いつものように部室の扉を開けるとレギュラーたちは既にそこにいた。
いつもの光景だったが、一つだけいつもと違った。
こいつらの表情が暗すぎた。
「何、しけた面してやがるんだ。さっさとテニスコートに行くぞ」
「……跡部」
「どうした忍足?何なんだ、おまえら」
「……今年のプログラムの対象クラスが、ついさっき発表された」
プログラムという単語には特別最悪な臭いがあった。
この国ではクラスメイト同士を殺し合わせるクソゲームが合法化されている。
どこの、どの学校の、どのクラスが対象クラスになるかは事前に知らされない。
国民に発表されるのは、全てが終わった後だ。
「対象クラスは、青学だ」
跡部の顔色が変わった。
「……まさか」
「美恵
のクラスや」
跡部の中で何かが崩れ落ちた――。
バトル・ロワイアル
――半年前――
「……え、景吾が?」
美恵は耳を疑った。跡部が一ヶ月前に入部した新マネージャーと付き合うことになったというのだ。
「可愛いもんな、マネージャー。跡部から告白したって話だ」
「……そう、なんだ」
「どうかしたのか美恵?何か顔色悪いぜ」
男女の色恋沙汰には疎い岳人は美恵
が跡部に惚れていることなど全く気づいてなかったらしい。
「岳人、いいからコートに先に行け」
「何だよ侑士」
邪険にされた岳人はほっぺたを膨らませてコートに向かった。
「気にすんなや美恵
、いつもの気まぐれにきまっとる」
忍足の優しさが嬉しかった。でも美恵
は寂しそうに言った。
「……でも景吾が自分から告白したことはなかったわ」
いつも相手の女から告白され、外見がそれなりにタイプなら適当に付き合って、適当に別れる。
それが跡部の付き合い方だった。そして、決まって一人の女と長続きしたことはない。
その跡部と変わらず長い付き合いをしているのは美恵
だけだった。
ただし、彼女としてではなく、幼馴染として。
ずっと一緒だった。幼い頃、跡部と結婚の約束だってしたことがある。
でも中学にあがった頃から跡部は女遊びをするようになった。
ずっと跡部を想い続けていた美恵
にとっては辛いことだった。
ただ、跡部はどれほど美しい恋人を作っても、自分の心のテリトリーに介入はさせなかった。
テニスという跡部にとって神聖な舞台に係わらせることはなかったのだ。
マネージャーとして、その舞台に引きずり込んだ相手は幼馴染の美恵
だけ。
本当に心を許し信頼している相手は美恵
だけだからこそだった。
そのバランスが新マネージャーのおかげで崩れようとしていた。
新しいマネージャーは確かに綺麗な少女だった。
(もっとも忍足は『美恵
の方が綺麗やで』と言ってくれる)
跡部が気に入るのも頷ける美貌の持ち主だった。それに明るくて何かと目立つ。
「美恵
ちゃん、ドリンクとタオルは私がもってくね」
「え?」
仕事を一人で済ませ、さあ、これからコートに行こうと思っていた美恵
はショックを受けた。
今までコートで跡部の応援に専念していた彼女が、美恵が用意した仕事を当然のように横取りしてゆく。
美恵
がレギュラー達と接する機会は日を追うごとに少なくなっていった。
「美恵
ちゃん、ドリンクまだ?景吾達、もう喉カラカラよ」
美恵
が炎天下の中、掃除や洗濯を必死にやっている横で、彼女は笑顔で無神経な事を言う。
「私、仕事がまだ途中だから。こんなこと言いたくないけど、少しくらい仕事したら?」
「……え?」
彼女は、まるで意地悪されたようなショックな表情を見せた。
おそらく親に甘やかされて育ったのだろう。
「……そんなこと言わなくても」
泣き出してしまった。典型的な甘えん坊のお嬢様のようだ。
「泣かないで。あなただってマネージャーの仕事したいから入部したんでしょう?
少しずつでいいから仕事覚えよう。ね?」
「私、私……景吾のそばにいたかったから、だから……」
マネージャーにあるまじき本音に、さすがに美恵
はムッとした。
「マネージャーは景吾に近付くための手段じゃないのよ」
「……酷い、それにさっきから景吾、景吾って……彼女でもないのに名前で景吾を呼ばないで!
美恵
ちゃんはただの幼馴染でしょう。景吾の恋人は私なのよ」
(……景吾と私は、この人よりずっと前から一緒にいるのに)
「……景吾は私と一緒にいても、よく美恵ちゃんの話をするのよ。
あいつは良くできたマネージャーだ。あいつを見本にして頑張ってくれ……って。
景吾の彼女は私なのに不安になる。
約束して、この先何があっても絶対に景吾のこと好きにならないって」
美恵は言葉が出なかった。
跡部をずっと前から愛していたのは自分なのに、想うことすら許さないというのだろうか?
「どうして黙ってるの?今すぐ誓って、景吾には、もう近付かないって」
部長とマネージャーという関係上、そんな事、無理なのに。
「なんで黙ってるの?何とか言いなさいよ!」
その場に座り込んで泣いてしまった彼女を見て、美恵は困惑した。
これでは、まるで自分がいじめているみたいではないか。
「おい、何をしている!?」
彼女の泣き声が聞えたのか、レギュラーたちが駆けつけてきた。
「どうした美恵、何があった?」
何があったかなどと質問されても、まさか先ほどまでの会話を正直に言えやしない。
「おい泣くな」
「……景吾、私、私っ!」
跡部に抱きつく彼女をみて、美恵の胸は締め付けられた。
人前でそんな事できるなんて恋人の特権だ。幼馴染には出来ない。
美恵の方が泣きそうになった。だが、さらにとんでもない事が起きたのだ。
「美恵ちゃんに虐められたの!」
その場にいる全員が固まった。一番呆気に取られたのは名指しをされた美恵自身だ。
「私……私、ずっと前から美恵ちゃんに虐められてるの。助けて景吾!」
「嘘よ、そんな事!」
当然のように美恵は反論した。
「嘘じゃないわ、信じて景吾。この人、私が仕事できないからって、毎日のように私を責めるの。
さっきだって、仕事しろって文句言ったわ」
「それは……!」
それは虐めなんかじゃない。ただマネージャーとして当然の意見をいったまでだ。
「美恵、本当なのか?」
「本当だけど虐めじゃないわ。ただ私は仕事をちゃんとやって欲しくて……」
「おまえにそんなつもりはなくても言い方がきつかったんじゃないのか?
こいつが虐められてるって思うくらいにな。それくらいの配慮してやらなかったのかよ」
「違う、違うわ!この人は私が嫌いだから、そんな事を――」
跡部の目つきが変わった。付き合いが長いからわかる、激怒した目だ。
「ふざけるな!おまえは、そんな女だったのか、見損なったぜ!」
「……け、いご?」
「俺がこいつと付き合ったからか?だから、こいつには優しくできねえのか?」
跡部は自分の気持ちに気付いている。
当然といえば当然だろう、跡部のずば抜けたインサイトなら簡単にわかる。
「……違う」
「もう、おまえとは話す気にならない」
その日を境に、あれほど親しかった跡部と美恵の関係は変わった。
跡部は美恵と距離をとるようになった。必要な事を話さなくてはならない時の態度は冷たい。
跡部が、そういう態度をとる以上、他の部員達も気まずくて美恵とは距離を取るようになった。
美恵の居場所は氷帝テニス部にはなくなっていた。
「皆、お疲れ!」
「ああ、帰るか。送っていく、今日は遅くなったからな」
大会が近く、最近は夜遅くまで練習が続いていた。
跡部は彼女を送っていく。だが美恵は無視だった。
(……景吾)
美恵は一人公園のブランコで泣いていた。
(……私を信じてくれなかった。私にとって景吾は大事な存在でも、景吾にはそうじゃなかった)
「天瀬さん?」
ハッと顔を上げると、そこには見知った人間がたっていた。
「……不二君」
青学の天才プレイヤー不二周助だった。
「こんな時間に一人でどうしたの?危ないじゃないか」
不二は美恵の涙に気づきハッとしたが、隣のブランコに座った。
「僕でよかったら話してよ。ね?」
不二の笑顔は、一人ぼっちだった美恵には眩しすぎた。
美恵は不二に全てを打ち明けた。
跡部のこと、彼女のこと、そして、もう自分の居場所は氷帝には無い事を。
「景吾、送ってくれてありがとう」
「ああ」
彼女を送り届けると跡部は腕時計を見た。
「……もう、こんな時間か。女一人じゃ危ない時間だな」
美恵の事が頭に過ぎった。
(あいつの話をちゃんと聞いてやるべきだった)
あの日、カッとなって一方的に酷いことをしてしまった。
最初は頭に血が昇っていた跡部だったが、日がたつにつれ、後悔し出していた。
ずっと一緒にいて、美恵がつまらない嫉妬で動くような女じゃないことはわかっている。
だが彼女を信じてやりたい気持ちと、何より、つまらない意地を優先させてしまっていた。
さっさと謝ればよかったのに、一度言いそびれると言い出せなくなっていた。
(もう帰宅している時間だ)
跡部は美恵の家に電話をかけた。受話器に出たのは、美恵の母親だった。
「まあ景吾君、久しぶり。え、美恵?それが、まだ帰ってないのよ」
(帰ってない?)
跡部はたまらなく不安になって駆け出した。
「マネージャーの仕事好きだから止めたくないけど、私がいたらテニス部の雰囲気悪いから……。
本当はずっと前にやめるべきだったけど、でも……未練断ち切れなかったの」
静かに聞いてくれていた不二だったが、突然、ある提案をしてきた。
「だったら青学のマネージャーになってくれないかな?」
「え?」
「合同合宿での天瀬さんの仕事ぶり見てて、青学に君みたいなマネージャー欲しいなって思っていたんだ。
青学になら君の居場所があるよ。僕が作ってあげる、だからおいでよ、ね?」
――居場所がある。
それは今の美恵にとって、何よりも魅力的な言葉だった。
差し出された手を美恵は取った。
程なくして美恵は青学に転校した。
跡部がそれを知ったのは、ある日突然美恵が姿を消したからだった。
さようならも言わずに美恵は氷帝テニス部から去ってしまった。
跡部は後悔した。だが全てが手遅れだった。
彼女との破局も、それから大した時間はかからなかった。
部室に飾られた写真の中で笑っている美恵を見て、自分がどれだけ大切な存在を手離したのか思い知った。
そして半年後の今――。
美恵のクラスがプログラムに選ばれた――
「それで美恵は?美恵はどうしたんだ!?」
跡部の中で恐ろしい考えが浮かんだ。
「……それが輸送中のバスが事故起して、生徒達は逃げ出したらしい」
「じゃあ美恵?!」
「ああ生きてる、今のところはな」
「今のところは?」
「政府が必死になって逃げだした生徒を捜索してるんや。もう、ほとんど捕まったらしい」
「……僕が美恵さんを誘ったばかりに」
不二は後悔した。泣きそうな不二を見たのは青学レギュラーにとっても初体験だった。
「元気だして下さい。そんなの不二先輩らしくないっすよ」
いつもは憎まれ口をたたく生意気な後輩のリョーマも、この時ばかりは心配してくれた。
「不二先輩も悪魔じゃなかったんですね。こんなに苦しむなんて。
美恵先輩だけじゃなく、パートナーの河村先輩まで、こんなクソゲームのせいで……」
そう、河村も対象クラスの生徒だったのだ。
「え、タカさん?」
不二はきょとんとした表情で言った。その顔を見て、青学レギュラー陣は顔面蒼白になった。
「ああ。そういえば、いたね、タカさんも」
「……やっぱり、不二先輩は悪魔っすね」
「そんなことより……美恵さん、今頃、どこにいるんだろう?」
青学テニス部は別の意味で恐怖のどん底にあった――。
街のはずれにある小さな神社のお社の中で声を殺して泣いている少女がいた。
山の中を走っていたのだろう。足元が汚れている。
美恵だった。彼女は自宅の近くまで逃げてきた。
だが、すでに周辺に警官がいた。
おまけに、近所の主婦達の井戸端会議から最悪の情報を得てしまったのだ。
「かわいそうに。こんな事に巻き込まれた上にご両親まで失うなんてね」
「娘さんのプログラムに激怒して兵士につっかかって殺されるなんて……」
「親戚にも警察の手が回っているだろうし頼れる人もないだろうしね」
(お父さん……お母さん……!)
美恵は泣き続けた。やさしかった両親は自分のせいで死んだのだ。
どのくらい涙を流したのだろう。気がついたら朝になっていた。
もう流す涙も残ってなかった。
その日は何をするでもなく、ただぼんやりと薄汚れた天井を見つめていた。
次の日になってようやく今後のことを考える気になってきた……。
(……これから、どうしたらいいんだろう?)
両親は殺された。親戚にも頼れない。他に頼れる人間なんていない。
こんな異常事態だ。国家を敵にまわしてまで助けてくれるお人よしはいないだろう。
(……景吾)
幼い頃から、『困ったことがあったら迷わずに俺を頼れ』と何度も言ってくれていた。
(……馬鹿ね。景吾が助けてくれるわけないのに)
携帯電話には今だに跡部の携帯番号が登録されている。
もう不要になって半年たつというのに消去できないでいた……未練だった。
「美恵の親が殺された!?」
跡部はすぐに帰宅して調査させた。警察が美恵を発見する前に見つけたかった。
(美恵、どこにいるんだ?)
何度も携帯電話にかけたが、電源を切っているらしく通じない。
(美恵、無事でいてくれ……!)
氷帝テニス部のレギュラー達も心当たりを捜したが影も形もない。
(もしも、あいつが死ぬようなことになったら俺のせいだ。
俺があいつを冷遇しなければ、青学なんかに行かなかった。
……美恵、頼むから死なないでくれ。お願いだ)
(……電源切ったままだったんだ。今の私に電話くれるひとなんていないだろうけど)
美恵は携帯電話の電源を入れた。
(……景吾、最後にせめて声だけでも聞きたい)
美恵は右腕にそっと手を添えた。怪我をしていた。
バスが事故った時に大怪我したのだ。それなのに病院にもいけない。
心身ともに疲労しきった上に、この怪我……体温まで低下していた。
(もう動けない……このまま死ぬのかしら……?)
――誰か、助けて。
美恵は、携帯電話を手に取った。
(……美恵、どこにいる?)
美恵のクラスの生徒達は、美恵を除いてほとんど生け捕りにされプラグラム会場に送られた。
美恵以外で今だ会場入りしていないのは二名のみ。
その二名は逃亡中に派手に抵抗した為、射殺されている。
(無事でいてくれ……)
――その時、携帯電話の着信音がなりひびいた。
液晶画面には美恵の名が表示されている。跡部は携帯電話に飛びついた。
「美恵!」
電話の向こうから返事はなかった。
ただ、かすかにすすり泣く声と、木々がこすれあう音、それに鳥の鳴き声聞えてくる。
「美恵、今、どこにいる!?」
「……景吾」
――そこで携帯電話は切れた。
「……美恵?」
跡部は慌ててリダイヤルしたが、呼び出し音が聞えるだけ。
美恵は出てくれなかった。
(なぜ切った?おまえを助けてやりたいのに、だから俺に連絡してくれたんじゃないのか?
俺を頼ってくれたんじゃなかったのか?俺を――)
――俺に助けてもらえないと思っているのか?
あんな酷い形で別れたまま、ずっとほったらかしにしていたのだ。
美恵が自分を信用できなくなっているのは無理もない。
(捜さないと……今、あいつはどこにいる?)
かすかに聞えた音……周囲は森か林だ。
跡部は幼い頃、よく美恵と遊んでいた神社のことを思い出し車を出させた。
「……ぅ」
美恵は口に手を当てて声を押し殺して泣いていた。
(馬鹿ね……景吾が助けてくれるわけないのに……景吾は私の事嫌っているのに)
どんどん身体が冷たくなっていった。
(私は嫌われている……ううん、それどころか憎まれているのよ)
美恵の意識はついに途切れる寸前まできた。
(……このまま眠っていれば、お父さんやお母さんに会えるかな?)
静かに目を閉じた――。
「美恵!!」
身体を抱き起こされる感触があった。うっすらと目を開けると跡部の顔が視界に入った。
「美恵、しっかりしろ美恵!!」
――景吾?景吾が来てくれるわけないのに。
「美恵、俺だ、わかるか?」
「……景吾」
――そうか……私、夢を見てるんだ。
「……神様、ありがとう。夢でも嬉しい……景吾が来てくれて……」
「夢なんかじゃねえ!すぐに助けてやる、だから……!」
「……景吾は……私を憎んでいるから……」
「違う!ずっと、おまえに言いたかった、俺が悪かった、謝る!」
「……だから夢だとわかってても嬉しい……景吾に……会えて……」
美恵は目を閉じた。そして、動かなくなった。
「……美恵?」
跡部の中で何かが音を立てて崩れていった。
「……嘘だろ?」
揺さぶってみた、しかし美恵は反応がない。
「美恵、美恵!目を開けろ!!」
「俺を置いていくなぁー!!」
――青春学園のプログラムが開始させたのは、その僅か二十分後だった。
――生徒数四十二名。内、二名は書類上死亡。一名は行方不明。
その後、警察がどれだけ捜しても美恵は発見されず、書類上の記録はたった四文字。
――推定死亡
END
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