桐山はハンカチで口元を押さえた。

ガスの威力はどの程度だろうか?
ガスが効果を発揮する量は?
ガスの効果が現れるまでの時間は?

(いや、そんな事を考えている時間すら惜しいのではないか?)

桐山は動いた。紫緒めがけて猛ダッシュだ。紫緒だ、紫緒を捕獲し倒せば全てが終わる。
しかし紫緒も、また、桐山の狙いに気づいていた。
そしてニヤっと笑みを浮かべたのだ。それを見た桐山は、はっとして急停止した。
ぴかぴかに磨きあげられていた透明度の高いガラスの壁があったのだ。
もちろん強化ガラスだろう。激突していたら大変な事になっていた。
紫緒は、ほくそ笑みながら「駄目だよ。僕をつかまえたかったら、もっと苦労しなきゃあ」と言い放った。


「僕はそんな簡単につかまるような安い男じゃないんだから」




Solitary Island―163―




「もうすぐだよ美恵、そこの角を曲がればエアーダストハッチが――」

徹の言葉が途切れた。天井が崩れ、ハッチを塞いでいたのだ。
瓦礫が邪魔してとても開きそうにない。
「さっさと片づけるぞ徹」
直人は袖をまくり、すぐさま作業に取りかかった。
徹は力作業が嫌なのか舌打ちした。
「徹、私も手伝うから」
しかし美恵が瓦礫を手にすると、すぐに態度を改めた。


「君がそんなことすることはないよ」
徹は美恵の手を握り、「この綺麗な手が汚れるじゃないか」と囁くように言った。
「徹、口説き文句なら後で好きなだけほざけよ。時と状況を考えろ」
直人が忌々しそうに言った。
「相変わらず融通の利かない男だな君は。だから恋人ができないんだよ」
「文句を言う前に働け」
美恵も袖をまくりあげ働らこうとした。


(え……?)


一瞬、何か得体の知れないものの感じて顔をあげた。
しかし目の前には何もない。この場にいるのは美恵と徹と直人だけ。

(気のせいね。あんな事があったから過敏になっているんだわ)

美恵は作業に戻った。しかし、どうにも気になる。
何気なく顔をあげると廊下の角からシルエットがのびていた。




(何っ!?)

さらにロープが鞭のように飛んできて美恵の足首にからみついた。
同時に凄まじいパワーで引っ張られ、美恵は転倒した。

「きゃぁぁ!!」

美恵!?」
「何だ!?」

徹と直人の前で仰向けに倒れた美恵が猛スピードで引きずれてゆく。
美恵!!」
徹が銃を構え発砲した。連続する銃声の中、ようやく美恵の体が停止した。
美恵は、すぐに上半身を起こした。足首に巻き付いているロープが目に入る。
徹の射撃によって切り離されてるものの、それでもぞっとする。
慌てて足首からはずし放り投げた。


美恵、大丈夫かい!?」
「徹」
美恵は徹の腕につかまると立ち上がった。まだ動悸はおさまっていない。
獣にすぎないFがこんなマネをするはずがない。
姿は見えずとも美恵には襲撃者の正体が嫌というほどわかっていた。
それは徹や直人も同じらしく、鋭い目で廊下の角を睨みつけている。
徹は美恵を自らの背中に隠すと、「出てきたらどうだ」と強い調子で言った。




「くっくっく……やっと追いついた」

浅黒い肌と黒い巻き毛を持つ、あの恐怖の男・黒己が姿を現した。
黒己を見た瞬間、美恵の全身に冷たい電流のようなものが走った。

「と、徹……私」

美恵は思わず徹の上着をぎゅっと握った。

「大丈夫だ美恵。君には指一本触れさせない」

徹の言葉には一片の偽りもないだろう。だが、その誓いを実現するためには、黒己との戦いは避けられない。


「決着をつけてやる」

直人も戦闘モードに入っていた。
特選兵士2人がかり、此方が有利のはずなのに美恵は安心できなかった。
黒己に焦りの色が全くないのだ。
余裕なのか、それとも状況がわかっていないのか、どちらにしても得体の知れない恐怖だけが倍増していく。
そんな美恵の不安に気づいているのか、黒己は粘着的な笑みを浮かべた。




「まずは、おまえの服を引き裂く」

平静を崩すまいと心がけていた美恵の決意は、そのたった一言の台詞により大きく揺さぶられた。

「次に下着をはぎ取り、肌を露わにする。そして俺の触手を――」

精神的限界を越えたのは美恵ではなく徹だった。


「ふざけるな、八つ裂きにしてやる!!」


美恵を熱愛している徹の前で黒己は、言ってはならない言葉を連続して吐いた。
それだけでも徹にとっては万死に値する。


「徹、落ち着け!」

冷静だったのは直人の方だ。今まさに黒己に飛びかかろうとした徹の肩をつかみ制止したのだ。
「どういうつもりだ直人、邪魔するなら、君も容赦しないよ」
「……嫌な臭いがする」
「何だって?」
徹は、はっとした。黒己は、小さく舌打ちしている。


「……科学省の特別製のガソリンね」
美恵にも覚えのある臭いだった。科学省が開発した臭いの薄いものだ。
よく見ると黒己の足下が濡れている。
徹が怒りにまかせて飛びかかっていたら点火して焼き殺すつもりだったのだろう。

「……その顔が醜くなれば、美恵も貴様達を見捨てるはずだと思ったのに」

黒己は心底残念そうに言った。














桐山は走った。迷路と有毒ガスの二重のトラップの中を。
スピーカーを通して始終紫緒の笑い声が聞こえてくる。
桐山が感情の希薄な人間でなければ、怒り狂っていただろう。

『ほうら、鬼さん、こちら』

桐山は左折した。紫緒の姿はどこにもない。

『どっち見てるの?僕はここさ、早くつかまえてみてよ。ふふふ』

今度は右折した。やはり紫緒はいない。
しかし紫緒の嘲笑だけは常に聞こえてくる。
ひとの気配を感じ、桐山はスピードアップした。
そして突き当たりを曲がると、距離こそあるが、ようやく紫緒を発見したのだ。


「見つかっちゃったかな」


台詞とは裏腹に、その口調は余裕たっぷりだ。
焦りの色など微塵もない態度の理由はすぐに判明した。
紫緒が懐からリモコンを取り出しボタンを押すと、天井の一部が下がってきたのだ。
紫緒は嫌みたっぷりの笑みを浮かべながら手を振っている。
しかし、その顔はすぐに見えなくなった。
顔だけでない、ボディも手足も、おりてくる天井に阻まれ見えなくなってゆく。
それでも桐山はスピードをあげた。そんな桐山の努力をあざ笑う紫緒の声だけが大きくなってゆく。
もはや走り抜けることは不可能。
しかし桐山は停止せず、今まさに閉じられる寸前の天井と床のわずかな隙間に滑り込んだ。




間一髪、桐山が抜けると同時に背後から、がちゃんと天井と床がぶつかり合う音がした。
これは紫緒には計算外だったようだ。
「そんな!」
紫緒が両手で髪の毛を鷲掴みにしてヒステリックな表情を浮かべている。
「ここにはガスはないんだな」
桐山は大きく深呼吸した。
「もう逃がすつもりはない。理解してくれるかな?」
あくまで冷静な桐山に紫緒はますます感情的になった。


「……何を図に乗っているの?ねえ、まさか僕に勝てるなんて思ってないよね?ねえ、ねえ、ねえ!」
紫緒の表情は般若のように恐ろしく変化している。その形相に美少年の面影は一切ない。
「勝ち目のない勝負を挑む人間はいないと思うが?」
そんな紫緒に対し相変わらず冷静な桐山。恐れを知らない桐山に、紫緒の怒りは頂点に達した。
「ねえ、わかってる?」
紫緒が背後に回していた手を前に出した。その手には、それぞれ何かが握られている。
ヨーヨーだろうか?球状のものが極細のチェーンに繋がれている。
紫緒は、その鎖を振り回し始めた。ひゅんひゅんと独特の音が鳴り出した。


「こんなに僕を馬鹿にしてくれた男って君が三人目なんだよ」
ひゅんひゅんという音は徐々に鋭くなってゆく。
「一人目は愛しいひとだった。二人目は嫌みったらしい同胞。どちらも生きてるよ。
でも僕にだってプライドがある。僕を馬鹿にする人間は三人もいらないんだ。だから――」
紫緒が連続して武器を投げてきた。


「三人目の君には逝ってもらうよ!」


回転しながら紫緒の武器が飛んでくる。
桐山は頭を低くして紙一重でよけた。さらにジャンプして二つ目もよけた。
だが紫緒は口の端をつり上げ、いやらしい笑みを浮かべたのだ。桐山は、はっとして振り返った。
最初によけたはずの武器がブーメランのように方向転換して再び襲ってきたのだ。
さすがの桐山も、しまったと思った。その瞬間、腕に鎖が巻き付いた。
嫌な予感がして外そうとすると、二つ目の武器が足に絡み付き、全身に電流が走ったのだ。
桐山は盛大に倒れた。しかし、まだ電流は桐山の体を蝕む。




「ふふふふふ」
紫緒の笑い声だけは意識の彼方から微かに聞こえてくる。
同時に足音が近づいてくるのもわかった。
桐山は力を振り絞り己の自由を奪っている電圧の鎖をふりほどいた。
それでも体には強い痺れが残っている。立てない。

「もう終わりかな?」

紫緒の声がやけに大きい。ゆっくりと顔をあげると、ほんの1メートルほど先に紫緒が立っていた。

「すぐには殺さない」

紫緒は桐山の前髪をつかんだ。


「ふふ、綺麗な顔。でも、もうすぐ……もうすぐ」
紫緒はナイフを取り出した。その先端が嫌な光を放っている。
桐山は腕を上げようとしたが、自由に動かない。
「だーめ、ダメダメ。もう君は僕が仕掛けた蜘蛛の巣にかかった虫。後はじっくりと殺されるだけなの」

(……天瀬)

意識が朦朧としていた桐山だったが、美恵の姿を思い浮かべた途端に僅かな力がこみ上げてきた。
気力を振り絞り紫緒に体当たりした。
紫緒がよろけたのは、桐山には、もう抵抗する力もないだろうと完全に油断していたからだろう。




「何て往生際の悪さ。ああ、どうしてくれよう!」
桐山は走った。いや走ったつもりだった。足がもつれて上手くうごけない。
その様は、まるで転倒寸前なほど滑稽なフォームだった。
紫緒との距離が開いたが、そんなもの紫緒が徒歩で簡単に縮められる程度だった。
だが、紫緒はぎょっとした表情を見せた。桐山がリモコンを手にしていたからだ。
紫緒に体当たりした瞬間、桐山は紫緒の懐から抜き取っていたのだ。
紫緒は、しまったと思った事だろう。だが桐山がリモコンのスイッチを押す方が早かった。
リモコンの操作方法など桐山は知らない。ただ運命の神に全てを託して、適当に押した。
賭けだったが、結果的に桐山は賭けに勝った。
天井からシャッターが素早く降りてきて、桐山と紫緒の間を完全に遮ってくれたのだ。


「僕を馬鹿にして!」
紫緒の恨みがましい怒声が聞こえてくる。桐山はゆっくりと体を起こして壁に背を預けた。
これは一時しのぎでしかない。一刻も早く戦闘態勢を整える必要があることを桐山は十分理解していた。
大きく深呼吸をすると、まだ不自由な体で立ち上がった。
視界の隅に、先ほど放り投げた紫緒の武器が入った。
桐山は、それを拾い上げると、ゆっくりと歩きだした。

(このボタンは天井を操作するものだった。だったら、こっちのボタンは……)









「許さない、許さない!」

紫緒は怒りの形相で全力疾走していた。
圧倒的優位からの桐山の逆襲は紫緒にとって許しがたいものだった。
勝利を確信していたぶりぬいてやろうと思っていた自分が馬鹿みたいではないか。
この悔しさを拭うには桐山の血が必要なのだ。
迷路を支配するためのリモコンを奪われたのも痛かった。
しかし桐山は、あのリモコンの操作方法を知らない。迷路が変化する前に勝敗を決すれば問題はない。
紫緒は迷路を熟知している。変化しない限り目を瞑って歩いても迷うことはないほどだった。
桐山の元に辿り着く最短距離も、当然知っている。

(次の角を曲がれば彼はいるよ!)

紫緒はスピードをほとんど落とさずに角を曲がった。
思った通り、桐山はそこにいた。
まだ痺れが抜け切れていないのだろう。壁に手を突いてふらふらと歩いている。


「みーつけたー!」

紫緒は狂喜の笑みを浮かべながら、さらにスピードをあげた。

「鬼ごっこはこれで終わり。二度と僕から逃げられないように、まずはアキレス腱を切断するからね!」

紫緒は再び桐山をいたぶるイメージを思い浮かべた。だが、その想像は一瞬で終わった。
桐山が、こちらを、きっと睨みつけてきたのだ。
その目はダメージを負って動けない人間のものではない。
それを裏付けるように、こともあろうに桐山は紫緒のお気に入りの武器を投げつけてきたのだ。
武器の威力は持ち主である紫緒が誰よりも知っている。
紫緒は心底ぞっとした。急停止して真横に跳び攻撃を避けたのだ。
その時だ。天井が紫緒めがけて急降下。とんでもない展開に紫緒は慌てて背後に跳んだ。
圧死こそ免れたが、そこに回転しながら戻ってきた武器と激突し、紫緒の全身に電流が容赦なく流れた。




「うわぁぁー!!」

紫緒は盛大に倒れて、七転八倒した。

「……な、何て可愛げのない男なの」

起き上がろうとするも、もはや自由のきかない身だ。しかし、その瞳には赤い色が燃え盛っている。
「潔く死ねばいいのに!」
罵倒とは裏腹に思うように動けないことに紫緒は焦っているようだ。
感情が希薄な桐山にも、それがわかった。

お互いに思うように体を動かせない身。
条件は互角、第二ラウンドの開始だった――。














「……いい加減にしてよ」

美恵は拳を握り締め、突き放すように言った。


「私は最初からあなたなんて、これっぽっちも好きじゃなかったわ。顔の傷なんか関係ないわよ!」


黒己の形相が変貌したが美恵は構わず続けた。


「……私もあなた達F5と同じ様に科学省に踏みにじられた人間よ。
あなた達が奴等に復讐したい気持ちはわかる。私だって科学省の連中は大嫌いだから。
正直いって、あなたにも少しは同情してたわ。
でも今は……あなたなんて最低最悪よ!二度と顔も見たくないくらいにね!」


黒己の表情はこれ以上ないほどドス黒く変化していった。
徹は「いいぞ美恵、もっと言ってやりなよ」と煽っている。
直人も「しつこい男には、はっきり言うのが1番だな」と、とどめを刺す始末。




「……美恵、今の言葉……」

黒己は怒りで全身が震えていた。すでに点火されていた導火線を美恵はさらに短くしたのだ。

「……嘘だといえ」

絞り出すように言った黒己に答えたのは美恵ではなく徹だった。


「まだわからないのか。おまえは美恵にとっては迷惑なだけの男なんだ。嫌われてるんだよ!
いい加減に、気づいたらどうだ、このストーカー!!」

黒己の中で何かがぶちっと大きな音をたてた。




【残り21人】
【敵残り6人】




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