「ぎゃぁ!」
「せいぜい痛たぶってやるから覚悟しろよ」
徹の鉄拳は怜央のボディに見事に命中。怜央は壁に叩きつけられ絨毯の上に落下した。
「やめて徹!」
良恵は怜央に駆け寄ると覆い被さった。
「……良恵」
「お願いよ。この子に酷い事しないで」
「どうして君がそんな奴をそこまで庇うんだい?」
「この子は私の家族よ」
「家族……」
頭に血が昇っていた徹は、そこで初めて怜央の顔をまともに見た。


「……志郎?」
髪型こそ違え、志郎に瓜二つだ。そしてはっとして再び良恵に視線を移した。
「じゃあ君の従弟って話は本当なのかい?」
「ええ、そうよ。この子は志郎の弟なの」
「馬鹿な、だってⅩシリーズは……」
徹は言葉に詰まっている。無理もない。
科学省とは無縁の徹でも知っているのだ。
Ⅹシリーズは(公にできない瞬も含め)この世に4人しかいない事を。


「……良恵、どういう事なんだい?」
「お願い、今は何も聞かないで」
徹は戸惑っている。管轄が違うとはいえ、Ⅹシリーズらしき人間を野放しにはできない。
しかし愛する女性の必死の懇願を無視するわけにもいかない。
「第一、そいつは俺に刃向かってきたんだ。敵対する人間をほかってはおけない」
「この子があなたにした事は、私が代わりに償うわ。
殴って気が済むなら私を殴ってくれてもいい。徹の気が済むようにして」
「君の体を好きにしろって言うのかい?」
「それで徹が承知してくれるなら」
「そう、わかったよ」
良恵はホッとした。

「駄目!」

しかし途端に怜央が声をあげた。
「駄目だめダメ!俺、そいつ嫌いだ、大っ嫌いだ!殴るより酷いこと考えてる!」
「怜央?」
「すごく嫌なオーラ感じた。嫌だ、嫌だ!!」

怜央は人間の感情には鈍いが野生の勘でまがまがしいものを察知していた。




鎮魂歌二章―21―




「倉庫かな?」
文世が階段を下りるとドアがあった。他には何もない。いかにも物置といった雰囲気だ。
「医療道具があればいいけど……」
ドアノブに触れるとぬめっとした感触に悪寒を感じ思わず手を引っ込めた。
「まただ。何、これ?」
指先に先ほどと同じ樹脂のような謎の粘着液がついている。
今度は後ろ首に何かがぽとっと落ちてきた。
全身硬直、文世は恐怖で意識が飛びそうになった。しかし文世を襲ったものの正体はただの水滴だった。
ゆっくりと見上げると天井に数本のパイプ。その一部がさび付いていたのか水が漏れているだけだ。
文世はほっとした。同時に今までの緊張が一気に解けた。


(何だ、あたしが勝手にびびってただけだったんだ。
この、ぬめぬめだって、きっとただの汚れか何かだわ。あーあ、びっくりして損しちゃった)
この建物内には自分達三人だけなんだ。だから、いちいちびくつく事はない。
文世は部屋に入った。思った通り倉庫だ。大小いくつもの箱が陳列棚に整然と並べられている。
懐中電灯で照らしながら文世は早速作業を開始した。
「これは違う。こっちも……」
段ボールを開けると布を発見できた。これは使える、しかし長すぎる。
はさみは無いだろうか?と部屋のあちこちを照らした。
「きゃぁ」
また後ろ首に水滴が垂れてきた。
「ここも水道パイプがあるのかしら。ただの水でも、やっぱりびっくりするわよ」
文世はぶつぶつ言いながら背後に手を伸ばした。
指先に残ったのは水ではなく、ぬめっとした感触だった。














「徹、私を国防省に連れて行ってくれないかしら?」
「国防省に?」
良恵と徹はテーブルを挟んでソファに座っていた。良恵の背中から少し顔をだした怜央が徹を睨みつけている。
良恵に近づくと噛みつこうとするので徹は良恵のそばに、これ以上近づけない。
彼にしてみれば面白くない状況だった。
良恵、少しは理由を話してくれてもいいだろう。俺を信じて打ち明けて欲しい。
約束するよ、君が悲しむ事は絶対にしない。俺にとって君以上に大切なものはないんだ。
だから何よりも君の意志を最優先させる。でも、そのためには君が真実を明かしてくれないと。
何も知らなければ協力のしようがないじゃないか」
「……徹、私が望めば瞬を助けてくれるの?」
「Ⅹ6を?」
徹は一瞬良恵か視線をそらし、その数秒後に満面の笑みで「勿論だよ」と言った。

(……駄目だわ。徹は嘘をついている)

かといって確かに徹が主張する通り、何も話さず協力を仰ぐのも不可能だろう。
良恵は「秘密にしてくれる?」と尋ねた。
「勿論だよ」
今度は徹も即答した。その様子から、少なくてもしばらくは徹は約束を守るだろうと良恵は確信できた。
「瞬が何かしようとしている事は、あなたも知っているでしょう?」
「当事者だったからね。F5事件は俺の人生ワースト3に入る任務だったよ。
Ⅹ6は簡単に復讐を断念するような人間じゃない。そうだろ?」
「……ええ。その瞬がF5の代わりに新しく仲間にしたのが要達なの。
私も知らなかったけど彼らは死産だと公表されてるはずのⅩシリーズなのよ」
徹はそれだけで大体の事情を察してくれたようだ。


「つまりⅩ6は自分と同じように科学省に冷遇されていた肉親を仲間にして事を起こそうとしてるってことか。
天敵のF5と手を組むよりはやりやすいだろうね。今度は仲間割れもしないだろうから」
「……ええ」
瞬と要の不仲を思えば、この先もずっと彼らが一枚岩でいられるとも思えないが、少なくてもF5とよりは団結するだろう。
「Ⅹ6が何をするのか君には見当がついてる。その前に止めたいんだろう?」
良恵は頷いた。
「国防省に連れて行って欲しい、か。Ⅹ6の狙いは総統陛下なのかい?」
「わからないわ。何も聞いてないもの」
「でも君は、そう思っているんだな」
徹は前髪をかきあげながらソファに背もたれした。




「……君もつくづく損な性分だね。肉親の情なんか持っていない俺には、そう思えるよ。
もっとも、そんな君だから俺は惹かれたんだろうけど」
良恵の手に徹の手が伸びてきた。途端に怜央が飛びかかろうとして、良恵は慌てて手を引っ込めた。
「怜央、お願いだから大人しくしてちょうだい」
「こいつ嫌いだ。大っ嫌いだ!」
「……怜央」

(徹が睨んでる。怒ってるんだわ)

徹と怜央に挟まれて良恵は気が滅入る思いがした。


「……良恵、協力してやってもいいよ」
「徹?」
今までの態度から良恵の国防省行きを快く思っていないと思っていた徹の申し出。
良恵は嬉しいというよりも、少し驚いた。
てっきり強硬に反対されるとばかり思っていたのだ。
「勿論、俺も同行するし危険だと判断すれば中止するよ。
国防省には俺の力は及ばないから、君の希望に添えるかどうかもわからない。
中枢に入り込むなんて難しい、それをまず承知しておいて欲しい。それでいいね?」
「え、ええ!」
良恵は感極まって徹の手を握りしめた。


「ありがとう徹、恩に着るわ」
良恵、そいつに触るな!」
「怜央……わかったわよ」
良恵は、すぐに徹から手を離した。
「じゃあ早速手配するよ。それまで休んでなよ」
徹が退室すると怜央はようやく殺気を解いてくれた。
「怜央、徹は大切な友達なのよ」
「……俺、あいつ嫌いだ。変なオーラ感じたんだ。良恵もあいつに近づくな」
「……そんなんじゃないのに」
良恵は溜息をつくしかなかった。




「梅宮、すぐに飛行機を用意しろ。スピードのある奴だ」
「はい」
徹は怜央に非常に腹を立てていた。
せっかく良恵と感動の再会を果たしたというのに、怜央のせいで全くいちゃつけない。
おまけに良恵は、まだ瞬の事で頭がいっぱいときている。
瞬に殺意さえ抱いている徹にしてみれば国防省で殺されればいいくらいの気持ちなのだ。
その瞬の為に良恵は危険に足を突っ込むつもりでいる。
本当なら良恵を監禁してでも国防省なんかには行かせたくない。しかし怜央の存在が徹の考えを変えた。


(あのクソガキといい、Ⅹ6といい、本当にⅩシリーズは嫌な奴ばかりだ。
何とかしないと良恵の目が覚めないじゃないか。ここは協力するふりをして、しばらく様子を見た方がいい。
それに本当にⅩ6が総統暗殺を企てているのなら黙って見ているわけにはいかない)


徹は野心家だ。良恵への愛情と同じくらい地位や権力に固執している。
総統の危機は、そのまま国家の存続すら左右しかねない。


(事変が起きたら、それを利用してのし上がってやる。そして良恵を俺だけのものにするんだ。誰にも渡さない)


徹は夜空を見上げた。星が煌めいている。
「……良恵が俺だけを見つめてくれたら、俺もこんなに焦らなくてもいいのに」
徹はちらっと部下達を意味ありげな目で見た。
「おまえ達は女と交際した経験あるかい?」
「まあ、人並み程度には」
「だったら聞くけど、花岡、おまえは彼女を自分だけに繋ぎ止めるために、どんな手段をとった?」
「やはりプレゼントでしょうか。彼女の誕生日には必ず渡してました」
「俺なんか誕生日どころか、あらゆるサプライズをしてきたよ。全く参考にならないね。梅宮、おまえならどうする?」
「そうですね。自分が大尉の立場でしたら、忠実な部下の待遇を改善させる事で寛大さをアピールしますが」
徹は「もういい、さっさと動け!」と強い口調で言い放った。
部下達はいっせいに蜘蛛の子を散らすように駆けだして行った。
その後ろ姿を眺めながら徹ははき捨てるように言った。「使えない奴らばかりだ」と。














「な、何……何が落ちてきてるっていうの?」
文世は天井を見上げた。そこには何もない。あるとすれば蜘蛛の巣くらいだ。
文世は得体の知れない雰囲気に今ままでとは異質の恐怖を感じた。
(皆の所に戻ろう)
くるりと踵を翻した瞬間、懐中電灯の光の中に影が見えた。
どくんと大きな音が文世の体内で発生した。

(な、何?何なの、今のは……)

震える手を動かし部屋のあちこちを照らしてみたが何もない。

(気のせいよ。そうよ、そうに決まっている。怖い目にばかりあったから、きっと見間違えたのよ。
そういう事ってあるじゃない。は、早く……早く戻らなきゃ)

文世は何度も心の中で自分に言い聞かせた。
しかし納得したつもりになっても心臓の鼓動は元には戻らない。
(早く行こう)
文世は走った。ドアを開き一気に階段を駆けあがるつもりだった。
だがドアを開けた瞬間、何かにぶつかり文世は尻餅をついた。
何事かと見上げた瞬間、文世の目がこれ以上ないほど拡大した。

「……え?」

同時に手足は硬直し言葉が出なくなった。
その僅か数十秒後、文世の意識は恐怖で塗りつぶされたまま完全に途切れた――。














「電気業者を入れたですって?」
美鈴は呆れた表情で、報告者を眺めていた。
「総統陛下がいらっしゃる間は関係者以外は立ち入り禁止よ。そのくらいの事わかるでしょう。
本当におまえは気が利かないわね。そんな事だから、いつまでたっても出世できないのよ」
「でも……妻木秘書官。これは長官が許可した事ですから。
一部とはいえ電気系統が故障なんて国防省の体面にかかわるからと……」
「うちの職員に修理させればいいでしょう。何の為に高給で国に雇用されていると思っているの」
「それが、うちの職員は出払っていたり事故で休暇をとっている者ばかりで、残っている者では手が回らないんですよ」
「普段きちんと点検してなかったのね。あなた達、庶務課は何をしていたのやら」
「……そんな事、私に言われても困ります」


徐々に涙声になってゆく口調。部屋の雰囲気はとても重い。
少し離れた位置から同じ秘書室の同輩達が意味ありげに此方をちらちら眺めている。
「あの子、立花様とやっちゃった疑惑の女じゃない?」
「うん、そう。先月、一緒に歩いてるところを私も見ちゃったのよ」
美鈴がじろっと視線を送ると彼女達は慌てて目を反らしデスクワークに戻った。

(冗談じゃないわ。これじゃあ私が、この女をいじめているみたいじゃない)

薫がその女に遊びで手を出したのは事実だった。
もっとも、いつものお遊びで一、二度関係を持っただけに過ぎない。
特別美人でも金持ちでもない地味で大人しい女。
ただの気まぐれだと割り切り、美鈴も忘れる事にしたのだが周囲はそう見てはくれない。
恋人を寝取られた女が浮気相手をいびるなんて世間が喜びそうなシチュエーション。
美鈴は、これ以上周囲の好奇心の餌になるつもりはなかった。


「長官が許可を出したのなら仕方ないわね」
美鈴は書類に捺印し、「忙しいの。あなたも、さっさと仕事に戻るのね」と突き放すようにいった。
(長官は危機管理能力が無さすぎるわ。
こんな深夜に、まして陛下がお出ましの時に部外者を中に入れるなんて)
美鈴は嫌な予感がしたのか、薫に連絡を取る事にした。
受話器に手を伸ばしプッシュポン。しかし薫の携帯電話に全く繋がらない。
(……おかしいわね)
圏外でも電源を切っているからでもない。お知らせサービスすら全く聞こえない。
ただツーツーと妙な回線音がするだけだ。

(回線が切れてる?)




「妻木さん、そろそろ行きましょうよ」
ドレスアップした同僚達が鏡を見詰め念入りの化粧チェックをしながら催促してきた。
政府高官や名家の御曹司とお近づくになれるチャンスとあって、呆れるほどの情熱を注ぎこんでいる。
(接待が仕事だっていうこと忘れてるようね。ちゃらちゃらした女は、だから嫌いよ)
美鈴自身、野望に対しては向上心のある女だが、甘い夢には浸らない厳格な現実主義者でもあった。
だからこそ薫に捨て駒にされず交際が続いている。
大広間に到着すると国防省の美しい華達に誰もが息を飲んだ。
中でも美鈴は豊満な肉体と強い色香で一際目立った存在だ。
息を飲む男達の視線を無視して美鈴は窓の傍で外の様子を伺っている若者に歩み寄った。


「任務中だ」
「つれないこと言わないでよ。独りでいると余計な男が寄ってくるじゃない」
「適当にあしらうのがおまえの仕事だろう。甘えるな」
「相変わらずね小次郎。薫なら言わなくても自分から助け舟だしてくれるわよ」
戸川は露骨に眉を歪ませた。
「あら、少しは冷静な性格になったと思っていたけれど、そうじゃなかったのかしら?」
短気の上に気性の激しい戸川相手に美鈴は平然と耳に痛い事をいってやった。
以前、恋人だった縁に甘えているわけではなく、戸川の性格を知っているからだ。
言葉を濁すより厳しい事を言ってやればいいのだ。


「話してみろ」
「ただの愚痴よ。陰口かもしれないわね」
「相変わらず陰口が好きなのかよ」
「言いたくもなるわよ。無能な女が多すぎるわ」
「面だけはそれなりの女か?」
忌々しそうに「まあまあよ」と答えると、「だから立花はやめておけと言ったんだ」と即座に言われた。
「海軍で何て噂がたってるか知ってるのか?
国防省の美人の半分はあいつのせいで処女を失うと言われてるんだぞ」
もう半分は水島のせいにされているだろうと美鈴は思った。そして、それは正解していた。


「薫の女癖の悪さはもう慣れたわ。ただ手を出す相手くらい選んで欲しいと思ってるだけよ。
本当に使えないったらないんだから。文句を言えば私が嫉妬でいじめてると思われる。正直うざいわ」
「ちっ、別れる気はないってことか」
戸川は舌打ちすると窓の外に視線を移した。
「陛下がいらっしゃる時に外部の人間をいれるのよ」
「何だって?」
途端に戸川は視線を戻し話に乗ってきた。




「普段からきちんと管理してなかったらしくてね。今になって支障がでたらしいのよ」
「パーティーが終わってから呼べばいいだろう。なぜ今なんだ、ふざけるな」
「長官が許可を出した以上、私に反対する権限なんてないわ。電気業者って言ってたわ」
戸川は腑に落ちない表情を見せた。
「電気系統は本、福、予備と3本ある。故障が出ても大丈夫なはずだろ」
「そうよ、ただの故障ならね。だから気になるのよ、あの女、何か隠してないかって
おかしいのはそれだけじゃないわ。電話回線も変だった、全く通じないのよ」


「外部の人間を入れたのはどこだ?」
「西門近くの建物よ。夜警の職員用の当直室に使用してるものだから、ここからは遠いわよ」
「国防省の敷地内には入るだろ。国防省の警備はざるか!ここに来るまでにいくつフェンスがある?」
「3つよ。守衛はもちろん各エリアに警備兵がいるから、敷地内に入れたとしてもここまで来るのは――」
「大外門の警備に比べたらゆるいだろ。立花の部下は今ここにいるのか?」
「5、6人いるけど、ここの中庭の警備に配置されてるわよ」
「すぐに、その場所に行かせろ」
「何を言うのよ小次郎。私にそんな権限はないわ、面倒はごめんよ」
「俺が全部かぶってやるから、さっさとしろ」














「……文世、遅いね」
あれからかなりたつのに戻ってこない文世。知里は気になってきた。
妙な怪物が、あれ以後、姿を現さないこともあり知里は落ち着きを取り戻しつつあった。
「ねえ聡美、気にならない?」
「え……あ、ああ、そうね」
ヒステリックになっていた聡美も少し冷静になってきているようだ。
立ち上がり「ちょっと見てくるね」と言ってくれた。


「うん、お願い」
知里は少し安心した。
あの怪物はどこかに行ってしまったようだし、建物の中に隠れていれば安全のような気がする。
時間まで息をひそめていれば生き残れるという希望が見えてきたのだ。
ただクラスメイト達の事だけは気になった。特にひそかに恋している三村の事が。
(……三村君もここに呼ぶ方法があったらいいのに)
三村がいてくれたら、どんなに心強いだろう。知里は一時の甘い想像に幸福な気分にすらなった。


「きゃぁぁぁー!!」


だが突然湧き出てきた悲鳴に知里は一瞬で現実に引き戻された。
「さ、聡美?」

な、何で?どうしたの?何か事故でもあったの?

立ち上がると傷に痛みが走ったが、今は聡美の方が心配だ。
知里は声のする方向に急いだ。廊下を走り階段を下り扉が開かれた部屋に駆け込んだ。
聡美が尻餅をつき諤諤と震えている。


「どうしたの聡美?」
「……あ、ああ……ひぃぃ!」

聡美は完全にパニックになっている。恐怖で血走った目は天井に向けられていた。

「何があって――」

知里は視線を上に向けた。














「特に異常なし。静かなもんだ」
警備モニターも念のために調べたが通常と何ら変わらない。
「上官の彼女にまでこき使われるなんて俺って出世の見込みないな……はぁ」
石崎は溜息をつきながら屋外に出た。
「だいたい、ここは国防省のはずれなんだから、ここに入れたからって陛下のそばにも近寄れな……ん?」
妙な事に気付いた。確かに静かで怪しい人間は1人もいなかった。
1人もいなかったのだ。国防省関係者も、例の電気業者とやらも。


しかし石崎は、まさかな、とすぐに楽観的な考えに移行した。
多分、すでに修理は完了して帰ったんだろう。
国防省の人間だって一か所にとどまっているわけではないのだから行き違いになっただけ。
そうに決まっている、それが石崎が出した結論だった。
ただ、こんな結果を持って帰ったところで納得してもらえない事も理解していた。
そこで守衛所まで行って出入りの人間のチェックの確認をする事にした。
守衛は1人。他の者は見当たらなかった。
電燈の明かりの陰にいるせいか、後ろ姿も暗くてはっきりしない。
ライフルを手に椅子に腰かけている。今夜の当番は石崎の友人だった。
その為、石崎は適当な会話から始めた。




「前園、おまえの妹、まずすぎるぞ。少し注意しておけよ」
石崎は忠告のつもりで言った。前園は此方を振り向きもしない。
「耳に痛い事をいうが妻木さんを本気で怒らせたら立花様のお叱り受けるぞ。
こんな事なら莉子ちゃんを紹介してやるんじゃなかったよ。
おまえが『妹の想いを一度でいいから遂げさせてやりたい』なんて泣いて頼むから橋渡してやったけどな」
薫に適当に美人を宛がうのも、今や仕事の一つになっていた石崎はあっさりと友人の頼みをきいた。
しかし前園の妹は、一度できっぱり想いを絶つような諦めのいい性格ではなかったのだ。
よく言えば一途、悪く言えばしつこい。要するに遊び半分で付き合うタイプじゃなかったのだ。
もっとも薫はさっさとその性質に気付き、あっけなく莉子を切り捨て、以後は無視ときている。
仮にも情けをかけた相手に冷酷すぎるほどの態度を貫き通していた。
その頃、薫はある女性を口説く事に部下が呆れるほどの情熱を燃やしていたので、莉子など忘却の彼方だった。


「おまえ相手の女性を逆恨みして出会い系サイトに写真アップロードしただろ。
国防省のネット監視課を甘くみてるぞ。身内はまず最初に調査対象になるから、もうばれてる。
相手が悪かった。おまえは知らないみたいだが、立花様が熱上げてる相手は海軍の佐伯大尉の恋人なんだ。
監視課が即座に削除しなかったら、おまえ佐伯大尉に殺されてたかもしれない。
『夜一人は寂しいの。慰めて』はないだろ。やり方が汚すぎる」


石崎は立派な正論を吐いていたが、実際は巻き込まれたくなかっただけだった。
もともと美女献上係という立場を利用して色々な女を発掘、調査している彼が前園に写真を横流ししていたのだ。
薫のために発見した女は大抵短期間しかもたない。その後処理も石崎の役目だった。
未練がましい女達が薫に付きまとわないように弱味を握るのが主な仕事。
薫に二度と近づくなと忠告するだけならいいが、こっそり脅迫して金品をせしめていた。
薫にばれたら厄介なので、あくまでこっそりささやかにだ。だから罪の意識もほとんどない。
そんな男なので前園が写真を購入したいと希望した時も、彼女の住所や電話番号もつけて売却してやった。
ところが、その彼女が佐伯徹が熱愛している女だとゴシップ誌閲覧中に判明。
その時の石崎の恐怖と後悔は計り知れないものだった。
事が公になる前に片づける事ができたのは不幸中の幸い。しかし前園は今も写真を所持しているはず。




「写真返してくれ。金は返すからさ」
必死の懇願。しかし全く返事はない。
「なあ前園……」
返事もないし動きもない。先ほどから姿勢も全く変化がないくらいだ。
そういえば、シルエットだからよくわからないが、しばらく会わないうちに髪型も変わっているようだ。
「頼むよ、ん?」
雨が降ってきたようだ。ぽつっと手の甲に滴が落ちてきた。
しかし空を見上げたが美しい月が見えるだけ。雲などほとんど無い。


「……この臭い」

滴から異臭がする。それは鼻をつくもので身近な臭いでもあった。

「……赤い?」

おまけに月明かりに照らしたそれは鮮やかな赤。石崎は真上を見た!
そのタイミングを見計らったように何かが落ちてきた。


「ま、前園!!」

血みどろの人間、動かない。これは死体、死体だ!
では、今まで自分が話しかけていた前園は誰なんだ!?


恐怖で血走った目で視線を戻すと奴が立ち上がり、くるりと振り返った。
ライフルの銃口が鈍い光を放ち自分を睨んでいる!


「き、貴様……!」

銃、銃だ!応戦しなければ殺される!!


石崎は腰にぶら下げているホルスターに手を伸ばした。
だが、それよりもはるかに早く銃口が自分のボディ目掛けて突き刺さってきた。
「……ぐぇ……っ!!」
そのまま石崎は守衛所の壁に磔状態に。喉を凄い腕力で潰され悲鳴すらあげられず絶命した。




『響介、終わったか。だったら次の行動に移れ』

無線機から、そんな声が聞こえていたが、勿論、石崎にはもう聞こえなかった――。


「要、写真がある。欲しいか?」















「きゃぁぁぁぁ、文世ぉぉー!!」

知里は、この世のものとは思えないものを見てしまった。
聡美は完全に恐怖に塗りつぶされ、今やホラー映画のヒロインとなっている。
それほどの悪夢だった。

全く生気のない文世が蜘蛛の巣のようなもので天井に張り付けられ此方を見ていた――。




【B組:残り39人】




BACK TOP NEⅩT