「……桐山くん」
心配そうに、眠っている桐山を見詰める美恵。
「大丈夫よ、桐山くんは無敵だもの。アタシが保証してあげるわ」
そんな美恵を月岡がやんわりと励ましてくれた。
月岡はその辺りの女生徒よりはるかに気遣いや心配りが出来る。
こうして、何気なく一番安心できる言葉を自然に紡ぎだしてくれるのだ。
もしかしたらB組で一番大人の女は月岡なのかもしれない。
もっとも三村にしたら『冗談言うなよ』と苦笑するだろうが。
「目が覚めたら、きっと残りの転校生たちだって、すぐに片付けてくれるわよ。
桐山くん、強いんだから。だから、きっと生きて帰れるわ。心配しないで」
「ありがとう月岡くん、ただ……」
まだ何か心配ごとがある美恵。その心配事にも月岡はすでに気づいていた。
「貴子ちゃんね」
「うん」
貴子は美恵にとっては大の親友。その貴子が今は安否の知れない状態。
いくら自分達が今無事だからと言っても、美恵は諸手を挙げて喜ぶことなど到底出来なかった。
貴子が、貴子と杉村が無事なのを確認しないうちは素直に喜べない。
「貴子……今、どこで何をしているのか。それに杉村くんだって」
「大丈夫よ、貴子ちゃんは強い子だもの。それに杉村くんもね」
「わかってる。でも、きっと二人とも今頃苦労していると思うの。
それなのに、私は今まで桐山くんに守られて、今だって無事で……。
貴子と杉村くんが危ないかもしれないのに、何もしてあげられないなんて。
悔しくて……自分が情けなくて……」
「何をバカなこというのよ美恵ちゃん。二人のためにしてやれる事は一つだけあるじゃない。
それはね信じてあげることよ。二人は、きっと生きて会えるって。
信じてあげましょう。そう思う続けることが生きて帰ることにも繋がるのよ」
「そうね」
貴子、杉村くん……どうか無事で。
美恵は心の中で神に祈った――。
キツネ狩り―149―
「オレを殺してみろっ!!」
杉村は全力で走ってきた。距離がないのであっと言う間に二人の間隔は縮まる。
そして杉村は持っていたオイル缶を振り上げた。
頭に衝撃を加えれば、どんな超人でもダメージを食らう。だが、それは勿論当たればの話。
「……グボっ」
ダメージを食らっていたのは杉村のほうだった。
「ひ、弘樹!!」
杉村の胸部に高尾の拳が入っていた。トポトポとオイルが床に落ちる。
杉村が手にしたオイル缶を突き破って、高尾の拳がヒットしていたのだ。
高尾が拳を引き抜くと、ストッパーが無くなったのでオイルが一気にこぼれだした。
同時に、杉村の体のバランスが大きく崩れる。
「……グ」
「殺せといったな」
高尾が初めて言葉を吐いた。まるで絶対零度のような冷たい声だった。
「よくわかった。おまえが先だ」
高尾の足が至近距離から杉村の顎目掛けて急上昇。
「弘樹、避けて!!」
普段の杉村なら、貴子に言われなくてもそうしただろう。
だが、バランスを大きく崩した今の杉村は床に倒れないように体勢を維持するのが精一杯。
そこに、恐ろしいほど切れのいい蹴りがアッパーカットのように炸裂だ。
これでは避けれない。避けきれるわけがない。
杉村の体は、天井に向かって飛んでいた。そしてレジを飛越し、陳列棚に激しく激突。
不幸中の幸いか、ティッシュやトイレットパーパーが並んでいる棚にぶつかったおかげで極端なダメージは避けられた。
しかし、それでも痛みがないわけではない。単に他の棚よりはマシな程度。
杉村の体が床に落ちる。その杉村に近づく高尾の足音。
「……く、くそ」
オレは……オレは死ねない。オレの死は、そのまま貴子の死に直結する。
「……簡単に」
杉村は痛みを堪えて立ち上がった。
「簡単に殺されてたまるかぁぁ!!」
杉村は渾身の力を握り締めて左拳に託した。
一直線に、その拳が高尾の顔面に目掛けて放たれる。
「……なっ!そんな……そんなバカな!」
だが、杉村はまたしてもプロと素人との違いを見せつけられた。
杉村の拳は高尾に届かなかった。止められたのだ。
高尾が突き出した、たった二本の指によってだ。
相手が戦闘のプロである以上、殺す覚悟でやらなければならないことなど、周藤との戦いで、すでに学習している。
だから杉村は一切容赦してない。殺すつもりで戦っている。
それなのに、なぜ、この拳が届かないんだ!
己にぶつけた問い。その一瞬で今度は高尾が攻撃に転じた。
杉村の左拳、その手首を握り締めた。次の瞬間、手首がキリッとネジ回されていた。
反動で杉村の体も捻じ曲がるが、その痛みの先には限界がある。
限界を超えたとき、ボキッと鈍い音が杉村の手首から聞えた。
同時に、今までとは段違いの痛みが手首から全身に駆け巡る。
「うわぁぁー!!」
骨が軋む……いや違う、この痛みは間違いなく骨が限界を超えた証し。
杉村は必死に高尾から離れた。勢い余って床に転倒。
「……ぐ……っ」
痛みが止まらない左手首を掴み、必死に痛みに耐える。
(……骨が……骨を折られた……畜生!)
油汗が杉村の額から頬を流れる。もう左拳は使い物にならない。
(……貴子)
利き手をやられた以上、それがどういうことなのか、格闘家には理解できる。
いっそ、ここであきらめることができたら、どんなに楽か。だが、あきらめることなど出来ない。
高尾の背中越しに見える貴子。貴子だけは守らなければ。
高尾が近づいてきた。止めをさすつもりか?
「逃げるんだ貴子!!」
杉村は貴子に逃げるよう促しながら自らも立ち上がり走った。
今なら高尾の狙いは自分だ。貴子を逃がすことなら出来るかもしれない。
杉村の視界に飛び込んだのは移動式の踏み台。
その階段状の踏み台に飛び上がり一気にジャンプして、陳列棚の上に着地。
そのまま陳列棚の向こう側に飛び降り高尾から逃げようとしたのだろう。
だが……高尾が一度目を閉じ、そしてスッと瞼を開けた。
その目、冷たい何も無い目。杉村はチラッと振り返り、それを見てしまった。
(なんだ、あの目は……あの目……どこかで、どこかで見たような)
確かに自分は知っている。だが、なかなか思い出せない。
そして、答が出る前に、高尾がスッと拳を上げ……そして、拳を放っていた。
「何だとっ!?」
それは杉村でなくても驚愕だったに違いない。
高尾は杉村を追わず、反対に、陳列棚に向かって拳を放ったのだ。
杉村の足場となっていた陳列棚が一気に傾いた。当然、杉村の体も一緒に傾く。
「弘樹っ!」
貴子は見た。整然と並べられていた陳列棚が、まるでドミノ倒しのように次々に倒れてゆくのを。
連続して嫌な音が奏でられていく。破壊音、飛び散る商品。
それは、まさしく地震のような災害だった。高尾晃司という名の天災だ。
最後の陳列棚が埃を舞い散らせながら床に激突。巨大ドミノ倒しがやっと終了した。
「ひ、弘樹、弘樹っ!!」
貴子は自身が倒れそうなほど顔面蒼白となっていた。
この恐怖のドミノ倒しの中、確かに杉村は、そのドミノの一部となっていたのだ。
無事なのか?無事ならば返事をしてほしい。
貴子は必死になって杉村の姿を探した。倒れきった陳列棚の上にはいない。
どこ?どこにいるだ?まさか、あの倒れた陳列棚の間に?
貴子の脳裏に全身押しつぶされ息絶えた杉村の姿が浮んだ。
「……たか……こ」
浮んだが、そのかそぼい声が最悪のビジョンを一瞬で打ち消した。
「弘樹!!」
杉村だ、杉村がいた!倒れた陳列棚のそばにうずくまっている。
良かった。何とか助かったのだ。でも、杉村は動こうとしない。
「弘樹……?」
杉村の様子がおかしい。貴子には瞬時にそれがわかった。
動こうとしないのではない……動けないのだ!
杉村は何とか上半身を起すと必死に動こうとしている。
「……弘樹の」
貴子は見た。杉村が必死に右足を抜こうとしている。
右足が倒れて折り重なった陳列棚に挟まれているのだ。
「くそっ……なんで、抜けないんだ!!」
それは悲しいまでの叫びだった。いつも拳法大会では最も頼りになった右足。
この右足が繰り出す蹴りが杉村の必殺技だった。
それなのに、今はこの右足が杉村を窮地に追いやっている。
このままでは杉村は転校生にやられるのを待つだけ。
「弘樹!」
貴子は駆け出していた。それを見た杉村は自分の事も忘れてギョッとした。
「く、来るな!!来るんじゃない貴子!!」
杉村に向かって近づいているのは貴子だけではない。
他ならぬ、その転校生・高尾晃司もなのだ。
バシャ……静かな水の音が杉村の鼓膜に冷たい響きを与えた。
顔を上げる杉村。倒れた陳列棚から溢れ出している水が床に広がっている。
陳列棚に並んでいた天然水のペットボトルが押しつぶされたのだろう。
そして出来た大きな水溜り。高尾と自分の間にある、その水溜り。
バシャ……また音がした。高尾がこちらに歩いてくる。
「く、くそぉ!!」
杉村は必死になって足を抜こうともがいた。でも抜けない、抜けないのだ!
「こんなときに、ふざけるなよ!!」
もう終わりなのか?……貴子、ああ貴子……おまえだけは――。
「川田!!もっと早く走れないのかよ!!」
「これが性能の限界なんだよ!!」
川田と七原を乗せた車はアスファルトの上を跳ねていた。
乱暴な運転。もし車に口がきけたなら、とっくに文句百連発だろう。
「早くしろよ川田!!でないと杉村が死んじまうんだぞ!!」
「言われなくてもわかってる。ちょっと黙ってろ!!」
川田はハイトップで走り続けた。それでも、あの爆発のあった場所になかなか近づかない。
そのうえ、やたらと狭い道が続く。これだから田舎道は嫌なんだ!
しかも最悪なときに限って最悪なアクシデント。パン!と派手な音がして車体が沈んだ。
「うわぁ!」
「な、なんだぁ?」
車が、やや前のめりになっている。何があった?
川田は急いでドアを開けた。何てことだ、タイヤがパンクしている。
「何だよ、どうしたんだよ川田!!」
「もう、この車はダメだ。修理している時間が惜しい。他の車を捜すぞ」
「そんな暇あるかよ!!」
七原は走り出した。
「おい七原!!」
「後少しなんだ。オレが走ったほうが速い!!先に行ってる!!」
七原は全速力で走った。走るのはクラスで一番だ(桐山が、身体測定で手を抜いていなければ)
(待ってろ杉村、千草!!)
オレが今すぐ行ってやる。オレが助けやる!!
オレがおまえ達を転校生から守る、だからそれまで頑張ってくれ!!
「オレが行くまで死ぬなよ二人とも!!」
「弘樹っ!弘樹に近づくんじゃないわよっ!!」
貴子が走っていた。
「ば、馬鹿!来るなっ!!逃げろ、逃げるんだ貴子!!」
高尾が冷たい目で貴子を見た。まるで獲物が自ら進んでやってきた、そんな目で。
「女だからって舐めないでよ!!」
貴子は走りながらジャンプ。レジの荷台に着地した。
着地と同時に、レジの回りにある何本ものコード、その一本を力任せに引きちぎった。
それを見た高尾が初めてハッとした。
「どんな化け物だって生身の人間よ。これに耐えられるかしら!?」
レジの近くまで水は溢れてきていた。その水に貴子は銅線がむき出しになっているコードを投げた。
高尾がほぼ同時に水溜りから、さっと身を引く。
杉村との距離が広がった。そして、バチバチっ!と水が火花を放った。
一瞬の判断の差。高尾は貴子の意図に気づき身を引いた。
だが貴子もそれは百も承知。すかさず銃を構えた。最後の一発が込められている銃を。
高尾は、水溜りから引いたと同時に、貴子は発砲していた。
高尾は先ほど見事に披露した背面飛びで、すでにその場にはいない。
つまり、貴子が放った銃弾は、すでに標的のいない空間を虚しく走るだけ。
走るだけ……だったが、貴子はニッと笑みを浮かべたのだ。それを高尾は見逃さなかった。
次の瞬間、銃弾が被弾したらしいバン!という音が派手に轟いた。
轟いたのは新商品の特別陳列コーナー。
高尾のすぐそばにあった特設コーナーに並べられているものの中にはオイルもあった。
それが一気に発火。今だに水溜りで踊り狂っている火花と相乗し、あっと言う間に辺り一面の可燃物を燃やしだした。
「あんた、自分の拳がどういう状態か忘れたの!?」
先ほど、杉村が武器に使ったオイル缶をぶち抜いたのだ。
当然、その腕にはオイルがべったりと付着している。炎が、その腕を一気に伝わった。
「弘樹っ!!」
今だ!この隙に弘樹を!!
貴子は必死になって杉村の元に駆け寄った。
「さあ、今のうちに逃げるのよ!!」
「貴子、オレなんかほかって、おまえだけでも逃げろ」
「何、バカなこと言ってるのよ!!そんな、ふざけたこと言う暇があったら、さっさと足抜くのよ早く!!」
貴子は、その細腕で必死に杉村の足を抜きにかかった。
「最後まであきらめないっていうのが、あんたの取り柄じゃなかったの!!?」
炎は瞬く間に広がってゆく。あいつだって自分の体の一部が燃えているのだから取り乱しているはず。
今しか逃げるチャンスは無い。貴子は、高尾が慌てふためいていると思い顔を上げた。
「……え?」
だが、炎の向こう側にいる高尾は、まるで微動だにしてなかった。
静に、まるで何事もなかったかのように、燃えている自分の腕を顔の前に上げ、見詰めている。
(……な、なんなの、こいつ)
貴子は心底ぞっとした。なんだ、なんなんだ、この男は!
高尾はチラッと背後に目をやると歩き出した。
冷凍食品が並んでいるコーナーのガラス戸を開けることなく、燃える腕でぶち破り中に腕をつっこんだ。
ジュワァァ……と冷凍食品が溶ける音が聞える。煙も見える。高尾を襲った炎は消火してしまった。
そして、高尾の目が再び杉村と貴子に向けられた。
「……弘樹」
「貴子……に、逃げ」
「立つのよ、弘樹」
「いいから、おまえだけでも逃げ……」
「さっさとしなさいよ!!あいつが来るわ!!
あたしを助けたかったら根性出しなさいよ。あんたが一緒じゃないと、あたし逃げないわよ!!」
その言葉に、半ば自分の命はあきらめていた杉村は目を覚ました。
「わかった貴子」
「いくわよ。あたしが引っ張るから、あんたもタイミング合わせるのよ」
「ああ」
二人は力を合わせた。ズリッと音がして杉村の足がようやく引き抜かれた。
杉村の表情が激しく歪んだ。脚が……杉村の自慢の右足が傷だらけでズタズタだ。
「弘樹!!……弘樹、これを!」
貴子は、タオルを出すと、素早く杉村の脚に巻きつけた。
こんなものでは止血もできないかもしれないが、ないよりはマシだ。
その間にも炎の向こう側にいる高尾は徐々に此方に近づいてくる。
「弘樹、しっかりして、あたしに捉まるのよ!」
貴子は杉村の腕を自分の肩にまわすと、立ち上がった。
長身の杉村を支える事は、男でも大仕事だろう。それを女の貴子がやろうというのだ。
杉村の脚はかろうじて骨は無事のようだが、損傷が激しく一歩踏み出すたびに、血の雫を床に散りばめる。
「早く、弘樹痛いのは我慢して、後でいくらでも泣き喚いていいから、今は歩くのよ!!」
二人の前に炎が広がった。ダメだ、他の道を探さないと。
貴子は非常出口に向かって歩き出した。途中で、非常用のシャッターを降ろすのを忘れなかった。
こんなことで、恐怖の殺戮マシンを止められるとは思ってないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「……た、貴子」
杉村の体がずるっと貴子から離れ床に倒れこんだ。
「弘樹、何やってるのよ!!」
「もうオレはダメだ、わかるだろ、おまえなら?」
「わからないわよ!!ふざけたこと言わないでよ!!」
「いや、わかるはずだ。今のオレは、もうおまえを守ってやれない。ただの足手まといだ」
「でも、おまえは違う。おまえ一人なら逃げ切れる。オレに構わず逃げろ。
三村や七原たちの元に戻るんだ。そうすれば、あいつらが、おまえを守ってくれる。
天瀬だって、おまえが生きて戻ってくることを望んでいるはずだ。
おまえには、オレがいなくても、まだ待ってくれるひとがいる。
おまえの無事を祈って家で待っているおじさんやおばさんや……それに彩子の為にも。
おまえは、ここで死んではいけないんだ。だから、もうオレのことはあきらめろ。
オレはもう十分だ。おまえに、ここまでしてもらったんだ。もう悔いは無い。だから、もう行け。
そして生きて帰るんだ……。帰ったら、オレの両親にオレがすまないって言っていたと伝え……」
『伝えてくれ』遺言のつまりで、そういおうとした杉村の頬に乾いた音が炸裂した。
それは、小学生の頃、ケンカでくらって以来数年ぶりの貴子の平手打ちだった。
「……いい加減にしてよ」
「た、貴子……?」
「もう悔いは無いですって?ふざけないでよ!!あたしはどうなるのよ!!
あたしに、あんたを見捨てた悔いを一生背負って生きろっていうの!!
ふざけないでよ。あたしは納得しないわよ、あんたを置いて逃げるなんて!!」
驚いている杉村の腕を貴子は強引に担ぎ上げた。
「愚にもつかない泣き言言っている暇があったら、立つのよ!!」
「た、貴子……」
「あたしはあきらめないわよ。生きて帰る時は、あんたも一緒よ!!
早く立つのよ!!さあ立ちなさいよっ!!」
防犯シャッターから衝撃音が、そして見る間にシャッターの形が変わってゆく。
もう時間が無い。貴子は杉村を持ち上げるように立ち上がった。
「しっかりするよの弘樹!!あんた、それでも男なのっ?!さあ、立つのよ弘樹っ!!」
【B組:残り11人】
【敵:残り2人】
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