夏生はごくっと唾を飲み込んだ。
(まさか、まさか!お、俺のかわいいにゃんにゃんちゃんじゃないだろうなあ!?)
恐ろしい可能性に夏生の表情はいつになくシリアスだ。
さらにFの死体をつぶさに観察してみると、それは違うということがわかった。
「キーホルダー……こんなもの光子は持っていなかった」
でかでかとJのイニシャルが刻まれている。どうやらアイドルグッズのようだ。
「……光子じゃなかった」
ほっとする反面、犠牲になった者に夏生は心の中で黙祷を捧げた。
鎮魂歌二章―17―
――数時間前――
恵のチームは全員一致で武器支給場所に向かっていた。
武器さえ手に入れれば生き残れる、誰もがそう思っていた。
そして支給場所でボックスを見つけたときは、それがまるで宝箱のように見えたものだった。
最初に武器ボックスに飛びついたのは瑞穂だった。
「おお、戦士にふさわしい武器よ。今こそ、その姿を現すのだ!!」
平素から妙な事を口走る女・瑞穂は、この異常な状況ですっかりハイになっていた。
「瑞穂、大声ださないでよ。あの変な動物に見つかったら怖いわ。それに恥ずかしい」
変人とはいえ恵にとっては親友。
それは佳織も同じで「そうだよ瑞穂、妄想は今は無しだよ」と恵を援護してくれた。
しかし瑞穂は反省するどころか溜息を吐きながら「だから汝らは平民の域をでれないのだ」とほざく始末。
「わかったわよ瑞穂。もう何も言わないわ。それより武器を出してよ」
神経質な委員長・元渕も「は、早くしてくれ!」と辺りにきょろきょろと視線を配りながら急かした。
瑞穂が箱を開けると、妙にレトロな武器が姿を現した。
強力な武器を期待していた恵はがっかりした。
しかし瑞穂のツボにははまったらしく目を輝かせながら剣を手にした。
「これこそ光の戦士にふさわしい武器。どんな魔物もこれで一刀両断よ!」
瑞穂はやる気満々のようだ。しかし恵は妙な事に気づいた。
月光に照らされているのに剣の刃が光らない。
「瑞穂、それちょっと見せて」
「これは騎士の武器よ。残念だけど、恵、あなたには使いこなせないわ」
「そうじゃないのよ。その剣、変なのよ」
恵の必死の訴えにようやく瑞穂も冷静に剣を観察し、すぐにぎょっとなった。
「何よ、これ!」
瑞穂はカッとなって剣を地面に叩きつけた。
刃先が地面に激突した瞬間、ぐにゃっと曲がるのを誰もが目にした。
「ま、まさか、これ!」
佳織が慌てて剣を手にした。
「これ、刃の部分がゴムでできてるじゃない!」
ゴム製の剣、そんなもの戦闘には何の役にも立たない。
「じゃ、じゃあ、これもか!?」
元渕は自分が手にしていたナイフの先端に触れてみた。
銀メッキを施されただけの木製のナイフだ。
「おい、ちょっと待ってくれよ。う、嘘だろ?」
飯島が箱に飛びつき残りの武器を次々にひっぱりだしていった。
「この盾は段ボール、杖はハッポスチロール。全部、偽物だ。どういう事だよ、ふざけるなよ!!」
せっかく武器を手にしたと思ったのに最悪のぬか喜び。
誰もが落胆し強い失望を味わった。
佳織や加世子は言葉もなく泣きわめいてすらいる。
(ど、どうしよう。こんな時に、あの変なバケモノがでてきたら……こ、殺されちゃう)
恵だって泣きたかった。怖くて怖くて仕方ないのだ。
けれども佳織達が先に泣き出してしまったせいでタイミングを逃してしまった。
元渕と飯島は涙こそ見せていないが顔面蒼白になってうなだれている。
瑞穂だけが「おお、これは試練なのでしょうか?」と、ある意味、毅然とした態度を崩さずにいる。
(どうしよう……どうしたらいいの?)
恵は持参してきたバッグの中を調べた。
何か武器になるような物はなかっただろうか?例えばカッターナイフはどうだろう?
(ダメだわ。こんなものじゃ勝てないよ。ど、どうしよう。怖いよパパ、ママ、お願い助けて)
必死に心の中で叫んだが、勿論それが両親の耳に届くわけがない。
バッグの中には家を出るときに父が用心の為にと持たせてくれた携帯電話がある。
だが、これが役に立たない事は証明済みだ。
バス事故直後に早速使用してみたのだが、両親との通話どころか天気予報すら聞くことができなかったのだ。
それでも両親の愛情の化身のような気がして捨てられずにいたのだ。
バッテリーはばっちり、でも写真をとったりする程度にしか役に立たない。
「……こんな事なら護身用グッズの方を持たせてもらえばよかった」
あたし達、ここで死ぬの?
どうせ死ぬなら七原君に告白してたらよかった。
恵は頬を伝わる涙をそっと拭った。その後は沈黙が続いた。
あれほど妙なやる気を見せていた瑞穂もさすがに落胆したのが無言だった。
「な、なあ……」
その静寂を破ったのは飯島だった。
最初は誰もが飯島の話しかけに積極的に応じようとはしなかった。
だが、次の台詞で誰もが一変した。
「……あ、あれって……何かやばくないか?」
全員びくっと反応し飯島を凝視した。青ざめた飯島が震える手で何か指さしている。
反射的に、その方向に視線を移動させると暗闇の中で何かが蠢いているのが見えた。
「ひっ」
そんな小さな悲鳴をあげたのは佳織だった。
「こ、こっちに……こっちに来てないか?」
まるでムンクの叫びのようなシュールな顔つきとなった元渕は震える足で後ずさりを始めた。
「な、何よ、あれ……ね、ねえ、誰か見てきてよ」
佳織の提案に女子はいっせいに男子二人を見上げた。
「じょ……」
元渕は今にも倒れそうだ。
「冗談じゃないぞ!何で僕がそんなことを……ぼ、僕は死にたくない。
生き残っていい高校に入ってやるんだ!!」
極度の恐怖に激昂が加わり絶叫となった。
それは近づいてくる謎の何かを挑発する行為でもあった。
「く、来る!こっちに走ってくるじゃない!!」
明らかにスピードアップしている。月明かりの下に、奴らはついに正体を表した。
見たこともない恐ろしい生物の群だった。
「に、逃げないと!」
もう恐れおののいている時間はない。
戦うなんて勿論不可能。逃げるしかない。
いの一番に加代子や元渕が全力疾走していた。飯島がそれに続く。
「きゃあ!」
立ち上がろうとした佳織は加代子にはね飛ばされ転倒していた。
すぐに立ち上がろうとしているものの足がもつれてしまっている。
「か、佳織!」
恵は必死に佳織の腕を引っ張った。
本当は自分だって逃げたかった。怖かった。
けれども佳織は大事な友達だ、見捨てるなんて考えることもできなかった。
「早く立のよ。あなたも光の戦士なんだから!」
瑞穂も佳織の制服を引っ張った。
ふらつきながらも佳織が立ち上がると二人でそれぞれ腕をつかみ引きずるようにして走り出した。
もう他の三人の姿は影も形も見あたらない。
逃げ遅れた自分達は考えるまでもなく標的にロックオンされているだろう。
謎の生物の足音は着実に大きくなってきている。
もうダメだ、そんな絶望感に恵の心は包まれた。
(パパ、ママ、さようなら)
恵は顔を思い浮かべる事しかできない両親に心の中で別れを告げた。
「この下等な生き物どもめ!!」
「え、瑞穂?!」
しかし死を覚悟したのは恵だけだったようだ。
戦士として覚醒している瑞穂は両腕を振り回しながら謎の生物の群に突進していった。
「瑞穂!!」
勇気というにはあまりにも無謀な瑞穂の行動に恵は一瞬呆気にとられた。
はっと我に返るも、だからといって何をすればいいのかなど見当もつかない。
その間にも瑞穂の勢いは止まらない。
(瑞穂が殺されちゃう!!)
そう思ったのも束の間、瑞穂が突然悲鳴を上げた。
体のバランスが大きく崩れている。そのまま、姿を消してしまった。
おそらく傾斜に足を取られ滑り落ちてしまったのだろう。そして謎の生物も右折し一斉に瑞穂の後を追った。
「瑞穂、瑞穂、大丈夫!?」
大声を張り上げたが瑞穂からの応答はない。あの不気味な足音も全く聞こえなくなった。
「……ど、どうしよう」
瑞穂が無事に逃げきったのか、それとも気絶でもしているのか、それすらもわからない。
「瑞穂、瑞穂ー!!」
瑞穂が滑り落ちた地点にまでいき下をのぞき込んだが何も見えない。
傾斜というよりも崖に近い地形。とてもじゃないが降りられそうにない。
「どうしよう。ねえ佳織、どうしたらいいと思う?」
恵は佳織に助言を求めた。
「……お父さん、お母さん、お姉ちゃん、ジュンヤ」
佳織はぶつぶつと呟くように同じ言葉を繰り返している。
「か、佳織?」
佳織の様子が明らかにおかしい。恐怖で取り乱しているなどというレベルではない。
「佳織、どうしたの?」
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん……ジュンヤ、ニューアルバム……」
「……か、佳織」
恵は愕然となった。佳織の目の焦点があってない。
恵の声に対する反応もまるでない。
「……く、狂ってる」
恐怖は恵の親友から理性をも奪ってしまったのだ。
その非情すぎる状況下に恵は涙すらでなかった。
風が吹き、木々がざわざわと不気味な音を発生した。
それは、あの生物たちの足音にどことなく似てもいた。
「ひいっ!!」
その瞬間、佳織が猛スピードで走り出していた。
「佳織、待って!」
恵は慌てて追いかけた。自分と佳織は身体能力的に差はほとんどない。
だが狂気が佳織にパワーを与えていた。追いつけない。
「ダメだよ佳織、静かにしてないと他の奴らに見つかるよ!」
佳織が止まる気配はない。もう恵の忠告すら彼女の耳には届かないのだ。
このままでは瑞穂に続き佳織とも離ればなれになってしまう。
「お願い佳織とまってよ!!」
恵は涙声で必死に訴えた。
「お父さん!お母さん!お姉ちゃん!ジュンヤ!ニューアルバム!」
佳織の狂気は一向に収まる気配はない。
どれほど説得しても叫びながら全力疾走するだけだ。
このままでは遅かれ早かれ、また謎の生物に見つかってしまう。
「佳織、お願いだから……あっ!」
足元がぬかるみにとられてしまった。足首に激痛が走り、恵は水たまりに前のめりにダイブ。
「い痛ったあ……佳織は、あ!」
前方に赤い光が見えた。一つや二つではない。
それが動いているのだ。しかも佳織に向かって。
(佳織が危ない!)
間違いなく、あの不気味な生物の仲間だ。そうに決まっている。
恵は、佳織逃げて!と、大声で叫ぼうとした。
佳織は正気ではない。その上、あいつらに気づいてない。
自分が教えてやらなければ奴らの存在に気づかずに殺されてしまう。
それなのに声が出ない。手足は震え、立ち上がろうとしても泥に滑ってしまう。
(佳織、逃げて佳織!!)
心の中で何度も叫んだ。でも実際に音声として発する事ができない。
恵自身、もはや恐怖で身体の自由が利かなくなっていたのだ。
まるで麻酔を打たれたかのように全身が痺れが収まらない。
(佳織!)
必死に腕を伸ばした。その瞬間、恵自身に恐怖の権化が襲いかかった。
木の上から、あの化け物が恵の眼前に飛び降りてきたのだ。
「……!」
恵は完全に凍り付いた。敵は中型犬ほどの大きさ、恵よりずっと小さい。
しかし、すでに戦う前から勝負など決まっていた。
恵には戦意などない、あるのは恐怖だけ。
戦闘など最初から成立しない。それは捕食者と獲物の図に過ぎなかった。
「た、助け……」
声がでない。恵の精神は限界を突破、意識が朦朧とするばかりだった。
『何だよお!全然違うじゃねえか』
『またか。全く嫌になるよ』
『あっちの女も似ても似つかない別人だしさ。なあ北斗、本当に彼女ここにいるのか?』
『文句なら後にしたまえ。さあ行くよ、まだ任務は終わっていないんだ。君と会話をしている暇なんかない』
「……あれ?」
恵はがばっと上半身を起こした。
「あの声は……」
誰かの話し声が聞こえたような気がしたが、どうやら勘違いだったよだ。
「あたし……」
そうだ!あの化け物に襲われたんだ。
でも、あたし死んでない……どうして?
恐る恐る辺りを見渡すと、あの化け物がすぐそばにいた。
「きゃあ!」
恵は再び恐怖の絶頂を味わった。
しかし、しばらくすると奇妙な事に気づいた。
化け物が襲ってこない。それどころか微動だにしない。
最初は眠っているのだろうと思ったが、それにしてはピクリともしないのはおかしい。
勇気を振り絞り近づいてみた。木の枝でそっとつついてみたが、まるで反応がない。
さらに傍に寄ってみると、その理由が判明した。
「し、死んでる……」
大きな切り傷、おびただしい出血、殺されていたのだ。
「誰かが助けてくれたんだ。でも誰?」
クラスメイトなら自分をこのままにして去ってしまうはずがない。
でもクラスメイト以外に自分達を救ってくれる人間もいない。その矛盾に恵は混乱した。
「どういう事なの?」
恵は記憶をたぐり寄せ、その謎を解こうとした。
「瑞穂や佳織と逃げて……」
だが謎の答えよりも大事な事を思い出した。
「そうだ、佳織!」
佳織は無事なのだろうか?
遠くに倒れている佳織を発見、その周囲には化け物の集団死体が散乱している。
恵はこみ上げる吐き気を必死に押さえながら佳織に駆け寄った。
佳織は生きていた。気を失っているが、かすり傷だけで済んでいる。
化け物達は一匹残らず絶命していたが、それでも恵は怖かった。
佳織を背負い、すぐにその場から離れた。
しばらくすると背中からぶつぶつと声が聞こえてきた。
「佳織、気がついたのね?」
恵は佳織を降ろした。
「あたし達助かったのよ。よかったね、佳織」
「……ニューアルバム……にきび、クリーム」
「……佳織」
佳織は狂ったままだった。
あれから数時間。正気ではない佳織を連れて歩くことはできなかった。
恵は佳織と木の陰に隠れ、ひたすら神に祈る事しかできなかったのだ。
自分一人では佳織を守るなんて不可能。
せめてクラスメイトと遭遇できれば……そんな僅かな望みにすがるだけ。
「……瑞穂は大丈夫かな」
変な子だったけど正義感の強いいい子だった。
あたしはわかってるんだよ瑞穂。あの七原君と同じくらい正しくて……七原君。
七原の声が聞こえたような気がして恵はそっと涙を拭った。
「……やだ。幻聴まで聞こえてきちゃったんだ」
しっかりしなきゃ、そう思ったが、またしても七原の声が聞こえてきた。
しかも、今度は七原以外の人間のものまで聞こえてくる。
「もしかして……」
恵は耳をすました。幻聴ではない、確かに七原だ!
複数で移動しているようだ、助かった!
恵は「佳織、ちょっと待っててね」と言って走り出した。
(もう大丈夫よ。七原君達が守ってくれるわ)
しかし妙な声だった。よく聞き取れないが、悲痛な叫び声にすら聞こえる。
「ま、まさか七原君達も襲われているんじゃ……」
恵は天国から奈落に突き落とされるような感覚を味わった。
「ど、どうしよう」
その時だった!おぞましい唸り声が聞こえた。
それは背後からだ。その方角には佳織がいる。
「ま、まさか佳織!」
恵は慌てて引き返した。
「佳織、佳織、かお……っ」
恵は声を失い、その場にふらふらと座り込んだ。
佳織の姿はどこにもない。
ただ、深紅に染まった地面と、引き裂かれた学制服の一部が残されていただけだった――。
(まだ起きてる)
小窓から、そっと外を覗くと怜央は毛布にくるまって相変わらず良恵を見張り続けている。
(ドアは一つ、窓はこれだけ。サイズ的にここから出るのは無理。
やっぱりドアしかないわ。でもドアには外から鍵がかけられてる。怜央が開けてくれない限りドアから出る事もできない)
瞬と要の事が余程怖いのだろう。良恵が「少しだけ」と言っても怜央は頑として鍵を開けない。
(無理もないわ。瞬にあんな扱いを受けたのだもの)
何が何でも瞬を止めたい。
しかし、かといって自分を逃がせば瞬の事だ、怜央にどんな仕打ちをするかわからない。
(怜央が可哀想だわ)
何だか腹が立ってきた。瞬の事を思えばこそなのに、その瞬は自分をここに閉じこめ、怜央は奴隷扱いだ。
「あのバカ!」
カッとなって壁を蹴った。
(いけない、冷静にならないと)
物に当たっても何も解決できない。良恵は溜息をつきながら、壁に背を預けぺたんと座り込んだ。
「……あ、あの」
良恵は一瞬きょとんとなった。
やっと聞き取れるほどの小さな声ゆえに、最初は気のせいかと思ったのだ。
自分以外に今この島にいるのは一人。良恵はまさかとドアを見つめた。
あの人見知りの激しい怜央が自分から声をかけてきた?
しばらくすると、また声が聞こえてきた。
「あ、あの……」
気のせいでも幻聴でもない。
良恵ははやる気持ちを抑えドアに近づくと、なるべく優しい口調で返事をした。
「何、怜央?」
「……ど、どうかしたの?」
(ああ、さっき私が壁が蹴ったから……もしかして心配してくれたのかしら?)
嬉しさがこみ上げてきた。怜央が自分をどう思っているのかはわからないが、良恵にとっては可愛い従弟なのだ。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。少し気がたっていたものだから」
「……じゃあ何もないのか?」
「ええ、大丈夫よ」
「……そう、よかった」
「あの、怜央」
「何だ?」
「私の事、心配してくれたの?」
良恵はドキドキしながら訊ねてみた。
「……違う。おまえに何かあったらⅩ6に殴られるから」
しかし返ってきた答えは残念なものだった。
(でも無理もないわ。私が怜央の立場でも、きっと同じ事を思うに違いないもの)
「怜央、ごめんなさい」
「どうして謝る?」
怜央の口調は本当に不思議そうだった。
「私がいなかったら、あなたがこんな目にあうこともなかったもの。本当にごめんなさい」
返事はなかった。この妙な会話に飽きてしまったのかと思ったが、そうではなかった。
数分間の無言の後に再び怜央が話しかけてきたのだ。
「……よくわからない。おまえ、俺達に閉じこめられたのに、どうして謝るんだ?怒ってないのか?」
「瞬に対してはね。それに要にも少し。でも、あなたは別よ。あなたには何の罪もないもの」
「……」
怜央は、また黙ってしまった。
普通の教育を受けずに育った怜央には罪という概念すらないのだろうと良恵は考えた。
思えば怜央も、あの性格の悪い要達も哀れな存在だ。
自分も籠の中の鳥として辛い人生を送ってきたけれども、彼らは自分よりずっと悲惨なのだ。
「……ごめんね。私に力があってあなた達の事を早く知っていれば助けてあげられたのに。
私は無知で無力だった……本当にごめんなさい」
怜央から返事はなかったが、ドア一枚を隔てて確実に聞いてくれていることを感じる事ができた。
気温は寒いはずなのに、不思議と暖かいほどだった。
突然の出会いから、ずっと打ち解ける事ができなかった怜央を初めて身近に感じた。
「お腹すいてない?私は逃げないからドアを開けて」
「……だってⅩ6が。それに要も」
「要も?」
「……おまえは楽しめそうだから逃がすなって言ってた。あ!Ⅹ6には黙ってて。ばれたら俺が要にぶたれる」
「しないわよ、そんな事」
要……随分といい性格してるじゃない。
瞬も褒められた性格じゃないけど彼もとんでもない人間だわ。
どうして私の肉親はこんなのばかりなのかしら?
「本当に言わない?」
「ええ安心して」
「……よかった。俺、痛いのは好きじゃない」
良恵はますます怜央が不憫になった。
志郎が俊彦相手にわがままいっぱいなのと比べあまりにも違いすぎる。
「ドアは開けなくていいわ。ただ、あなたがお腹すいてないかと思って。食料はここにしかないみたいだから」
瞬は良恵の分しか用意してなかったらしい。
もっとも、その食料自体少なく、一日、せいぜい二日分だ。
つまり瞬は短期間で事を起こそうとしている。
(……瞬、本当に困った男)
徹なら良恵の願いは大抵の事は聞いてくれるのに、瞬はその逆だ。
「……お腹」
(え?)
「……お腹すいた」
良恵は窓から食料を差し出してやった。
「私はお腹すいてないからたくさん食べてね」
瞬の事が気がかりでとてもじゃないが食事をする気にはなれない。
「……うん」
窓から出した手に夜風が当たる。とても冷たい。
「怜央、毛布一枚で大丈夫なの?あなたも中に入ったら?」
「……そんな事したらⅩ6に殺される」
「大丈夫よ。私がいいって言ってるんだから」
「……だってX6が言ったんだ。良恵に寄るな触るな近づくなって。
俺達はばい菌同然だから良恵と接触したらいけないだ。そんな事したら……殺すって言われた」
……瞬、あなた、本当にいい性格してるわね。
良恵は頭痛がしてきた。
「どうした兄貴、火急の用事って。まさか、じじいが倒れたのか?」
夏樹から緊急の電話が入ったと聞いていた冬也は冗談交じりに言った。
『大した事じゃないさ。ただ気になってきたんだ。
おまえは具合が悪かったから、やっぱりパーティーなんて無理なんじゃないかってな』
具合が悪いなど勿論夏樹の嘘だ。冬也は夏樹の真意をすぐに察した。
国防省の電話は全て通話をチェックされている。聞かれたくない事が起きたのだ。
夏樹は暗に「すぐに帰宅しろ」と要求している。
平静を装ってはいるが、兄弟の冬也には夏樹が少々焦っている事がわかる。
しかも冬也は、夏樹が冬也の身の安全以外に何か気にしている事すら気づいた。
『おまえに何かあったらじいさんや秋澄兄貴が気の毒だろう。だからすぐ帰れ』
「……」
『どうした。やけに静かじゃねえか、いつも饒舌なおまえらしくもねえ』
「やけに俺の事を心配してくれるんだな夏樹」
冬也は口調を少し変えた。微かだが挑発的な雰囲気すら含ませた。
それは家族にしかわからない微妙な変化だった。
『何、言ってやがる。当然だろ、可愛い弟なんだ。風邪はこじらすと厄介だ。素直に帰ってこい』
(夏樹の野郎、俺に何か隠してやがるな。とにかく国防省から出す事しか考えてねえ)
通話をチェックされている以上、事実をありのまま聞き出すのは無理。
「夏樹、俺は――」
電話回線特有のプツンという無機質な音がして会話が突然遮断された。
(何だ?)
しばらくすると通話室に国防省職員がやってきて電話線に異常があったらしいと謝罪があった。
夏樹が「今すぐ帰れ」と急かした事が重なり嫌な予感がする。
だが冬也には夏樹が自分に何か隠していた事の方が気になった。
(真実を話せば俺が戻らないような何かがあるな)
「……切れやがった」
「じゃあ冬也は?」
「すぐに戻ればいいが説得する前に通話が遮られた」
夏樹は忌々しそうにソファに座った。
「例の闇サイトの件は何も話さなかったのか?」
「秋利、冬也の性格はおまえが一番知ってるだろ?」
「まあ……なあ。天瀬瞬が国防省を襲撃するかもしれんなんて教えたら、大人しく帰るどころか居座るだろうなあ」
秋利は「冬ちゃんは夏兄さんでも操縦できんくらい気位高いもんなあ」と笑った。
「笑ってる場合か。嫌な感じだ、電話回線が切れた事も無関係とは思えねえ」
(何が何でも瞬を止めないと……でも、この子に迷惑はかけたくない。
いっそ、この子も一緒に脱出しようかしら?
秀明に事情を話して……いえ、駄目。秀明や晃司は、きっと宇佐美から殺害命令を受けてるわ)
他に頼れる人間は隼人や徹くらいだ。
でも軍人の彼らが怜央を助けてくれるだろうか?
良恵個人とどれほど親しくても彼らも政府側の人間。怜央の命や安全を完全に保証する事は難しい。
やはり怜央を守る事は不可能なのか?
(……いえ、この子を諦めるなんてできない。私にとって数少ない肉親なのよ。
こうなったら私が怜央をどこかに匿ってでも、あら?)
波に乗って機械的な音が聞こえてきた。
窓から覗くと怜央はすでに気づいていたらしく立ち上がり沖合を見つめている。
海は暗く月明かりに時折白い波が見えるだけだ。
だが確かに妙な音は聞こえる。しかも、段々と大きくなってゆく。
「船のエンジン音だわ」
良恵の言葉を裏付けるかのように高速艇が姿を現した。徐々に此方に向かってくる。
(瞬?)
こんな時間に無人島に来る変わり者がそうそういるとは思えない。
だからこそ瞬は良恵を監禁する為に、この小島を選んだのだ。瞬としか思えない。
しかし怜央の考えは全く違うようで警戒心に満ちた目つきで戦闘態勢をとっている。
「怜央、妙な気を起こすのは止めて。きっと、ただの一般人よ」
「……Ⅹ6や要達以外の人間が来たら殺せと言われている」
「そんな……!」
高速艇が接岸するのが見えた。
そして月明かりの下、燃えるような赤毛の男が飛び降りるのも――。
【B組:残り40人】
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