それが車やバイクだとわかるのに一分もかからなかった。
眩しさに斗真は手で光を遮りながら、停車した車の中からでてくるシルエットを見つめた。
「おまえ、名前は?」
聞き覚えのある声だった。ほんの数分前に無線機を通して会話した女のものだ。
「制帽をとって顔を見せるのよ」
斗真が指示に従わなかったので、その女は痺れを切らしたらしく、背後にいた男達に手で合図を送った。
二人の男が駆け足で斗真に近づき腕をつかんできた。
他人に触られるのは真っ平だった斗真は、そいつらを一瞬で地に這い蹲らせてやった。
「反逆者よ、拘束しろ!」
女の甲高い声、それも斗真には気に入らなかった。
鎮魂歌二章―25―
「早くするんだ!」
三村は知里の足の裏に手を添え押し上げた。
知里は何とか窓をくぐり抜けることに成功。どすんと地面に落下する音が聞こえる。
次は自分の番だと三村は椅子の上に飛び乗り窓に向かって腕を伸ばした。
だが、お恐れていた事態が起きた。嫌なうなり声が聞こえる。
近い、扉のすぐ向こう側だ。奴だ、もう追いついてきたのだ。
三村は窓の縁を掴み壁に足をかけると同時に扉が突き破られた。
あのおぞましい怪物だ。そいつが三村に向かって突進してきた。
三村は窓枠を両手で掴みジャンプ、間一髪で直撃を避けた。
怪物は壁に大激突、ぴしっと壁に亀裂がいくつも入った。
もし、このタックルをまともに食らっていたら三村の肉体など一撃で動かぬ肉塊となっていただろう。
だが、全く無傷だったわけでもない。ふくらはぎに痛みを感じ、三村は眉を歪ませた。
縦、30センチ程に渡り肉が切り裂かれている。奴の牙がかすったのだ。
「ちっ!」
(大丈夫だ、大した怪我じゃない。今は逃げる事だけ考えろ!)
怪物はタフさを見せつけている。あれほどの激突にかかわらず、まるで堪えていないようだ。
大口を開け三村に向かって飛びかかってきた。
三村は窓をくぐり抜ける飛び暇もなく落下。
直後に窓ガラスが粉々に粉砕し、破片が三村に降り注いできた。
窓が人間一人ようやく通れるサイズだったのが幸いした。
「逃げるんだ松井!」
「でも三村君、怪我して……早く手当しないと」
「そんな暇はない。逃げるんだ!」
「あいつは建物の中だから急がなくても」
「早く!」
三村は、あいつの本当の恐ろしさを知らない知里の手を握り走った。
背後から軋む音が聞こえてくる。それが何なのか、すぐに知里も理解するだろう。
三村の予想とおり、数十秒後に、あいつが壁を突き破り、その恐ろしい姿を露わにした。
知里の絶叫が森の深い闇を切り裂く。
三村が強引に手を引いていなければ、知里はその場にうずくまり硬直していたかもしれない。
すでに知里の全身の筋肉は恐怖に感応しているかのように、その動きは鈍くなっている。
「松井、走れ、走るんだ!」
三村は大声を張り上げたが、理性が飛んでしまった知里には聞こえてないらしい。
言葉とも悲鳴とも区別がつかぬ謎の声を口から漏らしているだけだ。
(まずい、このままじゃ追いつかれるのは時間の問題だ)
三村は選択を迫られる事になった。
あの恐ろしい化け物相手に慣れない拳銃一つで戦うか、それとも知里を見捨てて一人だけ逃げるか。
人の命は計算ではないとはわかっていても、後者の方がよりよい答だと三村は自覚していた。
これが美恵や豊ならば、おそらく前者を選択していた。
三村にとってそれだけの価値がある人間だからだ。
しかし知里は良くも悪くもただのクラスメイト、単なる知人に過ぎない存在。
自らの命を危険に晒してまで守ってやる義務も情もない。
(畜生、叔父さん、どうしたらいい!?)
かつて叔父は言っていた。この国で美しく生きるということはイコール短命であると。
その言葉の本当の意味を三村は震えと共に思い知った。
奴の吐く息が近づいてくる、もう駄目だ。
三村は己のとるべき行動を選択する時間すら無くなった事を悟った。
この獰猛な未知の生物相手に勝てるわけがない。
恐ろしい唸り声が空気を振動させるのを感じ、三村は半ば絶望して拳を握りしめた。
「頭を下げろ!!」
前方から、突然予期してなかった声が聞こえ、三村は一瞬判断に迷った。
だが木々の陰から飛び出してきた人影を見て、三村は反射的に言葉の通り地面に伏せるように頭を下げた。
銃声が二発とどろき、ほぼ同時におぞましい絶叫が背後から押し寄せてきた。
「タフだな。さすがは科学省のペット、そう簡単にはくたばってくれないようだ」
再び銃声、三村は肩越しに化け物をみた。
胸部と頭部の中央に銃痕が見える。急所を正確に撃ち抜かれているのだ。
それでもスピードこそ衰えているが、化け物の突進力は健在だった。
酸性の血液を大量に垂れ流しながら、なおも襲ってくる。
その殺戮本能に三村は心底ぞっとした。
「これでどうだ?」
拳大のパイナップルのようなものがくるくると回転しながら化け物に向かって飛んでゆくのが見えた。
手榴弾だと判断した直後の三村の行動は素早かった。
「走れ、松井!」
駄目だ、時間がない。三村は知里を木の陰に向かって突き飛ばしていた。
直後、今までにない音がして化け物の肉片が辺り一面に飛散。
地面に落ち、じゅっという嫌な音が連続して発生した。
「うわぁ!」
三村は叫んでいた。ボディに奴の肉片の一つが付着している。
三村の学制服は瞬く間に溶け始めた。
「み、三村君!」
知里が慌てて駆け寄ってきたが、泣きじゃくるだけで何もできない。
三村は学制服を引きちぎるようにして脱いだ。防弾チョッキが溶けだしている。
恐ろしいまでの威力だ、早くしないと防弾チョッキどころか肉体まで溶かされてしまう。
「松井、手伝ってくれ!」
防弾チョッキの金具を外さないと。しかし知里はあまりの事態におろおろとしているばかり。
「三村、大丈夫か!」
飛びついてきたのは夏生だった。
自分達を助けてくれたヒーローの正体を三村は初めて知った。
夏生はすぐに金具を外し、防弾チョッキを三村から引きはがした。
間一髪だった、後少し遅かったらボディを負傷していただろう。
いや、その前に防弾チョッキを着ていなかったら、想像して三村はぞっとした。
助かったという事実に、あの化け物の末路を見届けてやる余裕もできた。
手榴弾は化け物の口の中にヒットしていたらしく、見事に頭部が消滅している。
「……恐ろしい奴だった」
ほっとする三村。その時だ、化け物が動いた!
三村はギクッとして銃を構えた。
頭部を吹っ飛ばされたはずなのに確かに化け物は動いたのだ。
どんという音と共に地面を強く踏み走ろうと足を動かした。
「ふざけるなぁー!!」
引き金を引こうとした三村。だが肩に重みを感じやめた。
夏生が三村の肩に手を置き、「最後の悪あがきだ。ほかっておけ」と囁いてきたからだ。
「……わ、悪あがき?」
夏生の言葉を証明するように化け物は、ほんの数歩歩いただけで盛大に倒れた。
そして二度と動かなかった。
「……何て生命力だ」
もしも夏生が来てくれなかったら……三村は全身に恐怖の戦慄が走るのを感じた。
そこに命が助かったという安心感は微塵もない。
あるのは化け物に対する底知れぬ恐怖だけだった。
「こんな奴が、まだいるのかよ……勝てるわけがない、そうだろ夏生さん?」
三村はうつむきながら尋ねた。我ながら酷く疲れた声だと思う。
「おまえ、よくわかってるじゃないか」
三村は心の中で何かが崩れるような感覚を覚えた。
底なしに明るい夏生の事だ。
心のどこかで、三村の消極的な思いを否定するような心強い台詞を吐いてくれるだろうと期待していたのかもしれない。
「俺が命がけで守ってやるって断言してやれるのは光子や美恵ちゃんや貴子ちゃんだけだ。悪いな」
あまりにもさらっとした発言。とても申し訳なさそうには思えない。
「けど生き残る可能性はゼロじゃあないぜ」
三村はぱっと顔を上げた。
「あいつは確かに化け物だ。科学省のとっておきのペットだ。だからこそ、そんなに数がいるわけじゃない。
戦闘を極力避け時間まで逃げきればいいんだよ」
「……簡単に言ってくれるな」
城岩中学校ではサードマンの異名で通っていた自分ですら逃げきれなかった。
今度襲われたら、その時は鋭い歯牙の犠牲になってしまうだろう。
「やってみなきゃわからないだろ。ファイトファイト」
「……あんたの気楽さが羨ましいよ」
けれど夏生の言う通りだ。三村は深呼吸をすると両手で自分の頬を叩いた。
(しっかりしろ!いつか、あの世で叔父さんに会ったときに笑われたくないだろ?
その、いつかは、ずっと先だ。今なんかじゃない!!)
「どうやら覚悟を決めたようだな」
「ああ」
「よし!」
夏生は三村に銃を差し出してきた。
「44マグナムだ。ほら、弾もあるぜ」
「助かるよ」
「なあに自分の身は自分で守る。それが男だ。ところで、おまえ光子がどこにいるか知らないか?」
「いや、相馬とは別れたから」
「そうか、じゃ、そういう事で」
夏生はくるりと向きを変えると手を振りながら走り出した。
「ちょっと、待ってくれよ!」
三村は慌てて夏生の上着の裾をつかんだ。
「何だよ。男にすがりつかれても嬉しくないから離せよ」
「あんた、俺達と一緒にいてくれないのか!?」
「俺って目先の人間より愛しのにゃんにゃんちゃんって男なんだよ。あきらめろ。ほら、離せ」
「そうはいくか!俺達と一緒にいてもらうからな!!」
「え~?」
露骨に嫌そうな形相を見せる夏生に三村は泣きたくなってきた。
「その安全な場所まで、どのくらい歩けばいいのかしら?」
「こうしている間にも、きっとコワーイ怪物がかわいいアタシを付け狙っているのよね。ああ、ぞっとするわ」
光子と月岡を先頭に七原、滝口、豊は周囲に神経を集中させて歩いていた。
少し離れた場所から箕輪がついてきてくれている。と、いっても姿は見えない。
特選兵士の肩書きにふさわしい能力の持ち主らしく、気配も物音もまるでない。
箕輪がついてくれているので、ひとまず安心だが完璧ではない。
月岡と光子は月光を頼りに目を凝らして木や岩を見つめた。
「あったわよ光子ちゃん、箕輪君の言うとおりね」
「こっちも発見。ほら、あの木の枝の陰。ここは離れた方が得策ね」
「それにしても、あんなわかりやすい場所に仕掛けるなんて、アタシ達のことをバカにしてるんじゃない?」
「まあ当然といえば当然じゃない。中学生なんて舐めて当然って連中が多すぎるもの」
「そうねえ、アタシはお父さんがいかがわしいお店やってるからよくわかるわ。
けど、普通の中学生ってそこのところ全然わかってないみたいじゃない?
現に七原君達なんか、全く気づいてないみたいよ」
目的の場所までは直線距離こそないが、途中湿原地帯を通らなければならないのが厄介だった。
周囲が葦に囲まれて視界が悪いし、敵と遭遇した場合、逃げるには足場が悪すぎる。
ここに来るまで、例の化け物達と遭遇しなかった幸運すら不気味に感じる。
まるで幸運を使い尽くしてしまったような感覚すら覚えていた。
「七原君、今度はあなたが先頭よ」
月岡は七原の背中を押した。
「滝口君と瀬戸君は、あたしたちの斜め後ろね。ほら、さっさとしてよ」
七原は何か言いたそうだったが、光子が「何?」と言っただけで観念したように「わかったよ」と俯きながら言った。
こうして七原、滝口、豊は三角形になり、その中心に月岡、光子が位置する形態で前進する事になった。
つまり化け物がどこから襲撃してきても、光子と月岡が最初の犠牲になることはまずないということだ。
滝口と豊は泣きそうになっていた。
「シュ、シュウヤ……俺、怖いよ」
「泣くな豊、逆らったところで相馬達が俺達の扱いを改めてくれるわけないんだ」
「で、でも……」
「いざとなったら俺が守ってやる。だから頑張れ」
「……わかった」
湿原地帯は異様なほど静かだった。
ここを抜ければ、ほんの数十メートル先に安全な建物がある。
そこについてしまえば勝利したも同然だ。
だが、その距離がはてしなく長く感じた。
「光子ちゃん、アタシどきどき……」
「あたしだって同じよ。こんな緊張感、暴力団と対決したときにだって味わえなかったわ」
暗闇の中、五人が歩く音だけが聞こえる。もう少しで湿原地帯を抜ける位置まできた。
光子は内心ほっとした。緊張感よりも、今は安堵感の方が強い。
「……どうやら、あたしの悪運もまだまだのようね」
だが、そんな光子をあざ笑うかのように、突然危機が舞い降りた。
それを知らせたのは箕輪がはるか背後から投げた小石。
五人はハッとして一斉に右に顔を向けた。葦が不自然な動きをしているのが見える。
何かがやってくる。滝口が「ひぃ!」と小さな悲鳴をあげていた。
「滝口!」
七原がダッシュしていた。足がすくんでしまっている滝口を見て助けに向かったのだろう。
だが七原よりも早く走っていた光子と月岡は前方に向かっていた。
「あらあら七原君ってば、相変わらず甘いわね」
「他人の世話していられるほどの立場だと思っているのかしら?
でも、あたし、七原君のそういうところ嫌いじゃないわ。だからこそ簡単に利用できるんだもの、ふふ」
「同感ね。美しく賢いものの為に犠牲になるなんて。ちょっとアタシのタイプじゃないけれど、七原君もなかなか素敵よ」
光子と月岡の思惑通り、七原達が囮になったおかげで彼女達は大胆な行動を取ることができた。
湿地地帯を駆け抜けると建物が目に入った。箕輪が言っていた例の安全地帯だ。
勝利まで後少し、背後からは七原の奮闘する叫び声が聞こえてくる。
その声も徐々に小さくなってゆく。
七原達の尊い犠牲を無にしない為にも、光子と月岡は、このゲームの勝者にならなければならないのだ!
「後少しよ、光子ちゃん!」
「ええ!」
後少し、ほんの少しだ。
そして建物まで後十数メートルという位置まできた時だった。
「止まれ!!」
箕輪が警告してきた。ほぼ同時に光子と月岡はストップ。
後少しで確実な安全を手中に納める事ができたはすの二人は不機嫌そうに振り向いた。
箕輪が、すぐ背後にたっている。どうやら、ここには隠しカメラはないらしい。
「ちょっと、どうしたのよ箕輪君」
「まさか七原君達を待てっていうんじゃないわよね?」
「……これを見ろ」
箕輪は光子の制服のスカーフを手に取ると、小石に巻き付け放り投げた。
それが地面に落ちた瞬間、ばちばちと火花が飛び散り黒こげになったのだ。
「まあ!」
月岡が口元を手で押さえ、驚きの声を上げた。
「……セキュリティーシステムが作動している」
「何よ、それ。どういうことよ?」
「中に人間がいるんだ」
「……来たよ」
比企が深刻そうな声色で言った。
「あの化け物が……?」
美恵は、ぞっとした。いくらセキュリティーに守られているとはいえ、やはりぞっとする。
しかし比企が次に発した言葉は予想と反するものだった。
「人間だ。予定外の連中は要らない、排除する」
「うわぁ!」
絶叫と同時に地面に密着、そのまま動かない兵士。真知子は思わず言葉を失った。
(……バカな、まるで動きが見えなかった)
真知子は国防省の暗殺部門のプロだ。もちろん戦闘にも自信がある。
水島から手取り足取り指導され、その腕前は国防省の女性官屈指だと自他共に認められていた。
特選兵士は別格だが、それ以外の男には引けは取らないはずだった。
それなのに謎の侵入者の動きは全く見えなかった。真知子はぞっとした。
(この男、ただ者じゃない)
囲んでしまえば簡単に拘束できると思っていた真知子は即座に判断を変更した。
「かまわないわ、射殺しろ!」
この男は危険だ、今すぐ殺した方がいい。それが真知子が下した判断だった。
国防省相手に単独でこんな大胆な事をするとは思えない。
拘束して拷問にかけてでも、聞き出さなければならないことは山ほどある。
それらと引き替えにしてでも、今、ここで息の根を止めなければならないと思った。
それほどの驚異を真知子は感じたのだ。
警備兵たちは一斉にホルスターに腕を伸ばした。
多勢に無勢、銃の数に生身の人間が勝てるわけがない。これで全てが終わるはずだった。
だが警備兵達が銃を構える間もなく、銃声が轟いていた。
その直後に起きたのは悲鳴の輪唱だ。血しぶきをあげながら兵士達の体は沈んでいった。
(銃が……!)
あの一瞬で敵は銃身に狙いを定め、素早く、かつ正確に発砲していたのだ。
真知子自身が手にしていた銃も弾き飛ばされていた。
右手に強いしびれを感じる。いや、それだけで済んだのは幸運だ。
銃弾の角度によっては、銃どころかボディに被弾し動けなくなっている部下もいるのだから。
動けるもの真知子を含め四名。
銃が使用不可となった以上、もはや絶対有利といえない状況に暗転していた。
だが一つだけ収穫もあった。
男の銃の弾が空になったのだ。マガジンを取り出しセットしようとしている。
「させないわ。さっさと拘束するのよ!」
鮮やかな銃の腕前を見せつけられて半ば呆然としていた部下達は、ハッとして次々に飛びかかっていった。
だが厳しい訓練と豊富な経験により培った戦闘力が、その男には、まるで通用しなかった。
攻撃は簡単に受け止められ、お返しとばかりに受けた一撃で全員地面に這い蹲る羽目におちいったのだ。
もはや動けるのは指揮官である真知子、ただ一人。
(何て、役立たずな連中なの。克巳に顔向けできないわ)
真知子は猛然と戦いを挑んだ。
愚かな部下とは違うというところを見せつけてやるつもりで、男の首に腕を振り落とした。
サングラスが半壊し男の目が見えた。
何の感情もない色だ。真知子は一瞬ぞっとした。
おまけに、男は真知子の攻撃に全く堪えていない。
強い力で肩をつかまれ真知子はその美しい眉を歪ませた。
そして力任せに突き飛ばされ、無様にも地面の上を滑る姿をさらしたのだ。
意識のある部下達が怯えきった目で真知子を見つめてきた。
とてもかなわない、逃げる方法を考えて下さい、そんな声が聞こえてくるような気がする。
(冗談じゃあないわ。そんなまねをしたら、どの面下げて克巳に会えというのよ!)
真知子は立ち上がった。
だが自覚している以上にダメージを負っていたらしく、足がふらついている。
服に赤い染みがついていた。
まさかと思って自分の状況を冷静に把握すると額から流血している。
(スピードがある上に馬鹿力……でもテクニックはどうかしら?)
真知子は再び攻撃を仕掛け、男の間合いに入る直前に閃光弾を地面に叩きつけるように投げた。
眩しい光が辺り一面を包み込む。
真知子は猫のようにしなやかな動きで高く飛んだ。空中で一回転して男の背後に。
男は真知子が閃光弾を使うなど予想していなかっただろう。
サングラスも壊した以上、光をまともに直視してしまったはずだ。
視力が回復するまで時間がかかる。それ以前に閃光を直視したショックで体の動きを一瞬止める。
それは反射的なもの、人間の本能的な動作だ。
この男がどれほど腕の立つ人間だろうと例外ではないはず。
その一瞬を狙い急所を攻撃すればいい。
着地した真知子はすでに隠し持っていたナイフを手にしていた。
何の迷いもなく突き上げる。真知子は心臓の位置を正確に覚えていた。
それで全てが終わる。実際に深々と肉を貫く感触があった。
真知子は口の端を色っぽくあげた。勝利を確信した笑みだ。
――やったわよ、克巳。この舐めた男に国防省に逆らう事を教えてやったわ。
――もっとも、この世で後悔することは不可能だけどね、ふふ。
「う、ご……っ」
醜い声だった。断末魔の悲鳴だろうか?
「か、鹿島さ……ぐぁっ」
真知子の笑みが一瞬で消えた。
ほぼ同時に閃光が消え、真知子の形相が引き攣ったものへと変化してゆく。
真知子の前にいたのは無礼な侵入者ではなかった。
地面に倒れていたはずの部下だったのだ。
髪の毛を鷲掴みにされ無理矢理立たされ、そしてナイフの鞘にされた哀れな部下だった。
「おまえ!」
真知子は即座にナイフを引き抜き、男の腹部めがけて突き上げた。
「……眠い」
新人の警備兵にとって深夜のお勤めは、まだ慣れていなかった。
眠気が消えたのは無数のヘッドライトが見えたからだ。
護衛のバイクに囲まれた車が何台も列をなしている。お偉いさんがやってきたのだ。
兵士はびしっと直立不動の体勢を取ると、縦列走行する車が目前に迫るのを待った。
近づいてきた黒塗りの高級車は、陸軍の軍旗がつけられている。
おまけにインコをデザインした旗もだ。
総統の次男・尚史だという証明でもあった。
兵士達はびしっと敬礼を決めた。
本来、門の出入りには厳しいチェックが必要だが例外もある。総統の息子がそうだった。
彼らが今するべき任務は、最高尾の車が通り過ぎるまで、じっと動かず敬礼のポーズを決める、ただそれだけだった。
数十台もの車両が徐行して門をくぐりぬけるのには数分かかった。
ようやく最後の車が通り過ぎると、彼らはほっと安堵の溜息を漏らした。
「いつもながら緊張するな」
門を挟んだ向こう側にいる相方に声をかけると、彼は不思議そうに此方を見つめている。
「どうした?」
「ライトが眩しくて、よく見えなかったんだけど、おまえの背後に誰かいなかったか?
一瞬、人影が動くのが見えたような気がするんだ」
「何言ってるんだ。物音も気配もなかったぞ。おい、まさか幽霊なんていうなよな」
「そうだよな。悪かった、気のせいだよ」
兵士達はゆっくりと腰を下ろすと、先程のように少しくだけた姿勢であくびをした。
つい先程、門の中に瞬と要が入っていったことなど夢にも思っていなかった。
ナイフが弾き飛ばされていた。
閃光弾を使用した作戦も全く効果なし。後に残ったのは流血しながら呻く部下の姿だけ。
この男の進撃を止めるには、やはりもうこれしかない。
真知子はぎりっと唇を噛むとライターのようなものを取り出した。
男は相変わらず無表情だったが、それを見た部下達は完全に顔色を失った。
「か、鹿島さん、それは!」
それは国防省が開発した殺人道具だった。
スイッチを押せば半径5メートルほどの範囲が電気の渦となる。
あらゆる機械は破壊され、当然生物もただではすまない。
人体実験では強靱な肉体を持つ囚人の八割が即死だったそうだ。
つまり敵を倒すために自分自身を犠牲にする諸刃の剣だった。
そして、今この場にいる人間全てが、その小型の殺人機械の支配の及ぶ位置にいた。
「や、やめて下さい。それを使ったら……!!」
「情けない連中ね」
真智子は懇願する部下達をはねつけるように言った。
「命が惜しくて水島克巳の女が務まるとでも思っているの!」
真智子は国防省の工作員として生きていた。
死ぬという事と常に隣り合わせ。死ぬのはさほど怖くない。
最も怖いのは水島に捨てられる事だ。
だからこそ水島に顔向けできない事態だけは避けたかった。
「おまえ達も国防省の人間なら覚悟を決める事ね」
悲鳴が輪唱する中、真智子は殺人機械のスイッチを押した。
【B組:残り38人】
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