「……ん、痛っ」
美恵は反射的に頭に手を伸ばした。髪の毛とは違う妙な違和感を感じる。
「……包帯?」
違和感の正体に気づくと同時に、自分がベッドの上にいることにも気付いた。
白い天井が目の前に広がり、薬の独特な臭いがする。

(ここ、どこなの?)

美恵、良かった、気がついたんやな」
(……え?)
横を見ると白衣姿の忍足がいた。
「……どうして、こんな所に」
「階段から落ちたんや。覚えてないんか?」
「階段……そうだわ、私、階段から落ちて……」
頭がズキズキする。同時にモヤモヤとした感覚があった。


「……私、洗濯物を運んでいて、学校の石段から足を滑らせたんだったわ」
美恵?」


忍足の顔色が変化したが、美恵は気づかなかった。
「……侑士、どうして、あなた、そんな服装してるの?それに、ここ……保健室じゃないわね。病院?」
「あ、ああ……そうや」
「そんなに重い怪我なの?」
「いや、怪我自体は大したことない、かすり傷や。でも――」
忍足の目は驚きと、そして哀しみに満ちていた。




Memory―1―




「……跡部に連絡しておいた。すぐにくる」
「景吾が?」
ああ、そうだ。私、景吾に言わなきゃならないことがある。
「侑士……私、マネージャーやめる。もうテニス部にはいられない。
今は景吾にも会いたくない。だから、あなたから――」

美恵!」

凄い勢いで扉が開かれた。走ってきたのだろう、スーツ姿の跡部が息を切らせている。
「大丈夫なのか!?体は……!お腹の――」
「跡部」
忍足が跡部を制した。
「何だ、忍足。おい無事なんだろうな?」
「ああ、それは心配ない。それより話がある、向こうの部屋で」














美恵は、じっと天井を見つめていた。跡部と忍足が退室してから三十分ほどたっている。
頭の痛みは、もうないが、モヤモヤした気分は収まらない。

(……私、どうしたんだろう)

トントンと扉をノックする音がした。看護師が食事を運んできてくれたようだ。
「特別メニューですから美味しいですよ」
確かに病院食とは思えない豪華な食事。そういえば、この病室も個室、それも特別室のようだ。
お腹もすいているし、美恵は早速食事を頂くことにした。


「美味しそう、いただきま……うっ」
スープの臭いに途端に吐き気がした。慌てて洗面台に駆け寄る。
「……ぅ」

気持ち悪い。何なの?まさか病気じゃあ?

「……え?」
やっと吐き気がおさまり鏡を見上げ、美恵は驚愕した。
そこにいる自分の姿は毎日、鏡で見ていた自身のものとは違う。
髪も伸び、背も高くなっている。何より雰囲気がかなり違う、以前の、まだ子供っぽさが残る容姿ではない。
「……どういうこと?」
その時になって初めて気づいた。忍足も跡部も、自分が知っている二人とは随分違う。

(……そうだわ。二人とも、大人みたいだった)

美恵は混乱した。同時に頭がズキズキと痛み出してきた。














「記憶が戻った?」
「ああ、そうや。反対に覚醒した後の記憶が消えてる。まあ、こっちは一時的なもんとは思うけどな」
「じゃあ、あいつは――」
「ああ、あの日、学校の石段から落ちた時の美恵のままなんや」
デスクに置いた跡部の右手がかすかに震えていた。


「……美恵の記憶が戻った」


それは跡部がずっと望んでいたことであり、同時に恐れていたことでもあった。

「とりあえず、精神科医とも相談して今後のこと決めような」
「……あいつに会えるのか?」
「少し待ってくれ。今は下手に刺激与えんほうがいい、一番大事な時やろ?体に負担かけさせる事になる」
「……そうか」
跡部は両手で顔を覆った。














美恵はジッと窓を見つめた。太陽は眩しいが、空は爽快なくらい青々としていた。
「……美恵、驚いただろうな」
忍足は、なるべく穏やかな口調で言った。
「……うん、最初はね。でも納得した、だって鏡に映る私は、もう子供じゃなかったんだもの」
美恵は忍足が思った以上に落ち着いていて、自分の状況を受け入れてくれた。
ただ部活中に石段から落ちてから三年近くも植物人間状態だったというのは、さすがにショックだったようだ。


「でも、今の私は、もっと年齢上よね。大学生くらい?」
「大学は卒業したよ」
「良かった。ちゃんと大学いけたんだ」
美恵はニッコリ笑った。
「じゃあ今はOLかしら?」
「……ちょーっと違うなあ」
「もしかしてフリーター?それとも親のスネかじっているの?」
「いや、そういうわけじゃないけどな」
忍足は、何か言いたげだった。美恵は、それを察して切り出した。


「ねえ侑士、何か私に言いたいことあるんでしょう?言ってちょうだい」
忍足はハッとして顔を上げた。
「大丈夫よ。これ以上ショックなことなんてないでしょう?」
「……まあ、それもそうやな」
忍足はふうっと溜息をつくと、意を決して話した。
「……跡部が会いたいって言うてるんや」
途端に美恵の表情が険しくなった。
美恵がデパートの階段で突き飛ばされたってきいて、あいつ真っ青になって駆けつけてきてなあ。
自分と話したいって……なあ、少しでいいから話きいてやってくれへんか?」
「……どうして景吾が」
恋人に夢中になった跡部に散々ないがしろにされてきた美恵には信じ難い話だった。
自分がどうなろうが、今さら跡部が感情を動かす事なんてないはずだ。
跡部が優しい幼馴染だったのは、もう昔のこと。今は幼馴染どころか、単なる知り合い程度の間柄。
その跡部が心配してくれているとは、素直に嬉しいと思うよりも不可解としか感じない自分がいた。


「……私、会いたくない。彼女の為に、さっさと退院して仕事しろって言いたいだけなんでしょう?」
美恵、自分も跡部も、もう学生やないんやで」
「……あ、そうよね」
記憶がまだ混乱しているようだ。
冷静になって思い出す記憶はパッチワークのようにつぎはぎで、頭がまとまらなかった。
「心配することない。自分と跡部は仲直りしたんや」
「え?」
美恵が大好きやった、昔の跡部に戻ったんや……今は昔以上に自分の事を大事にしてくれてる。
俺が保証してやる。その証拠に自分が怪我したってきいて駆けつけてくれたやろ?」
確かに跡部は顔面蒼白になって病院に駆け込んできてくれた。
普段クールな跡部からは想像もつかないような慌てぶりだった。


美恵だって、自分に何があったか知りたいはずやろ?跡部から直接聞いたほうがええよ」
「……でも」
「避けても会っても辛いだけなら、傷ついても一歩すすんだ方がいい。そうやろ?」
忍足の言うとおりだった。
それに会いたくないと口では言いながら、心のどこかで跡部を求める気持ちに美恵自身気づいている。
「会うわ」
その一言を待っていたかのように、忍足は扉を開いた。廊下には跡部が立っていた。














二人きりの部屋は気まずい空気が流れていた。
跡部とは和解したと聞かされているものの、その記憶がない美恵は、どうしても無意識に身構えてしまう。
つい下がってしまった視線の先。跡部の左手の薬指にキラリと光るものが見えた。
(……結婚指輪)
プラチナリング……見たくもないのに、目がそらせない。

(……悔しいけど、私、今でも景吾の事が好きなんだ)


「……結婚したんだ」
それが絞り出した最初の一言。
「……彼女と結婚したの?」
「彼女?」
跡部は怪訝そうな顔をした。
「あの人と結婚したの?景吾、彼女に夢中だったものね」
跡部は、美恵がいう『彼女』が誰か気づき表情を曇らせた。
昔の恋人であり、美恵との仲がこじれた原因、しかし跡部にとっては、遠い過去でしかない。
だが、記憶を失っている美恵にとっては現在進行形なのだろう。


「確かに俺は結婚している、けど、あいつじゃない。あいつとは、あの後、すぐに別れた」
美恵は驚いたようだ。跡部がどれだけ彼女に夢中だったか、美恵が誰よりも知っていたから。

苦しいくらいに……わかっていたから。

「あいつに恋はしたが、それ以上の気持ちにはならなかった。もう終わったことだ。
俺が愛した相手は今の妻だけだ。子供も出来た、まだ妊娠三ヶ月だけどな」
「だったら私なんかに構ってないで早く帰ってあげて。奥さんの、そばについててあげないと……」
また、あの吐き気が襲ってきて美恵は口元を手で押さえた。
「……うっ」
「おい、大丈夫か?」
跡部が心配そうに背中をさすってくれた。
「……気持ち悪い。私……病気なのかしら」
「……病気じゃねえよ」
跡部は、まるで壊れ物を扱うように、そっと美恵を抱きしめた。
こんな優しい跡部は、美恵にとっては、とても懐かしかった。嬉しいが、途惑ってしまう。


「落ち着いて聞いてくれ。おまえが怪我したのは、階段から落ちた時に頭じゃなく腹を庇ったからなんだ」
「お腹を?」
「ああ、だから頭に怪我する羽目になったが、胎児は無事だと忍足が言っていた」
「……今、何て言ったの?」
美恵は跡部を見上げた。


「……今、何て言ったの?……胎児って……?」
「おまえの中に赤ん坊がいるんだ」


美恵は反射的にお腹に手を当てた。何の冗談かと思ったが、跡部の目が真実だと語っている。
何より、美恵は本能的に自分の中に命の躍動を感じた。

「……じゃあこの子の父親は?」

妊娠したという事は当然相手がいる。全てを許し愛し合った男がいるはず。
それなのに自分が病院に運ばれたというのに、その男は姿も見せていない。

「どうして、そばにいて――」

そこまで言って、美恵は自分を見つめる跡部の目が尋常ではない事に気づいた。
そして思い出した。真っ先に駆けつけてきてくれたのは、他の誰でもない、跡部だった。
美恵の中に一つの答えが浮んだ。
しかし、同時に跡部に嫌われているはずという記憶が生々しくて、その答えを否定している自分がいた。
「……景吾、私……私の……」
美恵が何を言いたいのか、跡部のインサイトは容易に見抜いた。
そして、美恵の顔を両手で挟むと、瞳を見つめながら、きっぱり言った。

「俺の子だ」

美恵は震えた。幼い頃から、ずっと跡部の事が好きだった。
跡部が他の女と付き合うたびに哀しかった。泣いた事もある。
その跡部が自分のお腹の子の父親。つまり愛し合っている男だというのだ。
嬉しいはずなのに、信じられないという気持ちが先立って素直に喜べない。




美恵、あいつは俺達の応援で手一杯なんだ。あいつに仕事させるな』

『あいつに、もっと優しくできねえのか!それとも何か、俺の彼女だから、それができねえのか!?』

『マネージャーやめるだと?俺とあいつへの当て付けか、おまえは、そんなくだらねえ女だったのか?』





「……嘘」
胸を押し返され跡部は途惑った。
「……信じられない。だって……だって景吾は私の事、嫌っていたじゃない。
だから私……私、景吾のそばに居場所がないってわかったから、だから……」
美恵、俺の話を聞いてくれ。おまえが信じられないのは当たり前だが」
跡部は説明しようとしたが、美恵は頭がズキズキと痛みだし、とても、そんな気持ちにならなかった。
美恵、どうした?」
「頭が痛くて……」
跡部は慌てて、「待ってろ、忍足を呼んでくる」と部屋を飛び出して行った。




一人きりになると、不思議なことに頭痛はすぐに治まった。
美恵は、ほっとすると同時に、たまらなく寂しい気持ちになり、そっとお腹に手を置いた。

(……ここに景吾の赤ちゃんが?……信じられない)

一人になって考えると、少しずつ思い出した事もある。
(そうだ。私、デパートに布を買いに行ってたんだ……赤ちゃんの産着を作ろうと思って)
子供が生まれるのは、まだ半年も先の話だけど、何かしてあげたくて。
(女の人とすれ違った時に当たって……そうだわ、その時に階段から落ちたんだ)
反射的に子供を守ろうとしてお腹を抱きかかえて、そこで記憶が途切れている。
それ以前の記憶は曖昧だった。まるで昔見た映画を思い出すかのような、あやふやなもので、はっきりしない。
その記憶の中で、周りに大勢の人がいて(顔は思い出せないけど)自分を祝福してくれている。
鐘の音が聞えていた。青い空に向かってブーケが投げられている……太陽の光で眩しい。
その後に、思い出したのは、なぜかヨーロッパの町並みだった。
ギリシャやイタリアの遺跡、ドイツのロマンティック街道、フランスのエッフェル塔……。
(私とは関係ないわよね……きっとテレビで見た映像と記憶がこんがらがってるんだわ)
もっと思い出そうとしたが、ドアが開いたので中断した。


美恵、跡部から聞いたで。頭、大丈夫か?」
忍足が心配そうに入室してきた。
「大丈夫よ。ごめんなさい、心配かけて」
「色んなことがあったからな。あのな、跡部とも相談したんやけど、しばらくここに入院しような。
怪我は大したことなかったから、通院させるつもりだったけど、今の美恵を家に帰すわけにはいかんから」
「侑士……私、帰るわ」
美恵?」
「家に帰れば、思い出すかもしれないし……それに」
美恵はぎゅっと布団を握り締めた。
「それに景吾から逃げたくないの。あの時みたいに」
跡部のそばに居場所は無いとマネージャーを辞める決意をした、あの時。


「本当は、ただ逃げたかっただけなの……景吾に嫌われるのが哀しくて。
でも、逃げても解決しなかったんだって、よくわかった。今度は景吾と真正面から向き合いたい」
「……そうか、よく、わかった」














跡部に連れられて向かった先は、超高級マンションだった。
「ここに住んでいたの?」
「ああ」
部屋に入ると、高級そうな家具や調度品が出迎えてくれた。
見覚えのないものばかりだったが、美恵の好みに合う物ばかり、部屋の雰囲気にも懐かしいものを感じる。
窓から入る風に棚引くカーテンの揺れは毎日のように見てたような気がした。
「疲れただろう、座ってろ」
跡部に促されて、ふかふかのソファに座った。
跡部は美恵の体がとても心配らしく、病院からの帰宅するまで、とても気遣ってくれた。
「景吾、あれ……」
ふと見るとフォトフレームがいくつかあった。


思わず立ち上がって近寄って見ると、それは結婚式の写真と、新婚旅行の写真。
自分の中でフラッシュバックしたシーンの正体を美恵は知った。
「……私、本当に景吾と結婚してたんだ」
「ああ、そうだ。二ヶ月前に教会で式を挙げたんだ。
新婚旅行はヨーロッパを一周した。何か思い出さないか?」
美恵は頭を左右にふった。跡部は悲しそうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
写真の中に写る美恵は嬉しそうに笑っていた。
新婚旅行の写真もそうだ。美恵だけではない、跡部も幸せそうに笑っていた。


「……私、幸せだったのね」
「俺の方がずっと幸せだった。おまえを愛している、信じられないだろうが本当だ」


――美恵は流れる涙をそっと拭った。


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