「好きだ美恵、愛してる」
突然の告白に美恵の心臓は大きく跳ねた。
「……跡部君、私」
美恵は途惑ったが、やがて頬を赤く染めながら言った。

「私も跡部君のこと好き」




Memory―3―




(彼、なんていってくれるだろう?)

美恵は、初めてのデートに胸をときめかせていた。
昨夜から洋服を選び早起きして髪型をセットし、精一杯のおしゃれをしたのだ。
女は恋をすると急激に綺麗になるというが、鏡を見るとあながち嘘でもないように見える。
「お嬢様、景吾様がお見えになりましたよ」
執事の報告を受け、美恵は慌てて玄関に向かった。
ブランドに身を包んだ跡部は、いつもとは、また違ったカッコよさがあった。
美恵の姿を見ると、跡部はやや表情を硬直させた。


「おかしい?」
美恵の不安を払拭させるかのように、跡部はすぐに微笑み美恵が望んだ言葉を囁いた。
「綺麗だ美恵」
跡部が差し出した手に美恵は自分のそれを重ねる。
あの告白の日から一週間。二人はめだたく恋人に昇格た。
今日は初めてのデート。美恵は、すっかり舞い上がっていた。
跡部と手をつないで歩いているだけで、とても幸せな気分になれる。
公園でベンチに座って会話を楽しんでいると、腕を組んでいるアベックが目についた。


(私も腕くんでみたいな……でも)


純情な美恵は、まだ手をつなぐだけで精一杯。
自分から跡部に、「腕、組んでいい」とは言えなかった。
美恵」
「何?」
突然、跡部が美恵の肩に腕を回し引き寄せた。
跡部の胸に頭を預ける体勢になり、美恵の頬は一気に赤くなった。

「あ、跡部君、皆が見てる」
「見せ付けてやればいいだろ」

こんな事をさらりを言ってのける跡部に照れながらも美恵はたまらなく嬉しかった。

「跡部君、あの……」
「……そろそろ跡部君はやめろよ」
「跡部君?」
「もうお友達じゃねえんだぜ。景吾って言えよ」
「でも跡部君」

「景吾だ」
「……け、いご」


『景吾』


「もう一度だ。美恵、俺のことをどう思っているか言ってみろ」
「好き……景吾のことが好き」


『景吾、大好き』


跡部は美恵を抱きしめた――。














「ふーん、じゃあ美恵との交際は上手くいってるんやな。それで、どうや、記憶の方は?」
忍足の質問にレギュラー達は一斉に身を乗り出し、跡部を直視した。
「……全くだ。何も思いださねえ」
全員がっくりと肩を落とした。
楽観的に考えてはいなかったが、僅かな期待はあったのだ、当然だろう。
跡部と接していれば、自然と記憶が蘇るのではないかと考えは甘かったようだ。
「実は今日、あいつを呼んでいる。会ってくれ、おまえ達を見れば何か進展があるかもしれねえ」
跡部ですら無理だったのだ。自分達と会ったくらいで、どうにかなるとは思えない。
だが、記憶が戻るかどうかはともかく、美恵に会いたかった。やがて美恵が、やって来た。


「今日はテニス部の連中もきてるんだ」
「景吾のお友達が?私、お邪魔じゃないかしら?」
忍足達にとっては久しぶりの、美恵にとっては初めての対面だった。
「初めましての、天瀬美恵です」
とびきりの笑顔で頭を下げた。
跡部に恥をかかせないように、礼儀正しくしたつもりだったが、レギュラー達の顔色がさえない。
「あの……」
何か機嫌を損ねるようなことでもしたのか不安になった。
しかし、すぐに忍足が笑顔で「よろしゅう」と握手を求めてきた。


(良かった。私の気のせいみたい)
の、美恵はほっとして、すぐに忍足の手を取った。
「こちらこそ、よろしく」
「柔らかい手やな」
忍足は挨拶代わりにの、美恵の髪の毛にキスをした。 途端に跡部がムッとする。
「これからは、ずっと仲良うしような美恵」
「ええ」
「おい、そこまでだ。忍足、今度やったら、承知しねえぞ」









「景吾、今日は誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった」
「そんなに楽しかったのか?」
「うん、だけど、すごく不思議なの。初めて会ったはずの人たちなのに、まるで昔からの友達みたいで。
私、あの人たちのこと、とても好きだわ。あ、勿論、景吾が一番だけど」
「そうか」
跡部は複雑な笑みを浮かべた。


やがて二人は大学に進学すると同時に、マンションに一人暮らしするようになった。
跡部家が所有するマンションの隣同士だ。ほとんど半同棲といってもいい。
お互いの部屋に夜遅くまでいることも度々あった。
跡部の食事は、美恵の手料理だけになった。大学にも美恵の手作り弁当を持参する日々。
勉強も共にした。大学生活は多忙だったが、二人の関係は日々親密さを増していった。


「……美恵、好きだ」

跡部の手が美恵の頬に添えられ、そして顔が近付いてくる。美恵は目を閉じた。
跡部の唇の感触を直に感じる。直後、舌が口内に入り込んで歯列をなぞる。
お互いの舌を絡めあい、抱きしめあった。


そして三年の月日が流れた――。














「同棲生活は上手くいってるのか?」
「あーん?ただの隣だ。同居してるわけじゃねえ」
「何ゆうてんのや?同棲も同然やないか。ええなあ、好きなときに、あんな綺麗な子を抱けて」
跡部が突然立ち上がった。何だか機嫌を損ねたようだ。
「おい跡部、どないしたんや?俺、何か気に障ること言ったか?」
「……そんなんじゃねえよ」
「だったら何で怒るんや。俺はただ――」
そこまで言いかけて忍足は気づいた。


「跡部、まさかと思うけど、自分と美恵は……まだなんか?」
「……ちっ、勘のいい野郎だな」
「う、嘘やろ。自分が三年以上も付き合ってる女に手を出してないなんて」


跡部は中学生時代から派手なモテモテぶりだった。
普通の男子が、思春期の恋に心ときめかしている頃に、すでに大人の恋愛を経験していた男だ。
美恵が意識不明になってから、女遊びをやめたが、それは昔の話。
跡部が、あんな美人で仲良しの彼女がいながら禁欲しているなんて忍足には信じ難い事だった。


「自分、体調でも悪いんか?それとも、まさか不能になったんじゃないやろうな?」
「殺すぞ忍足」
「冗談や冗談……に、しても、まさか自分……」
「あいつを完全に自分のモノにするのは簡単だ。でも今やったら卑怯な気がしてな」


三年間、喧嘩一つせず、美恵との交際は順調だった。
その間、幾度か一線を超えるチャンスはあった。だが、跡部は出来なかった。
美恵を抱きたい。しかし、美恵は自分がした仕打ちを忘れている。
記憶を失った美恵に、自分の罪を隠したまま関係を持つことは卑怯な気がした。

「跡部……そんな事ゆうても、記憶が戻るかどうかは五分五分やろ。
自分、一生過去に縛られてやせ我慢するんか?それとも、別れるんか?」














「ねえ、どうだった。跡部様、誘いに乗ってくれた?」
大学の中庭を歩いていると、不吉な台詞が聞えてきた。
「全然、『俺はフリーじゃねえんだ。手頃な男で我慢しろ』ですって。
変わったわよね跡部様。あーあ、中学時代に戻りたいわぁ。
遊びでも跡部様に相手してもらえたもの。凄く、上手いのよ彼」


(……え?)


美恵の足が諤々震え、その場から動けなくなった。
「テニスもお上手だけど、あっちのほうも抜群だったわ。なのに、今じゃ彼女としかやってないなんて」
「それ本当なの?あの跡部様が一人の女で満足するなんて信じられない」
「だって浮気の噂もないじゃない。でもプレイボーイで手が早い跡部様の事だもの。
ばれないように上手くやってるかもしれないわね」


彼女達の姿が見えなくなって、やっと金縛りが解け、美恵は走り出した。


『凄く上手いのよ、彼』
『跡部様が一人の女で満足するなんて信じられない』
『ばれないように上手くやってるかも』



(景吾はは、私を求めてきたことは一度もない)

跡部に過去があったことは噂で聞いて知っている。
真剣に付き合って三年。跡部を信じている。跡部がささやいてくれた愛の言葉は全て。
だから跡部になら、全てを許してもいいと思っていた。

(他のひとは抱いてきたのに、どうして私は――)














「帰ったぜ」
忍足と随分と遅くまで話し込んでしまった。すでに時計は十時を過ぎている。
「景吾、おかえり」
「悪いな連絡もしなくて」
「……景吾!」
美恵は跡部に抱きついた。
「どうした?」
いつもと違う様子に跡部は途惑っているようだ。


「景吾、私のこと好き?」
「何だいきなり」
「お願い答えて」
「俺の言葉が信じられねえのか。確認しなきゃいけねえような軽い言葉を吐いた覚えはねえぞ」
「……ごめんなさい」
美恵、何があった?」
「何でもないの、忘れて」
だが跡部は忘れてといわれて、あっさり従うような性格ではない。


「何があったか聞かせろ」
美恵と跡部はベッドに腰掛けた。そして美恵は全てを話した。
跡部に呆れられるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。
それでも、自分の気持ちを知ってもらいたかった。
跡部を信じている。それでも不安だった。それは、今日の出来事があっただけではない。
跡部は愛していると言いながら、時々、辛そうな目で美恵を見詰める。
もしかして自分に飽きたのだろうか?他に好きな人ができたのだろうか?
だから別れ話でも切り出されるのだろうか?自然と、そんな連想をしてしまう。


「景吾、私と付き合ったこと後悔してない?」
「そんなわけねえだろう。気持ちが冷めたら、とっくに別れてるぜ」
「だったら……!」
美恵は跡部に縋りついた。


「だったら、どうして抱いてくれないの?」
「……!」


「私……景吾のこと愛している。景吾だったら、構わない。
もう子供じゃないわ。責任持てる大人なのよ、景吾は……私が欲しくないの?」

跡部の中で何年も押さえていた感情が爆発した。
美恵の視覚の先が一瞬で壁から天井に移動していた。

「……本当にいいんだな?」

美恵は無言のまま頷いた。
それを合図に跡部は美恵の首筋にキスを落とし、洋服のボタンに手をかけた――。














跡部はカーテンを開けた。朝日がベッドまで伸び、美恵の顔を覆う。
その眩しさに、美恵は顔を掌で多いながら瞼を開いた。
「目が覚めたか」
上半身裸の跡部を見て、美恵は恥ずかしそうに布団に潜った。
「今さら、何、照れてやがる。昨夜、お互いの体を隅々まで眺めたじゃねえか」
「……だ、だって」
跡部は布団をめくると、嬉しそうに美恵を抱き寄せた。

「最高だったぜ」
「私も……すごく嬉しかった」

美恵は幸せそうに微笑んだ。
抱きしめてくれる跡部が複雑そうな表情をしているのも知らずに。
その日を境に、跡部は、美恵の部屋で寝るようになった。
二人がベッドの上で愛欲が溺れない夜は珍しいほど、毎晩愛し合うようになったのだ――。




今夜も激しく求め合う。大学も、後、僅かで卒業。
美恵が眠りに着くと、跡部は小さな箱を取り出し、そっと蓋を開けた。
ハート型にカットされたピンクダイヤが輝きを放っている。婚約指輪に用意したものだ。
「……美恵」
跡部は不安そうに眠っている美恵の前髪をかきあげた。

(……完全に俺のモノにしたはずなのに、俺は内心怖くて仕方ない。
おまえが全てを思い出した時、俺のそばにいてくれないんじゃねえかってな)

毎晩、何度も何度も求めても。何度も何度も美恵が全身で応えてくれても不安は拭いきれない。


――いっそ、妊娠すればいい。ガキがいれば、美恵は俺の元を去りはしない。
――美恵は優しい。だから、どれだけ俺を嫌おうが、子供を父親のいない子にするわけがねえ。


そう思い、次の瞬間、自己嫌悪におちいることも度々あった。

――クソ!俺はこんな卑劣な事を考える男だったのか。

しかし、不安な思いを抱えているのは、跡部だけではなかった。




――景吾、私に何か隠してるの?

自分を抱くとき、跡部は何度も同じ質問をする。


『俺を愛しているか?』――と。


Yesと応えると、安堵して強く抱きしめてくるのだ。 そして、美恵を絶頂に導く時には決まってこう言った。

『俺のそばにいろ。どこにも行くな』――と。














跡部は仲間に美恵との婚約を報告した。
「卒業と同時に結婚するのか、さすがに跡部はやることが違うなあ」
忍足はとりあえず祝福してくれた。
「けど、だったら、もう美恵の記憶は戻らないほうがよくないか?」
跡部は、この四年間、ずっと美恵の記憶が戻るように気を配っていた。
二人の思い出の場所に連れて行ったり、跡部の昔の写真を見せたり。
美恵が反応することは度々あった。だが思い出すまでにはいたってない。
今の跡部にとっては、もう思い出さないほうがいいかもしれないのに、跡部はやめようとしなかった。
「せっかく美恵と結ばれたんやろ。今さら、波風たてなくてもいいやないか。自分、今、幸せなんやろ?」

幸せだ。美恵の記憶が戻らないのは寂しいが、それでも幸せには変わりない。
美恵の記憶が蘇ったとき、その幸せは、もしかしたら床に落ちたガラス細工のように砕け散るかもしれない。


「けど、俺は逃げる気はねえ。あいつには、全てを思い出した上で俺を受け入れて欲しいんだ」
「……本当にいいのか?」


「ああ。何より、俺は思い出して欲しいんだ。俺達が過ごした時間を」




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