瞬は微塵も悪びれずに、そう言い切った。
「……本当に、あなたがやったの?」
「ああそうだ」
パンっ!激しい音が瞬の左頬から聞えた。
微かに左頬が赤く染まっている。余程強い力だったのだろう、僅かに俯いている。
そして、同じ音が、その後連続して三回響いた。往復で平手打ち。蒼琉と紫緒は面白そうに見ていた。
紫緒などは、ヒュウ、と軽く口笛さえ吹いている。
瞬は俯いていたが、ゆっくりと顔を上げ美恵を見た。美恵はジッと瞬を真正面から見詰めている。
怒りとか悲しみとか、そんな感情は何も読み取れない。ただただ、ジッと瞬を見詰めていた。
お互い一言も言葉を発せずに、ただお互いの顔を見ていた。
静寂だけが二人の間に流れている。
「気が済んだのか?」
静寂を破ったのは瞬でも美恵でもなく蒼琉だった。
「いいえ、まだよ。彼と二人きりで話がしたいわ」
Solitary Island―124―
「もしも連中が瞬と本気で手を組むつもりなら美恵の身は当分は安全だろう」
「何故だ?」
秀明の言葉に桐山は即座に質問で切り返した。
早乙女瞬は裏切り者だ。その男が美恵を守ってくれるわけがない。
桐山で無くても、普通ならそう考えるだろう。
「瞬にとって美恵は特別な人間だからだ」
「おまえのように……か?」
秀明は瞬の異父兄。だからこそ瞬は秀明を人一倍憎んでもいる。
「ああ、そうだ。少なくても瞬と同じ人間は美恵しか存在しない。その美恵を殺せる人間なら、もう奴に禁忌はない」
たった一人の人間。他の誰も代わりなど出来ない人間。
瞬にとって、美恵はそういう人間だった。
だからこそ、どんなに科学省を憎み、その科学省側の人間であるⅩシリーズを憎もうと美恵だけは憎みきれなかった。
二度も命を助けた事が何よりの証明。しかし、だからと言って、必ずしも美恵に危害を加えないとも限らない。
むしろ、愛情が仇となる場合だってある。
秀明と桐山のやり取りを聞いていた隼人は、その実例を嫌と言うほどその目で見たのだ。
(……あの人もそうだった。誰よりも美恵を愛していたはずなのに……。
その美恵を最も最悪の形で裏切り傷つけた。早乙女瞬がそうでないという保証は一切ない。
むしろ……洗脳教育を受けて育っている以上、その危険性は高いはずだ)
「秀明、おまえは早乙女はもう完全に手遅れだと思っているか?」
「どういうことだ?」
「早乙女はおまえの弟だ。殺すことに何の疑問もないのか?」
「ない。上の命令は絶対だ」
「そうだったな。それがおまえだ」
秀明はいつもこうだ。任務には忠実、命令には絶対。科学省は文字通り優秀な人間兵器を作り出したわけだ。
「秀明、おまえは上の命令が無かったら、あいつをどうするつもりだった?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。抹殺を考えたか?仮にもおまえの弟だぞ」
「…………」
秀明は、まるで考えていなかったらしく、少しだけ間をおいて、「考えた事もない」と、言った。
「だが、仕掛けてきたのは向こうのほうだ。非常事態には自らの判断に従うが、基本は軍法。
軍法上、瞬が反逆者であることには変わりない。だったら、やはり抹殺しかないだろう」
「そうか」
隼人は、その答を予想していたようで、驚きもしなかったが、少し残念にも思った。
「オレはおまえが羨ましい。オレはかつて上が下した抹殺指令に躊躇した」
それはもちろん姉の美也子を始末しろと命令されたことだった。
出来ることなら逃がしてやりたかった。命だけは救ってやりたかった。
でも、結局自分に出来たことは、自らの手で楽に殺してやることだけだった。
「もしもオレがおまえの立場なら、あいつにかかった洗脳を何とかしたいと思うだろう。
オレの甘いところだ。軍人としてはあってはならない発言だろうな」
「その洗脳が解けなかったらどうする?」
そうだ。科学省の中でもトップクラスだったマッドサイエンティストの洗脳が簡単に解けるはずがない。
植え付けられた憎しみの呪縛から解放される方法はたった一つ。
「秀明……奴を殺せ。それがあいつを救ってやれる唯一の方法でもある」
「おまえ、それで逃げ出したのか。相変わらず口喧嘩に弱い奴だな」
晶はあきれたように言った。
「うるせえ!てめえも、その場にいたら同じ事言っただろう!!」
「だろうな。正直、オレもおまえが美恵を守ろうとした可能性は全く考えていない」
勇二は、仲間と袂をわかち、徘徊しているうちに偶然にも晶と合流してしまった。
晶は勇二の様子が尋常ではなかったので、何があった?と質問してきた。
勇二はわめきながら、美恵がさらわれたこと、その件で文句を言われたことを言った。
もちろん詳細な内容までは一切言ってない。
しかし、勘のいい晶はすぐにピンときたらしく、「なるほど、それでわかった」と意味ありげに言った。
「おまえ、直人たちに美恵をわざと渡したと責められたんじゃないのか?
普段の態度が態度だから疑う要素は十分すぎるほどある。それで頭にきて、大喧嘩した挙句、逃げてきたんだろう」
完全に図星をつかれ、勇二は、「ふざけたことを言うな!」と大激怒。
しかし、人間は本当のことを言われると切れる。まして、勇二はその典型的なタイプなのだ。
勇二がまともな反論も言えずに怒鳴りだした事で晶は自分の推測は事実だと確信した。
「オレは単独で動く。おまえは戻れ」
「は!誰があいつらの所に戻るか!!」
「あいつらも美恵がさらわれて気が立っているだけだ。
美恵が殺される心配はないとわかれば落ち着くだろう。戻って、そのことを教えてやればいい」
「美恵が殺される心配がないって、どうして言い切れるんだ?」
「殺すためなら最初からわざわざさらったりしないだろう」
「……ぅ」
そうなのだ。黒己は美恵には自分の子を生んでもらうと言って拉致した。
今頃、美恵は……嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「勇二、おまえ、連中の目的知っていたのか?」
「……な、何だと?」
「顔に書いてあるぞ」
「……ちっ!」
「図星か。まあ、そういうことだ。しばらくは美恵には危害は加えられないだろう。
いくらなんでも雅信みたいに、さらってすぐにやろうなんて軽い奴がF5にいるとも思えない。
この戦いが終わって島を脱出されたら、その時はヤバイだろうがな」
「おまえは何で奴等の目的知ってるんだ」
「大体見当はつく。これを見てみろ」
晶はポケットから例の資料を折りたたんだものを出して勇二に投げた。
勇二はそれをキャッチして開いたが、「何て書いてあるんだ?」だ。
「おまえ、ドイツ語読めないのか?」
「悪かったな!!英語と中国語の日常会話程度しかわからないようなバカで!!」
「そうか、おまえ外国語苦手だったからな」
「てめえ、オレをバカにしているのか!!」
「落ち着け、説明してやろう。連中は種族維持本能が強いんだ。連中は7人いる。男が5人、女が2人だ」
「女がいるのかよ?だったら、なんでわざわざ美恵をさらったりしたんだ。その女とくっつけばいいじゃねえか!!」
「同族同士では子供は出来ないんだ」
晶は他にもF5に関する重要な情報を教えてやった。
勇二は黙って聞いていたが、みるみるうちに青筋がたってきた。
「じゃあ、何か!?今度のことは連中に秘密がばれた科学省のミスじゃねえか!!」
「そういうことだな。だから奴等も焦ったんだろう。
そんな時に、優秀な遺伝子を持つⅩシリーズの女がやってきた。
繁殖相手として気に入って、これ幸いとさらっていったんだ。
だから美恵には、しばらくは危害は加えられない。戻って、そう教えてやれ。
そうすれば、あいつらも冷静になって落ち着いて作戦を練るだろう。
ああ、そうだ。間違っても繁殖相手として気に入られたことは黙ってろよ。
それを知ったら冷静になるどころか、怒り狂う奴が数名いるからな」
「2人っきりで話をしたいだって?そんなこと通ると思ってんの?」
紫緒がフフといやらしい笑みを浮かべた。
「いいだろう」
「蒼琉!?」
しかし、蒼琉が呆気なく承諾。蒼琉がOKを出した以上紫緒が文句をいう権利はない。
「ただし二人そろって逃げようなんて考えないほうがいいぞ。
その時は、仲良くあの世への片道切符を無料配布してやることになる」
蒼琉は2人を、ある部屋に連れて来た。
「科学者たちがミーティングルームに使っていた部屋だ。
防音設備が整っているからオレたちに会話の内容はわからない。安心してオレの悪口でもなんでも話せ。
もちろん、鍵はかけさせてもらう。それから時間は10分だけだ、いいな」
2人は部屋に入れられた。最初は静寂、でも時間がないので黙っているわけにもいかない。
「……なぜ、ここに来た?」
口を開いたのは瞬のほうだった。
「それはこっちの台詞よ。なぜ、ここに来たの?Ⅹシリーズのあなたがなぜ?」
「……その様子だと真実を知ったようだな」
「ええ、あなたが天瀬瞬だという真実をね」
「その名前を言うなっ!ずっと昔に捨てた名だっ!!」
突然の瞬の激情に美恵は一瞬息を呑んだ。
「……オレの名前は早乙女瞬だ。あいつらに与えられた姓はとっくに捨てた」
「そうね。でも、一番捨てなければならないものをあなたは捨てようとしてない」
「何だと?」
「晃司たちを殺そうとしている。その為には宿敵であるF5まで利用して」
「オレの目的は科学省を潰す事だ。その為には科学省に忠実な人間を殺すのは当然だろう」
「違うわ!!」
美恵は必死になって訴えた。
「あなたが晃司たちを殺そうとしているのは敵だからじゃないはずよ!
晃司たちを憎んでいるから……そうでしょう?
でも、それは、あなた自身の感情ではなく、洗脳で無理やり植え付けられたものなのよ。
あなたは、自分を連れ出した塩田を一番憎んでいた。その塩田の呪縛に縛り付けられている状態に過ぎないのよ。
あなただって、最初から晃司たちを憎んでいたわけじゃないはずよ。
思い出して。どうして、あなたが晃司たちを殺そうと思ったのか。
それは、塩田の命令だから……あいつに洗脳されたからなのよ」
「わかったふうな口を聞くな」
「だったら、晃司たちを憎む理由は何?
塩田に憎めと言われたこと以外で理由はあるの?」
瞬は答えられなかった。
「最初から晃司たちに憎しみしかなかったの?」
最初……最初に晃司たちの存在を知った時、自分は彼等を憎んだか?
答えはNOだった。だが、そんなこと口に出せない。
出せないが瞬が図星をつかれているのは美恵にもわかりすぎるくらいにわかる。
瞬が目をそらし、言葉を発せなくなったのが何よりの証拠だから。
「お願いよ。もう、こんなことはやめて。あなたがやろうとしていることは、結局は塩田の思う壺じゃない。
その為に肉親同士で殺しあうの?何の関係もない人間まで巻き込んで、何人も殺しているのよ。
あなたは科学省を潰そうとしているつもりでも、本当は捉われているだけだわ」
「…………」
「私と一緒にここを出ましょう。私がこれからはずっとそばにいるから」
瞬はそむけていた顔を美恵に向けた。
「オレと一緒にいる……だと?」
「ええ、そうよ。もう、あなたを一人ぼっちにはしない。
私があなたの鞘になるわ。だからお願い。もう、こんなことは止めて」
「自分が何を言っているのかわかっているのか?
晃司や秀明たちと別れて……オレを選ぶというのか?」
晃司たちと別れて……それは必然的に一生の別れを意味していた。
「……ええ、そうよ」
「おまえまで科学省の裏切り者になるぞ。
裏切り者がどうなるか、おまえも知っているだろう」
「わかっているわ」
「それでも、オレの為に晃司たちを捨てるというのか?」
「あなたが、こんなことをやめてくれるなら」
「……オレの為に……か」
瞬は自嘲気味に笑った。
「……嘘つきめ」
「瞬?」
「たとえオレについて来ても、それはオレのためじゃない。晃司や秀明の為なんだろう?それとも仲間たちの為……か?」
「それもあるわ。でも、あなたを見捨てられると思うの?
私があなたの立場だったかもしれないのよ。もしも……男に生まれたのが私で、あなたが女だったら……。
今の立場は逆だったわ。どうして、あなたをほかっておける?だから……だから、お願い、もうやめて……」
「お願いよ、兄さんっ!!」
「…………」
瞬は何も言わなかった。ただ、初めて美恵の目から溢れた涙だけは直視できない。
泣かせたのは自分だ。そう思うと反射的に顔をそらした。まるで、それしか何も出来ないように。
「お願いよ兄さん。もう、やめて」
「…………」
「攻介を殺されて……正直、あなたを憎んだわ。でも憎み切れないの」
「…………」
「お願いだから、これ以上あなたを憎ませないで。
天瀬瞬の……お父さんの血を引いている人間は私と兄さんだけなのよ。
たとえ母親は違っても、私には同じ父親を持つたった一人の兄だわ。
その兄を憎みたくない。塩田なんかの思い通りにさせたくない。
お願いだから、あいつに洗脳される前のあなたに戻って。
その為なら、私も全てを捨てる。あなたについていくわ。だから……」
母親こそ違え、血の繋がった、たった一人の妹。それが瞬が切り捨てようとしても出来なかった美恵の存在だった。
初代の天瀬瞬の血を引いている人間は自分と美恵だけ。
皮肉なものだった。その二人が今は敵同士にわかれているのだから。
「おまえもオレの殺害対象だ」
「……瞬?」
「何度も殺そうとした。それなのにオレはおまえの命も助けた。
なぜ殺すはずのおまえを助けたのかはオレにも理由がわからない。
ただ一つだけはっきりしていることがある。オレはすでにアクセルを踏んだ。二度とブレーキは踏めない。
それが今のオレだ。止めたいのならオレを殺せ。
それ以外にオレを止める方法はないぞ。オレは……決して止めはしない」
「…………」
「誰がなんと言おうと、オレは絶対にやめない。もう引き返せないところに来ているんだ」
もう……言葉が出なかった。後は沈黙が流れるだけ。
しばらくすると、「時間だ」とドアが開いた。
美恵は涙の乾いた表情で、それ以上に乾いた心で、たった一言だけを瞬に言った。
「私の兄は完全に死んだのね。もう――ずっと、昔に」
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