美恵は手足がガタガタと震えるのを感じた。
その場に座り込みそうになるのを必死で押さえ、手の中の銃をギュッと握り締めた。
悲しいことに、その銃のグリップの感触は、もう馴染んでしまったものだった。
美恵は走った。断崖の先端まで距離は僅か。
あそこまで走れば、二人の姿が見える。
一秒でも早く二人の無事を確認したかった。
考えたくもなかった。二人が撃たれ、地面に突っ伏している姿など――。
キツネ狩り―194―
「……なぜだ?」
桐山は明らかに途惑っていた。
美恵以外の人間に対して希薄なはずの感情がざわめくのを感じたのは、これが初めてかもしれない。
高尾が狙ったのは間違いなく自分だった。
クラスで最もポイントの高い生徒。そして最も手強い生徒。
高尾が桐山を優先的に狙ったのは当然の判断だったことだろう。
最強の敵さえ倒せば、後の生徒など後回しで十分。
高尾は桐山に向かってを撃った。桐山が撃たれるはずだった。
だが、横腹をかかえて、その場に崩れ落ちたのは川田だった――。
高尾が撃った、その瞬間、川田が咄嗟に桐山を突き飛ばしていた。
その代償として、鉛が川田の横腹に激痛を与えていたのだ。
桐山にはわからなかった。川田の行動の意味が。
「なぜ、オレをかばった?」
それは当然の疑問だった。
「……当たり前だろうが」
その問いに対する川田の答えは簡単明瞭だった。
「……大人がガキを守るのは当然だろう……。
それに、おまえにばかりいいかっこさせるわけにはいないからな」
それだけ言うと、川田はその場に倒れた。
――なぜだ?
大人は子供を守るのが当然?
桐山にとって一番身近な大人は父だった。
父がしてくれたことは、桐山家の後継者としてふさわしい人間になるための教育だけ。
子供は大人の都合のために存在するものなのではないのか?
少なくても、オレの父はそうだった。
父が必要なのは桐山家の後継者。オレ個人じゃない。
桐山家の後継者としての能力がなければ、とっくに捨てられていた。
オレ自身が父に必要とされたことなど、まして庇ってもらったことなど一度もない。
それが普通で当たり前。父親でさえそうなのに。
父親でさえ、オレを守ってなどくれないのに。
父親でさえ――。
『オレの命はどうでもいい!妻とおなかの子を助けてやってくれ!!』
記憶の彼方から、誰かの声が聞えたような気がした。
(なんだ、今のは?)
それは、ほんの一瞬だた。聞き覚えのない声だ。
知らない人間の声。けれど馴れ親しんだ声のような気がした。
そんなはずないのに。とても懐かしい気持ちにさえなった。
桐山は反射的にこめかみを押さえた。
(オレはあの声を知っている?誰だ、誰なんだ?)
ただ、その声の主が、今、自分を守ってくれた川田の姿に重なっていた――。
「旦那様……若様は大丈夫でしょうか?」
執事がおろおろしながら主人に問うた。
「……少し黙ってろ」
「は、はい。申し訳ございません」
執事は主人の苛立ちが爆発寸前なのを読み取り、そそくさとその場を後にした。
(万策はつきた……和雄はもう戻ってこないだろう。
これが普通のプログラムなら、心配することはなかった。
和雄は間違いなく天才だ。普通の中学生とは根本からして違う。
まして桐山家の次期当主として徹底した特殊教育を施したんだ。
あいつに勝てる奴なんて存在しない。
だが……それも、あくまでも相手が民間の中学生ならという話だ
特別選抜兵士が5人も相手なんて、もう終わりだ……)
桐山の義父は机の引き出しを開けた。分厚い本が一冊。
それを手に取り開いた。一枚の写真が挟んであった。
色あせて、所々破れている。
そのセピア色の景色の中に幸せそうに笑っている美しい女性がいた。
臨月なのだろう。膨らんだお腹を愛しそうに抱えている。
その女性を大切そうに抱き寄せている男。
顔はわからない。顔の部分は切り取られていた。
「……あいつは……和雄は父親似だと思っていた。
母親に似た面など何一つなかった。それなのに……」
写真を灰皿に投入して、火をつけた。
「……なぜ人生だけは似てしまったんだろうな。
全く違う生き方をさせてきたのに、それなのに……。
あいつは、今、母親と同じ死に方をしようとしている」
桐山はハッとして川田を視線を川田に落した。
川田が倒れこんだ地面に、鮮血の円が徐々に拡大していく。
「川田!」
桐山は
美恵以外の人間に対して初めて動揺を見せた。
「……馬鹿野郎……!奴が襲ってくるぞ……!」
苦しい息の下から川田が叱責する。
ハッとして、川田に向けた視線を上げると、もう高尾の姿はなかった。
桐山が高尾の姿を視界に捉えようと、頭部を左右に動かした。
いない!そう確認すると同時に後頭部に衝撃が走った。
激痛はなかった。ただ一瞬で視界が真っ黒になり、バランス感覚が無くなった。
暗闇の瀑布の中に桐山は飲み込まれ、ただ衝撃だけが全身に走っていた。
「……き、桐山」
激痛と眩暈、そして薄れゆく意識の中で川田は見た。
高尾が桐山の背後に現れ、頭部に手刀を一撃与えたのを。
そのまま桐山は地面に激突、さらに地肌と摩擦しながら滑っていた。
高尾は倒れたままの桐山に近づいていった。
川田は激痛に耐えながら、銃を手にして上半身を起した。
高尾はこちらを見ていない。そして、この距離、外すわけがない!
震える手に神経を集中させ、川田は銃口の照準を高尾の後頭部に合わせた。
そして撃った!弾が高尾の頭部スレスレに飛んでいった。
(外した!?)
川田は自分の目が信じられなかった。確かに頭部を狙ったのに。
(オレの目がおかしくなったのか?それとも腕が震えているせいか?)
だったら頭部よりも命中率が高いボディを――。
「左胸――心臓狙いか?」
「!」
川田は一瞬ギョッとなったが、すぐに発砲した。
今度も弾は紙一重で高尾を避けていった。
(クソ!今度こそ……!!)
三度目の発砲に全神経どころか魂すら込めようとした川田。
そんな川田に悪魔の声が降り注いだ。
「次は腹部か?やめておけ」
「……なっ」
全身が凍りつくような戦慄。それでも川田は発砲した。
その時――高尾が消えた。川田は全身が硬直した。
「後ろだ」
背後から氷のように冷たい声。あまりの冷たさに振り向くことすらできない。
「川田くん!!」
遠くから川田の名を呼ぶ声。しかし聴覚まで麻痺してしまった川田には聞えない。
だが桐山にははっきり聞えた。どんな時でも聞き逃さない愛しい声だったから。
桐山が声の方向に顔を向ける。その顔は明らかに感情に揺れていた。
こんな危険な場所に美恵が来ている!
それは桐山にとって、最も重要かつ恐ろしい事だった。
桐山が美恵の姿を確認しようとしたが、その前に銃声が轟いた。
閃光が一瞬視界の隅で弾け、弾丸が高尾目掛けて飛んで来た。
高尾が身体を翻すのが一瞬遅ければ、その弾丸は高尾の肉をえぐっていただろう。
美恵は断崖の上にいた。
桐山が菊地の作戦をあざ笑うかのように選んだ登場ルート。
あそこなら菊地の爆弾もない。ひとまず安全だ。
ほんの一瞬だが桐山は心から安堵した。
あそこなら高尾がどれだけ神技ともいえる銃テクニックを駆使しようと絶対に美恵には当たらない。
角度からして不可能なのだ。美恵が身を乗り出して身体をさらさない限り。
美恵は再び撃った。自分が撃たなければ、とわかっていた。
桐山と川田がおかれている状況は一目でわかった。
今、自分が高尾を撃たなければ二人は確実に死ぬ!
弾が尽きるまで撃たなければ!美恵は連射し続けた。
「美恵、絶対に奴に姿をさらすな!」
高尾が銃をとった。そして撃った。
(撃った?バカな、撃っても美恵には当たらないのに)
銃弾は全く見当違いの方向に飛んでいた。
(奴がミス?そんなはずはない)
クレーン車が動いた。鉄球が振り子のように大きく左右に動いた。
高尾がダッシュした。鉄球に飛び乗り、さらに高く飛んでいる。桐山が立ち上がった。
「逃げろ美恵っ!!」
高尾がクレーンに飛び移る。鉄球が崖に衝突した。
崖が大きく揺らぎ、美恵はバランスを崩し倒れこんだ。
高尾はクレーンの先端に向かって駆け上がっている。
「美恵、逃げろ!!逃げるんだ!!」
「桐山、どいてろ!!」
川田が再び銃を撃った。そして、そのまま地面に突っ伏して動かなくなった。
銃弾はクレーン車のタイヤを破裂させていた。
クレーン車が大きく傾いた。同時に鉄球が再び崖を直撃。
衝撃が鉄球を通じてクレーン全体に伝達。
二重のことがクレーン車のバランスを完全に崩させた。
クレーンが倒れたのだ。いや倒れたなんてものじゃない。
急激なバランスの偏りは、クレーンは耐え切れなかった。
中央部分が軋み、真っ二つに折れ曲がりながら崖に激突したのだ。
当然、クレーンの先端にいる高尾も無事では済まされまい。
崖がけたたましい轟音を上げ、亀裂が入ったかと思うと一気に崩れだした。
先ほどよりも、その崩れ方は激しい。しかも、今度は足場の悪いクレーンの上。
もう避けきれまい。バランスを保っているのが精一杯のはず。
「美恵!!」
だが無傷で済まないのは高尾だけではない。美恵もだ。
美恵はその場から離れようとした。しかし、足元に亀裂が走り地面が揺れ、動くことすらままならない。
「美恵、待ってろ!」
桐山は、崩れかけた斜面を駆け上がった。崖は爆弾のせいで脆くなっている。
今に全体が崩れだすだろう。もう高尾にかまっている暇は無かった。
美恵は地面の割れ目に落ちそうになった。
「美恵!!」
桐山が美恵を抱きかかえ飛んだ。地面が……崖全体が崩れようとしている。
「……桐山……天瀬……」
川田のぼやけた視界の中で、崖がその壮大な姿を完全に消した。
「……そんな……クソ……っ」
川田は立ち上がろうとしたが、流血の量が増えるだけで、バランスすらまともに取れない。
「……桐山」
土煙で何も見えない。川田はシャツを脱ぐと引き裂いて腹に巻いた。
(まだだ……まだ倒れるわけにはいかないんだ……)
土煙の中、人影が見えた。桐山?期待をこめた視線を川田は、それに集中させた。
土煙が晴れだした。その中に立っていた人間を見て川田は絶望を知った。
「……バカな」
風が土煙を完全に吹き飛ばす。
風に長髪を棚引かせながら、高尾が平然と立っていた。
「桐山……桐山と天瀬は!」
川田は視線を必死に移動させた。いた!盛られた土の上に落ちている。
まさか死んだのか?川田の不安は爆発寸前の風船のように巨大化していた。
桐山が起き上がった。川田は全身からどっと汗をかいた。
生きている。だが、だが……近くにあの化け物がいる!
「……ちくしょうめ……っ」
川田はふらふらと立ち上がった。
一方、桐山も美恵を抱きかかえながら立ち上がっていた。
「……桐山くん?」
「目を覚ませ。飛び込むぞ」
「飛び込むって……どこに?」
「掴まってろ」
桐山は美恵を抱えると走った。
「桐山!そっちの方角は……!!」
川田の目の前で桐山は潮が渦巻く海に飛び込んでいった。
「……高尾からの連絡はまだなのか?」
「本部長、どうか落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!ん、何を見ている?」
「……あれを」
鬼龍院が指差す方向に本部長は反射的に振り向いた。
人間が落ちるのが見える。
すぐに波しぶきがあがるのも見えた。
「あ、あれは!」
誰だかわからないが、二人おちた。そう二人だ。
「双眼鏡、おい双眼鏡持って来い!」
鬼龍院が双眼鏡を渡すと、本部長はすぐにそれを眼前に構えた。
「あれは……桐山和雄じゃないかぁ!!」
桐山が女生徒を抱えて泳いでいる。そしてボートに乗り込んでいるのが見える。
「高尾、高尾はどこだ。あの馬鹿、何をしている!!」
「本部長、あれを」
「何だ!?」
「双眼鏡をもっと上にしてください」
「上?」
すぐに双眼鏡の角度を上げた。見覚えのある少年がレンズの中に写った。
「高尾!あんなところで何をして……なんだぁ!?」
ダンプカーが海を背にしている高尾目掛けて走ってくるのが見えた。
「バカめ、あんなのろいスピードで高尾を仕留められるか!」
勝ち誇ったのも束の間だった。ダンプは突っ込んでこなかった。
その直前で……爆発した――。
「桐山くん、あれ――」
美恵は恐怖の色に瞳を揺らしながら見上げていた。
あの爆発は間違いなく川田が何かしたからだろう。
「桐山くん、川田くんが!」
その時だった。二人の背後に何かが降り立った。
二人は同時に振り向く。高尾がボートのヘリに着地していた。
ボートが大きく揺れた。たかが人間一人の重みだ、普通なら大したことはないだろう。
ところが高尾はボートのハンドルを握ると、一気に引き寄せた。
ボートがまるで沈没寸前のタイタニックのように90度まで立ち上がった。
桐山は美恵を抱きかかえ、数メートル先のボートに飛んだ。
「掴まってろ、いいな」
桐山はすぐにエンジンをかけた。
一方、高尾によって直立状態のボートは180度回転して水面に叩きつけられかけた。
普通なら、そうなったが、高尾はボートの船底を蹴り上げた。
ボートは正常な体勢で水面に落ち、すぐに桐山達のボートを追いかけた。
「桐山くん、あいつ追いかけてきたわ!」
「操縦を代われ。ハンドルを固定しているだけでいい」
美恵に操縦を交代すると、桐山はボートの船底にあった酸素ボンベを手にした。
そして投げた。銃口を構えながら。
狙うはボートや高尾ではない、酸素ボンベだ。
命中だった。桐山の思惑通り酸素ボンベはハデに爆発した。
高尾のボートは瞬く間に業火に包まれた。
「高尾のボートが炎上している。だが、あいつはそんなことでびびるタマじゃないぞ」
本部長の言うとおりだった。高尾は全く動じてない。
炎上したからといって、即ボートまで爆発することはない。
要はガソリンに引火する前に決着をつければいいのだ。
高尾のボートが、桐山のボートの横に出た。
冷たい視線が桐山を射抜く。桐山は咄嗟にボートの速度を落した。
高尾のボートが一気に桐山のボートを追い越す。
高尾の背後にまわれた。標的は桐山から高尾になった。
やれる。今すぐに、高尾を背後から攻撃するのだ。
高尾が碇を持ち上げ、それをまるでカウボーイの投げ縄のように投げた。
(何だ?)
そして碇は水面から露出していた細長い岩に巻きついた。
高尾はそれをグイッと引っ張った。ボートが水面から離れる。
岩を支点にボートが宙を舞っていた。そして桐山のボートの後ろに着水。
それだけじゃなかった。ボートはスピードを増していた。
「桐山くん、あいつが追いつくわ!」
桐山もスピードを上げる。いつ爆発するかわからないボートに追いつかれては堪らない。
高尾がハンドルを右に回した。
「桐山くん、あいつ岩礁に進路を取ったわ」
「何だと?」
どういうことだ?自滅するつもりか?
ボートが粉々になるぞ!
高尾の目的は岩礁ではない。岩礁の手前にあった岩だ。
ボートは猛スピードで岩の上を滑って、そして大ジャンプ。
桐山のボートの真横に飛び込んできた。ほぼ同時についに炎がエンジンルームを襲った。
ボートが大爆発した。その炎をバックに高尾がび、桐山と美恵の間に着地した。
「見ろ、鬼龍院!もう桐山は終わりだ、高尾があっちのボートに移ったぞ!!」
「本部長」
「終わりだ、これでジ・エンドだ!!」
「あの本部長」
「あのガキには散々煮え湯を飲ませられたが、これで全ては修正できる!
高尾の勝利で全てが解決だ。もう、科学省にでかい面はさせないぞ!
もう他の特撰兵士もこれで用無しだ!到着したら、即追い返してやる!」
「本部長、よろしいですか?」
「さっきからうるさいぞ鬼龍院!!」
本部長は青筋を立てて振り返った。そして固まった。
「な、ななななな……」
「誰が用無しだ?」
ドア口に立っている人間を見て、本部長は反射的に背中から壁にぶつかった。
「晃司はまだ決着つけてないようだな」
その人物は、平然と部屋の中に入ってきた。
「な、なんでおまえが?……だって、まだ到着時間には」
「ああ、遅いのは性に合わないから、途中からオレがヘリを操縦してきたんだ」
その人物、いや少年は生意気にも本部長専用の革椅子に座り込んだ。
「堀川秀明以下、特撰兵士全員到着だ。待たせたな」
【B組:残り3人】
【敵:残り1人】
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