桐山の肉体はとっくに限界を超えていた。気力だけで立っていたが、それも時間の問題だ。
川田から渡された地図、印がつけられた場所に急がなければならない。
桐山の手には、しっかりと遠隔爆破装置が握り締められていた。
(今はこれしか手がない)
川田が脱出のために仕掛けた爆弾。
その中でも、今桐山が向かっているエリアは最も爆薬の量が多い。
そこに高尾をおびき寄せて、エリアごと潰すしか手がない。
背後から水が盛大に噴出する音が聞え、桐山は反射的に振り向いた。
マンホールから、まるで噴水のように水が飛び出していた――。
キツネ狩り―197―
「桐山くん、死なないで」
美恵は必死に走っていた。桐山の行き先は見当がついている。
川田と一緒に島中に爆弾を仕掛けたのは美恵だ。
当然、どこにどれだけの量の爆薬が仕掛けられているのかわかっていた。
そして、高尾晃司がまともなやり方では倒せない化け物だということも十分すぎるほど分かっていた。
桐山は、最大級の爆発をもって高尾を倒そうとしているはず。
それだけのことをしなければ、今の半死人状態の桐山に勝機は無い。
「あそこなら、あのひとを倒せるかもしれない。あのひとを、あの爆心に巻き込めば勝てるもの」
しかし、それは高尾を倒す勝機があると同時に、桐山の破滅の可能性を示唆していた。
一歩間違えたら、爆弾の餌食となるのは桐山のほうだ。
最後に勝つのは桐山和雄か、それとも高尾晃司か。
それは美恵にはわからない。ただ一つだけ、はっきり言えることがある。
たとえ、どんな結果が待っていようとも、最後の時には桐山のそばにいる。
それだけしかできないけど、死を早める行為でしかないかもしれないけど――。
それでも桐山のそばにいられればそれでいい。
「――転校生」
桐山は走った。途端に全身に激痛が走る。
だが、その激痛も、敗北によってもたらされる結末を思えば、蚊に刺されたようなものだ。
勝利しなければ痛みを感じることすらできなくなり、残るのは永遠の無のみ。
高尾が派手に回転しながら桐山の前方にあったガードレールの上に降り立った。
一瞬、停止すべきか?とも思ったが、背を向ければ攻撃されるだけだ。
桐山は瞬時に体勢を傾けると、ガードレールの下を滑って潜り抜けた。
咄嗟の桐山の動きに、高尾も思わず、しまったと思っただろう。
しかし、残念と思わなかった。十分、取り戻せるミスだと思ったからだ。
何と言っても桐山は半死半生。高尾自身、連戦によって多少疲労していたとはいえ大した問題ではなかった。
戦場では何日も不眠不休で戦闘に身を投じた経験が何度もある。
高尾にとって、これは特別なことではない。
ただ一つ計算外だったのは、相手が今までの敵とは違うということだけだった。
桐山は、高尾を抜くとすぐに体勢を起した。窓ガラスを突き破って小さな事務所に飛び込む。
すぐに階上に上がると、二階の窓ガラスから外に飛び出した。
道路を挟んだ向かい側のガソリンスタンドに走る。
アスファルトに影が一つ。高尾が事務所を飛び越えてきたのだ。
桐山はスタンドに駆け込むと、ガソリンタンクのノズルを掴んだ。
ガソリンが道路に溢れ出す、桐山の意図を高尾は瞬時に理解した。
桐山はライターを取り出した。(川田の懐から失敬したものだ)
点火して、走りながら背後に投げた。
背後でボンと音がして、きな臭い臭いがあっと言う間に押し寄せてきた。
こんなことで高尾を倒せるなんて桐山は考えてない。ただの時間稼ぎだ。
例の場所にたどり着く前に倒されるわけにはいかないのだ。
炎の中に人影が見えた。誰かなんて考えるまでもない。
やはり、こんなもの高尾には痛くもかゆくもないようだ。
高尾がドス黒い煙から姿を現すと、スポーツカーが走り去ってゆくのが見えた。
当然、高尾も猛ダッシュ。見る間に車と高尾の距離が縮まる。
車は、山道に差し掛かる分岐路に出ようとしていた。
高尾は大ジャンプ。車の真上に飛び降りた。
間髪いれずにパンチを運転席目掛けて繰り出す。
(――いない!)
車を突き破った腕の先に高尾の鉄拳を受け石榴と化した桐山の頭部があるはずだった。
だがない。運転席には人間どころか猫の子一匹いない。
無人だ。車は最初から無人だったのだ。
高尾の視線が一気にはるか斜め左の背後に向けられた。微かだが気配を感じたのだ。
(なぜ気づくのが遅かった?こんな小細工に引っ掛かるとは)
桐山との激戦は高尾の体力と集中力を予想以上に削っていた。
これほどの強敵を過去に知らない高尾はそれに気づくことができなかったのだ。
車の中に桐山の気配がないことなど、いつもの高尾なら気付いていた。
(この車は囮?だとすると――)
高尾は車から飛び降りた。車は崖から真っ逆さま。
崖の向こうから、車が落下する音と爆発する音が同時に聞えた。
その直後に、それらの音を一気に掻き消す轟音が――。
崖下から炎が踊り狂って飛び出してきた。
(オレを車ごと、この極炎地獄で灰にするつもりだったようだな)
咄嗟に立てた作戦にしてはよく出来ていたが、成功しなければ何の意味もない。
(奴はどこだ?)
高尾は意識を集中させた。
(動いている。20メートル……25、30)
桐山は高尾から必死に離れているようだ。
(逃がすつもりは毛頭ない)
高尾は、踵を翻すとすぐに桐山を気配を追おうと走り出した。
カチ……ッ、と聴覚が怪しい金属音を捕らえる。
高尾は足を止めた。反射的に後ろ向きのまま背後にジャンプした。
高尾の前方、ほんの二メートルほどの距離の位置で火花が炸裂。
それが横一直線に立て続けに連鎖して炸裂してゆく。
いっせいに火柱が立ち上がり、高尾の行く手を遮った。
僅かでも高尾が背後に引くタイミングずれていたら、真っ黒焦げになっていただろう。
火柱はおさまりそうもない。かといって、大人しく眺めているつもりもない。
高尾は火柱に向かって走った。
助走をつけ、火柱を一気に飛び越えようというのだ。
が、足元がぐらっと崩れた。
崖が崩れた。落ちる――!
(5メートル、十分だ)
高尾の動体視力は、崩れる崖をスローモーションのように捉えていた。
完全に崩れる前に、左方5メートルの位置まで飛べばいい。
あそこはまだ爆発に巻き込まれていない。
あそこまで飛べば足場が手に入る。
高尾が飛んだのを見計らったかのように、左方にカッと閃光が走った。
高尾がしまったと思ったのと、爆風が襲ってきたのはほぼ同時だった。
(熱い!)
熱風だ。普通の人間なら、即意識を失っていただろう。
そして、意識を失ったまま、炎に包まれながら崖から落下したはずだ。
「……あの爆発は」
やっぱりだ。美恵の考えは間違ってなかった。
桐山は、山の中腹で高尾をしとめるつもりなのだ。
あそこは海上に浮んでいる戦艦から、もっとも眺めのいい場所。
それゆえに、軍の目を誤魔化す為に最も大量の爆薬を仕掛けた場所だった。
(あの爆薬の量なら、あのひとを倒せる。彼だって人間には違いないもの。
あれだけの爆弾を完全に避けきれるわけがない)
しかし、美恵は、素直に喜べなかった。
高尾が危機に陥っていれば、当然、誘い出した桐山も無事とは思えない。
桐山は高尾と違い爆弾が仕掛けられた位置を正確に知っている。
しかし、かといって爆発に巻き込まれない保証がないわけじゃない。
「桐山くん……無事でいて」
美恵は祈るような気持ちで再び走り出した。
「やったのか?」
桐山は崖を見下ろせる高台から身を乗り出した。
上手くいった。高尾は爆弾の包囲網によって撃沈したはずだ。
だが死体を確認しないことには安心できないのも事実。
もしも、この作戦が成功すれば高尾は骨も残らない。
そして、これだけの爆弾の囲いから逃れられるわけがない。
にもかかわらず桐山は不安を拭いきれなかった。
その不安を完全に拭い去るには徹底的にやるしかない。
桐山は遠隔装置のボタンを再度押した。派手な爆音が再び天を突き刺す。
火柱が一気に倍になった。爆風がここまで押し寄せてくる。
あまりの激しさに桐山は木の枝を掴み、吹き飛ばされないように耐えた。
瞼など到底まともには開けていられない。
腕で目を保護しながら、桐山は少しずつ瞼を上げた。
炎が踊り狂って天に昇ってゆくさまが見えた。
桐山は薄目で、それを見詰めていたがハッと目を見開いた。
炎の中から人影が回転しながら、飛び出してくるのが見えたのだ。
「は、博士……」
ビーカーの中で悪魔は猛り狂っていた。
科学省に入省して三年にも満たない若い学者はおろおろと青ざめている。
博士と呼ばれたベテランの学者はレントゲンのレンズを除いていた。
「動きが活発になっている……」
「でも博士、この細菌は人の体内においては動きが鈍いのでは?」
「おまえも除いてみろ」
若い学者は、勧められるまま、レントゲンのレンズを覗いた。
そして驚愕した。データにはない活発な動きだったのだ。
「そ、そんな……どうして?」
「簡単なことだ。ちょっと火であぶったら細胞分裂起してな」
「温度が上がることで増殖するのはわかります。しかし、これは異常です。他の細菌ではこうはいかない」
「そういうことだ。まあⅩ5にはそう関係あるまい。問題は、この細菌の潜伏期間だ。
ウイルスが進化している以上、細菌の潜伏期間も短くなっているだろう。
高尾をオリジナルにして、クローンを大量生産する計画はこいつのせいでご破算だ。
堀川秀明は、あの爆発事故で爆心地にいなかったから助かった。
しかし、爆心地にいなかったとはいえ現場にいたことは間違いない。
堀川もいつか発病する可能性は高い。やはり桐山和雄しか我々には残ってないようだ」
「やはり噂は本当だったんですね。桐山和雄が特別な人間だということは」
「そういうことだ。特別な人間はそれだけ使命も大きい。
桐山には高尾の代わりに、遠大な計画の歯車になってもらう」
「高尾晃司!」
高尾だ。あの熱風に微塵も揺るがない。あいつには、限界というものがないのか?
桐山自身、人間離れした面はあるが、高尾も人間を越えていた。
「まだだ」
川田が特別念入りに爆弾を仕掛けてくれたのだ。まだまだ爆薬は十分残っている。
桐山は爆破遠隔装置を押した。
高尾の着地地点が爆発。地面にⅩの形に亀裂が入った。
高尾の足のつま先が接触した途端、それを合図にさらに細微な亀裂が入る。
高尾の足元から半径十メートル四方が一気に崩れた。
高尾の体が地面の飲まれる。
高尾の動体視力は一瞬で崩れ落ちる地面の状態を見切った。
(足場となるのは、あそこだ)
高尾は背後にバック転で飛び、崩れ落ちる寸前の岩場に手をついた。
倒立の体勢で肘を曲げると、今度は腕を伸ばす。
その勢いでさらに飛び、また別の岩場で同じ行動をとった。
まるで平地での連続回転を見ているようだった。
これだけ足場の悪い場所で、いや足場などほとんどない場所で。
このままでは爆破圏から脱出されてしまう。
桐山は爆弾の包囲網に向かって走った。
何が何でも、ここで死んでもらう。逃がしはしない!
桐山が動いた。高尾は見ずとも、それを察知した。
(桐山の気配が近付いてくる)
察知したのは、爆破圏から脱出する直前。
煙幕の向こうから桐山が一気に飛び込んできた。
高尾の腹部目掛けて飛び蹴り。
そのまま高尾を爆破圏内に押し返そうとした。
だが桐山の蹴りが高尾の腹部に食い込む直前、高尾の姿が消えた。
桐山は目標を失った。残った空間には何もない!
いるべきはずの高尾がいない。どこにいった?
「上だ」
桐山は全身の細胞が凍結するかのような感覚を味わった。
あの体勢で、空中で、一瞬にして自分の真上に出るなんて不可能だ。
だが高尾晃司は軍が作り上げた化け物。不可能を可能にするために存在している人間なのだ。
高尾の攻撃は間を置かず来るはずだ。
背に腹は変えられない――桐山は、瞬時にそう考えた。
桐山は遠隔装置を握り締めている右手に力をこめた。
それは、高尾もろとも自らの命を消し去る行為だった――。
(――美恵)
美恵の顔が頭に浮んだ。
笑っている顔を思い浮かべたかったのに、思い出したのは泣いている顔だった。
今自分がやろうとしていることを実行すれば美恵は泣くから。
間違いなく、美恵は泣くから。悲しませてしまうから。
美恵を泣かせてしまう、そう思ったとき桐山の心は激しい痛みに襲われた。
笑っていて欲しいのに、その為に、この戦いに身を投じたのに。
やっと自分の気持ちに気付いたのに。
美恵と心が通じ合えたのに、
もう二度と美恵に会えない。
(――これが悲しみという感情なのか?)
川田の言葉を思い出した。
三村が死んだ後、川田が言った言葉を。
『おまえはお嬢さんが好きなんだよ桐山。三村はお嬢さんを守る為に死んだ。
おまえには三村の気持ちがわかるはずだ。
愛する女を守る為に、自分の命すら犠牲にしてもかまわない。
そんな気持ちが。だから、おまえは今ここにいるんだ。そうだろう桐山?』
『わからない。でもいつかわかるのか?オレも三村のように天瀬を守る為に死ぬときがくるのか?』
『そうなって欲しくは無いが来るかもしれないな』
(川田、今がその時だ)
オレは死ぬ。だが、こいつも死ぬ。こいつが死ねば、美恵は死なない。
桐山は、それを何よりも優先することにした。
自分が死ねば美恵は泣く。でも生きていれば再び笑う日も来るだろう。
その為なら、自分は今ここで死んでもいい。あの時は、三村の気持ちがわからなかった。
でも今はわかる気がする。
大切なもののためなら、決して後悔しない――と、いう気持ちが。
桐山は装置のボタンを押した。
桐山と高尾の背後からカッと閃光が走り、二人の姿を包み込んだ。
閃光、そして激しい地鳴りを誘発するほどの爆発。
木々が、地面が、そして空までもが震動している。
「何っ……?!」
美恵は、そばにあった樹の幹に必死になってしがみついた。
地鳴りの次に凄まじい爆風が襲ってきた。今までにない大爆発だ。とても立っていられない。
「……桐山くん」
嫌な予感が美恵の胸を過ぎった。
「まさか……まさか桐山くんが……」
揺れが収まらないうちに美恵は転びそうになりながらも走り出した。
「桐山くん……お願い無事でいて!」
岩が爆発の衝撃を受けて砕け散っていた。
「……ぐっ!」
そして桐山の左胸に、高尾の拳が炸裂している。二人の身体は、そのまま落下していた。
桐山は生きていた。こともあろうに高尾までも。
高尾は咄嗟にそばにあった岩を蹴り上げ、それを爆発からの盾にしたのだ。
皮肉にも、高尾のそばにいた桐山も、そのおかげで爆発の直撃を避けていた。
が、高尾の拳までは避けられなかった。
二人は落ちてゆく。奈落と言う名の崖下に。
「く……!」
桐山は蹴りを繰り出した。
だが高尾はそれを紙一重で避け、お返しとばかりに蹴りを繰り出した。
それが桐山の頭部に激突する寸前――銃声が辺り一面に轟いた。
高尾の体が桐山から離れてゆく。桐山は反射的に振り向いた。
美恵が、リボルバーを構えて立っていた。
【B組:残り3人】
【敵:残り1人】
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