(……息が)
水面には出れない。かといって水中に身を隠すのにも限界がある。
このまま溺死するか、それとも蜂の巣覚悟で水面にでるか。
桐山は意を決して、さらに水中に潜った。


「……気配が」
桐山の気配が少し遠のいている。
「水底に潜ったな……何を考えている?」
周藤は注意深く水面を見詰めた。流れは相変わらず激しい。
プクプクと泡のようなものが浮んだ。奴か!?と周藤は身構える。
だが、浮んできたのは、ただの木切れ。
違った――と思った瞬間、周藤が乗っていた大木が90度縦に回転した。




キツネ狩り―173―




科学省の秘密研究所の、そのまた地下の研究室。
科学省長官・宇佐美は今にも駆け出しそうな勢いで廊下を歩いていた。
レッドゾーンと呼ばれる区域に到着すると、IDカードを扉に通す。
扉が開くと同時に中に飛び込んだ。
「長官、お待ちしていました!」
眼鏡をかけた初老の男が狼狽しながら駆け寄ってきた。この研究所の所長だ。


「報告に間違いないのか!?」
「は、はい」
「どういうことだ!早くても症状がでるまで半年以上かかるはずだっただろう!!」
「……は、しかし」
「説明したまえ!!」
宇佐美が高級椅子にドサッと座り込むと、所長は書類を差し出した。
「……高尾晃司の出撃直前に採取した細胞のサンプルです」
「なんだ……このウイルスの成長速度は」
「進化しているのです。我々の予測を超えてます。もしかしたら……」
「くそ!」
宇佐美は書類を机に投げつけた。


「今頃、晃司は発症して使い物にならなくなっているということか」
「その可能性もあります」
「だったらY計画はどうなる?!晃司のクローンは!?
発症する前の健康体でなければ量産する意味が無い!!」
「……このさい堀川秀明に切り替えては」
「それしかないのか……だが本来なら晃司のテストに秀明を使うはずだったんだぞ。
晃司がダメなら、もう我々には秀明しかいない。失敗は許されない。
秀明にもしものことがあったらどうする?ファーストの血を引く人間は晃司と秀明しかいないんだ」
「……あの長官」
「なんだ?」
「もう一人いるではないですか」














周藤の体は大きくバランスを崩していた。
乗っていた大木が、テコの原理の実験でもしているかのように先端が上がったのだから無理もない。
反対に、もう片方の先端は水中に没した。
周藤が立っていたほうの先端が大きく空中に投げ出されたのだ。
「ちっ!」
周藤は、高く飛び上がった。その間に大木は大きく一回転して水面に叩きつけられる。
水しぶきが両側から噴水のように飛び上がった。
まるで水の壁だ。周藤の視界は一瞬とはいえ、完全に遮られた。


(桐山め!だが、気配と殺気は簡単に消せるものじゃないぞ!!)
周藤は振り向きながら銃口を上げた。感じたのだ。背後から気配を、いや明らかな殺気を。
だから銃口を向けた。この高さなら、ちょうど桐山の頭部を撃ちぬく。
だが、銃口をセットした先には桐山の頭部などなかった。
代わりにすらっと伸びた脚が見えた。
まるで平均台の上のように、桐山が倒立前転していた。
(桐山は片腕が使えないので、怪我した左腕だけでやっていた)
周藤に向かって回転する。その回転で銃を弾き飛ばそうとした。


だが、周藤も身体能力においては自信があった。
体操も、まるでオリンピック候補ではないかというくらい出来た。
周藤は二回連続してバク転した。正確には最初はただのバク転、二度目はひねりを入れている。
そして、大木の後ろの先端に着地。大木がシーソーのように大きく揺れた。
その勢いを利して、桐山が高く飛んでいた。飛びながら何かを放り投げて。
それが爆発した。桐山が即席で作った爆弾の最後の一つだった。
直後に桐山は滝つぼに飲み込まれた。




「……ケホっ」
五体満足なら、こんな滝つぼどうってことない。
しかし、右腕の肩の骨は外され、左腕は銃弾で負傷とあってはさすがにきつかった。
何とか岸に泳ぎ着いたときには、どっと疲れが出た。

奴は?あれで死んでくれたのか?

桐山の性格上、頭部を撃ちぬきでもしない限り、敵の死亡を確信できない。
それでも、死体確認よりも、やっておかなければいけないことがある。
桐山は何とか立ち上がり、右肩を掴んだ。
そして、力を入れた。桐山の顔が僅かに苦痛で歪む。
鈍い音を出しながら、桐山はゆっくりと右腕をまわした。
これで何とか使える。後は、左腕だ。血を止め消毒をしなければ後々厄介になる。
何とか町に下りたい。移動手段は……と見渡した。
反対側の岸に小さなモーターボートが止まっている。
桐山は再び川に身を投じた。今度は楽に泳ぎきる事ができた。
ボートに乗り込みエンジンをかけた。水中から泡が出るのを見て桐山はナイフをとり構えた。
現れたのは、ただの木切れだ。あの爆発で粉々になった大木のなれの果て。
桐山はナイフをしまった。


ガチャ……激鉄を起す音が背後からした。


「そろそろ終わりにするか?」
周藤の冷たい声が背後から聞える。普通の人間なら、『夢なら覚めてくれ』と願うだろう。
だが、生憎と桐山は普通の人間ではなかった。僅かに船底を蹴り高く飛んでいた。
周藤の頭上で回転、その頭部を両手で掴もうとした。
このまま首をひねり、殺そうと思ったのだろう。だが周藤は、それよりも早く動いていた。
飛び上がり、開脚回転した。桐山の胸部に強烈な蹴りが入る。
桐山は、僅かにうめいてバランスを崩した。
そのまま落ちた。即座に起き上がろうとしたができない。
周藤の膝がしっかり桐山の首を押さえ込んでいた。
周藤はそのままの体勢で即座に銃口を桐山の額に突きつけた。
後は、引き金を引くだけだ。周藤は引き金にかかっている指を動かした。
桐山の耳にはっきりと聞こえた。乾いた嫌な音が――。














美恵は振り向いた。何、この胸騒ぎは?
山の方から聞えてきた、あの音……。

「どうした、お嬢さん?」
プラスティック爆弾を仕掛けていた川田が心配そうに声を掛けてきた。
「あっち……向こうから何か聞えなかった?」
「何かって、なんだ?」
「まるで銃声のような……」
「さあな。オレには何も聞えなかったよ」
そういって、川田は短くなった煙草を捨て踏み潰した。


「だが、桐山とあの転校生かもしれんな」
川田は、じっと山の方を見詰めた。戦いは桐山に任せたといっても、やはり気になる。
気になるが、どうしようもない。今は、自分達にできることをやるしかないのだから。
「よし、セットOK」
「あの川田くん」
「なんだ、お嬢さん?」
「どうして、ここに爆弾を仕掛けるの?」
川田が地図に赤丸で印をつけた場所ではない。
しかも、今までは、大量の爆弾を設置していたのに、ここだけはたった一つだ。


「お嬢さん、オレは慎重に慎重を重ねるたちでね。
いくら軍の特上品だろうと無条件に欠陥がないとは信用できないんだ」
川田はリモコンを取り出した。
「せっかく設置しても、このリモコンが壊れていたら水の泡だろう?
だから、念のために実験しておかないとな」
川田は、「よし、車に乗り込め」と美恵に促した。すぐに発車。瞬く間にスピードアップだ。
「これだけ離れればいいだろう。お嬢さん、頑張ったご褒美におまえさんに押させてやるよ」
川田はリモコンを差し出してきた。
「右のスイッチだ」
美恵は、言われた通りにスイッチをONにした。派手な音と共に煙が上がるのが見えた。














大きな音だった。桐山の耳にも周藤の耳にもはっきり聞えた。
はるか背後から――。
「爆弾!?」
すなわち、他の生存者――川田と美恵――が、そばにいる!
周藤の注意は一瞬だけ、背後に向いた。
死角からの攻撃が一番怖いことを周藤は知っている。
当然といえば当然だ。その一瞬だけ引きかけた引き金も停止した。
時間にして0.01秒ほど、しかし桐山には反撃するのに十分な時間だった。


銃を手にした周藤の左手首を掴み、周藤が舌打ちした。
銃口を桐山の顔に向けようとする。当然、桐山はそれを阻止しようと銃口をそらす。
そして、周藤の手ごと銃をボートのへりにたたき付けた。
一度じゃない、二度、三度。周藤の手から銃が落ちる。
桐山はすぐにそれを拾おうとするが、周藤が桐山を押さえ込んでいる今の状態では不可能だ。
桐山は周藤を押し返そうとするが、上になっている周藤のほうが体勢的には完全に有利。
押してだめなら――引くまでだ。桐山は周藤の襟を掴み強引に引いた。


バランスを失った周藤を蹴り上げた。周藤の体は川の底に――。
落ちなかった。空中で二回転して、水面に先端だけ露出している岩に着地した。
だが桐山の目的はあくまでも銃だった。銃さえ手にすれば形勢逆転だ。
桐山は銃に手を伸ばす。
「させるかっ!!」
周藤の跳び蹴り。すかさず桐山は両腕をクロスさせ顔の前に突き出した。
何かが飛んで来た。キラリと光っている。
ナイフ!桐山はクロスさせた腕を解き、ナイフを手刀で叩き落した。
まずい、周藤の蹴りが頭にまともに入る。




桐山が見せたのは、まったくもって華麗な動きだった。
桐山はスッと上半身を後ろにそらすとクルッととんぼをきっていた。
「それもお見通しだ!!」
ナイフがまた飛んでいた。今度は2本。
回転しながら1本は叩き落した。だが2本は無理だ。
嫌な音がして桐山はガクッと右半身が沈むのを感じた。
脚だ。右足のふくらはぎをやられた。反射的に避けようとしたため傷は浅く済んだ。
痛みはあるが、痛みなんかにかまっていられない。
桐山の手は尚も銃に伸びていた。タッチの差で周藤は銃を蹴り上げた。


桐山はすぐに走った。脚がズキンと痛んだが我慢できない痛みではない。
今は銃だ。あれさえ手に入れれば一気に勝負がつく。
銃の落下地点に到達した桐山は手を上に伸ばした。
クルクルと銃は回転しながら桐山の手の中に落ちてくる。
が、シュッと空を切り裂く音がして背後からナイフが飛んで来た。
ナイフは銃に命中。再び銃は空中に高くとんだ。
ここであきらめるわけにはいかない。桐山は銃を追ってとんだ。
銃の落下を待っている暇なんて無い。落ちる前にキャッチしてやる。
だが、飛んだ瞬間に、桐山に影が重なった。誰かが上にいる。
それが誰かなんて考えるまでもない。周藤が桐山より高く飛んでいた。
まずい!このままでは先に銃を手にされてしまう。




桐山は咄嗟に回転した。周藤が伸ばした手より桐山の足先のほうが僅かに銃に先に接触。
銃は蹴り飛ばされ川の中に。二人はほぼ同時に着地、舌打ちこそしたが周藤はまだ余裕があった。
なんと言っても桐山はダメージを負っている。
そして、自分は相手が怪我人だろうと決して手を抜かない。
最後に笑うのは、周藤晶ただ一人だという絶対的な自信。
銃などに未練はなかった。肉弾戦なら尚の事こちらが有利!
周藤は着地と同時に桐山目掛けてタックル。二人の体は水中に没した。


激しい水の流れのなか、二人の戦いはなおも続いていた。
桐山の体は周藤の下になり、仰向けの状態だった。
体勢を変えようとしても、周藤が首を押さえつけている。
ただでさえ、水中で呼吸ができない状態でこれでは時間の問題だ。
二人の体は木の葉のように流されていた。
前方に岩。このスピードではぶつかったら即死は免れない。
桐山は何とか周藤から逃れようともがいた。もがいたが、周藤は決して手を離さない。
このままでは、岩に激突して、頭は割れたスイカのようになるだろう。
桐山はナイフを取り出した。


(今さら、こんなものでオレを殺せると思っているのか?)
周藤は、まさかこの男が最後のあがきでもするのか?と腑に落ちないものを感じた。
桐山は、周藤の襟を掴んだ。ナイフで攻撃か?と思いきや、さらに潜った。
水底は深さ五メートル。突然の桐山の潜水、そして水圧。
それが周藤の動きを鈍らせた。桐山はナイフを水底に突きつけ、周藤のわき腹を蹴り上げた。
周藤の体が桐山から離れる。激流が周藤を岩へといざなっている。
巻き添えを食わないように桐山はしっかりとナイフに捕まった。
周藤の体が吸い込まれるように岩に近付く。
終わりだ。この流れ、そして大岩。周藤は必ず激突死する!


桐山のほうも限界だった。だが、周藤という鎖が離れた今、進路を変えることは可能。
何とか、岩を避けるコースまで泳ぎ振り向いた。
周藤は死んだか?
周藤は岩に吸い込まれるように激突――しなかった。
激突する直前でクルッと向きをかえ、岩に脚が触れた瞬間、水中で岩を踏み台のように蹴り水中から飛び上がった。
そしてさらに回転して、近くにあった岩の真上に着地。
「……際どかったな。残念だが、オレは特殊部隊の人間だ。川での訓練も当然受けている」
桐山は橋げたに捕まっている。すぐに橋の上に上がった。
左腕からの出血が酷い。止血と消毒が必要だ。
桐山は左腕を押さえつけると森の中に消えた。

「いったん距離を取って態勢を立て直そうというつもりか。そうはいくか!」














「失礼します!」
下士官が入室してきた。びしっと直立して敬礼する。
「出撃命令が出ました。三十分後に出発するので、身支度を十分で済ませヘリポートに集合とのことです」
誰かが、「待ちくたびれたぜ!」と叫んだ。
「では、失礼します」
「待て」
退室しようとする下士官を止めたのは海軍の氷室隼人だった。


「その命令確かなのか?」
「はい、そのように聞いております」
「戦況はどうなっている?」
「自分は詳しいことはなにも。ただ、二十分前に入った報告では、高尾大尉と交戦中とのことでしたが」
下仕官が退室した後も、腑に落ちないという表情で、席から立とうとしない。
「どうした隼人?」
声をかけてきたのは高尾と同じⅩシリーズの堀川秀明だった。
「……妙だなと思ってな。まだ決着もついてないのに命令が早すぎる」
納得できない氷室に、立花薫が呆れたように言った。


「深く考えることないだろう。特撰兵士が三人も殺されたんだ。
これ以上殺されるのは面子にかかわるし、大金を投じて育てた士官を失うのも得策じゃないと思ったんだろう。
どうせ始末するな、これ以上被害がでない前にってだけだろう?」
立花の説は確かにもっともだった。その立花は心なしか顔色が悪い。
(薫の言う事はもっともだが、何かおかしい。
上の連中は、まさか晃司や晶まで殺されると思っているのか?
それとも、オレ達を使って、薄汚い後始末以外のことをさせるつもりなのか?)
下士官が置いていった出撃命令の書類。最後のページには科学省長官のサインがあった。














「……気配はない、か」
桐山はカーテンが閉じられた窓の隙間から外をうかがった。
随分と流された。森を抜けると、集落があった。
その中の目立たない家に飛び込むと、リビングのカウンターの上に救急箱があった。
桐山がそれを床に叩き落すと中から包帯やら薬やらが散らばった。
消毒液の蓋を強引にあけると腕にかけた。
それから、キッチンのガスコンロで持っていたナイフをあぶって熱した。
焼けたナイフを傷口に押し付ける。激痛、そして焦げた肉の臭い。
だが桐山は呻き声はもちろん、表情一つ変えなかった。
とにかく消毒と止血はできた。痛みはまだあるが、左腕もこれで使えるだろう。


何か武器になるものはないか?
周藤の銃は二丁とも使えなくしてやったが、他に隠し持っていたら厄介だ。
民家ではせいぜい刃物や鈍器くらいしか手に入らないが。
いつまでも、こんな所に隠れているわけにはいかない。
「……この臭いは」
火薬の臭い!キッチンの外……プロパンガスのそばに火薬が!
桐山はテーブルを飛び越えリビングのソファの陰に飛び込んだ。
同時に爆発、瞬く間に家が炎に包まれた。
「……くっ」
慌てて外に飛び出すわけには行かない。おそらく周藤が待ち伏せしている。
他に出入り口はないか?
やや焦り気味の桐山の耳にエンジン音が聞えた。




エンジン音が大きくなったと思ったら、窓ガラスが粉砕。
周藤がバイクごと突っ込んで来た。二人の視線がぶつかり合う。
周藤はバイクの前輪を桐山のほうに向ける。
何を考えているのか、手に取るようにわかった。
お互い有効な武器が無い今、ただの人間。ただの人間がバイクに勝てるわけが無い。
バイクが急発進。猛スピードで桐山に向かってくる。
桐山は廊下に飛び出した。当然、周藤も追って来る。
こんな狭い屋内では逃げ回る事はできない。廊下の先はすぐに行き止まりだった。


桐山は意を決して、周藤と向き合うと、向かってくるバイクに向かって走った。
衝突寸前に飛んだ。桐山の真下を周藤がバイクで走り抜く。
こんな狭い廊下では方向転換もままならないだろう。時間が稼げるはずだ。
それとも、そんな動きづらいものは乗り捨てるか?その、どちらでもなかった。
周藤のバイクはスピードを緩めなかった。このままでは行き止まりの壁に激突する。
と、思いきや、バイクの前輪が上がった。
周藤はまるで鉄の球体の中を360度走り回るサーカスのスターのように壁を駆け上がったのだ。


そして天井から壁を走り床に戻ってきた。もちろん、再び桐山をひき殺そうと迫ってくる。
桐山は階段を駆け上がった。周藤もバイクごと駆け上がる。
二階に駆け上がると桐山はドアを閉めベランダに出た。
ベランダには螺旋階段が付いており屋上に続いている。
桐山は螺旋階段を駆け上がった。背後からドアを突き破る音が聞えた。
すぐに周藤が現れた。当然のごとく螺旋階段をバイクで駆け上がってくる。
桐山は屋上から助走を付け、隣家の屋根に飛び移った。
すぐに振り返った。周藤がこちらを見ている。バイクは停車している。
だが周藤はニッと笑みを浮かべ走り出した。


バイクはまるで羽根が生えたように空中を飛んでいた――。




【B組:残り3人】
【敵:残り2人】




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