海も空もはてしなく広く、その雄大な景色に人工的なものは何もない。
船も飛行機も何一つない。
「……どうしよう」
美恵は呆然とただただ見詰めるしかなかった。溜息すらでなかった。
テニス少年漂流記―1―
三日前に美恵は氷帝テニス部のレギュラー達と共に豪華クルーザーに乗り込んだ。目的地はジュニア選抜合宿所。
もっとも合宿とは名ばかりで、実はテニスの優良校のバカンスを兼ねた親睦会。
テニス協会のお偉いさんが金持ちらしく、その所有であるプライベートアイランドの別荘に招待されたのだ。
美恵もマネージャーとして参加が認められた。
どこの海かは知らないが南の島のプライベートビーチでのバカンスということだった。
跡部は自身も海外にプライベートビーチを所有しているせいか、特に珍しくもなかった。
しかし他のレギュラー達は大はしゃぎだった。何と言っても、遊びたい年頃なのだから。
本当に誰もが楽しそうだった。だが美恵は違った。
美恵は、この合宿を最後にマネージャーをやめるつもりだったのだ。
(……景吾達はどうしているかしら?)
美恵は今ひとりで砂浜にいる。周囲には誰もいない。
美恵は跡部の幼馴染だった。その縁で氷帝テニス部のマネージャーになったのだ。
マネージャー業はきついけど楽しかった。苦労は仲間との絆を深める試練でしかなかったからだ。
跡部をはじめとする目立つ男子生徒目当てにマネージャーになる女生徒は大勢いた。
しかし誰もが辛い仕事に耐えられずに一ヶ月程度で退部する。
そんな中で美恵は立派にマネージャー業をやり遂げてきた。
もはや彼女なしの氷帝テニス部は考えられないほどかけがえのない存在となっていた。
――でも、それもこれも数か月前までの話だ。
(きっとすぐに救助されるわ。それまで一人で頑張らないと)
美恵達を乗せたクルーザーは嵐に遭遇して沈没した。
気がついたときには、この島の砂浜に打ち上げられていたのだ。
それほど大きい島というわけではないが、一日で探検しきれるほど小さくもない。
海岸線を半日以上歩いたが人工物らしきものは全く見つからなかった。
(認めたくないけどここは無人島だわ……きっと山の向こう側にも森や海しかないわね)
デジタル式の腕時計が壊れていなかったおかげで日時がわかるのは不幸中の幸いだった。
まる一日、この砂浜で気絶していたので空腹だ。とにかく何か食べないと。
(無人島なら貝が大量にあるわよね)
美恵は砂をかきだして潮干狩りに精を出した。思ったとおり、たくさんの貝をとることができた。
次に美恵は近くの森から大量の枯れ枝を集めた。
「火をおこさないと……えっと」
ズボンのポケットから財布を取り出すとコインを数枚、手に平に落とした。
「良かった」
穴の空いたコイン(50円玉)があった。これを海水に浸せば穴に水が付着して即席のレンズができる。
南の島だけあって日差しが強いおかげで数分もすると火が発生した。
「……景吾達はちゃんと食事とってるかな」
火の後始末をしながら美恵は仲間達の事が気になって仕方なかった。
(何心配してるのかしら。子供じゃないし、男が八人もいるんだから大丈夫よ。
それよりも、しばらくは救助隊が来ないかもしれない。
遭難してから、まる一日たっているのに救助ヘリも船も見えないもの)
国内の山で遭難しても、すぐに救助されないのだ。まして異国の無人島では。
(4、5日……いえ一週間くらいみた方がいいかも。ここなら飢えることも寒さに凍えることもない。不幸中の幸いだわ)
美恵は覚悟を決め行動を開始した。
「まずは寝床を確保しないと……ね」
この島が安全だという保証は無い。危険な動物が存在しているかもしれない。
仲間がいれば交替で見張りをすればいいが、単独ではそうもいかない。
(意地なんか張らずに景吾達と合流した方がいいかも……)
島を探検している時に跡部達を見かけた。しかし美恵は、彼らから逃げた。
跡部達は同じ島に美恵が漂着したことを知らない。きっと海に沈んだと思い込んでいるだろう。
彼らと一緒にいた方が危険は少ないし、色々と協力できるはず。しかし美恵にはそれができなかった。
(私が姿を現したところで、景吾達は厄介者ができたと疎ましく思うだけだわ。そのくらいなら一人でいた方がマシよ)
美恵は海岸線に沿って歩き出した。
「洞窟でも見つかればいいんだけど……」
救助隊が現れたときのことを考え、なるべく海岸から離れたくはない。
洞窟の中なら雨や獣から身を守れる仮の住居になる。
しかし、あるのは砂浜ばかり、しばらく歩くと今度は岩場が見えてきた。
「……あれは!」
美恵はとんでもないものを発見した。岸壁の向こうに見えたのは間違いなく自分達が乗ってきたクルーザーだ。
「座礁してたんだ」
無線機が使えるかも!それに食料だって手に入るかもしれない。
美恵は岸壁から海に飛び込んだ。幸いにも船との距離は僅かだった。
豪華クルーザーは先端が底に突っ込んだ形で、船尾が海面から出ている。
かなり傾いており、肝心の操縦室は海の中ときている。
美恵は迷わず水中に没している操縦室に向かった。無線機だけを拾い上げればいい。
(どこ、どこにあるの?)
思ったよりも水深が深い。水圧が美恵の行く手を阻んだ。
(あった!)
美恵は必死に無線機をかかえ急浮上した。
「通じればいいけど……」
長時間水につかってはいたけれど、防水加工が施されているはずだから大丈夫なはず。
「動いて……!」
無線機なんていじったことはないけれど、美恵は必死に無線機を動かした。だがピーピーとたまに雑音が聞えるだけ。
「何よ、完全におしゃかじゃない!」
美恵は頭にきて無線機を壁に投げつけた。
(……頭にきている場合じゃなかったわ。食料をさがさないと)
美恵は居住ルームに向かった。跡部家の豪華クルーザーだけあって豪華客船並みにでかい。
美恵に宛がわれていた寝室は幸いにも水没してなかった。
私物は全て残っている。着替えとシーツを確保できた。
(後は食料と……それに役に立ちそうな道具もいるわね)
キッチンには夕食に出されるはずだった豪華な食事が床に散乱していた。
すでに腐敗しており、悪臭を放っている。
(冷蔵庫の中は無事かしら?)
駄目だった。電力のない冷蔵庫など何の役にも立たないことを美恵は思い知らされた。
肉類、魚介類は完全に腐っている。野菜や果物も、ほとんど駄目だ。
「お米が無事でよかったわ。缶詰に根菜に調味料……ナイフ類は護身用にもなるわね。
意外ね……跡部家のクルーザーに非常食のインスタント食品があるなんて」
一度に運ぶには多すぎる量だ。とりあえず袋に詰めれるだけ詰め一度戻ることにした。
「……思ったよりも重労働だったわね。でも数日分の食料は確保できたわ」
その他にも役立ちそうな道具をかなり入手できた。
救急箱に燃料、ロープに懐中電灯などなどだ。
(景吾達は食料確保できたかしら?)
何とかクルーザーの位置を教えてあげたい。
そんなことを思案していると遠くから人の声が聞えてきた。聞きなれた声だった。
(……景吾!)
美恵は反射的に岩陰に隠れた。
「おい跡部、あれを見ろよ。クルーザーだぜ!」
足音の速度が早くなった。ちらっと岩陰から覗くと仲間達の姿が目に映った。
「跡部、無線機で救助を呼べるかもしれん。すぐに調べようぜ」
「当然だろ。俺様は贅沢な人間なんだ、こんな無人島にこれ以上のバカンスはごめんだぜ」
跡部達がクルーザーに乗り込むのを確認すると美恵は逃げるように、その場からさっさと離れた。
(これで景吾達は食料を入手できる)
美恵はホッとした。しかし、クルーザーが発見された以上、もうここには来れない。
(残念だけど、もうクルーザーからは食料や道具は調達できないわね)
跡部達とは会いたくない。美恵は一人で森の奥に進んだ。
(……景吾)
――皮肉なものね。ずっと仲良しだったのに、こんな状況で頼りにできないなんて。
あの嵐の夜の混乱時、誰もが脱出用のボートに乗り込もうと甲板に向かった。
そんな中、美恵を突き飛ばしていった女がいた。
テニス部のもう1人のマネージャーであり、美恵とレギュラー達の仲を引き裂いた女だ。
彼女がボートに乗り込むのを美恵は見た。そして船員達がボートを下ろすのを。
「何をしているの!まだ景吾達が船内にいるのよ、待って!!」
美恵は必死に叫んでいた。しかし命惜しさに彼らは逃げた。
その後の記憶はない。大波がクルーザーを覆ったのを最後に意識の糸が切れたのだ。
そして気がつくと砂浜に打ち上げられていた。
美恵は必死になって歩いた。そして森の中で跡部達を見たのだ。
跡部達は必死になって捜していた。彼女の名前を叫び歩いていた。
「いるのか?いたら返事をしてくれ!」
彼らは彼女の名を必死に呼んでいた。美恵の名前が呼ばれることは一度もなかったのだ。
美恵は心の中で跡部達に決別した。もう二度と振り返られなかった。
そして救助隊が来るまで一人でいようと決意したのだ。
――きっと少しの辛抱よ。すぐに救助がくるわ。
美恵は知らなかった。悲劇は始まったばかりだということに。
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