跡部の目の前で美恵は歩道橋の階段から転落した。
跡部は全速力で走った。愛しい女を、いや最愛の妻子を守る為に――。
Memory―6―
「……
美恵……美恵」
跡部はうなされていた。暗闇の中で、美恵の体が転げ落ちる光景が何度も繰り返された。
「美恵、危ない!」
跡部は上半身を起こした。全身、滝のように汗が流れていた。
「……美恵」
目に入った光景に跡部は混乱した。白い壁に格調高い家具、窓から吹き込む風にカーテンが揺れている。
(……ここは俺の部屋……どういうことだ?)
何が何だかわからない。目の前で美恵が転げ落ち、それを防ぐ為に走ったところまでは覚えている。
混乱しながらも跡部は立ち上がろうとしたが、床に足をつけた途端、ガクッと体勢が崩れた。
(……な、何だ?)
力がまるで入らない。立つ事すら困難なのだ。おまけに頭がズキズキして考えがまとまらない。
「……そうだ。俺は、美恵を受け止めようとして」
その時、人の気配を感じ跡部は部屋の出入り口の方に視線を移した。
少しだけ顔を扉から出した子供が恐る恐る此方を見詰めていた。
「……坊主、誰だ、おまえは?」
見知らぬ子供。年齢は三歳か四歳くらいだろう。
だが不思議なことに初対面なのに以前から知っていたような気がする。
それにしても、なぜ屋外にいたはずの自分が自宅のベッドで寝ていたのか、そしてこの子供は誰なのか?
「おい坊主」
その子はくるりと跡部に背を向けると、たたっと小走りで走っていってしまった。
「何だったんだ、あの小僧は?」
ふらふらしながらベッドにつかまりながら、なんとか立ち上がりベッドに腰掛けた。
廊下からバタバタと足音が聞えてくる。程なくして驚愕した表情の忍足が姿を見せた。
「……あ、跡部、自分……」
「……忍足?」
跡部は再び立ち上がろうとした。体はやはりふらつく。
「危ない!」
慌てて駆け寄り体を支えてくれた忍足。その襟をつかむと跡部は叫んだ。
「美恵、美恵は無事なのか!?」
「お、落ち着け跡部」
「落ち着いていられるか!あいつに何かあったら俺は……!」
やっと心が通じ合った矢先に美恵が目の前で歩道橋の階段から突き落とされた。
もしも、あの勢いで地面に叩きつけられていたら大怪我を負う。下手したら命だって危ない。
跡部は一刻も早く美恵の安否を知りたかった。
「自分、まだ完全に治ってないんやで。とにかく落ち着いて……」
「俺のことなんかどうでもいい!あいつが、あいつとガキが無事なら俺は……!」
「景吾!!」
跡部ははっとして視線を入り口に向けた。美恵が立っていた。
見た限り怪我は負っていない。跡部は心底ほっとした。
「……け、いご」
「美恵?」
美恵はぽろぽろと涙を流した。そして跡部に駆け寄り、その体を抱きしめた。
「景吾、景吾、景吾!」
号泣する美恵。跡部はそんな美恵を抱きしめた。
「……良かった、本当に良かった……景吾」
「美恵、俺のことより体は大丈夫なのか?」
跡部にとっては、それが一番重要な問題だった。
「腹の子は無事だったんだろうな?」
号泣していた美恵だったが、跡部が子供のことを質問した途端、困ったように俯いた。
「……おい、どうした?まさか……まさか」
「跡部、少し冷静になってくれ。自分には主治医の俺から話さないかんことがあるんや」
「てめえは黙ってろ!おい美恵、何とか言え!お腹の子供は……!」
「ママ」
その不慣れな言葉に跡部は訝しげな目で声の方を見た。
先ほどの正体不明の子供が立っている。
そして美恵に駆け寄り、その背中に隠れてチラッと跡部を見上げた。
「……ママ……だと?」
跡部は状況を理解できず、呆然と子供を見詰めた。
だが、その子供の顔を間近で見て跡部は、見覚えがあると思ったのが思い違いではないことに気づいた。
その子は、アルバムの中の幼き日の自分自身に瓜二つだったのだ。
跡部は一つの可能性に気づき、かすかに震え出した。
そんな跡部の気持ちを察した美恵は、その子を跡部のすぐ前に出すと肩に手を置いて優しく声をかけた。
「景士、お父さんに挨拶しなさい」
「……忍足」
「何や?」
「……教えてくれ」
――そうだ。思い出した。俺は美恵を助けるために……。
「……俺はどのくらい眠っていた?」
――美恵を受け止めて、そのまま俺は地面に激突したんだ。
「……5年や。自分は5年間、ずっと眠り続けていたんや」
――5年前――
「美恵!!」
体に衝撃が走った。だが怪我も痛みもない、美恵は恐る恐る目を開けた。
「……景吾?」
目の前には跡部の顔があった。そして自分が抱きかかえられていることに気づいた。
跡部がクッションになって守ってくれたのだ。
「景吾、景吾!」
だが跡部は目を瞑ったまま動かない。
「景吾、目を開けて……景吾!!」
周囲が騒がしくなり、白衣の男達が美恵を跡部から引き離そうとした。
何か言っていたような気がするが、美恵には何も聞えず、ただ取り乱した。
「助けて、誰か景吾を助けて!!」
「美恵!!」
「跡部は、跡部は大丈夫なのか?!」
忍足たちが駆けつけ見たものはベッドに横たわって微動だにしない跡部。
そして、その傍らで感情を押し殺している美恵の姿だった。
「……医師は、ずっとこのままの状態かもしれないって」
何を言っていいかわからず呆然としていた忍足達に、美恵静かに話しかけた。
「やっと心が通じ合ったのに……皮肉なものよね」
何と言って声をかけてやっていいのかわからない。
「私なら大丈夫よ。だって景吾は生きている、それだけは間違いないもの。
だったら私は待てばいいわ。景吾は三年間そうしてくれたんだもの」
そこにいたのは、覚悟を決意した一人の女の姿だった。
その後の美恵の苦労は言葉では言い表せないものだった。
美恵は毎日病院に通って跡部の面倒を見た。
跡部に話しかけ、体をきれいに拭いてやり手足を動かして筋肉が落ちないように務めた。
四ヶ月ほどすると美恵は跡部を自宅に引き取りたいと忍足に申し出た。
「美恵、それは大変だぞ。病院にまかせたらいい。もうすぐ赤ん坊も生まれるんやろ?」
「この子の面倒を見ながら通院して景吾を見るのは大変だってわかってるわ。
だから自宅に引き取りたいの。家でなら、ずっと一緒にいられるでしょう?」
「……けどな。自分の負担が増えるだけやで」
「在宅でできる仕事見つけたの。ドイツ語とギリシャ語の翻訳よ、景吾が教えてくれたおかげね。
親を頼らずになんとかやっていけそうなの。だから心配しないで」
忍足は、もう何も言わなかった。
跡部の両親も美恵の両親も心配して、せめて経済的援助だけでもと申し出たが美恵は一人で頑張った。
もしも今起きていないのが自分だったら、きっと跡部もそうしてくれただろうから――と。
忍足達に美恵は何度もこう言った。
「私、苦労してるなんて思ってないわ。だって景吾は生きてくれているんですもの」
そう言って、愛おしそうに跡部の髪の毛をそっと撫でる美恵の表情は穏やかだった。
「ただ……私はいいけど景士には可哀相なことをしたわ」
あの時お腹にいたのは元気な男の子だった。目元のほくろの有無を除けば、跡部にそっくりだ。
『ママ、パパはどうしていつも眠っているの?』
『ごめんね景士、ママのせいで寂しい思いをさせて。でも、これだけは覚えておいて。
パパは景士のことを命懸けで愛してくれているわ。それだけは本当よ』
幼かった景士も四歳になり幼稚園にあがる年齢になっていた。
「景吾、私達の息子も大きくなってきたわ。あなたの昔の写真みせたら自分もテニスをやるっていうのよ。
いつか、あの子に教えてあげてね。きっと、あなたのような名プレイヤーになると思うわよ」
跡部の母が、跡部が幼い頃使っていたという子供用のラケットをもってきてくれた。
嬉しそうにラケットを振り回す景士を見て、美恵はそっと涙を拭った。
『美恵、見てみろよ。すごいだろ、これ。ラケットっていうんだぞ』
『それすごいの?よくわからないけど景吾かっこいい』
「……5年」
跡部は、まだ呆然としていた。
確かに自分もかつて美恵を待ち続けたことがある。
だが、自分は待ち続けただけだ。
まだ若い美恵が子供を抱えながら、いつ目覚めるともわからない夫を看護しながらとは……。
苦労などという言葉では済まない。
「……美恵、悪い」
しばらくの無言の後、ようやくしぼりだした跡部の言葉は短いたった一言だった。
「……俺はおまえに何て言えばいいのかわからない」
美恵は今だ涙で濡れた顔で、やはりたった一言だけを言った。
「景吾、お帰りなさい」
――そうか。言葉なんていらねえな。
跡部は美恵を抱きしめた。
「ただいま美恵。待たせたな」
――某女子刑務所――
「……面会者の名前を聞いた時、自分の耳を疑ったわ」
ガラス一枚隔てて、かつて恋人と呼んだ女を跡部は冷たい目で見詰めていた。
「何の用なの?私に会いにきてくれた……わけないわよね」
二度にわたる執拗な殺人未遂および傷害罪により受けた五年の刑期を程なく終えようとしてる女。
正直、顔も見たくないというのが跡部の本心だった。
昔、この女に恋した過去すら消してやりたいくらいだ。
跡部がここに訪れたのは警告をするためだった。
「二度と美恵に近付くな。今度、あいつに……いや、あいつらに危害を加えてみろ。
その時は警察がおまえを逮捕する前に俺が殺してやる」
跡部の冷たい眼光が本気だと如実に語っていた。
「……もう、そんな気失せたわよ。あの女がいなくなれば、あなたを奪い返せると思った。
でも、あなたは、あの女を庇って目を覚まさなくなった。
本末転倒だったわ。無駄な犯罪おかしたのよ。涙もでなかった、笑ってしまったくらいよ。
だって、そうでしょう?
あなたを世界一愛して、あなたと一緒になるべきなのは私だと確信してたからやったのよ。
それなのに、あなたはその私の気持ちをあざ笑うように生きた死体になってしまった!
私がしたことは全部無駄になったのよ!あの女を消しても、これじゃあ何にもならないって!」
「だろうな。大抵の奴はそう思う。愛だのなんだのほざいても所詮人間はてめえが一番可愛いんだ。
おまえが望んでいたのは俺自身じゃない。俺にちやほやされる自分だったんだ」
「だが美恵は違った」
「あいつが、あの事故で動かなくなった時、俺は正直不思議だった。
いくら物心ついた頃から一緒にいた幼馴染とはいえ、どうして俺はあいつを待てるんだろうか、ってな。
だが、今ならはっきりわかる」
「あいつは俺の愛を求めたんじゃない。俺に愛を与えてくれる女なんだ。
そういう女だから俺は三年間あいつを待ち続けることができた。他の女じゃ駄目なんだ」
「……そう。でしょうね、私じゃ待てないわ。私は自分が愛してほしいもの。
心配しなくても、もう未練はないわ。二度とあなたにはかかわる気にはならないもの」
「それなら俺ももう何もいわない」
刑務所を出ると、跡部は空を仰いだ。
「パパー!」
ラケットを抱えた景士が走ってきた。
「約束だよ。早くテニス教えて」
「ああ、そうだな。断っておくが、俺は厳しいぞ」
跡部は景士を抱き上げると肩車をした。しばらく歩くと、その先に美恵が笑顔で立っていた。
「テニスもいいけど、その前に昼食よ。レストランにでも行く?」
「家に帰って、おまえの手料理が食いてえ」
「じゃあ、腕によりをかけるわね」
跡部が差し出した手を美恵は、しっかりと握った。
遠回りをしたけれど、やっと二人の人生が重なった。
――そして、これからは二度と離れることはないだろう。
END
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