美恵は思いっきり背伸びをした。大空はどこまでも広く青く独占したような気分になる。
誰もいない学園の屋上。いや、本日は日曜日なので屋上どころか園内には誰もいない。
天瀬美恵は、一週間前に氷帝学園にやって来たばかりの転校生だった。
「演技しなくていいなんて気持ちいいなあ!」
おさげを解き、度の合わないダサい眼鏡を外した。
「今度こそ平和な学校生活を満喫しないとね」
美恵は前の学校では何かと目立つ生徒だった。それが災いして色々とトラブルに巻き込まれもした。
故に転校を機に平穏な学生生活を送る決心をしたのだ。
本当の自分を隠し大人しく地味な女の子を装うことにしたというのだ。
「でも、やっぱり疲れるのよね。誰もいない時は猫かぶらなくてい……あれ何?」
何かが飛んでくるのが見えた。
「……鳥?」
……にしては大きいし、やけに速い。おまけに轟音を伴っているではないか。
「せ、戦闘機!?」
どうして、こんな学園の上空に!などと考える間もなくパラシュートが見えた――。
ザ・災難
「おいミカエル、この時間じゃ登校時間に間に合わねえぞ。あーん?」
「ご安心を。本日は自家用機をご用意しております」
跡部は日本有数の財閥の御曹司。いや、下手したら世界有数かもしれない。
自家用ジェット機を持っている金持ちはいても、戦闘機クラスとなるとちょっとやそっとはいまい。
まして、それを遅刻を防ぐ為に使用するなど庶民から見れば狂気の沙汰だ。
それを平然と実行してしまう男、それが跡部景吾だった。
跡部は自家用戦闘機で学園に一っ飛び。パラシュートで飛び降りた。
屋上に着地したのはいいが、やけに静かでは無いか。
不思議に思って携帯電話に視線を落とし、その理由を知った。
「なるほどSUNDAYじゃねーの。まいったな。俺様としたことが……ん?」
跡部は人の気配を感じ振り返った。そこにビックリ仰天の面をした女生徒が立っている。
二人はしばしお互いの顔を見詰め合った。
「あーん、てめえ何で日曜日に登校なんてしてんだよ」
「……それは、こっちの台詞よ」
……って、いうか、こいつ跡部景吾じゃない!
私の平穏な学園生活の為に、絶対に係わってはいけない人間ブラックリスト№1!
「見ない顔だな……だが、どこかで見たような」
まずい!美恵は慌てて昇降口のドアに向かって全力疾走した。
そしてドアを開くと、これまた全力疾走で階段を駆け下りた。
正門を飛び越えるとタクシーをひろい、一人暮らししているマンションまで真っ直ぐ帰宅。
部屋に駆け込みようやくホッと溜息をついた。
「……危なかった」
美恵はチラッと鏡を見詰めた。自分でいうのも何だが目立つ容姿だ。
前の学校ではスポーツ万能で常にクラスの輪の中心だった。
人気者の美恵ではあったが、それを妬む者もいる。特に一部の女生徒の嫉妬は凄まじかった。
ある日、そんな女達の集団に囲まれた彼女は暴力をふるわれそうになった。
か弱い少女だったらリンチの犠牲者になっていたかもしれない。
しかし美恵は大人しくいたぶられる女ではなかった。勇ましく一人で立ち向かったのだ。
結果、美恵はかすり傷を負ったが、相手に軽傷とはいえ怪我人を出してしまった。
幸い美恵は正当防衛が認められ処分の対象とはならなかった。
しかし仕方なかったとはいえやりすぎてしまったと自己反省。
転校を機に目立たない学生生活を送ろうと、古風なルックスで本来の自分を隠し氷帝学園にやってきたのだ。
そんな美恵が転校初日に目にした超目立つ存在、それが跡部景吾だった。
初めて彼を見たときは衝撃としか言いようがない。
「きゃー!跡部様、跡部様!!」
「キーング、キーング!!」
その狂ったような歓声に美恵は半分呆気に取られ、半分圧倒された。
(……な、何なのよ、あの男……よく、こんなに目立てるわね。
あんなのにはかかわらないようにしなきゃ)
そう決意した美恵をあざ笑うかのように、よりにもよって跡部は新しいクラスメイトとして待ち構えていた。
しかも跡部は隣席だった。まるでトラブルの神の悪戯としか思えない。
クラス中の女生徒たちの嫉妬と羨望に満ちた刺々しい視線。
そんな中、席につくと跡部は「俺様の隣なんてラッキーじゃねえか」と得意げに言った。
(……何て男よ)
女が例外なく自分に惚れると思い込んでいるとしか思えない発言に美恵は反論する気にもならなかった。
平穏な日常生活を維持する為には、この男とは接触することを避けることは必要事項である。
そんな美恵の苦労が功を奏したのか、それ以来跡部は特に何も言わなかった。
ただ、「何でてめえ似合わねえ眼鏡なんかかけてんだ?」と言われた時はドキッと心臓が大きく跳ねたものだ。
美恵が俯いてじっと黙っていると跡部もそれ以上何も言わなかった。
だが、その鋭い目つきは全てを見透かしているかのようで怖かった。
跡部の隣席というだけでストレスがたまる。
そんな美恵のストレス解消法は屋上で一人悠々と時間を過ごす事だった。
前の学校でも、よくそうしていた。
屋上は大抵鍵がかかっており、通常誰もやって来ない秘密のスポットなのだ。
人には言えないが美恵は針金一本で開錠してしまう特技がある。
屋上で壮大な青空を見ていると、それだけで気分が明るくなる。
気分が少々緩んでしまう感覚に陥ってしまうくらいだ。
だが、さすがに日曜日に誤って登校してしまったのは、とんでもないミスだった。
用務員のおじさんに発見され、慌てて「忘れ物を取りに着たんです」と言ってしまったのが全ての始まり。
おじさんは信じて校舎の鍵を開けてくれた。
しまったと思いながらも、せっかくだから屋上に行って見ようかなと思ったのが運のつき。
まさか自分以外にも間抜けがいたなんて。
(でも、だからってパラシュートで屋上落下なんて予想外どころか論外よ!)
ベッドにダイビングして美恵はしばらく頭を抱えた。
どのくらい時間がたっただろうか?美恵はゆっくりと身体を起こした。
(よく考えたら顔を見られたのは一瞬だし、すぐに逃げたから大丈夫よね?)
そう思うことにすると何だか楽になった。
「そうよね、考えすぎよ。さあ、明日からは転校二週目に入るんだから。
いつまでも落ち込んでなんかいられないわ!」
美恵は窓際の席についた。跡部が隣にいることを除けば、そこは日当たりのいい特等席だ。
授業の予習をしていると、廊下から女生徒達の歓声が聞えてきた。
(……来たわね。毎日、毎日、飽きもせずに、よくやるわよ)
その情熱を手に入りそうな男に向ければ、この学園はカップルの宝庫になるっていうのに。
跡部は、当たり前のようにその歓声の中、入室し不遜な態度で着席した。
「よう天瀬、今日も辛気くせえ面してやがるな」
カチンとなった。以前の美恵なら、即平手打ちをお見舞いしてやるところだ。
しかし、今の自分は争いを避けるために健気な演技をしている身。
「おはよう跡部君」
一応、挨拶を返し、再びノートに視線を移した。やがて授業が始まった、跡部の得意な外国語の授業だ。
教師に指名され、流暢なドイツ語を披露する跡部。女生徒たちの眼差しが熱い。
(とんでもない男だけど、誰にでも取り得ってあるものよね)
美恵は、跡部のこういう面は認めていた。
(もちろん尊敬なんてレベルじゃないわよ。あんたみたいな傲慢な自己中を敬うなんてできっこないもの)
ただ屋上から見下ろすと他の生徒には見えないものも色々見えてくる。
あの天性の才能と思われていた華麗なテニスも、人の何倍も努力あって築き上げたものだった。
(いけない、いけない。だからって人間性が善良って事じゃないものね)
「よろしい。相変わらず完璧な発音だ、皆も跡部を見習うように」
跡部は「当然だろ?」と言わんばかりに美恵に不敵な笑みを見せ付けた。
(はいはい、お上手ですよ……って言って欲しいのかしら。ほんと、変な男ね。
くわばら、くわばら、係わらないのが一番だわ)
だが不幸の種は突然美恵の眼前にまかれた。
「……え?」
授業中にメモが回されることはあるけど……なぜ、跡部からそれがノートの上に投げつけられるのか?
ゆっくりと右に頭部を向けると跡部がにんまり笑っていた。
(何だろう?)
小さく折りたたまれたメモを恐る恐る開く。文面を見た瞬間、美恵は心臓が凍りつきそうになった。
『昼の放課、屋上に来い。逃げるなよ、あーん』
(ど、どういう事よ!)
突然の事に美恵は何度もメモを凝視したが、悲しいことに読み間違えではない。
動揺する美恵にメモ第二弾が飛んで来た。
『逃げたら、おまえの秘密ばらすぞ。わかってんだろうな、あーん?』
(ま、まさか……!まさか、この男、あの時の女が私だって気づいて……!?)
メモを握る手がわなわなと震える。平和な学生生活が音をたてて崩れようとしていた。
(お、落ち着いて。落ち着くのよ!あんな一瞬で私の正体がわかるわけ……)
焦りながらもポジティブに考えようとする健気な美恵をあざ笑うかのようにメモ第三弾が……。
『完全にばれてんだよ、俺様のインサイトを見くびってんじゃねえよ。あーん』
――こいつ……いつか殴る。
「……で、何の用よ」
結局、悩んだ末、美恵は跡部の呼び出しに応じた。
「くくっ、そんなに身構えるよ美恵ちゃん」
「うるさいわね!」
語尾を強めてやったが跡部にとっては笑いの種にしかならなかったらしい。
冷笑されカッとなった美恵は平手打ちにでたが、呆気なく手首をつかまれてしまった。
「怒るなよ、カルシウム不足してんじゃねえのか?」
「大きなお世話よ、何の用かって聞いてるのよ!」
その時、突然眼鏡を取られた。
「ちょっと何するのよ!」
「何でわざわざブスにしてんだよ、美人が台無しじゃねえか」
美恵は脱力した。もう怒る気にもならず、観念して大人しく跡部に事情を話した。
「バカな女だな、目立つ奴はどう演技したって、いつか人間の輪の中心になるようになるんだよ。
この氷帝の帝王・跡部景吾様のようにな」
「ちょっと、あんたと私を一緒にしないでよ。あんたは自分で目立ってる人間だけど、私はそうじゃないの」
「やっぱり馬鹿だな。俺様は目立とうとして目立っているわけじゃねえ。周りがほかっておかないだけだ」
――何て不遜な言い方なの?
「正直時々疲れるぜ。俺は常に帝王でなけりゃ周りが承知しない。
失敗や敗北は絶対に許されないし、こうして呑気に横になることも人前じゃ絶対不可だ」
跡部はごろんと仰向けになった。
「だから、てめえの気持ちも少しはわかるぜ」
意外だった。他人にちやほやされることを望んでいるとばかり思っていたのに。
「ねえ、どうして私に声をかけたの?」
「俺にどこか通じるところがあったからな、親近感って奴だ。それに――」
跡部はふいに美恵の膝に頭を乗せてきた。
「……ちょっと!」
突然の事に美恵は赤面する。男に膝枕なんて実はこれが初体験。
「てめえなら俺様の本心さらけだしてもかまわねえからな。ミーハー思考で俺に近付く女とおまえは違う」
跡部は空を見詰めた。
「……いいもんだな。こうして静かに空を見上げるってのも。
おまえ、いい趣味してるじゃねえか。これからは俺とこの特権を共有してもらうぜ」
何だか妙な事になった。
「おまえだって四六時中本性隠すのは疲れるだろ。俺様の前では猫かぶる必要もねえ」
「あなた……まさか、その為に?」
「その代わり、俺様の愚痴も全身全霊で聞いてもらうからな」
「ちょっと!私はあんたのストレス解消道具なの?」
「人聞きの悪いこというな。ギブ&テイクだ」
「……何て人間よ」
呆れながらも、もう美恵に跡部に対する悪感情はすっかり消えていた。
見上げると空は青く、冬の風が冷たいにもかかわらず何故か心は温かかった。
「ねえ跡部、私達、いい友達になれるかな?」
「やっぱり馬鹿だな。もう、なってるじゃねえか」
END
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