川田は走った。走ることには、そう自信があったわけじゃない。
(自己ベストは13秒台。決して遅い数字じゃなかった。
かといって、他人と比較して特別速いというものでもない。
少なくても、軍が誇る化け物相手には通用しないだろう)
それでも走ったのは、とりあえず美恵から高尾を引き離すことを優先させるためだ。
自分と美恵のポイントを考えれば、高尾は必ず自分を追いかける。
美恵の安全を確保することを、まず考えた。その後のことはどうでもいい。


そこまでして守ろうとしたのは、桐山に美恵を託されたこともあるが川田は生来こういう人間なのだ。
自分のことは後回しにして、他人をかまってやらずにはいられない。
実に損な性分だと思った。無自覚に自嘲気味な笑みすら浮かべていた。
だが、後悔はなかった。高尾という人間を超えた存在に恐怖感がないわけじゃない。
しかし、川田はそれ以上に、後悔を背負って生きるほうが怖かったのだ。
かつて恋人・慶子を守ってやれず死なせてしまったことの苦さ。
それは今なお川田の心に鈍い痛みを与え続けていたのだ。
その痛みを味わうくらいなら、肉体的な痛みのほうが、まだマシだ。
そんな思いが川田を突き動かしていた。川田は走った、全力で。

その時だった、ズルッと足元が滑ったのは――。


「――な」


川田の視界がグルッと回転した。
同時に重力が無くなったかのように、バランス感覚が一瞬失せた。
雨でぬかるんだ地面が泥沼状態となり、川田の足に絡みついたのだ。
川田は無様にも背中から泥の中に倒れこんだ。
いや、倒れただけでは済まない。何と、そのままの体勢で滑り出したのだ。


「うわぁ!」
目の前には黒い空、そして木々が見えた。
それらの景色がフルスピードで早送り再生されたのだ。
やがて、川田は自分の体が地面から離れた感覚を味わった。
(崖……!?)
必死に手を伸ばした。木の枝を掴んだ。
一瞬、ホッとした。が、その直後、ぼきっと嫌な音が川田の鼓膜をくすぐっていた。




キツネ狩り―192―




(……川田くん?)
美恵は岩の陰に隠れていた。
川田の指示に従って一度は逃げた美恵だったが、やはり川田が気になるようだ。
「川田くん、大丈夫かしら?」


いえ……あいつが相手だもの、無事なわけないわ。
それに桐山くん……桐山くんはどうしたの?
あいつが私達を追いかけてきたということは、桐山くんは負けたということなの?


美恵はギュッと拳を握り締めた。
敗北は死を意味する。考えたくもなかった、桐山の死など。


(……桐山くん)
桐山が死んだなどと考えたくもなかった。
そんなバカな考えが間違っているいることを証明する為にも、桐山が生きていることを確かめる必要がある。
(桐山くんが死ぬわけない。でも、怪我をして動けなくなっているかも……)
だったら助けないと、美恵は勇気を出して桐山を探しに行くことにした。
岩から頭部だけだして、キョロキョロと辺りを見渡す。
誰もいない。高尾晃司も。安全確認OK。


美恵は一歩踏み出すと、もう一度辺りを見渡し、ゆっくりと歩き出した。
美恵が歩くたびに、ぬかるんだ地面が粘着質な水音を発する以外は静かなものだ。
(あいつは川田くんを追いかけたようね。早く桐山くんを見つけないと。
桐山くんを見つけて、川田くんを助けに行かないと……)

美恵は気づいてなかった――。

背後から影が一つ伸びてきたことも、そして何者かの手が伸びてきたのも。
美恵が口元に圧迫感を感じ、声を発することができなくなるまで何も気づかなかったのだ。














「……ここは?」
川田は無事だった。学生服は泥だらけで所々破れてもいる。
だが幸いにも肉体のほうはかすり傷一つない
「奴は……?」
川田はハッとして顔を上げた。高尾の姿はない。
ないが、かといって安心感は全く感じなかった。
嫌な感じがする……それは直感すら超えた第六感のお告げだった。


「……奴がオレを見失ったとは考えにくい」
川田はジェットコースター状態で、ここまで滑ってきた。
相手が他の奴なら、それが幸いして逃げ切れたと乾杯する気にもなるだろう。
だが相手は軍のエリート兵士の中でも屈指の化け物ときてる。
とてもじゃないが、偶然幸運が訪れて逃げ切れたと楽観する気にはなれなかった。
川田は高尾の存在に気をとられ、ここがどこか考える余裕もなかった。
傷一つ負わなかったのは、川田が盛り土の上に落ちたからだ。
大型トラックが何台もある。トラックだけではなくクレーン車も。
何箇所も掘り返され、大きな穴が点在していた。ここは工事現場だった。
そして川田は知る由もなかったが、菊地直人が桐山との決戦に選んだ地でもあった。


「早く身を隠す必要があるな……奴は絶対に追ってくる。
どうやら敵さんは、オレ達を逃すつもりは微塵もないようだからな」

「わかっているようだな」


「!!」


川田の額から汗が流れ、顎でいったん止まり、雫となって地面に落ちた。

(どこだ……どこにいる?)

川田はゆっくりと視線だけを横に動かした。
相変わらず周囲には人影一つなく、静寂さだけが漂っていた。
それがかえって不気味に感じられるくらいに。

そして、その静寂――静は突然動へと変化した。
川田は何か強烈な重みを感じて、その場に沈んだ――。















(いやっ!桐山くん……!!)
美恵は必死になって、自分の顔に絡められた手を振りほどこうとした。
美恵、オレだ」
それは美恵にとって最も居心地のいい声だった。
ゆっくりと振り向くと、桐山の顔が見えた。
「あいつがいるかもしれない。静かにするんだ、わかったかな?」
美恵は二度頷き、桐山はそれを合図に手を離した。


「桐山くん、よかった無事で……」
美恵は桐山に抱きついた。桐山も、それに応えるように抱きしめ返す。
しかし、すぐに美恵は大切なことを思い出した。
「川田くん、桐山くん、川田くんが危ないの!」
「川田?……ああ、そうだな」
桐山も思い出したが、切迫した様子はまるでなかった。
「川田くんが私を守ってくれたの。川田くんを助けないと」
「そうか、わかった」














川田は地面にのめり込んだ。首に強烈なおもみを感じる。
腹ばいの体勢。頭部だけでも動かそうと努力するが、全く動かない。
さすがの川田も焦り、状況を把握することすら忘れていた。
首根っこをつかまれ、地面に押し付けられていることがわからない。

「川田章吾。700ポイント、桐山和雄に次いで高得点」
「!」

自分の真上から、冷たい声が聞える!
その信じたくない事実が、川田の心臓を鷲掴みにした!


「死因は頚部圧迫による窒息死」
「な、何だと、このクソガ……!」

その言葉を言い切らないうちに川田の身体は急激に持ち上げられた。
川田の足は地面に着いてない。
首にかかる圧力に川田の思考も精神力も一気に薄れだした。
視界が薄れる。その視界の中、唯一はっきり見えるものは高尾の冷たい瞳だけ。
高尾は左腕一本で川田を高々と持ち上げていた。
体格だけなら、中背の高尾とヘビー級並みの川田とは比較にならない。
それなのに、今の二人の立場は完全に捕食者と獲物だった。
川田は必死に高尾の手を振りほどこうともがくが、その細い腕は全く微動だにしない。


川田の顔色が青白くなってゆく。
いや、それすら通りすぎてドス黒くなっていった。
バタバタと足を動かすことしかできない。
それすらも終わりを迎えたようだ。
川田はぐったりと手足を重力に従い地面に伸ばした。
視界は完全にぼやけ、高尾の眼光すら、もう見えない。


(……これまで、か)

……やはり、この化け物には勝てなかった。


はるか遠くから、何か音が聞えてきたような気がした――。
その時、首にかかった圧迫感が消えた。




川田は岩壁に投げつけられていた。強い衝撃が全身に走る。
痛みよりも、苦しみから解放されたことのほうが大きかった。
その悦びを噛み締める間もなく、川田はゲホゲホと咳き込んだ。
最悪の窮地からは一応脱したが、絶体絶命の瞬間がわずかばかり延びただけだ。
地獄からの生還を果たした川田が最初に考えたのは疑問だった。


(なぜオレが絶命する前に奴は手を離したんだ?)
まさか死亡したと思い込んだなんてことはないだろう。
相手はいわば殺しのプロ。敵の息の根は確実に止めるはず。
(それなのにオレから手を離したということは――)
考えられる理由は一つ。新たな敵の登場。それも自分よりも格上の相手。


(桐山!)


川田が桐山の名前を連想したと同時に、高尾が高く飛んでいた。
ショベルカーのバケットの陰に飛び込むが見えた。
直後にガンガンッと金属同士がぶつかり合う鈍い音が弾けた。
銃弾だ!間違いない桐山が助けに来てくれたんだ。


「桐山!」
「死んでいなかったのか川田」
「……おい」
桐山は再度銃の引き金を引いた。
「そうだ撃て、殺せ桐山!」
が、弾は全く違う方向に流れていった。
「こら桐山ー!クソガキに当てないでどうする!!」
思わず立ち上がった川田。その背後からカッと閃光が走った。
「何?」




大爆発が起きた。
「……なっ?」
爆風が一気に襲い掛かってきた。
「伏せろ川田!」
「……くっ!」
川田は地面に飛びついた。熱風が頭上を走ってゆく。
「ど、どういうこと……だ?」

なぜ、こんな工事現場に爆弾が仕掛けられている?

「起き上がるなよ川田。でないと命の保障はしてやれない」
「なんだと、まさか……!」
高尾がバケットから飛び出した。桐山の銃も三度火を吐く。
またしても高尾とは違う方向に銃弾は走った。
(仮に高尾に標準を定めても、ショベルカーの陰に入った高尾を撃つのは不可能だが)
またしても爆発。しかも先ほどのものよりもでかい!


「今だ、こっちに来い川田」
川田は立ち上がると転ぶくらいの勢いで走ってきた。
「向こうで美恵が待っている。行け」
「おまえは!?」
「奴の息の根を止める」
そう言い放つと桐山は走った。
「おい、桐山!」
桐山は再び銃弾を放った。そして耳慣れた爆音が衝撃波となって襲ってくる。


「ど、どういうことだ?どうして、こんな場所に爆弾が?」
パッと見た限り、何の変哲もない工事現場。
だが、ここは爆弾がいくつも埋め込まれている。
もちろん自分達がやったものではない。これはプロの仕業だ。
さっと盛り土の陰に隠れた川田。ちょっとだけ頭を出し戦況を見詰めた。

どっちが勝ってる?

桐山は弾を撃ちすぎた、そろそろ弾を詰め替えないと。
案の定、桐山はトラックの陰に飛び込み、カートリッジを取り出していた。




「逃げろ桐山!」
川田は叫んでいた。高尾がトラックを飛び越える姿が見えたのだ。
桐山の真正面に高尾が着地。桐山はすぐに銃口を上げた。
だが弾のない銃など、鈍器にも劣る。
桐山は咄嗟に銃を振り上げ、高尾の顔面を殴り隙を作ろうとしたに過ぎない。
パンと、高尾は銃を振り払った。


桐山は今度は右足を上昇させた。高尾の左の掌がそれを止めていた。
今度は高尾の番だった。高尾がパンッと掌を桐山の胸部に叩き込んできた。
その一撃で桐山の身体はくの形になって、宙にゆるやかなカーブを描いていた。
そしてトラックの荷台、高く積み上げられた砂利石の上に落下。
桐山が起き上がるより早く高尾が飛んでいた。
銃は……ダメだ、まだ弾を詰めてない。


「くらえ化け物!」
そんな声が聞えた。同時に巨大な鉄球が高尾目掛けてやってくる。
クレーン車の先端に取り付けられた鉄球だった。
そしてクレーン車の操縦席には川田が乗っている。
「化け物でも、こいつとまともにぶつかっては無事ではいられないだろう!」
巨大な悪魔の振り子と化した鉄球が高尾に再び襲い掛かった。
高尾はスッと飛ぶと、華麗にもその鉄球の上に着地。
「相変わらず可愛げのないガキだ、だがそれもこれまでだ!」
川田は操縦レバーを思いっきり引いた。鉄球は高尾ごと岩壁に衝突。
「どうだ化け物!」
高尾の轢死体を想像した川田は勝利を宣言するかのように叫んだ。




「まだだ川田!」

桐山の、その一言がなければ、それこそ油断するところだっただろう。
高尾は岩壁に衝突していない。その寸前に飛んでいた。
だが、鉄球のほうは衝突している。その衝撃で岩が派手に崩れている。
あのまま岩の下敷きになってジ・エンドだ!
が、川田はまたしても高尾の化け物じみた身体能力を目の当たりにすることになった。
まるでテレビゲームのキャラクターのように、落下する岩を飛び移りながら落盤の雨の中無傷でいるのだ。
そして、華麗に着地。まるで応えてない涼しい表情をしている。


「いや、まだだ!」
川田は見た。桐山がカートリッジをセットし、岩壁のある一点に向けて発射したのを。
その一点が大爆発を起したのを。
岩壁に大きなひびが入ったのを。
岩壁についたひびは枝分かれするかのように、崖全体に亀裂となって走っているのを。
それは瞬く間に限界点に到達し、一気に崖が崩れた。
岩のシャワーだ。いや集中豪雨だ!
高尾の表情が一瞬だけ曇るのを川田は見逃さなかった。


そうだ!いくら恐るべき身体能力とスピードを誇ろうと、これから逃れられるものか!
人間には無理だ。いくら、奴が人間離れしていようとも!


「川田、奴の退路を絶て!」
桐山はまるで全弾撃ちつくすかの勢いで引き金を引き出した。
「そ、そうだ!」
念には念を入れる。まして相手が化け物ならなおさら。


川田も銃を取り出し撃った。高尾が、この落盤から逃れられないように!
さらに桐山は、崖の周囲に仕掛けられている爆弾目掛けて撃った。
菊地の遺産が高尾の障害となるとは皮肉な話だが、利用できるものは何でも利用する。
元々、ルール無用のデスゲームなのだ。文句を言う奴などいないだろう。
二人は撃った。カートリッジが尽きても引き金を引いたままだった。
落盤が完全に終了し、辺りが静かになっても二人は引き金から指を外さなかった。
土煙がモクモクとたちこめている。

「……終わったな」

川田は万感の想いを込めて銃を持っている腕を降ろした――。














「何があったのかしら……?」
美恵の目にも土煙が上がるのがはっきり見えた。
それに伴う凄まじい轟音も。
「桐山くんと川田くんは大丈夫かしら?」
あの音、まるで崖が崩れるような音だった……それに爆音も。
美恵は心配そうに、その視線を土煙が見える方角にジッと注いだ。
二人なら大丈夫と信じたいが、今までになく嫌な予感が胸を突き刺していたのだ。














「……終わったな。オレ達の勝ちだぞ桐山」
川田は疲労と安堵に満ちた複雑な表情で桐山を振り返った。
「……川田」
「桐山?」
おかしい、川田はそう思った。桐山の様子がおかしい。


「……川田」

土煙は今だに辺り一面を覆いつくしている。
「どうした桐山?奴はもう死んだんだぞ?」
桐山が微動だにせず拳を握り締め、その拳が微かに震えている。


まさか怯えているのか、この桐山が?
なぜ?奴はもう死んだ、脅威は去ったはずだ。去ったはず……。


「……ま、まさか」
川田はハッとして、もう一度崖の方角を凝視した。
土煙が収まっていった。土煙の向こうの影が徐々に見え始めた。


「……ま、まさか……そんなバカなっ!」

その影は、間違いなく人影だった。


「そんなバカなっ!!」


土煙が晴れた。
川田の目に映ったのは、大岩を片手で受け止めていた高尾の姿だった。


「な、なぜだ!あの落盤の中で!!」
「……全部避けたんだ」
「避けただと?馬鹿をいうな桐山!奴の身体能力はオレもそれなりにわかってる!
あれを避けきるには人間の身体能力じゃ無理だ!あいつの今までのスピードを計算しても不可能だ!!」
高尾は受け止めていた岩を放り投げた。


「スピードは上げた」
平然と言い放った高尾。そして足元にあるジャケットのようなものを放り投げてきた。
それがドンッ!と鈍い音を発して地面にのめり込んだ。
「なんだアレは?……まさか!」
川田の疑問に答えるように高尾は静かな声で静かに言った。
「本来なら外すつもりはなかったんだがな……」


「今からは100パーセントのオレが相手だ。その覚悟でこい」




【B組:残り3人】
【敵:残り1人】




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