黒己は立ち上がると、口の端にそっと指を這わせた。殴られたときに口を切ったようだ。
指先が赤く染まった。それをペロッと舐める。
「Ⅹ4にⅩ5か……フン!獲物のほうからわざわざ出向くなんて……な」
黒己は前髪をかきあげ、「おまえたちの死体を土産にして蒼琉に叩きつけてやる」とはき捨てた。
「それは違うな」
秀明は、黒己の言葉を受けて、「オレがおまえを殺してF5に宣戦布告をするんだ。理解できたか?」だ。
「……可愛くない奴。オレの美恵とは全然違う」
その瞬間、全く無表情だった4人の顔色が僅かに変わった。
「……美恵だと?」
顔色が変わったのは桐山たちだけじゃない。先ほどまで命の危険と隣り合わせだった貴弘もだ。
そして、思い出した。黒己が謎の男から『あの女を一晩だけなら』と言われハイになったことを。
「ま、まさか……まさか、貴様!!あの女というのは天瀬のことなのか!?」
「そうだ」
黒己は両腕で自らの体をギュッと抱きしめた。
「やっと見つけた……オレの魂の半身……。あの華奢な体を壊してしまいたい。
この腕に抱き、オレの熱いエナジーでエクスタシーを極めるんだ……。
想像するだけでオレは熱くなる。ああ……オレは生きているんだという実感に涙する」
「……そうか。おまえたちのところにいるのか、オレの妻は」
「…………」
黒己は言葉を失った。
「……おまえ、今なんて言った?」
「おまえたちのところにいるんだな、と言った」
「……違う。その後だ。美恵は……美恵はおまえの……」
「オレの妻だ。ワイフだ。それがどうした?」
「…………」
オレは……オレは……。
黒己は眩暈がした。そして眩暈の次に怒りがこみ上げてきた。
「あ、あああああ……あの女ぁぁ……既婚者なんて一言も言ってなかったのに……。
オレを……男の純情踏みにじりやがって!!
オレを騙して裏切りやがったな!!許せねえっ!!思い知らせてやるっ!!」
Solitary Island―133―
「……感じたか?」
「ああ……規模は小さいが爆発があったな。そう遠くない、どうする直人?」
「一応、確認したほうがいいだろう」
直人は一応とは言っているが、確実に爆発の正体を確認するはずだ。
工作員の鉄則。周囲の異変はたとえ石ころ程度でもしっかり把握する事。
それが養父であり上官でもある菊地春臣の教えだった。
そんな直人を見て、これ以上ないくらいに、まずいと思ったのは薫。
薫はわかっていた。あの爆発が徹が関係していると。
多分、敵とやりあって、小型爆弾を使用したのだろう。
どちらが勝ったかはわからない。いや、まだ勝負自体ついてないかもしれない。
徹がかっているかもしれないし、F5が勝っているかもしれない。
もしも戦局がF5に傾いているのなら薫としては関わりたくない。
今、直人たちがかけつけて徹の味方をしようものなら薫にとっては非常に都合が悪いのだ。
徹には誰にも知られる事なく静かに逝って欲しい。それが薫のささやかな願いだった。
(本当なら、自らの手で残酷な殺し方をしてやりたいが、贅沢も言ってられない)
だから、そっとしておいてやって欲しい。それが薫の願い。
「様子を見てくる。あまり大勢で行くのも危険だからオレ一人で十分だ」
「おい直人、一人なんて危険だろ?もしF5だったらどうするんだよ。オレも行くぜ。ダチじゃねえかよ」
(……直人、俊彦。君達余計なことしすぎるんだよ)
薫は溜息をついた。
「二人とも今は動かないほうがいいんじゃないかな?」
「薫、何でだよ」
「ここは通常の戦場とはわけが違うんだ。情報が少ないのに迂闊に動くのはよくないよ。
せっかく集まった仲間が二つに分かれるなんて僕は反対だね。今は様子を見ることが肝心じゃないのかな?」
「それも一理あるけどさ。でも、仲間が巻き込まれていたらどうするんだよ」
「俊彦、お優しい君らしい意見だよ。でもね、感情に流されてどうするんだい?こういうときこそ、冷静になって……」
やけに反対する薫に直人は疑問を感じた。
「感情的になっているのはおまえじゃないのか薫?おまえ、随分と何かにこだわっているようじゃないか」
「……気のせいだよ直人。僕はただ仲間をこれ以上は失いたくは無い」
その薫らしくない白々しいセリフが決定打だった。
「……そういうことか薫。さては、助けに行かれたら困る相手がいるんだな。
晶か?おまえは、晶を合法的に葬ることに異常な執念燃やしているからな」
「何をバカなことを。僕は晶を良きライバルとこそ思え、そんな卑しい考えはこれっぽっちも持ってないよ」
「そうか。晶じゃないのか」
「当然じゃないか」
「行くぞ、俊彦。やりあっているのは徹のほうだ」
しまった!薫は心の中で舌打ちした。
「……はぁ。何で、こんなことになったのかな」
純平は気を失っている瞳を背負いながら、キョロキョロと辺りに気を配る事を忘れずにこっそりと廊下を走りぬけていた。
千鶴子と涙の別れを済ませた後、その余韻に浸る暇もなく、二人は行動に出た。
今は感情に溺れるよりも、仲間を捜す事が第一だと瞳が純平を説得したのだ。
悲しむ事は後で出来る。それよりも、まずは行動を起す事が肝心。
それは瞳が長年愛読している某週刊誌から学んだ美学でもあった。
ところが、非常階段を降りている途中で、どこからか爆発音が聞えた。
その途端、びびった瞳が足を滑らせ、そのまま階段を転がり落ち、踊り場でやっと停止。
純平が駆けつけると、完全に目を回して、さらに気絶していたのだ。
置いていくわけにも行かず、純平は瞳を背負って徘徊する羽目になったというわけだ。
「……瞳ちゃん……さっさと起きてよ」
呼びかけても瞳は起きる反応はない。
「……ん」
「起きた?」
「……ん……勝つのは……炎帝……負けるの、赤学……」
「なんだよ。寝言か……はぁ」
こんな時に綺麗なおねえさんが出てきてくれたらなぁ……最高なのになぁ。
「あたしのモノなのにぃぃー!!」
沙黄は恐ろしい形相で飛び掛ってきた。ナイフが鈍い光を放っている。
ナイフが振り落とされる。徹は一歩後ろに下がった。
紙一重で避けた。だが、沙黄はすかさず、今度はナイフを横にふりぬいた。
徹は、その手を蹴り上げた。ナイフが宙に浮く。沙黄はナイフに気をとられると思ったが違った。
その真っ赤なマニュキアが目に付く、鋭く尖った爪が徹の首に伸びてきた。
ガシッと首を鷲掴み。首に爪が食い込む、かなり痛い。
「あたしのモノのくせに、よくもあたしの美貌をっ!あんたのこと気に入ったから可愛がってあげようと思ったのに!!」
女とは思えない物凄い力。そのまま、壁に叩きつけるように押し付けた。
「誰だろうと、あたしの顔に傷をつけるなんて絶対に許せない!殺してやる!!その前に……その前にっ!!」
沙黄はニヤリと笑って徹の顔に急接近すると、ペロッと唇の端を舐めた。
「……貴様っ!!」
徹の目の色が変わった。美恵以外の女には触れさせたことも無かったのに!!
「殺す前に、それ相応の償いはさせてもらうわよ」
沙黄は、首を締め付けながら、空いた方の手を素早く徹の学生服の下に潜らせた。
「……ふふ。やっぱり服の上よりも、直接肌に触るほうがベストよね♪」
「おい、おまえ……」
「なーに?ふふ……もう感じちゃった?あたしのテクニック最高だものねぇ。
あたしに触られただけで大抵の男はいっちゃうのよ。すぐに下のほうもやってあげるから……」
ガンッ!沙黄の頭に衝撃が走った。徹がこともあろうに沙黄の右こめかみに蹴りを入れたのだ。
密着した状態で、こんな強烈な蹴りが来るとは思わなかった沙黄は完全に油断していた。
「きゃぁ!!」
ふっ飛ばされ床にたたきつけられる。
何!何よ、こいつ!!女を……女の頭を容赦なくけりやがった!!
敵とはいえ女の頭部……をよ!!
「……けほっ」
徹は少し咳き込んだ。首には爪痕がいくつもつき、血も滲んでいる。
「そんなに顔を変えられて腹がたつなら」
今度は徹が沙黄に飛び掛った。
「もっと腹が立つようにしてやるよ!!」
「……ひ!!」
バキっ!ガンッ!ドゴっ!!鈍い音が沙黄の顔から響きだした。
徹が二つの拳で交互に容赦なく沙黄の顔面を殴りだしたのだ。
(こ、この男……こ、こいつっ!!こいつはぁっ!!)
貴公子みたいな顔をして、平気で拳で女を殴れる男なんだ!!
沙黄は怒りよりも恐怖を感じた。女の顔を拳で殴れるなんて、徹の残忍性を甘く見ていた。
その華麗な風貌や物腰から、徹は少々甘ちゃんだとばかり思っていた。
しかし、自慢の美貌どころか、命が危ないのに恐怖に身を任せては入られない。
せっかく特撰兵士を見つけたのに捕獲せずに逃げ戻ったらどうなる?
(殺されるっ!!あたしは……蒼琉に殺されるっ!!)
確かに徹は残酷だが、蒼琉はもっと上のレベルに位置する残忍性の持ち主。
蒼琉を相手にするくらいなら、徹を相手にするほうがずっとマシだ。
だが、今はヤバイ。ちょっと調子にのりすぎた。
完全に徹が切れている。沙黄にとっては失礼な話だがセクハラが余程嫌だったらしい。
このままでは殴り殺される!沙黄は徹に気付かれないように爪をはがした。
赤いマニュキアはつけ爪。その下には鋭く尖った戦闘用の爪が隠されている。
「死ねぇ!!」
沙黄の爪が徹の首に向かって来た。徹は反射的に沙黄から身を引いた。爪が首をかすめる。
ツー……と、僅かだが血が滲む。危なかった、首を切られるところだった。
「よくも避けたね。でも次は無いよ!!」
沙黄は、「そらそらそら!!」と物凄いスピードで攻撃を繰り返した。
まるで手の動きが糸状にしか見えないくらいに速い!
間髪入れない怒涛の攻撃に徹は徐々に逃げ場を失い、ついに壁に追い詰められる。
「さあ切り刻んであげるよ。あたしを拒んだことを、あの世で後悔しな!!」
爪が横一直線にうなりを揚げた。しかし、徹は思いっきり体を低く下げた。
徹の身代わりとばかりに、壁に爪痕が残っている。
まるで熊がテリトリーを主張する為につける印のように鋭い爪痕。
「何で避けるのよぉ!!」
思い通りにことが運ばなかったことが沙黄の神経を逆撫でした。
再び爪を振り回してくる。もちろん徹は避ける。徹が避けるたびに、壁は次々と傷だらけに。
徹が沙黄を飛び越えようとジャンプすると、沙黄も負けじと飛んだ。
そして空中で攻撃してきた。今度は電灯が割られた。
「……いい加減に……しなさいよ」
確かに、このままでは埒が明かない。少々荒療治が必要だと、徹は攻撃に出た。
「ついに観念したのねぇ!!切り刻んであげるわぁ!!」
沙黄は一直線に向かってくる徹に爪を振り落とした。が、徹は、その手首をがっちり掴んだ。
「は、離せ!離しなさいよ!!」
「ああ、離してあげるよ。おまえみたいな女の手をいつまでも握っているほど悪趣味じゃないんでね」
徹は、沙黄の指を掴んでグイッと関節と逆の方向に力を入れだした。
(……ま、まさかっ!?)
沙黄は顔面蒼白になった。徹の意図を察したのだ。
「その前に、この指を使い物にならなくしてやるがな!」
「ぎゃぁぁぁー!!」
鈍い音がした。
「……はぁ、こんな時に綺麗なおねえさんが出てきて、『お願い助けて!』なーんて言ったら、すごく嬉しいんだけどなぁ……」
なーんてね。そんな都合のいいことあるわけないか。
ハハッと純平は笑った。が、その直後足音が聞こえだした。
しかも徐々に足音が近づいてくる。
「な、なんだ……?」
まさか、あの化け物?!純平は角からそっと顔を出し、廊下の向こうを見た。
「ひ……人殺しー!!」
「え?」
純平は呆気にとられた。
「……嘘」
ほ、本当に……本当に綺麗なおねえさんが走ってくるぅぅー!!
「しかも金髪美女なんてー!!」
純平は思わず手を上げてしまい、瞳を落としてしまった。
瞳は「……べ様ぁ」と、落とされても尚夢の中だったが。
「ど、どうしたの!?そんなに急いで!!」
ぶつかった。何を急いでいるのか、本当に純平など眼中になかったようだ。
「ちょっと!どこ見ているのよ!」
「す、すいません!」
「……あ、あいつが……あの悪魔がくるっ!!殺されるっ!!」
「ええ!?こ、殺される!?」
突然、見知らぬ女とぶつかったと思ったら、次は殺される発言だ。
「お、おねえさん、どうしたの?オレでよかったら力になるよ!!」
「あ、あんたみたいな凡人が何できるって言うのよ!!」
「よく見たら、おねえさん大怪我しているじゃないか。酷いな、誰にやられたんだよ!!
わかった。あの化け物だね。おねえさんも襲われたんだね?」
「あんたなんかと話している暇ないんだよ!!」
女はハッとして振り向いた。先ほど女が逃げてきた廊下の先から違う足音が!!
「き、来た!!」
「来たって、あの化け物が?」
「違う!人間だよ、でも女を女と思わないとんでもない乱暴者さ!」
「人間?」
もしかして、さっきの男みたいな連中か?
純平は焦った。焦ったが、まず最初に思ったのは自分は男だから女は守らなければという事だった。
「おねえさん、ここに!!」
純平は、一番近くになったドアを開けると中に入るように促し、ついでに瞳も中に入れた。
「オレが守ってあげるから安心して!絶対に物音立てたら駄目だよ、いいね?」
純平は知らなかった。その女が千鶴子を死に追いやった黒己の仲間だということを。
その女は心の中で笑っていた。このバカは、あいつの仲間だ。今は利用してやろうと。
純平の指示通りに部屋に隠れた。純平はすぐにドアをしめ、「中から鍵掛けてね」と念を押した。
その間にも足音が物凄いスピードで近づいてくる。
純平は必死になって走った。囮になるんだ、それが男の使命!!
「待てっ!!」
非常階段を降りると声が聞えた。暗くてよく見えないが相手はやはり男だ。
どこかで聞いたような声だったけど、そんなこと今の純平にはどうでもいい。
「逃がすか!!殺してやる!!」
こ、殺してやるだって?!やっぱり女を殺そうとしているだけあって、とんでもない悪人だ!!
顔は見えないけど、ヤクザみたいな顔をしているに違いない!!
純平はスピードを上げた。上げたが相手のほうがはるかに速かった。
あっと言う間に掴まった。だが掴まった瞬間、攻撃されるかと思ったがされない。
それどころか、「……なぜ貴様なんだ?」と妙な質問。
「……へ?」
目を開けて間近で初めて相手の顔を見た。
「……さ、佐伯?」
「どういうことだ?」
一瞬の隙をつかれ、沙黄が目潰しに怪しげなスプレーを掛けてきた。
それに気をとられた間に逃げられた。追ってきて掴まえたら相手は純平だ。
「金髪野郎が逃げてきたはずだ。どこに行った!?」
「……お、き、金髪って……ま、まさか……」
まさか、おねえさんを殺そうとしている悪人って佐伯?
「おまえ、そいつを見ただろう?」
「……えーと……その……」
「言え!隠すと為にならないぞ!!」
「あ、あの……その人をどうするつもり?」
「決まっている。息の根止めてやるっ!!」
「……な、なんだってっ!!」
「さあ、言え!!」
「……し、知らない」
「何だと?」
「……し、知らないよ……女のひとなんか見なかったよ」
「…………」
「ほ、本当だよ……き、きっと……違うルートを使って逃げたんじゃないか?」
「……根岸、オレは追いかけているのが女だなんて一言も言ってないぞ」
ギクゥ!!純平は嘘をつくのが下手だった。
「おまえ、あの女を庇っているのか!!あの女は敵だぞ、さっさと居場所を言え!!」
「い、言わないっ!!言えるわけ無いだろ!!どうして殺されるのわかってていえるんだよ!!」
「なぜ、あんな女を庇うんだ!!」
「女の人を守るのは男の使命じゃないか!!それに、あんな美女殺すなんて勿体無いよ!!」
「なんだと!!あんなクソ女のどこが勿体無いんだ、言え、でないと貴様も殺すぞ!!」
「い、嫌だぁー!!殺されのは嫌だ!!でも言いたくない!!
佐伯は間違ってるよ、酷すぎるよ!!あんな美女殺すなんて間違ってる!!」
「バカか貴様は!!女だろうが、相手は毒牙を持っているんだぞ!!」
「そんなはずない!!女に悪人なんているわけないんだ!!
もし、そうだとしても、おねえさんがそうなったのには何かわけがあるはずだ!!
でなきゃ、あんな綺麗なひとが悪さなんかするわけないだろ!!」
「まだ言うか……だったら、貴様から殺……っ」
徹の言葉がそこで詰まった。そしてガクッと、その場に膝をついた。
「……え?さ、佐伯……?」
徹の背中に銛のようなものが突き刺さっていた。
見上げると、非常階段の昇降口に、先ほどの女が立っていた。
「ありがと坊や。あんたのおかげで助かったわ。お礼に、あんたは楽に殺してあげる♪」
【残り24人】
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