――美恵、おまえは今どこにいる?生きているのか?
MIRROR
「おっはよー、あれどうしたの皆?」
ジローは部室に入るなり、レギュラーたちの渋い表情から何かあったと察した。
「どうしたのじゃねえよ。マネージャーがやめやがった」
面白く無さそうに言葉を吐き出したのは宍戸だった。
「え、また?うちのマネージャーってほんともたないよね。そりゃ仕事はきついけどさ」
「だろ?入部希望者は後をたたないのに、レギュラー目当てのミーハーだって白状してるようなもんだぜ。
本当にテニス部のこと考えてくれてたのは美恵だけだったじゃねえか」
「岳人!」
「な、何だよ侑士」
「……それは言うな」
向日はハッとして口を閉じた。もう一年になる、美恵が忽然と姿を消してから。
「……俺達はまだいい。でも跡部は辛いやろうな」
あれ以来、跡部は笑顔を見せなくなった――。
――1年半前――
「お疲れ様」
美恵は笑顔でレギュラーたちにドリンクとタオルを手渡した。
中等部で三年間やってきただけあって手馴れたものだ。
高等部に進学してもそれは変わらず、テニス部の大切な仲間だった。
氷帝テニス部はとにかく人気がある。特にレギュラーは芸能人並だ。
彼らとお近付きになりたいためにマネージャー志願する女生徒は大勢いる。
しかし入部してから現実と理想の違いを思いしるのだ。
レギュラー達と仲良くなるどころか、実際にはきつい仕事に根を上げて1ヵ月もたない。
そんな状況に嫌気がさした跡部が幼馴染の美恵を強引に入部させたのだ。
美恵は本当に素晴らしいマネージャーだった。仕事もできるが何より部員を思ってくれる。
その笑顔や優しさにどれだけ癒された事か。
美恵を全国に連れて行く、いつの間にかそれがレギュラー達の合言葉にすらなっていた。
高等部に進学しても、それは変わらない――はずだった。
「新しいマネージャー?」
美恵は驚いた、そんな話は初耳だったからだ。
「おまえ1人じゃ大変だろ、俺のクラスの転校生なんだが本人の強い希望だ」
その新しいマネージャーは帰国子女だった。ハーフということもあって、日本人離れ顔立ちだった。
背が高く豊満なスタイル、とにかく目立つ容姿だったといってもいい。
外見においては美恵は決して劣っていたわけではない。
むしろ綺麗で清楚な美しさにおいては美恵の方がずっと上だっただろう。
ただ、それは控えめな美しさだった。
しかし、3年以上もずっと見続けていた美恵よりも、新しいマネージャーの方が年頃の男子にとって新鮮に見えた。
陰から部員を支えていた美恵と違い、派手に自身をアピールする彼女がどんどん目立つ存在になっていった。
美恵が必死に雑用から練習のサポートに従事している間、彼女は笑顔でレギュラーの応援に専念していた。
眩しい笑顔を伴った声援は強烈な存在感を跡部達に植え付けた。
彼女の存在は徐々にレギュラー達の中で大きくなり、反比例して美恵は小さな存在になっていった。
「皆、遅くなってごめんね」
タオルとドリンクを携えた新マネージャーの遅い到着に向日はほっぺたを膨らませていた。
「遅かったじゃないか、何してたんだよ」
「天瀬さんの仕事の手伝いしてたの」
「何だよ、美恵の奴、自分の仕事、おまえに手伝わせてるのかよ。しょうがないな」
「跡部、きっちり言っておいたほうがいいぜ。いくら古株だからって、これじゃあ可哀相だ」
新マネージャーはすっかり彼らのマドンナと化していた。
「そうだな、俺がしっかり言っておいてやる」
「……ふう終わった」
美恵は干し終えた洗濯物を見上げた。まだまだ仕事は残っている。
練習の記録やコートの整備、それにドリンクや薬が切れていたから買い物にも行ってこないと。
「おい美恵」
「景吾?」
どうしたんだろう、休憩時間でもないのに。
「おまえ自分の仕事くらい自分でやれよ」
「どういうこと?」
「あいつは入部したばかりで自分の仕事で手一杯だ。おまえにこき使わせるためにいれたわけじゃねえ」
「私、こき使ってなんか……」
「部室の掃除やらせただろうが」
それは『マネージャー』の仕事でしょう。美恵は喉まで出た言葉を飲み込んだ。
「頭冷やせよ、あいつにはレギュラーは全員救われているんだ。
いつもあいつが励ましてくれるから俺達も頑張れる、その足を引っ張るようなマネはするなよ」
――何よ、それ。じゃあ応援さえしてれば、仕事はやらなくていいってこと?
――私だって皆のそばにいて応援したいわ。でもマネージャーの役目くらいわかってるつもりよ。
――今まで、そうやって皆で頑張ってきたんじゃない。
その日から、美恵の中で何かしこりのようなものができた。
跡部達に頭にきたのもあるが、もっと腹立たしかったのは自分自身。
簡単に新しいマネージャーにとってかわれるくらい自分が小さな存在だったことだ。
(私は景吾達にとって大事な仲間だと思ってきた。でも、それは私の傲慢な思い込みだったの?
今まではマネージャーは私1人だけだったから受け入れてもらえていただけ?
……彼女が羨ましい。こんな短期間に皆にとってかけがえのない存在になれた彼女が)
美恵は内心ねたましかった。でも、その前に反省した。
(努力してみよう。彼女みたいに、皆に好かれるように。本当の仲間として受け入れてもらえるように)
美恵は必死になって努力した。前以上にマネージャーとして仕事に勤しんだ。
「また破れてる、それだけ激しい練習してるってことだけど」
レギュラー達のユニホームを繕いながら美恵は思った。
(今年こそ全国一になるといいね。こんなに練習してるんだもの)
ふと時計をみると、そろそろ休憩時間だ。
(いつもは彼女がドリンクとタオル配ってるけど、どうしたんだろう?)
コートに行ってから帰って来る気配がない。仕方なく美恵は自分が作って持って行った。
「お待たせ、ごめんなさい、遅くなって」
「遅いじゃないか、何してたんだよ!」
コートに入るなり向日が怒鳴ってきた。ふと見るとベンチに彼女が座っている。
「どうしたの?」
「気分が悪くて休んでるんだよ。そういう、おまえは何してたんだよ?」
「何してたって部室で掃除や……」
「彼女が具合悪くなった時くらい助けてやれよな、思いやりってもんがないのかよ」
普段からマネージャーの仕事をほとんどやっているのは美恵だ。
さすがの美恵も向日の言葉にむっときた。
いつも彼らの見えない場所で仕事をしている自分よりも、側にいる彼女のほうが良く見えるのは仕方ない。
それでも少し考えれば、自分がさぼってなどいないことはわかるはずなのに。
むしろ、ずっとコートにいる彼女が他の仕事はほとんどしてないことに気づくべきなのに。
「……私、仕事ちゃんとやってるわ」
「何だって?」
「あなたは、いえ皆も、どうして、そんな酷いことを言えるのよ!」
三ヶ月以上ずっと溜め込んでいた美恵の感情が爆発した瞬間だった。
他のレギュラーも何事かと2人の周囲に集まってきた。
「どうした、てめえら何をやっている?」
「跡部、美恵の奴、おかしいんだよ。注意してやったら口答えしてさ。
俺はあいつが具合悪いときくらいマネージャーの仕事ちゃんとやれっていっただけなのに。
それなのに自分は仕事してるって文句いいやがったんだ」
「美恵、おまえ、そんなこと言いやがったのか?」
「そんなこと?」
「ずっと我慢してきたのよ、私にだって感情はある。
彼女が具合悪いときくらい手伝ってやれって言われたのよ。まるで私が普段仕事してないみたいに。
私が以前熱出して休んでいたとき、あなた何て言った?
『さぼっってないで仕事しろ。あいつに仕事押し付けたいのかよ』って言ったわよね。
冗談じゃないわ。ほとんどの仕事は私がしているのよ。
ずっとコートで応援している彼女が裏の仕事全部してたと思っていたの?
ちょっと考えればわかることじゃない、それともあなたのインサイトは節穴なの?!」
パンと乾いた音がコート中に広がった。
レギュラーのみならず平部員まで全員が一点に視線を集中させた。
赤く染まった頬をおさえた美恵がコートに横座りの体勢で倒れている。
「そんなにマネージャーであることに不満もってたのか!?
それともなにか、今までの連中と同じで、おまえも俺達にちやほやされることが目的だったのか?!」
「跡部、暴力はいかんやろ!」
慌てて忍足が跡部に羽交い絞めをかけた。
跡部はハッとする、手を上げるつもりなんかなかったのに。
部員達が気まずそうに遠巻きに跡部と美恵を見つめた。
いたたまれなくなった美恵は立ち上がると振り向かずに走り去った。
「……落ち着いたか跡部?」
「……ちっ、俺としたことが。てめえら、何を見ている、さっさと練習しろ!!」
部員達は慌てて練習に戻った。跡部は美恵を殴った手を見つめ、悔しそうに握り締めた。
練習が終わり部室に戻ると、いつもいるはずの美恵がそこにいなかった。
いつもは全く気にしないほんの些細な事だったのに、異様な違和感を感じる。
「部誌はつけてないな。掃除もしてない。どこかで泣いてるんかな……」
忍足の言葉は剣のように跡部の心を突き刺した。
その時、部室の扉が美恵がたっていた。
ほっとすると同時に跡部は部長としてのつまらないプライドを優先させた。
「仕事さぼってどこに行っていた?」
「……ごめんなさい。少し頭冷やしてた」
「そうか、だったら罰として部室を大掃除しろ。帰るぞ、おまえら」
跡部は美恵を残して帰宅した。
そして跡部は、この事を生涯後悔することになる――。
(……これがマネージャーとしての最後の仕事)
美恵は心に決めていた、もうマネージャーは辞めようと。
一度引き受けた仕事を途中で放り出すのは嫌だけど、これ以上は辛すぎて続ける自信がない。
そんな気持ちじゃ、いずれマネージャーの仕事もまともにできなくなるだろう。
だったら、その前にやめた方がいい。
「……もう、こんな時間か。早く終わらせないと」
時計の針は12時を差そうとしていた。
最後の仕事だからと、レギュラー専用のトレーニングルームまで1人で大掃除していた為随分遅くなった。
トレーニングルームの鏡には、今にも泣きそうな少女の姿が映っている。
(嫌だ、こんな惨めな自分の姿みるなんて……)
美恵は鏡から目をそらした。
(そういえば午前零時に鏡はみるなって誰かが言ってたっけ……。
鏡の世界に引きずりこまれて二度と帰って来られないって。ただの迷信だけど――)
時計の長針が12を指した。美恵は何か大きな暗闇に包まれた。
次の日、部室にあったのは美恵の鞄だけ。美恵の姿はどこにもなかった。
学園内で生徒が行方不明になったということで大騒ぎとなった。
そして、一年たった今、美恵は今だに発見されない――。
(……俺があの時、あいつを1人部室に残さなければ)
後悔した、ガラにもなく駅前でビラを配って美恵の行方を捜した。
しかし美恵は見付からなかった。
美恵がいなくなって、どれだけテニス部に必要な存在か思い知らされた。
あの新しいマネージャーが輝ける存在だったのは美恵が仕事をしていたからこそなれたに過ぎない。
美恵がいなくなった途端に部室が汚くなった、他にも色々と支障がでだした。
どれだけテニス部に必要な存在だったのか、いやってほどわかった。
あのマネージャーは美恵がしてきた仕事の半分もできず、結局あの後、一ヶ月ももたずに退部した。
(……ここで、あの日、何があったんだ美恵?)
跡部は美恵が消えた一年前と同じ日、同じ場所にいた。
もう真夜中、時計の針が午前零時を刻んだ。
「誰だ!?」
人の気配を感じ跡部は立ち上がった。しかし、すぐに鏡に映った自分自身だと気づいた。
(……ちっ、情けねえ。こんなものにびびるなんて)
だが鏡に映った自分に跡部は妙に違和感を感じた。鏡に手をおくと、鏡の中の自分も同じ動作をする。
どこから見ても自分自身だ。だが、跡部は鏡に映るはずのないものを見た。
鏡の中に映ったはるか後方に人影が見えた。その人影は――。
「美恵!!」
「……驚いた、覚えていたのかよ。ちっ、これじゃあ、あいつがますます未練もつじゃねえか」
(鏡の中の俺が喋った!?)
「しょうがねえ。てめえも、こっちの世界にきてもらうぜ、騒がれるのは趣味じゃねえんだ」
鏡の中から手が伸びて跡部の手首をつかんだ。その瞬間、跡部は暗闇に包まれ意識を失った。
――夢……か。
「景吾、大丈夫?」
その声に跡部は全身を硬直させ反応した。
慣れ親しんだ声、そしてもう二度と聞くことができないかもと思った声。
右手に温もりも感じている。ゆっくりと頭部を横に向けると、美恵が心配そうに見つめていた。
「……美恵……なのか?」
「……ええ」
「夢……じゃ、ないよな?」
「ええ、信じられないかもしれないけど私――」
後に続く言葉はでなかった。美恵は抱きしめられていた、痛いくらいの抱擁。
「……景吾、痛いわ離して」
「てめえが、もうどこにも行かないっていうんなら離してやる……!」
「……景吾」
「もう二度とはなさねえ」
偽りのない跡部の本心。もう二度と離さない、間違えない。
どれだけ大切な存在なのか確認する必要もない。二度と失わない。
「今までどこに行ってやがった……帰るぞ、あいつらも待っている」
「……あいつらって」
「決まってるだろ、氷帝テニス部だ!」
「そんな、だって……」
美恵は信じられないというように声を震わせていた。ずっと自分はのけ者だと思っていたのだから。
「……私の居場所はあそこには、もう」
「……悪かった」
返事を渋る美恵が聞いた跡部の言葉は、以前の跡部なら決して言わないものだった。
「おまえが消えてからずっと後悔していた。テニス部にはおまえが必要だ。
何よりも、俺におまえは必要だ。一緒に帰ってくれ」
美恵は跡部の腕の中で震えていた。顔を見なくても泣いているのがわかる。
「……一緒に帰るな?」
「……景吾」
美恵がそっと腕を上げた。そして跡部の胸を押し返した。
「……美恵?」
「景吾、私、何歳に見える?」
「何歳って……」
自分と同じ年齢に決まっている。
だが跡部はその時、美恵が一年前よりもやけに大人っぽくなっていることに気づいた。
「……もう遅すぎるの」
「遅すぎる?」
「……もう私は帰れない」
「なぜだ、おまえを待っている人間がいるんだ、おまえを必要としている人間が!
それとも俺の事をゆるせないのか?だったらいくらでも俺を殴っていい、罵ってもいい、だから――」
「美恵を必要としているのは、てめえだけじゃない。この世界にもいるんだ」
跡部は声が聞えた方角に視線を向けた。そして愕然とした。
いるはずのない人間が立っていた。何度も、何億回も鏡の中で見てきた顔がそこにあった。
「――どういう、ことだ?」
そこに立っていたのは跡部自身だった。
今の跡部より、ほんの少し大人っぽい跡部。
「俺はこの世界でのおまえ自身だ」
「…………」
「信じられねえってツラだな。けど、これはリアルな現実だぜ。
この世には、自分が知ってる世界とは対になっている裏の世界がある。
ごく稀に異次元の扉が開く。一年前美恵は、この世界に来た。俺が引きずり込んだ」
「何だと?!」
「次元が違うせいで時間にも差異が生ずる」
美恵の年齢が自分より僅かに年上なのは、そのためだと勘のいい跡部は理解した。
美恵は行方不明になった時よりも5年間、跡部よりも時を経過させていたのだ。
「景吾、私はここに残るわ。私を信じて2人きりで話をさせて」
美恵の頼みに、もう1人の跡部はムスッとした表情を見せたが大人しく部屋から出て行った。
「驚いたでしょう景吾、私も最初はそうだった。最初はこの世界にも慣れなくて困ったの。
それでも帰る方法もなくて、気がついたら5年たってた」
「あいつに無理やり連れて来られたって言っていたな。どういうことだ?」
「この世界の私は、あの夜、死んだらしいの」
跡部は言葉を詰まらせた。
「……あの日、こっちの世界の私は帰宅途中に交通事故でそのまま……。
景吾は……あ、こっちの世界の景吾だけど、ずっと後悔してたって言っていたわ。
そして、ある日、偶然私をみつけたの――」
「――もう一つの世界にいる私を」
「このままでは私も同じ運命を辿る、だから……」
(……違う!)
別次元の住人とはいえ自分自身だ。跡部は、もう1人の自分の本心を悟った。
美恵を守りたかったのは事実。でも、それなら警告するだけでも事足りる。
こっちの世界では永遠に美恵を取り戻せないから、だから美恵を無理やり引きずりこんだんだ。
「最初は途惑ったけど嬉しかった。私にずっとここにいろって言ってくれたから」
ずっと欲しかった言葉。それを与えてくれた。
でも、心の中にしこりがあった。向こうの世界のことが気になって仕方なかった。
自分のことなんて、もう忘れていると思っていても、気になってしかたなかった。
「ずっと会いたいと思っていた」
「だったら一緒に帰ろう」
しかし美恵は悲しそうに顔を左右にふった。
「5年の歳月は短くなかったの」
美恵は1枚の写真を取り出した。
そこには美恵と大人の跡部と――そして美恵に抱かれている赤ん坊の姿があった。
「もう、ここが私の居場所なの」
「……美恵」
「私、幸せだから。だから、もう心配しないで」
「おまえは、俺よりも、今の幸せのほうが大切なのか?」
跡部はベッドから立ち上がって美恵につめよかった。
花瓶が床に落下しさしてあったクリスマスローズが花びらを散らせた。
「景吾、私は――」
その時の美恵の瞳はとても悲しそうだった――。
「跡部、跡部、しっかりするんや!」
跡部はゆっくりと目を開けた。見慣れた部室の天井が視界にうつった。
「……俺は」
「おまえが帰宅せんゆうて連絡もらったときは驚いた。あんまり心配させんといてや」
(……あれは夢なのかよ?)
「ん、これは何や。なあ跡部、この花、おまえが持ってきたんか?」
忍足が跡部に差し出したのはクリスマスローズだった。
跡部は全てを悟った。
――そうか、俺は帰ったきたのか。
――もう二度と会えないんだな、美恵。
「……跡部、自分泣いてるのか?」
――クリスマスローズの花言葉が頭を過ぎった。
――『私を忘れないで』
BACK