帰宅するなりキッチンに入ってしまった美恵。
夕食は専属シェフが腕によりをかけて用意してあるのに、何を作っているのだろう?
一時間後、美恵は弁当箱を抱えてキッチンから出てきた。
「じいや、車出してくれない?」
鸚鵡
「景吾ぼっちゃまへの差し入れですか?」
「景吾、皆が帰った後も一人で練習してるのよ。青学との練習試合が近いでしょ。
手塚君と再戦だものね。だから、どうしても勝ちたいのよ。
でも努力をひとに見せびらかすのは苦手なひとだから」
跡部がこっそりと一人残って練習するだろうということは、幼馴染だからこそ気づいた。
「お嬢様はご幼少の頃から景吾ぼっちゃまに夢中でしたからね」
「じいや!」
美恵は赤面こそしたが否定しなかった。自分の気持ちは幼い頃からわかっている。
(……でも景吾は)
美恵は跡部を愛していたが、跡部の気持ちはわからない。
ずっとそばにいて、それが当たり前。
あまりにも近すぎる存在だったせいか、跡部からは恋愛感情はもたれていないような気がする。
大切にはしてくれる。口は悪いが優しい。でも、それ以上のものは貰った事がない。
跡部はテニス部の帝王ということを除いても完璧すぎるくらいカッコいい男。
当然、跡部に想いを寄せる女生徒も大勢いる。
実際、今まで何度も跡部に告白してきた少女はいた。
跡部も思春期の男の子、その手の付き合いもそれなりにこなしていた。
ただ跡部にとって今は本気になれるものはテニス。
あくまでテニスが最優先ゆえか、彼女達とは長続きしなかった。
それでも跡部に新しい彼女が出来るたびに美恵は苦しくてたまらなかった。
跡部に交際を申し込むだけあって、相手の女性も美少女ばかり。
最初は気まぐれでも、付き合っているうちに跡部が本気になるかもしれない。
そんな不安が途切れたことはなかった。
いっそ跡部に気持ちを打ち明けてみようか?
そう思ったのは一度や二度ではない。
しかし一歩間違えたら恋人に昇格するどころか、今まで築いた関係すら崩壊するかもしれない。
そんな恐れが先立って、『好き』という、たった一言がいえなかった。
そんな二人も高校三年生。大学に入学すれば、家の都合から縁談も山のように来るだろう。
(特に景吾は跡部財閥の後継者だもの。もしかしたら、もうお見合いくらいしてたりして……)
美恵は切ない溜息をそっと吐いた。
氷帝学園に到着すると美恵は一目散にテニスコートに向かって走り出した。
温かいうちに跡部に差し入れの弁当を食べて欲しかった。
近付くにつれ、心地よいボールの音が聞えてくる。美恵が大好きな音だ。
跡部は真剣な表情でラケットをふっていた。
汗を流し必死な表情な跡部、こんな表情の彼を一体何人の人間が知っているだろう?
美恵の存在にすら気付かないほど真剣な跡部。少し妬けるけど、そんな跡部が美恵は一番好きなのだ。
跡部がようやく美恵に気付いたのは、一通り練習を終えタオルを取りにベンチに向かったときだった。
「……美恵」
美恵はにっこり笑って跡部に弁当箱を差し出した。
「お腹すいたでしょう?景吾の好物ばかりよ」
跡部はベンチに座ると当然のように美恵から弁当箱を受け取って食べ出した。
「美味しいでしょう?」
温かいお茶を差し出しながら感想を聞くと、「まずくはねえな」と可愛げのない答えが返ってくる。
だが、それが跡部の褒め言葉であることは美恵にはちゃんとわかっている。
その証拠に跡部は一粒残さず食べてくれる。美恵にとっては、とても幸せな時間だった。
「もうすぐね」
「ああ、今度こそ完膚なきまでに手塚を叩きのめしてやるぜ」
言葉こそ少なかったが二人の間には居心地のいい空気が流れていた。
(今なら言えるかもしれない……)
美恵はギュッと拳を握った。
「あ、あのね景吾、私――」
「俺も大学に入ったら跡部家の後継者として経済学を優先させる。
だから、これが最後の試合になるかもしれねえ」
――景吾
「勝ってやる。高校生活最後の試合を勝利で飾ってやるんだ」
――わかったわ景吾……今は恋愛どころじゃないものね。
美恵は言葉を胸にしまった。
「……今日も景吾にいいそびれちゃった」
美恵は残念そうに本日の出来事をペットのケイ(オウム)に報告した。
父が誕生日にプレゼントしてくれた大型のオウム。物覚えがよく、かなりの言葉をマスターしている。
『ケーゴ、スキ。ケーゴ、ダイスキ』
「……ちょっと声が大きいわよ」
ただ困った事に、美恵の寝言や独り言をいつの間にか覚えてしまい、それをリピートするのだ。
『ケーゴ、ケーゴ、ケーゴ』
「……おまえは賢いけど、とてもじゃないけど他人には紹介できないわね」
「じゃあ行って来るわね」
『ケーゴ、ケッコンシテ』
美恵は顔面蒼白になった。昨夜見た夢は跡部とのウエディング、どうやら寝言で言ってしまったらしい。
『チカイマス、チカイマス』
「……どうして、おまえは物覚えが無駄にいいのよ」
美恵は呆れながら、「イイコにお留守番してるのよ」と登校していった。
ケイの世話はメイドに頼んである。たまに外で遊ばせてあげるのも彼女の仕事だ。
ケイの足に紐をつけ犬の散歩のように屋敷の庭を飛べるようにしてやっていた。
「みんなー、時間よ」
美恵の掛け声と共にテニス部の朝練終了。その時、携帯電話が着信音を奏でた。
「もしもし……え、ケイが逃げた!?」
電話の向こうでメイドが慌てふためいている。
『お嬢様の学校に向かって飛んでいったので、もしかしてそちらに行ってないかと……』
「……それって」
非常にまずい!もうすぐ一般生徒達も登校する、そこにケイが飛来してきたらどうなる?
跡部本人にすら告白してない美恵の本心が全校生徒に暴露されてしまうではないか!
「た、大変、侑士、亮!お、お願い、一緒にケイを探して!!」
「どないしたんや美恵?」
「おい、落ち着けよ」
レギュラー達は大事なマネージャーの危機を知り、快くケイの捜索に手を貸してくれることを約束してくれた。
「あと二十分もすればぞろぞろ来るで。はよう捜したほうがいいな」
「てめえら何をこそこそ話してやがる」
そこに跡部がやってきた。
「何があった?」
「……それは」
跡部が怖い顔で睨んできたが、こればかりは跡部に頼むわけにはいかない。
もしも彼の前でケイが余計なことを口走ったら、美恵は跡部とまともに顔を合わせられなくなる。
「け、景吾はいいの!」
「ああ!?何だと?」
レギュラーで自分一人だけはぶけにされ、跡部は途端に不機嫌になった。当然だろう。
しかし跡部には申し訳ないが、こればかりはかかわってもらうわけにはいかない。
「と、とにかく!侑士達が手伝ってくれるから景吾はいいの」
「……そうかよ。よく、わかったぜ!」
跡部は冷たく言い放つと背を向けて行ってしまった。
(……怒らせちゃった)
「美恵、いいんか?」
「……うん、しかたないわ」
今はケイを捜す事が最優先。手分けして学園の敷地内を捜索した。
「……ここにもいない。ケイは木の上が好きなのに」
もしかしたら、ここにはいないかもしれない。
(もし、そうだとしたら……いたずらに景吾を怒らせただけじゃない。ケイの馬鹿!)
跡部を怒らせたのは本当に久しぶりだ。
青学との試合が終わったら勇気を出して告白の再挑戦をしようと思っていた。
だが、それ以前に仲直りできるかどうかもわからないではないか。
「……このまま景吾と喧嘩別れなんてことになったら」
「あーん、俺が何だって?」
背後から跡部の声。しかも随分とご機嫌な口調。
何事かとパッと振り向き、美恵は硬直した。跡部の肩にとまっているのは、忘れもしない我がペット。
「おまえが捜していたのはこいつだろ?しかし、お喋りなオウムだな」
美恵はショックでさらに固まった。
「あ、あの景吾……その子、何か言ってた?」
「ああ、面白い奴だな」
跡部はくくっと笑って見せた。
「鳥のくせに犬や猫の啼き声しやがる」
美恵はキョトンとした。
「……あ、あの、それだけ?」
「何だ、他になにかあるのかよ?」
「ううん、何でもないの!見つけてくれてありがとう」
良かった、どうやら妙な事は言わなかったようだ。それに跡部も、もう怒ってない。
――本当に良かった。
美恵はホッと胸を撫で下ろした。
「もうペットに逃亡なんかされるんじゃねえぞ」
跡部はニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
(あら?)
跡部がああいう顔をするのは、何かした時の証拠だ。
(……何だろう?)
ともかく無事に見付かって良かった。
「もう、本当に今日は冷や汗かいたわよ。二度と心配かけないでよ、わかったケイ?」
『ケーゴ、スキ、ダイスキ』
飼い主の苦労を知ってか知らずか、相変わらずケイは恥かしい台詞を口走る。
『ケーゴ、ケッコン、ケッコン』
「……おまえの口の軽さが羨ましいわ。私も、おまえみたいにさっさと景吾に言えればいいのに」
『ケーゴ、スキ、セカイイチスキ』
「はいはい、わかったから――」
『オレモスキダゼ』
美恵は、はっとしてケイを見詰めた。
(……今の言葉)
ケイは多くの言葉を覚えたが、そんな台詞一度も言った事がない。
『オレモスキダゼ』
その時、跡部の悪戯っぽい笑みが脳裏を過ぎった。
「……あ」
美恵は口元をそっと押さえた。嬉しいのに涙が溢れている。
『美恵、アイシテル』
「私も愛してるわ」
END
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