病院の中庭の花壇を彩る美しい花。
それは、この白い壁に囲まれた世界に閉じこめられている美恵にとって、唯一の救いだった。

『……あの音は?』

その花壇の方から妙な音が聞こえてくる。美恵は胸騒ぎを覚え足の速度を速めた。
見たこともない少年が花壇に入り物言わぬ植物を踏みにじっていた。

『やめて!!』

美恵は花たちを庇い少年の前に飛び出した。
きりりと心臓が痛む。そのまま美恵は胸を押さえ地面に倒れた――。




告白




「……夢か」

美恵は呟きながら瞼を開いていた。白い天井が見える。
美恵ちゃん、目が覚めたようね」
馴染みの看護婦が微笑みながら入室してきた。
「最近、調子いいわね。この様子なら、近いうちに退院できると思うわ」
「はい!」
無意識に大きな声をだしてしまい美恵は、はっとして頬を紅潮させながら俯いた。
「もうすぐだもんね全国大会。よかったわね手術が間に合って」
「そ、そんなんじゃあ……」
慌てて否定しようとしたが、言葉がつまってしまう。
ますます顔が赤くなっていくのが鏡を見なくてもわかってしまう。


「あ、あの……」
何とか話題をそらそうとすると扉をノックする音がして、間髪いれずに「こんにちは美恵」と綺麗な少年が姿を現した。
「あら、噂をすればね」
看護婦の意味深な言葉に少年は「もしかして俺の悪口かい?」などと、ちょっと意地悪な態度を見せた。
「違うわよ」
慌てて否定すると、「そうよね。美恵ちゃんが幸村君を悪くいうなんてありえないわ」と看護婦が笑いながら言った。
「じゃあお邪魔虫は消えるわね」
後に取り残された美恵と幸村はしばらくお互いの顔を見つめあっていたが、やがてどちらともなく笑みを浮かべた。




「術後の経過いいみたいだね。安心したよ」
「うん。今度こそ手術成功みたい」

美恵は、小学生の時から入退院を繰り返していた。心臓の病気だ。

「週末には退院なんだろ?来月には間に合うね」
幸村は嬉しそうに言った。
「うん、絶対に行く。頑張ってね幸村君」
「ああ、わかってるよ」


美恵と幸村は、はたから見ても本当に仲良しだった。
一年前、幸村は難病にかかり、この病院に緊急入院した。
医師が不用意に言ってしまった『おそらくテニスなんてできないだろう』という言葉に当時の幸村は荒れていた。


美恵に会わなかったら俺は駄目になっていたよ」


「そんな大袈裟よ」
「大袈裟なものか。当時の俺は本当に腐ってたから」

「確率の少ない手術を受ける気になったのも、辛いリハビリに耐えられたのも全部美恵のおかげだよ」

幸村は屈託のない笑顔で、そう言ってくれる。
嬉しいけれど美恵には、とても自分にそんな力があるなんて自惚れてはいない。
ただ長期入院のせいで、長い間、友達にも恵まれてなかった美恵にとっては幸村は特別な存在だ。

そして今は……友達以上の存在となっている。














「……ここか。広いわね」
約束通り美恵は幸村の勇姿を見るために全国大会の会場に足を運んでいた。
「確か立海っていってたわよね」
テニスどころか学校そのものが遠い存在であった美恵は立海のことなど何も知らない。
幸村は「けっこう強いと思うよ」と冗談みたいに軽く言っていた。
だが全国大会に出場できるくらいだから強豪校には違いないと思っていた。


「あの、ちょっとお尋ねしますが」
美恵は、たまたま見かけた帽子をかぶった少年に道を尋ねることにした。
「立海の試合会場はどこですか?」
「……何、あんた?」
どう見ても一年なのだが、その割には態度が大きい少年だった。
「まさか立海なんかの関係者?」

(なんか……って、きつい言い方。もしかして立海って無名なのかな?)

「私、幸村君って立海の部長と知り合いで……」
「ふぅん、そうなんだ。だったら、あっちのコートだよ。さっさと行った方がいいと思うよ。
立海だったら、すぐに勝負きまるだろうからさ」

「ええ!?」

立海って、もしかして弱い学校なの?
幸村君の試合間に合わなかったら大変!!

しかし走るわけにはいかず、美恵は少年にぺこっとお辞儀をすると早足でコートに向かった。














「みんな動きが悪すぎるよ」
ぎりぎりだったが幸村の試合には間に合った。

(……あれが幸村君?)

立海は完全勝利をものにしていた。
相手チームは動けないほどなのに、立海は幸村をはじめ選手は汗一つかいていない。


「幸村君、おめでとう!」
「全国三連覇頼んだわよ!」
同じ学校の女生徒らしい集団が黄色い声をあげていた。

(……私、どうして来ちゃったんだろう)

幸村に会ったら何を言おうか、昨日の夜から考えていた。
勝ったら何度でもおめでとう、でも、もし負けたら何て言って慰めよう……と。
幸村は圧倒的な強さだった。
あれが本当に、ほんの少し前まで再起不能とまで言われた人間かと思えるほどに――。


(……私、とんでもない思い違いしてた)


あんな幸村は知らない。
美恵が知っている幸村は、いつも病室で儚げに笑っていた。
辛いリハビリに耐える強さを見せてくれたことはあった。
元気になって退院してからも美恵を見舞ってくれる優しさもあった。

でも――あんな絶対的な強さを見せつける幸村は知らない。


(……私が知ってる幸村君とは別人みたい)

女の子からもあんなにもてて、テニスがあんなに強くて……それが当たり前みたいな顔をしている。

美恵は逃げるように、その場を後にした。














「……私とは住む世界が違うんだ」
「何、言ってるんだよ。黙って帰るつもりだったのか?」

背後から腕をつかまれ美恵はぎょっとして振り返ると、不機嫌そうな顔をした幸村が立っていた。


「約束が違うじゃないか。どうして声もかけてくれなかったんだい?」
「……だって」
「だって何?」
「だって周りにあんなに大勢のひとがいて私なんかが声かけたら迷惑だと思って……」
「何、それ?」
幸村の表情が、さらに険しくなってゆく。


「迷惑なら最初から応援にきてくれなんて言わないよ」
「それに……」
「それに何?」
美恵は言葉がでなかった。幸村にとっては自分は入院先で出会った知り合いの女の子に過ぎない。
でも自分は幸村のことが好きなのだ。
幸村との差を見せつけられて、どんな惨めな思いをしているかなんて幸村にはわからないし知られたくもない。


「……だって私なんか」
「何が気に入らないんだい?」

幸村は苛立っているのか口調がきつくなっている。
病院では気さくに会話していた仲だったが、それも今日で終わるかもしれない。
泣きたくなってきた。




「ねえ、そんなに責めたら返って何も言えないんじゃないの?」




突然の第三者の声に美恵と幸村は同時に同じ方向に振り向いた。
声の主は先ほど道を尋ねた少年だった。

「それに立海の部長がこんな目立つことしてたら変な噂たてられるよ。場所を考えたら?」

よく見るとギャラリーが大勢……美恵は穴があったら入りたかった。


「……青学の坊やか。君には関係ない。黙ってなよ」
「ふぅん。見た感じ、その彼女って、あんたの事好きなんじゃないの?」

美恵はぎょっとした。


(何てこと言うのよ、この子!!)


「中途半端な優しさは偽善だよ。その気がないならほっとけば」
言い方はきついが、その通りだ。
「あんただって誤解されたら嫌なんじゃないの」

(彼の言う通りだわ……私みたいに病弱で何の取り柄もない女ともし噂でもたったら)


「かまうものか」
「え?」

美恵は幸村を見上げた。




「だが確かに坊やの言う通り場所を考えるべきだったな。俺は醜聞の餌食になるつもりはない。行こう美恵」
「行くってどこに?」
「二人きりになれる静かな場所だよ」

幸村は美恵の手をひいて会場をでるとタクシーを拾った。
向かった先は立海が宿泊しているホテルの一室だ。幸村は美恵を部屋に入れるとソファに座るように促した。


「さっきは興奮して悪かったよ」
いつもの穏やかな幸村に戻っている。
「だから聞かせて欲しい。どうして俺を避けようとしたんだい?俺のこと嫌いになった?」
「違うわ!」
思わず強い口調で半ば叫ぶように言った。
「だったらどうして」
「あの……」
コンプレックスを告白するのは勇気がいる。
しかし口をつぐんだままでは幸村は納得しないだろうし、このままモヤモヤしたまま別れるのも嫌だった。


(私は、もしかしたら後三年の命だって医者に言われた事だってあった。
恋もできずに死ぬんだって絶望して一晩中泣いたことだってある。
でも幸村君に出会った。手術も成功した。過去の私に比べたら、もう、十分幸せだわ。
幸村君は私に素敵な思い出をくれた。それだけでも感謝しなくちゃ)


美恵は覚悟を決めて幸村の瞳をまっすぐ見つめた。




「私、幸村君のこと好きなの」

幸村は少し驚いたようだった。

「この一年、ずっと一緒だったでしょ?私、ずっと入院ばかりしてたから友達を作ることもできなかった。
だから幸村君と仲良くなれて嬉しかったの。
幸村君は退院してからもよくお見舞いにきてくれたし、私は幸村君にとっても大事な友達なんだって誤解してた。
でも今日テニスの試合してる幸村君を見て……」

美恵は少し俯いた。

「……私が知らない素敵な幸村君だった。私みたいに病気に苦しんでいる幸村君じゃない。
あんなにテニスが強くて大勢のひとに人気があって。幸村君と私の距離を感じて……それで、それで……」

「それで何もいわずに黙って帰ろうとしたってわけか」

美恵は頷いた。




「……本当に」

幸村は呆れたように額に手をおいた。

「本当に美恵はうっかり屋さんだね。俺は友達なんて思ってなかったよ」

わかってはいたけど、はっきり言われるのはやっぱり辛かった。

「うん、わかってる。だから……さよなら、優勝できるように祈ってるから頑張ってね」
立ち上がり走り去ろうとした。ところが腕をつかまれてしまった。
「本当にうっかりしてるんだね。俺は美恵のことを友達なんて思ってないよ」




美恵とは恋人になりたいって思っているんだ」




「え?」

美恵は聞き間違いかと思った。自分の都合のいい幻聴かと。


「好きでもない子の見舞いを毎日するほど俺は暇じゃないし、好きでもない子に応援に来てなんて言わないよ」

心臓が大きく跳ねた。

「それに……好きでもない子を、あんな大勢のギャラリーの中から見つけたりできるものか」


抱きしめられている。
幸村の体温を直に感じ美恵の心臓の鼓動はさらに大きく高鳴った。




「覚えてるかい?最初に出会った日のこと」

忘れるわけがない。

「あの頃、俺はテニスができなくなる恐怖に押し潰されてやけになっていた。
綺麗な花をみてたら無性に腹が立って踏みつぶしていた。そこに君がきた」

思えば最初の出会いは最悪だった。

「はじめは君にも頭にきたよ。もっとも君が倒れて、それどころじゃなくなったけどね。
そして後で君がずっと入院してて死の恐怖と向き合って生きていることを知った。
俺には衝撃だったよ。俺はテニスを失うなんて考えられなかった。
でも君は命を失うかもしれないのに明るくて優しかった」


「そんな君に俺は救われたんだ」

幸村は美恵をそっと離した。




「テニスをしてた俺にショック受けたっていうけど、俺を応援してた女生徒達は美恵が知ってる俺を知らないんだよ」
「私が知ってる幸村君?」
「これでも学校の人気者だからね。入院した当初は大勢お見舞いに来てくれた」

そういえば幸村の部屋には、よく花がたくさんあった。
しかし三ヶ月もすると、あまり見なくなっていた。


「それもそうだろうな。テニスでつかんだ人気だ。テニスができなくなった俺のことなんか誰もが忘れていった。
変わらず来てくれてたのは同じテニス部の連中だけだった」

美恵にはよくわかった。自分だって入院した当時は大勢の友達が毎日のように見舞いに来てくれた。
しかし、ひたすら闘病生活の自分と違い順調に成長を続ける彼らが、いつまでも同じ時間を過ごしてくれることはなかった。
いつしか距離ができ離れていく。
同じくらいの年齢の子が入院して友達になることも度々あったが、やはり彼らもすぐに退院してしまいお別れに。
長期入院の宿命だと、美恵は幼心に理解はしていた寂しいものだった。


「俺自身じゃなくテニスをしている俺が好きなんだよ学校の皆は。
それを否定する気はない。俺自身、テニスをしている自分が一番好きなんだ。だから仕方ないことだった」

そのテニスができなくなると言われていた幸村にとっては世界中から置き去りにされるような気持ちだっただろう。


「でも君は、ただの幸村精市を好きになってくれたんだ。嬉しかったよ」


幸村は優しく微笑みながら言った。

「テニスで相手をねじふせる俺を知ってる人間は大勢いる。
でも苦しいリハビリで床にはいつくばる俺を知っている女の子は君だけだ」

霧のようなものがかかっていた美恵の心から重いものが消えてゆく。


「俺の弱さを知っているのは君だけ。これからも君以外の女の子に弱みを見せるつもりはないんだ」


「これからは強い俺も見て欲しい。ずっとそばに――」




「――君が好きだ。俺と付き合って欲しい」




期待を込めた目でじっと見つめる幸村。
そんな幸村にやっとの思いで美恵が返事をするのは数十秒後。
その日の夜、幸村はテニス復帰以上に素晴らしい出来事があったと部員たちに嬉しそうに語っていた――。




END




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