私は時々不思議な夢をみます。
とても、とても素敵で幸せな夢です。
その夢の中では、私には素敵な幼馴染がいるのです。
口は悪いけど、本当は優しくて思いやりのあるひとです。
私は彼のことが大好きです。
たとえ、それが夢の中にしか存在しないひとでも――。


君に読む物語


「キャー、跡部様、跡部様!!」

(今日も凄い声援。毎日、毎日、飽きないで……本当に凄い人気)

美恵は本を整理しながら溜息をついた。

(でも、しょうがないか。跡部君、本当にかっこいいものね)

美恵は窓からテニスコートを見つめた。この図書館はテニス部を眺めるには特等席。
図書委員というのは跡部ファンクラブも知らない特権の持ち主というわけだ。

(テニスコートにいる彼は本物の帝王だわ。強くて気高くて魅力的過ぎる、それなのに、どうして……)

美恵は自分でも理由はわからないが、跡部の事が苦手だった。正直、怖いのだ。
高校三年に進級すると共に氷帝学園に編入した時から跡部は目に付く存在だった。
正直、美恵自身、跡部を見て惹かれるものがあった。
それなのに跡部が此方に振り向いた瞬間、なぜかわからないが逃げるように目を逸らし立ち去った。
それからも、無意識のうちに、極力跡部には近付かないようにしている。
なぜかわからないけど怖かった。
そして、美恵が幼馴染の夢を見るようになったのも、その頃からだった。














「おい、これ借りるぞ。さっさと手続きしろ」
放課後、図書館の受付係をしていると跡部が経済学とギリシャ文学の本を持ってやってきた。
跡部はよく図書館に来館する。借りるのは大人でも読まないような難しいものばかりだった。
「おい、さっさとしろ」
「あ、ごめんなさい」
急いで貸し出し処理をする。その間の突き刺さるような跡部の視線が痛い。
(どうして私、跡部君に睨まれるんだろう?)
跡部は週に二回、放課後に必ず図書館にくる。偶然にも美恵の当番の時にやって来るのだ。

(跡部君って怖いな)

「てめえ、そんなに俺が嫌いなのか?」
「……え?」
「俺を見るといつも怯えた目をするだろう」
態度には出さないように注意して普通に接していたつもりだったのに跡部の眼力は全てお見通しだった。
気まずさで美恵は思わず俯いた。
「……そんなに俺が嫌いなのか」
(跡部君?)


なぜだろう?跡部が悲しそうな顔をしたように見えた……。


「ち、違うの!」
美恵は慌てて否定した。嫌っているわけじゃない、それだけは誤解だ。
「そうじゃないの……ごめんなさい。跡部君のこと嫌っているわけじゃないから」
そう言いながら跡部の貸し出しカードを差し出し、美恵はあることに気づいた。
「イリアス、オディッセイア……これ」
「どうかしたのか?」
「ううん、大したことじゃないの。私の幼馴染が毎日私に読み聞かせてくれる物語だったから」
「おまえの幼馴染?」
美恵はしまったと思った。幼馴染っていっても夢の中にしか登場しない架空人物なのだ。
奇遇にも彼が毎日聞かせてくれるドイツやギリシャ文学と跡部が借りている書籍は一致している。
こんな偶然ってあるんだと美恵は不思議な気持ちになった。


「おまえの幼馴染はどんな奴だ?」
「……どんなって」
何て言ったらいいんだろう……存在しない人間ですなんて言えない。
顔も知らない。ただ毎日、夢の中で会いに来て、本を読んでくれるだけ。
美恵が困惑していると跡部が呟くように言った。
「俺にも幼馴染が一人いた。大事な女だった」
跡部は目を細めて言った。こんな優しい顔ができるんだと美恵は少々驚いてもいた。


「ずっと一緒でそばにいるのが当たり前になっていた。
中学にあがった頃、俺は強引にあいつをテニス部のマネージャーにした。
あいつは最高のマネージャーだった。仕事も懸命にやってくれた。
何より、俺達部員のことを、いつも大切に思ってくれていた。
だが俺達は……俺はそれが当たり前だと思うようになっていた。
三年になって、新しいマネージャーが入った。派手で目立つ女だった。
俺はその女と急接近して、その内に付き合うようになった。
あいつが一生懸命、俺達に尽くしている横で、その女が仕事に手を抜いていることにも気づかなかった。
それどころか、その女のために、あいつを散々ないがしろにした」


美恵は黙って跡部の話を聞いていた。跡部はとても悲しそうな表情をしていた。
「その、彼女はどうしたの?」
その時、チャイムがなった。閉館の時間だ。
「……話しすぎた」
跡部は立ち上がって扉に近付いていった。
「……明日もここに来ていいか?話を聞いてほしい」
美恵は、なぜか頷いていた。









それから美恵は毎日のように跡部と話をした。
跡部と彼の幼馴染の思い出話は、まるでお伽話ように素敵な物語だった。
花火大会の夜に二人そろって行方不明になって神社の境内で眠っているところを発見されたとか。
ホワイトクリスマスに真夜中に雪だるま作るのに夢中になって、次の日、二人揃って風邪でダウンしたとか。
中学生になってテニス大会で優勝した時、公衆の面前だというのに抱き合って喜んだ事とか。
跡部の話は尽きなかった。跡部にとっては本当に楽しい思い出だったようだ。


「……あの日に戻りたいって何度思ったことか」
跡部は自嘲気味に笑った。
「……俺は馬鹿だった。そばにいるのが当たり前だと思っていたんだ。
ずっと一緒でそれが俺にとって自然だったから、俺に恋人ができても変わらないと思っていた。
俺が無意識に彼女を贔屓して、あいつをないがしろにしてたことに気づきもしなかった。
影であいつが、どれだけ悲しんでいたか、もっと早く気づいたら失うこともなった」
「跡部君、あの……聞いていい?そのひとは今どうしてるの?」
跡部は頭をゆっくり左右にふった。
「……あれは真冬のことだった。あいつは風邪をひいたらしく、気分が悪いといっていた。
だが俺は彼女に一人で仕事はできないって泣きつかれて、あいつに無理やり仕事をさせた」




「おい、何をぼさっと油売ってんだ。さっさと仕事しろ」
「景吾、何だか気持ちが悪いの。少し休ませて」
「あいつに全部押し付けるつもりか。もう十分休んだだろう、さっさと仕事をしろ」
「……わかった。景吾、変わったね。昔はそんなひとじゃのに」
「ああ?」
「……もう私が知ってる景吾はどこにもいないんだ。
いいよ、最後だからやるわ。今日限りでマネージャーやめるから……」





「俺は頭にきた。あいつが腹いせに言ったかと思ったんだ。だが、あいつは本気だった。
あんなにマネージャーの仕事好きだった、あいつが、辞めるっていうくらい我慢の限界だったんだろうな」
「じゃあ、退部したの?」
「……もっと最悪だ」




「おい、何だか騒がしいな」
「た、大変だ跡部!!」
「何だ岳人、うるせえな」
「あ、あいつが……あいつが、階段から落ちて……頭から血が!」
「……な、んだと?」





「……気分が悪くてふらふらしてたあいつは階段から落ちて動かなくなっていた。
打ち所が悪かったんだ。どんなに揺さぶっても反応がなかった。
それっきりだ……失って初めて、あいつの存在の大きさに気づいた」

美恵は泣いていた。跡部が可哀相というのもあった。
だが理由はそれだけではない。
なぜか、わからないが涙がでて仕方なかった。


――どうして私が涙がでるの?
――私のことじゃないのに、すごく悲しい。


「……悪かったな、嫌な話につき合わせて」
「ううん。あの、跡部君、その恋人とは?」
「……あの事故の後すぐに駄目になった」
「あの……跡部君は、もしかして、その幼馴染のこと」

「ああ、好きだ。今でも愛している」


その言葉に、美恵はまた泣いた――。














帰宅しても美恵は跡部の話が頭から消えなかった。

『ああ、好きだ。今でも愛している』


(きっと彼女も跡部君のこと好きだわ。本当は両想いだったんだ)
愛し合っていても、ちょっとボタンを掛け間違えただけで心が通じなくなることがあるんだ。
美恵はそっとベッドに潜った。
(今日も、夢の中に出てきてくれるかな)
瞼を閉じた。夢の中の彼の顔は見えない。
でも声は聞える。毎日、とても優しい声で話しかけてくれる。
(……そういえば跡部君って)
美恵は一つの事実に気づいた。
(彼に声がそっくり。だから、最初からひかれるものがあったんだ)

――そして美恵は夢の中に入っていった。














跡部は病院に来ていた、病気や怪我で通院しているわけではない。
もう、かれこれ三年間、1日もかかさずに、この病院に通いつめている。
そんな跡部を遠巻きに眺めながら看護士達は噂話をする。


「彼、本当に、よく続くわよね。いくら仲のいい幼馴染でも、こうは続かないわよ」
「見てるこっちがせつなくなるわね。毎日、彼女に話しかけてあげてるのよ」
「覚醒する可能性は五分五分だっていうのに」
「それに先生が言ってたけど、頭を強く打ってるから仮に意識が戻っても記憶障害の可能性大ですって」


跡部は病室の前に立った。その病室には三年間同じネームプレートが掲げられている。
その部屋に跡部は入室した。
一人の少女がベッドの上で静かに眠っている。


「……美恵」


そのベッドに横たわっているのは美恵だった。
跡部は、ベッドの脇に置かれている椅子に座ると図書館から借りてきた本を取り出す。
「今日はおまえの好きな恋愛小説を借りてきた」
そう言って、眠っている美恵に読んでやった。
それは幼い頃、よく跡部が美恵にしてやっていたことだった。
美恵はその時間が一番好きだとよく言ってくれていた。だから跡部は、それを毎日続けている。









「今日はおまえの好きな恋愛小説だ」
「ありがとう」
美恵は夢の中で、彼に会っていた。
相変わらず顔は見えない。でも声は聞える。
本を読み終えると、彼は毎日繰り返している一言をまた口にする。
「……早く目を覚ませよ。待っているんだ」
(夢の中なのに、目を覚ませって……何だか変ね)
美恵は幸せそうに笑っていた。









「……早く目を覚ませよ。頼むから、これ以上待たせないでくれ」
跡部は美恵の手を握り締めた。
「……最近よくおまえを見る。他の奴らは気づかない、でも俺には見えるんだ。
幽体離脱なんて非科学的なもの嘘だとばかり思っていた、でも本当だった。
でも、おまえは、俺のこともテニス部のことも覚えてなかった……」
図書委員だったことは覚えていたのか、決まって図書館にいるぜ、と跡部は呟くように言った。
「今日は帰るな」




――先生、美恵は!?
――怪我自体は大したことない。しかし打ち所が悪くてね。
――どういうことですか?
――脳のメカニズムは現代医学でも把握しきれてない。このまま植物人間になるか……。
――そんな
――意識が戻っても何らかの障害出るか……いや、すでに彼女は記憶を失っているかも。




跡部は病院を出ると振り向いて美恵の病室を見上げた。


「また明日来る」




私は時々不思議な夢をみます。
とても、とても素敵で幸せな夢です。
その夢の中では、私には素敵な幼馴染がいるのです。
口は悪いけど、本当は優しくて思いやりのあるひとです。
私は彼のことが大好きです。
たとえ、それが夢の中にしか存在しないひとでも――。


――美恵は、ずっと夢の中。幸せそうに笑っていた。


END


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