「勝つのは氷帝!」

懐かしい氷帝コール。跡部の代に起きた風変わりな氷帝名物は今も続いていた。
(……懐かしい、か)
あの事故から一週間ほどたっていた。美恵の記憶は、目覚めたときのまま。
しかし、不思議と記憶の中では一週間前いたはずの氷帝テニス部を前に懐かしいと感じる自分がいる。
跡部との恋人時代からの写真を見ても、何となくそう感じる。
まれに、ふっと映画のワンシーンのように記憶の断片が現れることもある。
美恵は確実に、記憶の中の日々が遠い過去のものだと理解していた。
天瀬じゃないか」
懐かしい声。美恵は肩越しに恩師の姿を見た。

「……榊監督」




Memory―5―




「本当に久しぶりだな天瀬。いや、もう跡部だったな」
榊は紅茶を差し出してきた。美恵は軽く頭を下げるとご馳走になった。
「跡部とは上手くいっているようで安心した。聞いたぞ、半年後には帝王二世の誕生だな。
跡部のことだからテニスの英才教育施すだろう。跡部似ならテニスの才能も……天瀬?」
榊は美恵の表情がやけに暗いことに気づいた。
「何かあったのか?」
「……先生」
「よかったら話してみないか?私にとっては今でも、おまえたちは可愛い教え子だ」














「社長、今日の会議の資料ですが」
「ああ、そこに置いておいてくれ。後で目を通す」
跡部はデスクの上に飾ってある美恵の写真を手に取った。
美恵は跡部を責めたりしない。だが心も許していない。
どれだけ優しく接しても、もう信じてもらえないだろうか?
それだけの苦しみを過去に美恵に与えていたことに今さらながら気がついた。
「……美恵」
跡部は写真を伏せて俯きながら、掌で顔を覆った――。














「……そうか。天瀬も大変だったな」
常に厳しい言葉ばかり口にしていた榊。その榊ですら、かけてやる言葉を慎重に選んでくれている。
恩師の気遣いが美恵には嬉しい反面戸惑いがあった。
「跡部は何をしているんだ。試合の時とは正反対ではないか、情けない」
「いえ……景吾は!」
美恵はすぐに声を上げた。
「景吾は本当に私を大切にしてくれているんです。
私が落ち着くまでは、しばらく会社も休むって言ってくれて……。
そんなことさせるわけにはいかないから無理矢理出勤させましたけど」


「では跡部とはうまくいっているのだな?」
「それは……」


美恵は言葉をつまらせた。跡部には何の落ち度もない。
自分の体を気遣って優しく接してくれる。
多忙な仕事で疲れているはずなのに家事もできる限りやってくれる。
完璧すぎるくらい理想的な夫だ。それなのに美恵は素直に喜べないでいた。
母が「こんなに愛されて、あなたは本当に幸せ者ね」と言う度に複雑な気持ちになって心が沈む。
「……こんな事言ったら、ただの贅沢だと思われるかもしれませんが」
美恵は俯きながら言った。


「私は景吾の優しさが本心なのか心のどこかで疑っているんです」


ずっと跡部と一緒にいた。それこそ物心ついた時から。
美恵にとって跡部は幼馴染であり兄であり親友であり、そして唯一愛した男。
跡部も美恵には心を許し、ずっとそばに置いていた。
中学にあがり跡部が女遊びを覚えても、その関係は変わらなかった。
これからも変わらないと信じていた。


だが、その思いは呆気なく裏切られた。恋人ができた途端、跡部は冷たくなったのだ。
新しいマネージャーと真剣に付き合いだし、反比例して美恵を粗略に扱い始めた。
その女性は跡部との交際には情熱を注いだが、マネージャー業には興味すら持たない人間だった。
美恵が必死に労働している横で、ベンチに座り跡部に声援を送ることしかしない。
他にやるとしたら美恵が用意したドリンクやタオルを横取りしてレギュラー達に配るだけ。
美恵が他の仕事をやるよう勧めると露骨に嫌な顔をする。
その度に跡部が彼女を庇って美恵を責める日々が続いた。
楽しかったマネージャー業が苦痛になるのに時間はかからなかった。

必死にテニス部を支えているのに跡部から悪態をつかれる美恵。
仕事をしないのに恋人というだけでちやほやされる彼女。

あの日もそうだった。体調を崩し休んでいた美恵に彼女は無神経な言葉を吐いてきた。




『ちょっと天瀬さん、ドリンクできてないじゃない。景吾達は疲れているのよ。
こんなところで油なんか売ってないで、きちんと仕 事してちょうだい』
『気分が悪いのよ。あなたも私が不調な時くらい仕事したら?』
彼女は顔を真っ赤にして立ち去った。程なくして跡部がやってきた。
『聞いたぞ。自分の仕事さぼって、あいつに押し付けるなんてどういうつもりだ』
ずっと我慢してきた美恵の堪忍袋がついて切れた。
美恵は跡部に期待することは止めた。もう、そばには居られない。
マネージャーも今日限りでやめようと決意した。





それなのに目覚めると跡部は以前と同じ、それ以上に優しくなっていた。
美恵を愛していると言い、大切に扱ってくれる。
嬉しいと感じる以上に跡部に猜疑心を抱いてしまう自分がいた。
仮に跡部の愛情が本物だとしても、何かがきっかけで、すぐに自分に冷たくなるかも知れない。
あの時のように。
そんな不安がどうしても拭えないのだ。
榊は黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「では天瀬は跡部を愛してないわけではないのだな?」
「嫌いなら悩んだりせず離婚してます」
「そうか」
榊はさらに言った。
「第三者に過ぎない私が言っても信じられないかも知れないが、一番苦しんできたのは跡部なんだぞ」
美恵は訝しげな表情で榊を見つめた。

天瀬は以前の跡部しか知らないだろう。だが私達は、おまえが意識不明になった跡部を知っている。
どれだけ後悔して自分を責めていたか、どれだけ深い愛情で待ち続けたか……」

榊は「私が知っていることなど、ほんの一部だが」と前置きした上で話を聞かせた。




美恵、美恵しっかりしろ!!』

頭から流血して動かない美恵を抱きしめ、跡部は『救急車、救急車を早く呼べ!!』と叫んでいた。
それは常に帝王として冷静沈着な態度を崩さなかった跡部が初めて見せた狼狽ぶりだった。
医師に目覚める確率は五分五分だと聞かされた跡部は周囲も憚らずに号泣した。
それからというもの、跡部は毎日病院に通った。
嫉妬した彼女が止めるよう懇願すると、きっぱり別れた。
周囲は跡部の病院通いを止めなかった。
しかし将来のある跡部が眠り姫と化した少女に、いつまでも執着などしないだろうと考えていた。
いずれ諦め新しい女を見つけ、その彼女との人生を歩むだろうと。


だが一年が過ぎ二年が過ぎても跡部に変化はなかった。
いたたまれなくなった美恵の母が『あなたは先が長いのだから……』と切り出した。
遠回しに美恵の事は忘れ青春を謳歌するよう勧めたのだ。
だが、跡部は『俺がそばにいたいんです』と譲らなかった。
榊も『おまえの気持ちはわかるが、天瀬が一生目覚めなか った場合も考えろ』と言った。
『何も変わりませんよ。例え永遠にあいつが目覚めなくても、もう二度とあいつを離すつもりはありません』
『苦労するぞ』
『俺は苦労なんて怖くありません。怖いのは美恵のいない人生だけです』
榊は黙って跡部の肩に手を置いた。もう、それ以上は何も言う必要がなかった。





「私は、それからは全面的に跡部の気持ちを支持してきた。
だから、はっきり断言できる。天瀬、おまえを一番愛しているのは跡部だよ。
ご両親でも敵わないくらいだ」

――景吾が、そこまで……。

美恵は涙を流していた。
思えば記憶が戻ってからというもの、自分の気持ちばかり考え跡部の気持ちは考えてなかった。
人生で一番短く貴重な時間である青春時代を跡部は自分に尽くしてくれたのだ。
それなのに自分は跡部を信じてやれず傷つけてばかりいる。
(ごめんなさい景吾)
心の底から、そう思った瞬間、美恵は何かを思い出し立ち上がった。




「どうした天瀬?!」
「すみません先生、確かめたい事があるので!」

美恵は高等部の図書館に向かった。
あそこに行けば大切な記憶を完全に蘇えらせる気がする。
眠っていた美恵に毎日語りかけてくれた人がいたような気がする。いや確かにいた。
本棚の間を小走りに移動していると、聞き覚えのあるタイトルの本が目に入った。
手にとると記憶の彼方から声が聞こえた。


『今日はイギリス文学を借りてきた。おまえの好きそうな純文学だぞ』


他にも知っている書籍を見つけた。何十冊なんてものじゃない。何百冊もだ。


『私の幼馴染が読んでくれるのよ』


「 ……あ」
次々に忘れていた記憶が脳裏にあふれ出した。


『跡部君は彼女のこと』
『ああ好きだ。今でも愛している』



――全てを思い出した。


眠りについていた時、記憶喪失だった時、跡部との大切な思い出を全てを。
今まで流した涙で一番温かいものだった。




(景吾に会いたい!)
跡部に謝りたかった。そして抱きしめて欲しかった。
(そろそろ景吾が仕事を終える頃かしら?)
美恵は携帯電話の登録番号1を押した。
美恵どうした?』
「景吾、私……思い出したの!」
数秒後に『……本当か!?』と跡部が叫んでいた。
「今まで、ごめんなさい。あなたに会って謝りたいの」
『今どこにいる!?』
「氷帝学園の近くの歩道橋よ」
『待ってろ。すぐ行く!!』
跡部の会社は氷帝学園から近く、三分もたたないうちに跡部のフェラーリが見えた。


「景吾!」
美恵は笑顔で歩道橋を下り出した。下車した跡部が走ってくるのが見える。
美恵!」
嬉しそうに微笑みながら。
「景吾!」
美恵も微笑んでいた。長い遠回りをしたけれど、やっと本当の夫婦になれる。
これからは二人で、いや家族三人でやり直すのだ。
美恵が、やっと跡部との幸せを手に入れた瞬間だった。


「誰が景吾の子供なんか生ませるものですか」

――え?


階段を駆け降りる美恵、サング ラスをかけた女とすれ違った瞬間、その声は聞こえた。

「あんたなんか、あの時死ねばよかったのよ!!」

美恵は突き飛ばされていた。その時、女の顔を見た。

「あなた……は!」

美恵は跡部との思い出以外の記憶も思い出した。

(そうだわ……あの時、私を――)


百貨店の階段で美恵を突き落としたのも今目の前にいる女――跡部のかつての恋人だった。




NEXT


Back