「兄貴、兄貴助けてくれ!!」
輪也は必死になって周藤に縋り付いていた。
氷室隼人が理不尽な男ではない。普段は殴り込みなんて絶対にしない。
同時に周藤は氷室がお人好しの甘ちゃんでもないことも知っている。
その氷室の部下を病院送りにしたとあっては庇いきれない。
例え弟でも。いや弟だからこそ腹がたってきた。
このオレの弟でありながら、そんな思慮の浅い愚かなことをするなんて。
「……引き渡せ」
周藤の冷たい声に輪也は呆気に取られた表情をみせた。
その場にいた、周藤の部下達も同様だった。
「隼人に引き渡せ!オレをつまらない事に巻き込むな!!
自分の尻拭いくらい自分でするんだな!!」
キツネ狩り―過去との決別④―
「なんだと柳沢のクソガキが晶にケンカを売ってきただ~?」
報告を受けた鬼龍院は「さては柳沢の差し金だな!!」と全く見当違いのことを言って立ち上がった。
「いえ…実は輪也さんたちが命令違反をして氷室の部下達の援護をしなかったそうです。
そのせいで、氷室の部下が全員負傷。うち一人が重傷だとか」
「だったら輪也たちが悪いじゃないか」
「それで氷室が激怒して……」
「そうだろうなぁ。部下をコケにされたってことは、自分をコケにされたも同然だ。
てめえの顔に泥を塗られて黙っている奴はいない。あいつの父親、氷室恭二もそういう男だった」
鬼龍院はこういった。『そういう男だった』――と。
過去形。つまり氷室恭二は過去の人間、そう故人なのだ。
柳沢が氷室を引き取った時、鬼龍院は「あの時のガキか」と一瞥した。
――十数年前――
「氷室、来週の海軍の演習だが」
「ああオレはいかない」
「なぜだ?」
「結納だからな」
「ぶぅー!!」
柳沢は飲んでいた飲料水を思わず噴出した。
「な、なんだと!おまえ、彼女の一人もいないような顔して婚約していたのか!?」
氷室恭二の家は代々優秀な軍人を輩出してきた名門。
当然、恭二もゆくゆくは家柄のいい名家の令嬢を娶ることになるとは思っていた。
しかし、恭二は仕事人間で女にはほとんど興味を示さなかったのだ。
確かに、ここ半年ほど周囲の強いすすめで見合いを数件押し付けられていた。
しかし付き合っているという話は全く聞いていなかった。それが突然結納だ。
「おまえ、いつプロポーズしたんだ!?」
「先月父がしたらしい」
「……何だって?」
「オレが見合いをした相手の一人を気に入って結婚を申し込んだと言っていた」
『うちの息子の嫁になってくれないか?』
これがプロポーズだった。
『はい私でよければ喜んで。不束者ですが宜しくお願いします』
これがプロポーズの返事だった。
そして、その夜父から恭二に「おまえの結婚が決まったぞ。式は二ヵ月後、そのつもりでいろ」と連絡が入った。
つまり事後報告だったのだ。
相手は香道だか、華道だか、何かの家元の娘で、母方の祖父が軍の将官らしい。
つまり政略結婚という奴だ。
「で、おまえ結婚するのか?」
「多分、そうなるだろうな」
「相手の女に惚れているのか?」
「まだ数回しか会っていない。そんな相手に特別な感情は簡単に持てるものじゃない。
おまえはそんなことも理解出来ないのか?」
「……オレには、おまえのほうが理解できない。おまえくらいの家だと本人達より家同士のつながりなんだな」
その話をチラッと聞いていた鬼龍院は思った。
(……あんな色恋沙汰の欠片もない奴と結婚なんて、想像しただけで結婚生活は全く面白くないな。
相手の女もかわいそうに。やはりオレのように全ての面に秀でている奴は少ない。
天は二物を与えずって奴だな。まあ、せいぜい楽しい新婚生活送れよ)
その二ヵ月後に恭二は本当に結婚してしまった。
政略結婚ではあったが、夫婦仲は悪くなく翌年には長女が産まれ、二年後には長男が誕生した。
ただ恭二は軍人という立場上、滅多に家に帰ることも無かった。
そして大東亜共和国が某国の戦争に参戦したおり、彼も戦艦に乗って出陣。そのまま帰らぬ人となった。
その四日前に誕生した長男とは一度も会わずの死別になったわけだ。
柳沢も同じ戦艦ではないにしろ、同じ艦隊にいた。
「おまえ息子が生まれたんだって?」
「ああ、まだ会ってはいないが」
恭二は一枚の紙に、素晴らしく達筆な字を走らせた。
「どうだ?」
「『隼人』?」
「息子の名前だ。悪くないか?」
――それが恭二が見せた父親としての唯一の顔だった。
「……あの時のガキが殴りこみに来るなんて月日のたつのは早いものだなぁ…。
オレももう若くないということか。晶の奴どうするつもりだ?」
以前のあいつなら、けんか腰で…いや、これは相手が弱い連中だからだ。
いくらなんでも相手が氷室隼人では今までの相手と同様返り討ちなんて出来ないだろう。
そうなったら大人しく輪也たちを引き渡すのが一番だな。
だがな、と呟きながら鬼龍院はタバコをくわえると、それに火をつけた。
だがな晶。ただでさえ、この世界は自分以外は敵だらけなんだ。
そんな状況で、自分の身内にまで敵を作るかどうかはおまえの器量次第だぞ。
上に立つ奴ってのは、自分がトップに立つだけではなく部下を育てる才能も必要だ。
つまらない事で部下を切り捨てるような奴に、いざという時ついてきてもらえるかどうか。
おまえも上に立ちたかったら、そのくらいに考えるんだな。
「あ、兄貴…?」
輪也は、かなりの衝撃を受けたようだ。何しろ、この兄は幼い頃から自分を守護してくれていたのだ。
こんなに冷たく突き放されるとは思っていなかったのだろう。
「さあ行け。そして、おまえの口から隼人に弁明しろ!
そのくらいの覚悟もなくて、命令違反したとは言わせないぞ!!」
よりにもよって隼人にケンカ売るようなマネしやがって」
「……わかったよ兄貴。おい、行くぞ、おまえたち」
輪也は観念したのか、二人の部下を伴って部屋を出ようとした。
「……待て輪也」
それは押し殺したような声だった。
周藤は本当はわかっていた。部下同士の諍いに氷室が出てきたのだ。
ならば、こちらも自分自身が出て行かなければ氷室は納得しないことに。
「……いいか。おまえたち」
バキッ!そんな鈍い音が、輪也たち三人の頬に響いた。
特選兵士の周藤の鉄拳は三人を簡単に壁まで吹っ飛ばした。
「……あ、兄貴」
輪也は殴られた頬に手を添えながら恐る恐る周藤を見上げた。
格闘訓練でもないのに、突然殴られるなんて輪也にとっては初体験だったのだ。
「今回だけだ。忘れるな、今度やったらオレがおまえたちを殺すからな」
それだけいうと周藤は部屋を出た。慌てて輪也たちも後に続く。
外には部下数人を従えて珍しく激怒している氷室と、その氷室と対峙している周藤の部下達の姿があった。
「おい、さっさと周藤を呼んで来い!」
氷室がついているので強気になっているのか、氷室の部下達は口々に叫んでいた。
それに対し周藤の部下たちは「ふざけるな、さっさと帰れ!!」と怒鳴っている。
しかし口調に覇気がない。誰もが氷室隼人の強さを知っているのだから当然だろう。
「あ、周藤さん!!」
誰かが、まるで「助かった」と言わんばかりの安堵の篭った声を上げた。
周藤の登場に、今度は氷室の部下の緊張感が一気に高まる。
周藤がケンカを売ってきた相手をことごとく返り討ちにしているのは、この場にいる誰もが知っているからだ。
唯一、全く動じていないは氷室一人だろう。
「晶。おまえ部下の教育が悪すぎるぞ」
周藤の顔を見た途端、氷室が静かな声で静かに言った。
「おまえの弟や部下の命令違反で、こちらは重傷者も含め三人も負傷者が出たんだ。
おまえは、これをどう責任をとるつもりでいるんだ?
答えろ。おまえの返答次第によってはオレも黙っているわけにはいかない」
「……………」
「どうした?言い訳も出来ないのか?いつもは余計なことまで吐いているくせに」
「何だと?!」
叫んだは輪也だった。周藤は相変わらず黙ったままだ。
「元はといえば、先月おまえの部下がオレたちに因縁をつけてきたんじゃないか!」
輪也の勢いに押されたのか、周藤の他の部下達も調子付いて口々に声を上げ始めた。
「そうだ!部下の教育が悪いというなら、おまえは何だって言うんだ!?」
「周藤さんのことが言えた義理か?おまえの部下の自業自得だろうが!!」
「だったら、プライベートでやればいいだろう!!
それなら、オレも一切文句は言わない。たとえ殺されても、それは自己責任だ!!
だが任務中に命令違反したなら、オレも黙っているわけにはいかない。
オレが公私混合が嫌いだということは、晶おまえも承知しているはずだ!!
どうなんだ晶!このまま黙っているつもりなのか?それとも」
氷室が上着を取って背後に投げた。部下が慌ててキャッチする。
「それとも、今すぐオレとやるのか?」
周藤の部下達は全員震え上がっていた。
初めてだったのだ。ここまで怒っている氷室を見たのは。
「……ふ、ふざけるな!誰に向って口をきいてんだ、いつも兄貴にビビッて避けてたくせに!
やっちまえ兄貴!!兄貴に逆らう奴がどうなるのか、たっぷりと教えてやれよ!!」
「輪也……黙ってろ」
「……あ、兄貴?」
「隼人、おまえの言うとおりだ。非はこちらにある。こいつらがやったことはオレの責任だ、悪かった」
「悪かったで済めば警察は要らないんだよ!」
今度は、氷室の部下が叫んでいた。
「第一、それが謝る態度か。全然悪いと思っていないだろうが!」
「何だとぉ!てめえら平の兵士が兄貴にタメ口きいてんじゃねえよ!!」
「隼人、もう二度とこんなマネはさせない約束する。
だから、この件は水に流してくれ……この通りだ」
氷室は一瞬我が目を疑った。
幼い頃から見てきたのだ、周藤に文句をつけて返り討ちにあってきた多くの人間を。
驚いたのは氷室だけではない。
輪也も、周藤の部下も、そして氷室の部下でさえも信じられないものを見た、そんな目で周藤を見詰めた。
「この通りだ。許してくれ隼人」
――あの傲慢で気位が高くて自信家で他人を見下してばかりいた周藤が。
「……あ、兄貴?」
――いつも後先構わず、全ての者を病院送りにしてきた周藤が。
「……周藤さん。う、嘘だろ?」
――地面に両手をついて頭を上げたのだ。
『本気で上を目指すってことは地べたをはいずり泥水をすするような思いをするものだ』
わかっているオヤジ。こんな、こんな所でオレは潰れるわけには行かないんだ。
いずれくる高尾との決着をつける為にこんなバカなことで足をすくわれるわけにはいかない。
周藤は拳を握り締め、ただ俯いていた。
その為、その顔は誰にも見えなかったが氷室にはわかった。
どれだけ屈辱に満ちた表情をしているのか。
唇を噛み、掌に爪のあとが出来るくらいに拳を握り締めていることも。
幼い頃から周藤を見てきた氷室だからわかったのだ。
そして、周藤がその屈辱に甘んじた理由も。
自分との争いを避けなければならなかったわけを。
――晃司に勝つためなら何だって我慢してやる!
「……いくぞ、おまえたち」
「え、氷室さん?」
「晶がどういう性格なのかは知っているだろう?その晶がここまでしたんだ」
「……で、でも。落とし前が」
「オレがいいと言っているんだ」
それから数歩歩くと氷室は一旦立ち止まった。そして振り向かずに言った。
「晶……おまえ本気だな。本気でこの世界で上をめざすつもりなんだな。
その為には、余計な敵は作りたくないってことか?」
「……………」
周藤は何も答えなかった。氷室もあえて答えを問いただそうとは思わなかった。
無言は肯定の証でもあったからだろう。
「つらいぞ。オレたちみたいな使い捨ての道具が、この世界で上を目指すのは」
氷室は再び歩き出した。今度は立ち止まらなかった。
部下達は慌てて後を追い、口々に「氷室さん、本当にいいんですか?」と尋ねたが氷室は一切答えなかった。
――あれは一年前のオレだ
――男の意地もプライドも捨てて最も血塗られた道を選んだ
――オレ自身だ
BACK TOP NEXT