一度も忘れたことはない。あの朝の出来事は。
「お母さん、おはよう」
千秋は元気よく二階から駆け下りてきてリビングのソファに座っている母に声を掛けた。
幸雄はまだ眠たいらしくあくびをしながら半分寝ぼけた表情で千秋の後から来た。
「お父さんは?もう仕事に行ったの?」
父の姿が見えなかった。
「あれ?ねえ、お母さん、お父さんは?」
千秋より父親に懐いていた幸雄もキョロキョロと辺りを見渡している。
とにかく二人が不思議に思ったのは、いつも目覚めると笑顔で挨拶していた母がずっと黙って背中を見せている事だ。

「お母さん?」
「どうしたんだよ?」

少しすると母が「二人とも座りなさい」と二人にソファに座るように促した。
二人は母の重苦しい声にキョトンとしながらも母の向かい側のソファに座った。
その時見た母の顔をみて二人は驚いた。
真っ赤にはらした目。そう、母は泣いていたのだ。
「よく聞きなさい」
千秋も幸雄もただならぬ母の様子に強張った表情でギュッと拳を握り締めた。


「お父さんとお母さんは離婚したの。二人とも、もう大きいからどういうことなのかわかるわね?」




Solitary Island―76―




「……お、お父さん……?」
千秋は我が目を疑った。
あの日以来一度も父とは会ってない。いや、電話も手紙も何もなかった。
父は家族にとっていない人間になったはずだった。千秋と幸雄の苗字も母のそれに変わった。
もしかしたら一生会うことはない、そう思ったこともある。
その父が、今目の前にいるのだ。
千秋の脳裏にあの日の出来事が浮んだ。
その後の辛い日々のことも。




『……お父さん、いつ帰ってくるのかな』

幸雄は母の前では寂しいのを我慢していたが、千秋と二人っきりになると決まってそう言っていた。
そんな日々が一ヶ月……三ヶ月、そして一年。
幸雄はいつの間にか父の事を口にしなくなっていた。
母や自分に気を使っているのだろうと千秋は思った。
だが事態はそれよりずっと深刻だった。


ある日、千秋がアルバムを取り出して開くと父が写っている写真が全て抜き取られていた。
驚いて幸雄を問いただすと幸雄は『あいつは、オレたちを捨てたんだ!」と怒鳴ったのだ。
その時、千秋は知った。幸雄の父への愛は歪み憎しみに変わっていたことに。
父を愛していたから余計に許せなかったのだろう。
千秋が父との思い出の品を眺めていると『これからはオレが母さんと千秋を守るから、あんな奴忘れろ』と強い口調で言われた。

『きっと女でも作って逃げたに決まってる。今頃新しい子供と楽しく暮らしてるんだ』

そういい捨てた幸雄に千秋は思った。
弟の前では二度と父の事を口にしたり、思い出してもいけないと。
そう思って心の奥底に封印した。
でも父への愛情をきっぱり切り捨てたわけでも、まして忘れたわけでもない。
その父が目の前にいるのだ。
それも、この恐怖の真っ只中、誰かにすがりたいと思っている、その中で。




「お父さんっ!!」


千秋は父に飛びついていた。

「お父さん、お父さん、お父さんっ!!」
「……千秋」

泣いていた。父の声も押し殺したような涙声だった。
なぜ自分達を捨てて、ある日突然姿を消したのか。
なぜ何年も会いにきても……いや連絡さえくれなかったのか。
そして、なぜ今この孤島に突然現れたのか。
疑問は次々に湧いている。
でも、そんな疑問より感情のほうが優先された。
いなくなったはずの父が帰ってきたのだ――。


「う……うぅ……っ」
千秋は父に抱きついてただ泣いた。
もしも再会したら聞きたい事は山ほどあったと思っていたのに今は言葉が出てこない。
ただ一言「……会いたかった」と搾り出すように言った。
耳元で父が「すまなかった」と呟いた。
どのくらい時間がたったのかわからない。
光子が「七原くん、感動の再会は後にしないさいよ」と口を挟んできた。
そこで七原は我に返り愛娘をいったんはなした。
そして「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」と言った。
政府が作った悪魔の島だ。本当によく生きていてくれた。
千秋はまだこみ上げる涙を抑えることが出来なかったようだが、ここでやっと少し冷静になった。
そして初めて光子の存在に気付いた。




「お父さん……このひとは?」

綺麗なひと……お母さんより、ずっと綺麗。
それに……凄く色っぽいし、まるで大輪のバラみたい。

千秋は途惑った。なぜ父がこんな美人を連れているのか、と。
「ああ、彼女は相馬光子っていうんだ。オレの仲間だよ」
「……仲間?」
千秋は不安になった。家で自分達を心配しているであろう母のことを思い出したのだ。
「仲間って……どんな?」
「どんなって……はなせば長くなるんだ」
父の曖昧な答えはますます千秋を不安にさせた。
幸雄がよく言っていたのだ。『どうせ性悪女にひっかかってオレたちを捨てたんだ』と。
千秋はそんなこと信じなかったし、信じたくはなかった。
母は際立った美人ではなかったが、優しくしっかり者で千秋にとっては理想の女性だったのだ。
そんな素敵で立派な母を捨ててまで他の女に走るなんて考えもしなかった。
でも、今目の前にいる妖艶な女性は、そうなってもおかしくないくらいの魅力を感じる。




「お父さん」
千秋は必死になって父の服をしがみつくように掴んだ。
「お父さん、今でもお母さんの事好きでしょう?」
「どうしたんだ千秋?」
「ねえ、お母さんのこと今でも大事に思ってるわよね?」
「一体どうしたんだ?どうして、今そんなことを言うんだ?」
七原は意味がわからず、なぜ突然幸枝の話になるのかさっぱり理解できなかった。
しかし、七原と違って、こういうことには敏感な光子は「ははーん、そういうことね。ふふ」と心の中で呟いた。


「あ、あの……このおねえさん」
千秋はチラッと光子を見詰めた。
「相馬がどうかしたのか?」
「……お父さんの……恋人なの?」
七原はここにきてやっと気付いた。
千秋は不安そうな表情で縋るように自分を見ている。
七原は衝撃を受けていた。つまり自分は愛娘に光子とできていると疑われているのだ!
「ち、違うぞ千秋!」
「本当?本当に?」
千秋はまだ半信半疑だ。
無理もない。光子の本性を知らない人間からみたら魅惑的な美女にしか見えないだろうから。




「お父さん、お母さんは今でもお父さんのこと好きなのよ」
千秋は泣きそうな目で必死に訴えた。
「どうしてお母さんをおいて出て行ったの?お母さんやあたしたちのこと嫌いになったの?」
「そんなわけないだろう!!」
「だったら……だったらどうして?」
千秋はまだ光子の存在を疑っているらしくチラチラを見詰めている。


「相馬、おまえからも言ってくれ。オレとは何でもないって」
「…………」
光子は黙っていた。
「おい、何とか言えよ」
「……何とかね。可愛い娘さんの前ではそういうしかないわよね」
光子は何だか含みのある言い方をした。七原は焦った。
「おい、はっきり否定しろよ」
「いいわよ。ご希望通りにしてあげても……でも」
光子は七原の耳元にそっと呟いた。


「いくら払う?」

相馬っ!この悪魔ぁぁっ!!













美恵……しっかりしろ」
徹は今だに目覚めない美恵の手を握り必死に何度も話しかけていた。
その様子を見ていた瞬は内心面白くなかった。

あの女はⅩシリーズの女じゃないのか?いくら特撰兵士とはいえ、なんだあの男は?
あの佐伯徹には、あの女とは住む世界が違うという意識はないのか?
それとも、そんなもの木っ端微塵にできるという自信があるのか?

どっちにしても面白くない。
(……科学省の呪縛なんて、あの男にはまったく無いんだな)
科学省を憎み、Ⅹシリーズを憎み。
そして、この世の全てを憎んできた――。
科学省を否定する為に戦っているのに、自分が一番あいつらの呪縛に捕らわれている。
瞬は珍しく心に冷え冷えとしたものを感じた。




「……美恵?」
徹の声が僅かに明るさを取り戻していた。
瞬はちらっと美恵を見た。かすかだが頬が紅くなっている。どうやら助かったようだな。
まだ目覚めないだろうが、とりあえず最悪の事態は去った。
瞬の考えたとおりだった。
徹が触れた美恵の頬はかすかではあるが温かみを取り戻しつつあった。

「……良かった」

まだ完全に安心はできないが、この調子なら大丈夫だろう。
徹は「早く目を覚ましてオレを安心させてほしいな」と美恵の額にキスをした。
それを部屋の隅の長椅子に腰掛けてみていた川田と三村は半分呆れ顔で見ていた。


「……なんなんだ、あのガキは……真一は、あんなキザなガキに負けたのか?」
川田はまたしてもショックを受けていた。
「真一はともかく、気に入らないガキだな。中学生のくせに」
三村も溜息交じりで呟いた。
もっとも声を大にしていうのは気が引けたのか、二人とも徹には聞こえないくらい小声で話していたが。
「全く……オレが中学生の頃はもっと真っ当な男女交際してたものだ」

もっとも、あんまりかまってやらなかったのが災いしてかプログラムの時に、その彼女に逃げられるような恋人だったけどな。

「あれじゃあ真一がかわいそうだ。あいつら、もうキスはしたのかな?」
川田は煙草に火をつけると溜息をつきながら我が事のように悲しそうに呟いた。
「なんだ川田。おまえ、随分とあの娘のことが気になるんだな」
「当たり前だ。真一が惚れた娘だぞ。まあ、恋人っていっても将来どうなるかわからんしな。
真一にだってまだ十分希望はあるかもしれん。
あの娘、真一が惚れただけあって、今時珍しいくらい清純そうだし。
彼氏と言っても、きっとキスもまだだろうから……」


「さっきからうるさいね。そんなにオレと彼女の関係が気になるのかい?」


川田と三村はギョッとして徹の背中を見た。
「全く……オレたちの関係につまらない妄想をはさまいでくれないか?
これだから俗物は嫌いなんだよ」
離れた場所で聞こえないように小声で話していたのに。
あのガキ、一体どういう耳しているんだ?地獄耳か?
川田も三村もそう思った。
もっとも徹だけでなく、瞬にも二人の会話は筒抜けだったが。
(常人の昌宏には全く聞こえていなかった)


「悪かったな坊主。そんなつもりは……」
川田はとにかく謝っておこうと思った。
生意気なガキだが、今回だけは非は自分にあると思ったのだろう。
「『もうキスはしたのかな』だって?大きなお世話だよ」
(……なんて生意気なガキだ。絶対に真一のほうが100倍いい奴だ)
「ああしたよ。そう言えば満足かい?」
川田の煙草の先端の灰が床に落ちた。
「何、驚いているんだい?オレ達は恋人なんだ。最初にそう言っておいたはずだよ」
三村はともかく、川田は今時珍しいくらいの真っ当で昔かたぎの人間だったので、少々固まってしまった。


「もっと教えてあげようか?彼女とは同じベッドの上で一夜を共にしたことだってあるんだ」
「…………お、おい、小僧。何言ってるんだ?」
「真実さ。おじさんは三村の知り合いみたいだから言っておくよ。
彼はオレの大事な恋人に付きまとうハイエナ野郎の一人なんだ。
ストーカー行為に発展しない前にあきらめるように言ってきかせるんだね」
川田と違い中学時代にはすでに三人の女とベッドを共にした経験のある三村は冷静に聞いていたが、
川田はこの生意気で中学生離れした態度にすっかり面食らっていた。

一夜を共にした?中学生の分際で。
おまけに息子同然の真一をハイエナ呼ばわりだ。

真一は情熱家になることはあってもストーカーになることは絶対にない。
それなのにハイエナだ。


「おい小僧。言っていいことと悪い事があるだろう」

「本当の事さ。もう一つ言っておくよ、彼女とオレは結婚の約束もしているんだ。
だから、もう三村くんにはつきまとわないでほしいんだよ」




(なんて嫌なガキなんだ。絶対に真一のほうが一万倍いい男だぞ)
川田は内心怒りで震えていたが、とにかく医者として大人として優先しなければならないことはわかっていた。
「おい小僧……さっき、おまえどこかと連絡していただろう。
途中で切ったから、きっと先方は心配しているぞ。連絡して、そのお嬢さんは大丈夫だと言ってやれ」
「別に必要ないと思うけど」
「何言っているんだ。死ぬかもしれないとわめかれた相手の気持ちを考えてやれ」
川田の意見は最もだったに違いない。
徹は立ち上がると、先ほどやったように機械のスイッチをオンにした。


『誰だ?』
この声。どうやら攻介みたいだな。
「聞こえるか?オレだ、さっきの件だが」
『徹!!美恵はどうした!?』
「ああ、一時はどうなるかと思ったが幸い……」
と、徹が美恵の説明をしようとした時だった。


『ふざけるなっ!!隠すなよ、どういうことだって聞いてるんだっ!!』


怒鳴り声が聞こえてきた。
「なんだ、どうしたんだい?」
『ああ、雅信が口を滑らせてな……ちょっとまずい事になった』
怒鳴り声はまだ聞こえている。
『攫われて暴行されたってどういうことだ!?』
『オレは美恵の親友だぞ!!オレには知る権利があるはずだっ!!』
その声は真一と海斗だった。
『オレは何かあると最初から睨んでいたけどね』
なんだか余裕の洸の声も聞こえている。
『さっさと言え!!いやなら無理やり聞きだしてやるぞっ!!』
(……この声はハイエナ野郎。雅信が口を滑らせただって?あの猟奇野郎、喋ったな。なんて口の軽い男だ)


『いい加減にしろっ!!』


(隼人?珍しいな、隼人が怒鳴るなんて)
徹は隼人が怒ったところは数えるくらいしか見たことが無い。
『惚れた女のこと知りたいと思って当然だろう!!』
『……なんだと?』
『そうだ、オレだって美恵の事が心配だから。
だから知りたいと思って何が悪いっ!!!』
徹は思った。バカか、こいつら隼人を本気で怒らせるつもりかと。
あいつは怒らせるなんて勇二や雅信よりずっと怖い――と。
そして徹から少し離れた場所で、その会話に耳を澄ましている人間がいた。


(……仲間割れか。チャンスだ、奴等が分裂すれば動きが取れる)




【残り34人】




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