「景吾、話して……何があったのか」
「ああ」
跡部は 美恵を抱き寄せると、結婚式の写真を見つめながら語り出した。




Memory―2―




「跡部の奴、最近、様子変わったなあ」
忍足の言葉にレギュラー達はきょとんとなった。
「何で、そう思うんだよ侑士。俺は、いつもと変わりないと思うぜ」
向日はすぐに否定した。宍戸も「俺もそう思うぜ」と向日に同意、ジローなどは、まだきょとんとしている。
「……はあ、自分らは跡部の微妙な変化に気づいてないのか。お子様やなあ」


跡部は美恵が意識不明になってから笑わなくなった。
女遊びもやめた。時間ができると美恵に面会する為に病院に行っている。
だが最近は図書館にいりびたる時間が増えたのだ。
平行して、わずかだが跡部の表情が柔らかくなった。
もしかして新しい彼女ができて図書館で逢引でもしてるのかと思ったがそうではないらしい。
病院通いも続いているし、跡部は今までとは違う種類の悩みを抱えているようだった。
そんな日々が続いた、ある日のことだった――。














「あ、跡部!」
監督の榊が慌ててテニスコートに駆け込んできた。
いつもクールを装っている榊の、こんな姿を見るのはレギュラー陣も初めての体験だ。
「監督、どうしたんですか?」
「すぐに病院に行け!」
跡部が顔面蒼白になった。おそらく美恵の容態が急変して危ない状態になったと思ったのだろう。
だが、逆だった。
天瀬の意識が戻った!」
跡部は手にしていたラケットを思わず落とした。
「……美恵が?」
「ああ、そうだ。すぐに行け!」
その言葉が終わらないうちに跡部は全力疾走していた。忍足たちも後に続いた。














「……お母さん、泣かないで」
「だって美恵、あなたが一生目を覚まさなかったらどうしようって、お母さん、どれだけ心配したか」
美恵は泣きじゃくる両親や親類を前に途惑っていた。
美恵にとっては、あの事故の時から何も変わってないが、現実の世界では三年近く時間が過ぎていたのだ。
自分が植物状態だったと知り、ショックを受けたが、あまり実感もない。

美恵!」

扉が盛大に開かれた。息を切らした跡部が立っている。
「まあ景吾君、よく来てくれたね。見て、美恵が目を覚ましたのよ……やっと」
母は再び泣き出した。跡部も泣きそうな顔で美恵を見つめた。
だが感情を押さえ切れない表情をしている跡部とは逆に美恵は不思議そうな目で跡部を見ている。
「……美恵?」
美恵の反応に跡部は違和感を感じた。何か様子が変だ。


「……跡部君?」


待ちに待った美恵の第一声は『景吾』ではなく『跡部君』だった。
跡部は愕然とした。そんな跡部を見つめながら美恵は、ゆっくりと上半身を起こした。
「どうして跡部君がここにいるの?」
美恵の様子に周囲の者も驚いた。
「何を言っているの美恵、景吾君よ。あなたの幼馴染じゃない」
「……幼馴染?」
美恵は驚いている。
「そうよ。小さい頃からずっと一緒だったじゃない。景吾君に誘われてテニス部のマネージャーまでしてたのよ」
「お母さん、何を言ってるの?」
美恵は訝しげな表情をしている。そして、とんでもない言葉をはなった。


「私、テニス部なんて知らないわよ」


跡部の中で何かが壊れた。恐れていたことが現実になったのだ。
美恵は跡部と過ごした記憶を、思い出を全て失っていた――。














『記憶喪失ですね。しかし、不思議だ。他の事は覚えているのに』

『もしかして彼女自身が忘れたいと望んだのかもしれない』

『人間、辛い記憶は失いやすくなっているんですよ』





跡部は一人テニスコートで壁に向かってボールを打ち続けていた。
「……跡部」
「忍足か……何の用だ?」
「何って、美恵をほったらかしにして、こんなところにいていいんか?」
跡部は振り向かなかった。長い付き合いだが、こんな哀しそうな跡部の背中を忍足は初めて見た。
帝王の誇りか、それとも意地か、決して顔を見せようとしない。
「自分、贅沢だってわかってるんか?俺らは完全に忘れられてたんやで?」
跡部は、まだ振り向こうとしない。再びボールを打ち出した。
「呼び方は変わったけど、自分は覚えててもらったやないか」


「違う」


「跡部?」
美恵は俺を覚えていたわけじゃねえ」
「何言うてるんや?美恵は自分の事を――」
「あいつは俺を、つい最近出会った男だと思っているだけだ」
「どういう事や?」
跡部は忍足に全て話した。
忍足は、最初は随分驚いたが、跡部の様子から嘘でも冗談でもないことは一目瞭然だった。


「これでわかっただろ。あいつは俺を覚えていたわけじゃねえんだ」
「……そうか」
「……あいつ、他のことは全部覚えていたのに俺に係わりのある記憶だけは失っていた。
おまえも医者の言葉聞いただろ?人間、辛い記憶は都合よく忘れることがあるって。
美恵にとって、俺はそれだけ忘れたい存在だったってことだ。当然だよな……」
跡部は自嘲気味に笑った。その表情には覇気が全くない、帝王らしからぬ顔だった。


「俺はどうして当然だって思うようになったんだろうな……あいつが、そばにいて支えてくれることを」


いつの間にか、美恵の奉仕に感謝しなくなっていた――。
いつの間にか、美恵に悪態ばかりついていた――。
いつの間にか、美恵を失うことなどありえないと思っていた――。


「……いつの間にか、美恵を傷つけていることにすら気づかなくなっていた」
「……跡部」


忍足は跡部の肩にぽんと手を置いた。
美恵の記憶は一生戻らんわけやない。大丈夫や、きっと元に戻る」
「あいつは俺を恨んでいるはずだ、だから俺を自分の中から消したんだ」
「けど、図書館にいた美恵は自分を拒絶しいひんかったんやろ?」
それは事実だった。最初は怖がっていたようだが、昔のように打ち解けて接してくれるようになった。
「なあ跡部、こんなこと言うても気休めにしかならんと思うけど、美恵は自分のこと恨んでない。
俺も美恵の事、ずっと好きやった。けど、美恵は自分のことしか眼中になくてな。
随分、悔しい思いしたんやで。その美恵が自分の事恨むわけない。
美恵は俺が、いや俺達が惚れた女やで。めっちゃ優しい女なんや」


「もう一度最初から始めるんや。美恵が思い出してくれるまで、また一から築いてみ」


「……もう一度最初から?」
「そうや、自分はもうすでに始めてるやないか。今度こそ、二度と過ち犯さず美恵のこと大切にしい」
「……ああ、そうだな」














「……えっと、この単語は」
図書館で美恵はドイツ語の和訳に必死に取り掛かっていた。
親のコネと美恵の成績が優秀だったことが考慮されて、何とか高校生になることはできた。
しかし、眠っていた期間は決して短くなく、かなり勉強が遅れてしまっている。
「ドイツ語得意だったのにな……彼が教えてくれたから」

えっ……彼?

一瞬、脳裏に男のシルエットが浮んだ。何だか、とても懐かしい感じだった。
「その単語は精神と天国だ」
背後から声がして振り向くと跡部が立っていた。
「あ、跡部君」
「ちょっと見せてみろ」
跡部は美恵からテキストを取り上げると、一通り目を通した。
「だいたい合ってるが、三問目が間違ってるぞ」
美恵は不思議そうな表情で跡部を見つめた。


「どうした?」
「ううん、何でもない。なんだか不思議な感じがして」
「不思議?」
「うん、だって跡部君は学園の有名人で、ここでは凄く特別なひとじゃない。
その跡部君と、まるで友達みたいに会話してるなんて、何だか実感わかなくて」
跡部の表情が曇った。
「跡部君?」


『景吾、この文の意味がわからないの。教えて』
『たく、毎度、俺に頼りやがって。しょうがねえ奴だな』



「跡部君……私、何か気に触ること言った?」
「……いや、何でもねえよ」
わかってはいたが、やはり辛いものがあった。
(自業自得だ。これは俺が受けるべき罰なんだ)
跡部は美恵の隣席に座ると、「俺様が教えてやるから、ありがたく思えよ」と笑って見せた。
「いいの?跡部君、忙しいんでしょう?」
「余計な事は気にするな。次は数学か、ほら、やるぞ。俺はスパルタだから覚悟しろよ」
こうして跡部は、毎日、図書館で美恵と過ごした。














「この前のテスト返すぞ。天瀬」
「はい」
答案用紙を取りに教壇の前に行くと、教師は「頑張ったな」と褒めてくれた。
(満点!嬉しい、跡部君のおかげだわ)
跡部は口は悪いが、美恵の事を真剣に考え、厳しく指導してくれた。
(俺様だけど、本当は優しいひとなんだわ。でも、どうして私によくしてくれるのかしら?)
跡部とは図書館で会話をするだけの関係だったのに、まるで昔からの友人のように、それ以上に構ってくれる。

(そういえば跡部君……どうして私が目覚めた時に駆けつけてくれたんだろう?
友達でも恋人でもないのに……どうして私に優しくしてくれるんだろう?)

理由はわからない。美恵にとって跡部は、図書館の窓から見るだけの違う世界の人間のはずだった。
けれど今は違う。毎日、図書館で勉強を教えてくれるし、休日には自宅に呼んでくれる。
忙しい身なのに、美恵が帰宅するときは、必ず送ってくれる。
ここまでされると女なら誰しも思うだろう。もしかして自分は彼にとって特別な女なのでは、と。
美恵も例外ではなかった。自惚れたくはないが、他に理由が見付からない。

(……まさか、ね。だって跡部君はハンサムで勉強もスポーツも一番で、いつも綺麗な女のひとにモテモテで)

自分に同情してくれているだけだと思い込もうとした。
(きっと彼には恋人がいるわ。あんな素敵なひと、周りの女性がほかっておくわけないもの)

その人は跡部君にふさわしく美人で社交的で――。


美恵、こいつは俺の女だ。今日から新しくマネージャーやってもらうことにした』


(……え?な、何……今の……)
美恵の脳裏に覚えのない跡部の言葉が聞えてきた。
(私、まだ完全に治ってないんだ)
美恵は植物状態の後遺症だと思い忘れることにした。


「ちょっと、あなた」
敵意に満ちた声がして振り向くと女の集団が仁王立ちしていた。
「あなた達は?」
「あたし達は跡部様の親衛隊よ。ちょっと顔かしてくれる?」
不穏な雰囲気を感じ取り、美恵は逃げようと踵を翻した。だが前方にも女の群れが。
「逃げようったってそうはいかないわ。さあ来るのよ!」
彼女達は美恵を人気の無い校舎裏に連れ出した。
「何をするの?!」
「それはこっちの台詞よ。よくも跡部様をたぶらかしてくれたわね!」
「跡部様は皆のものよ。独り占めしようなんて考え起こしたらどうなるか、たっぷり教えてあげるわ!」
女生徒達の陰湿なリンチが始まろうとしていた。
しかし、この性悪女達にとって誤算だったのは、裏庭の木の上でジローが寝ていたことだ。


美恵ちゃんが危ない。跡部に知らせないと!」


「さあ痛い思いをしたくなかったら跡部様には二度と近付かないって誓うのよ!」
「どうして、あなた達にそんなこと言われないといけないの?!」
「うるさい!薄汚いメス豚のくせに、あんた跡部様のこと好きなんでしょう?
でも跡部様が本気で一人の女を相手すると思ってるの?跡部様は今まで色々あったのよ」
美恵の胸の奥がチクリと痛んだ。確かに跡部の恋の噂は何度も耳にしたことがある。
「ずっと入院生活してきた女に同情して物珍しがって優しくしてるだけよ。
さあ誓いなさいよ。跡部様には近付かない、もう口もきかないって!」


「……嫌よ」


女達の顔色が変わったが、美恵はさらに強い調子で言った。
「絶対に嫌よ。あなた達のいいなりになんかならないわ」
「だったら、どうなるかわかってるんでしょうね?」
逆らえば暴力に訴えられる。それでも、跡部から離れたくなかった。


――私、跡部君のこと好きなんだ。

美恵は、はっきりと自分の気持ちに気付いた。

「だったら、望み通りにしてあげるわよ。その顔をめちゃくちゃにしてあげ……」
「てめえら、そこで何をしてやがる!!」
美恵も、女生徒達も、いっせいにその声に反応した。
「……跡部君」
「あ、跡部様!」
顔面蒼白になった女達を押しのけて、跡部は美恵に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「……え、ええ」
「よかった」
跡部は美恵を抱きしめた。途端に周囲から悲鳴が上がる。


「……本当によかった」
「……あ、跡部君?」


絞り出したような跡部の声、そして痛いくらいの抱擁。
跡部は心底自分の事を心配して駆けつけてくれた。その事実に美恵は嬉しかった。

「……消えろ」
「あ、跡部様、聞いて下さい。私達は……」
「殴られたくなかったら俺の前から消えろ!二度と俺や美恵の前に姿を現すな!!」
女生徒達は泣きながら走り去っていった。


「悪かった。二度とこんなことがないように、俺がそばにいて、おまえを守る」
「跡部君……跡部君は、その……私のことを」
美恵が熱をこめた目で跡部を見つめた。跡部は、その顔を両手で包み込んだ。


「おまえが好きだ」


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