」
難なく車は守衛所を通り再び走り出した。
背後から聞こえる謎の男の声。どうやら携帯電話で仲間と話をしているようだ。
つまり単独犯ではないという事になる。


「……おまえ達は国防省をわかっていない。どこの組織の者だ?」
返事は無い。一方的に脅迫しておいて質問にも答えないつもりだろう。
(……どうする、どうしたらいい?このまま言いなりになるわけにはいかない)
藍はちらっとペンダントを見た。一見、何の変哲も無いが、精密機械が内臓されている。




『可愛い部下にプレゼントだよ。危険が迫ったら裏側にあるボタンを四回連続して押してごらん。
そうすれば君の位置や状況がわかる。僕が肌身外さず所持している時計を通じてね、ほら』
薫の時計には探知機用小型モニターが表示される仕組みになっていた。
おまけに会話や音までわかるらしい。
『上官として部下の安全に常に配慮するのは当然だよ。いざとなったら躊躇せずに僕に縋ればいい』
『……ありがとうございます薫様』
その後、藍は抵抗することなく抱きしめられ唇を奪われていた。
以来、藍にとって最優先するものは国家ではなく立花薫になっていたのだ。




(テロリストなどに薫様の輝かしい人生に泥を塗られてたまるものか!)

相手は油断しているはず、藍は渾身の力を込めてハンドルを右に大きくきった。

(今だわ!)

まるでアクション映画さながらに藍はドアを開けると転がるように飛び出した。
そして素早くペンダントに手を伸ばした。

「……え?」

ない、先ほどまで胸で輝いていたペンダントが跡形もなく無くなっている。
あのペンダントは藍にとっては自己防衛の道具以上のもの。地面にへばりつくように半狂乱になって探した。

「どこ、どこなの……!?」

眼前に足が見えた。見上げると同時に頭部に強い衝撃を受け、そこで藍の意識は途絶えた。
宝物であるペンダントが無残に破壊され地面にばらまかれた事を彼女は知らない。
まして首からぶら下げていたIDカードを奪われた事に気づくのも数時間先の事である。














良恵、疲れただろう?」
徹は「少しは休んだらどうだい?」と勧めてきた。
ありがたい申し出だったが、瞬達の事が気がかりでとても眠れそうも無い。
「ありがとう徹、気持ちだけ受け取るわ。それよりも、後どのくらいで着くかしら?」
「飛行場はすぐそこだよ。目立ちたくないから民間の飛行場に降りる、そこからは車さ」
「……そう」
嫌な予感がする。一刻も早く駆けつけたい。

(瞬を止められるのは私しかいない。早くしなければ……)

良くも悪くも瞬がたとえ微かでも心を開く可能性があるのは妹の自分しかいない。
それは自惚れでは無く、良恵の決意であり覚悟だった。


良恵、俺は心配だよ。Ⅹ6に係わらせて本当にいいのかと……」
徹が心配そうに良恵の頬に手を伸ばしてきた。
良恵に触るな!」
怜央が物影から飛び出して、徹に襲い掛かる。
「駄目よ、怜央!」
良恵は慌てて怜央を抱き止めた。
「徹には近付かないわ。だから彼に悪さしないで、お願いよ」
「……本当?本当だな?」
「ええ」
怜央は良恵にひしっとしがみついてきた。


(……良恵)
面白くないのは徹だ。良恵と再会してから触れるどころか近寄ることすら邪魔されてばかり。
モンスターチルドレンというのは、こういうクソガキの事を言うんだとまで考えた。
良恵にしたって、あのクソガキがいたんじゃ行動できないじゃないか)
しかし徹は黙って引き下がる性格でない。そして良恵の性格もよく知っている。




良恵、ココアでも飲みなよ。少しは落ち着くから」
砂糖とミルクをたっぷり入れテーブルに置いた。
「ありがとう徹」
良恵はカップを持ち上げると、「ほら、怜央」と、可愛げの無い子供に差し出した。
徹にとっては殺してやりたいくらい小憎たらしい子供だが良恵は心底可愛がっている。
そして、なぜか怜央も良恵に懐いている。素直にカップに口をつけた。
ココアが怜央の体内に注ぎ込まれてゆくのを見て、徹はニヤッと口の端を少しあげた。
数分後、怜央は急速に瞼を閉じ、良恵の腕の中で全身の力を失うように体勢を崩した。


「怜央?」
「やっと邪魔者がいなくなったね」

徹は勝ち誇ったように立ち上がった。


「徹、あなた……怜央に何をしたの?」
「何もしてないよ。ただ、ほんの少し即効性の睡眠薬をココアに混ぜておいただけさ」




【B組:残り39人】




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