「……ん、おはよう景吾」
「起こしちまったようだな」
「まだ眠たいわ……景吾、手加減なしなんだもの」
「ふっ、おまえが悪いんだぜ。俺を挑発するからだ」
「何を言ってるの?景吾が強引に押し倒してきたんじゃない」
「おまえがそばにいるだけで、俺はそそられるんだよ」
毎晩のように跡部は美恵を抱いていた。美恵の指にはピンクダイヤが輝いていた。
Memory―4―
「おめでとさん跡部、美恵と幸せにな」
跡部はバーで忍足と二人っきりで飲んでいた。
「ふっ、当然だろ。少なくても俺は幸せの絶頂だぜ」
お互いのグラスを軽くぶつけ乾杯する。跡部と美恵が結婚して四週間目に入っていた。
二週間の新婚旅行から帰国し、少し落ち着いたので、やっと悪友と会う機会を作れたというわけだ。
「……で、美恵の記憶の方はどうなん?」
「相変わらずだ……」
跡部は、グラスの中に浮ぶ氷を寂しそうに見詰めた。
美恵との新婚生活に何の不満もない。
美恵は、贔屓目に見なくても良くできた妻で、跡部は幸せだった。
毎日、掃除の行き届いた清潔な部屋で、美味しい食事を取り、洒落た会話に花を咲かせる。
跡部の心身をとても気遣い、リラックスできるよういたせりつくせりだ。
夜ともなれば、お互い激しく求め合い愛を確かめ合ってきた。
それでも、跡部は思い出して欲しかった。物心ついた時から、二人で築き上げてきた思い出を。
たとえ、それが自分に対する美恵の愛情を失うかもしれない危険を含んだものだとしても。
「思い切って昔の写真を見せてみようと思うんだ」
「写真って跡部……自分、まさか!」
写真とは、跡部と美恵のツーショットのものだ。
「以前、それ見せた時、美恵がどうなったか忘れたんか?」
半年前、跡部は思い切って二人の写真を見せたことがある。美恵は当然のように驚愕した。
そして頭を抱え苦しみ出したのだ。刺激が強すぎたのだろう。
跡部は慌てて美恵をなだめベッドに横たわらせた。そして眠りから覚めた時、美恵は、写真の事など忘れていた。
「あれから時間がたっているし、今度は上手くいくかもしれねえ」
「けど、跡部、また美恵がおかしくなったら」
「だから、おまえも一緒にいてくれねえか?医者だろ」
「医者ゆうても、俺は外科医だから畑違いや」
そう言ったものの跡部の意志は固いようだ。忍足は観念して跡部のかけに付き合うことにした。
「おかえり景吾」
二人の新居は高級マンションの最上階。玄関が開くと同時に美恵は跡部に抱きついてきた。
「遅くなっちまったな、悪い」
「それより、お腹すいたでしょ?……あ、忍足君?」
跡部の背後でばつの悪そうな顔をしている忍足を見つけ、美恵は慌てて跡部から離れた。
「ごめんなさい気づかなくて、どうぞあがって。忍足君も良かったら一緒に夕食どう?」
「うわあ嬉しいなあ。新妻の手料理なんて。遠慮なく頂かせてもらうわ」
テーブルの上のご馳走を見て忍足は驚いた。
「跡部、自分、毎日こんな凄い料理頂いてるんか?」
「……いや、いつもより、ずっと豪勢だ。おい、今日は何かの記念日だったか?」
美恵は嬉しそうに頬を赤く染め、「そういうわけじゃないけど。お祝いなの」と一言言った。
「お祝い?」
何かあったのか?跡部は記憶を辿ったが、お祝いするようなことは何も起きてない。
「おい、もったいぶらずに教えろよ。何があった?」
「ええ。あのね……」
美恵は恥ずかしそうにチラッと忍足を見た。
「俺はお邪魔みたいやな。ちょっと席外しとくわ」
忍足の気遣いに美恵は何度も『ありがとう』と言った。
「で、何なんだ?」
「今日、病院に行ってきたの」
「病院?」
「ほら……ずっと遅れてるじゃない。もしかしてと思って……」
跡部はハッとした。確かに今月まだ来ていない。先月も。
「美恵、まさか!」
跡部は美恵の両肩を掴み、次の言葉を急かした。
「赤ちゃんができたの。三ヶ月ですって」
跡部はぽかんとしていた。こんな顔、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
愛する美恵との子供は勿論欲しいと思っていたが、こんなに早くできるとは思っていなかった。
まだ夫婦になって一ヶ月も経ってないのだ。
しかし、考えてみれば、肉体関係をもってから10ヵ月間というもの、毎晩のように体を重ねてきた。
妊娠したとしてもおかしくない。むしろ跡部は内心それを望んでいた。
(……子供)
――俺と美恵の子供。
「美恵!」
跡部は感極まって美恵を抱きしめていた。
子供、子供が出来た。美恵との間の絆が確かな形となったのだ。
「景吾、痛いわ」
「悪い、嬉しくて、つい」
「両親に連絡するわね。あ、その前に景吾のお父様とお母様が先よね。
まず、最初は景吾に報告しなきゃって思ったから、まだ言ってないのよ」
「そうか、すぐに電話してやれ。初孫だから喜ぶぞ」
美恵が電話をしている間に跡部は忍足に早速自慢した。
「そうか、めでたいなあ。しかし結婚一ヶ月にもなってないのに三ヶ月ってことは……。
なんか納得できひんもんがあるわ。少々むかつく」
「ふん、せいぜいひがんでろ。半年後には俺と美恵の赤ん坊が生まれるんだ」
跡部は今からウキウキしていた。
呆れながらも微笑ましく見詰めていた忍足だったが、やがて神妙な面持ちで言った。
「なあ跡部、例の事はこれで延期やな」
「忍足?」
「美恵の記憶を取り戻させようって事、今はやめたほうがいい。
前みたいに美恵の精神に強いショックやストレス与えたら、腹の中の赤ん坊に良くないやろ?」
忍足の意見は最もだった。もう美恵の体は、彼女一人のものではない。
下手なことをして胎児に何かあったら大変だ。
「ああ、そうだな」
跡部は、美恵が無事に出産するまでは、記憶を取り戻させることは忘れることにした。
その矢先での突然の記憶回復だったのだ――。
「……おまえには殴られて当然だと思ってる」
跡部は自嘲気味に微笑しながら言った。
「おまえが何もかも忘れたのを良い事に、何食わぬ顔して、おまえを自分のものにしたんだからな」
俯きながら謝罪の言葉を口にする跡部を美恵は複雑な表情で見詰めていた。
「……そんな事言われても……私、何も覚えてないもの……」
どうすればいいのかわからない。跡部を責めればいいのか、それとも喜べばいいのか。
「……あ、あの景吾。私、思い出したいの、今までのこと全部。
それまで、私、本当にここにいてもいいの?」
跡部は、「当然だろ!ここは、おまえの家だぞ」と強い口調で即座に肯定した。
美恵はホッとした。美恵の記憶の中にいる跡部は、恋人に気遣うあまり自分に対して冷たくなっていたから。
だから突き放されるかもしれない不安があったのだ。
そんな美恵の本音を跡部のインサイトは敏感に見抜いていた。
「……美恵、そんなに俺が怖いか?」
「……え?」
「俺が何か言うたびに怖がっているだろう……自業自得だな」
美恵は何も言えなかった。跡部の言葉を肯定するなんて残酷な事はできない。
かと言って否定することは、あからさまな嘘だ。かえって誇り高い跡部を傷つけてしまうだろう。
「悪かった。余計なこと言っちまったな」
跡部は毛布を取り出した。
「もう遅いから寝ろ」
「景吾、どこに行くの?」
「俺はソファーで寝るから、おまえはベッドで寝ろ」
「駄目よ、そんなの。私がソファーで寝るわ、ここは景吾のマンションだし」
「バカなこと言うな。おまえは大事な体なんだ」
「ソファーで寝るくらい大丈夫よ。景吾、仕事があるんでしょ?疲れているのにソファーで寝るなんて駄目よ」
「…………」
「…………」
美恵と跡部は豪華なダブルベッドに並んで横になっていた。
お互い自分がソファで寝ると言い張って譲らず、結局二人ともベッドで寝ることになったのだ。
「おい、もっとこっちに来いよ。そんな端じゃ落ちるだろ」
「そんなこと言ったって……」
跡部と同じベッドで寝るなんて小学生以来だ(実際には毎晩同じベッドで過ごしているが、記憶にない)
緊張のあまり、美恵は眠れなかった。
「……美恵」
「何、景吾?」
「……触れてもいいか?」
美恵は驚いた。跡部から、そんな言葉を聞くなんて思ってもなかった。
跡部は自分から求めなくても、いつも綺麗な女をそばにおき、いちいち断りなど入れず好きにしていたものだ。
「嫌か?」
「ううん」
美恵は布団の中で、そっと手を差し出した。
子供の頃は一緒に寝るときは必ず手をつないで寝ていたものだった。
跡部は美恵の手を取ると引き寄せ抱きしめてきた。
「……景吾?」
手をつなぐだけかと思っていた美恵は途惑った。
「……毎日、こうして寝ていた。ガキができてからは特にだ」
「…………」
美恵は無言のまま跡部の胸の中で目を瞑った。跡部の心臓の鼓動がやけに心地よかった。
次の日、目覚めると跡部の姿は、すでにベッドになかった。
(景吾?!)
跡部と二人っきりというのも緊張の連続だったが、かと言って跡部の姿が見えないと不安になった。
「景吾?」
慌てて寝室を出てキッチンに行くと、いい匂いが漂ってきた。
「起きたか」
「景吾、どうしたの?!」
「どうしたって、ただの朝食だ」
テーブルの上に食事を並べる跡部を見て美恵は幻を見ているような気分になった。
「景吾が作ったの?」
「あーん、当然だろ。ここは跡部の実家じゃねえんだ、専属コックもいねえしな」
「だって料理どころか給仕もしたこともない、あなたが」
「おまえが妊娠してから練習したんだ。つい、この前まで悪阻が酷くて料理どころじゃなかったからな」
「だから景吾が食事の用意してくれていたの?」
「まあな」
美恵は、まだ半信半疑だった。
「いいから食え。味は保証してやる」
美恵は恐る恐る跡部の手料理を口にしてみた。
「……美味しい」
「当然だ。俺に不可能はない」
美恵は思わず噴出してしまった。
「景吾、その台詞、昔、よく言ってたわよね。景吾……どうしたの?」
跡部が驚いているではないか。
「……笑った」
「……あ」
そういえば目を覚ましてからと言うもの、跡部の前では辛そうな表情ばかりしていたような気がする。
――いつか、自然に景吾と笑えるようになるかしら?
そんな期待が美恵の中で大きくなってきていた。
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