「あんな奴の恋人を三年もしてるなんて、本当に自分でも嫌になるわ!」
氷帝テニス部レギュラー達は食堂テラスにいた。
彼らのマネージャー天瀬美恵は感情的になってグラスをテーブルにドンとおいた。


「ねえ宍戸、美恵って何を怒ってるの?」
「鈍いなジロー。また跡部が浮気したんだよ」
「えーまた?今年に入って三度目じゃない?」
「でも去年よりはペース落ちてるだろ?」
「岳人、そういう問題やないやろ?」


美恵と氷帝の帝王・跡部は恋人同士。プレイボーイの跡部が自分から選んだ唯一の恋人。
不特定多数の女と短期の交際を繰り返した跡部が美恵と恋人宣言した時、学園中の女生徒が泣いた。
しかし跡部は女遊びそのものはやめなかった。
おかげで彼女達は浮気相手として楽しんでいるが、代わりに美恵には辛い日々だ。
そこまで恋人を悲しませておいて、『あいつは俺にベタ惚れだ』といい気になっている跡部が憎らしかった。


「……何が、たかが浮気よ。私には他の男と馴れ馴れしく口をきくなっていうくせに」
「跡部ってヤキモチやきだよね。それだけ美恵のこと好きなんじゃないの?」
「ジロー、本当に好きなら悲しませたりしないわよ。あいつの束縛はただの体裁なの。
帝王様の彼女が他の男と仲良くしてたらプライドが許さない、ただそれだけなのよ!」
美恵の積年の怒りは限界突破寸前まできていた。
「……何よ、そんなに浮気が大したことじゃないのなら私だって浮気してやるから!」
「お、おい落ち着けよ美恵」
なだめようとする宍戸とは裏腹に、忍足はにっこり笑ってこう言った。


「だったら俺と浮気しいひん?」




女心と秋の空




「……はあ」
廊下を歩いているだけで自然に溜息が口からでる。それもこれも跡部のせいだ。
(幼馴染で、ずっとあいつのそばにいた……欠点だらけの人間だけど、本当は努力家で優しい男。
それがわかってなきゃ、とてもじゃないけど我慢できないわよ)
美恵は窓から空を見上げた。澄み切った秋空。

(……いつから私達、こうなったんだろう?私じゃ満足できないのかしら?)

跡部は大財閥の御曹司で、成績もスポーツも常にトップ。その上、美男子でカリスマ性もある。
(……それに比べたら私って平凡な女よね。景吾が私一人じゃ満足できないの無理ないのかもしれない)
散々跡部の悪態をついてみたものの、一人になると悟りを開いたようにそう思ってしまう自分がいる。
ただ跡部をそばで眺めていたわけではない。美恵なりに自分を磨く努力はしてきたつもりだった。
それでも跡部に相応しい女かと問われると自信がない。


廊下を曲がると階段の踊り場に跡部が見えた。隣には浮気相手の女。
何でも女の子に人気のあるファッション雑誌の専属モデルまでしている美少女だった。
(こうして見るとやっぱり綺麗。それにスタイルだって抜群)
その彼女と跡部のキスシーンは映画のワンシーンのように美しかった。
美恵には怒りの感情はわかなかった。
ただ目の前の光景に心が塗りつぶされたような虚無感が襲ってきて足元が震えた。
逃げ出したいのに足が動かない。持っていた本が床に落ち、跡部と彼女が此方を見上げた。
跡部はさすがに気まずそうな顔をしたが、相手の女は勝ち誇ったように笑みを浮かべている。
美恵は悔しさから正気に戻った。落ちた本を拾い上げると、何もなかったように平然と階段を降りだした。


「おい美恵」
跡部の口調がいつもより焦ったように聞えたのは気のせいだろうか?
「少しは場所を考えたら?」
我ながらさらりと言ってのけたと思う。ちょっと驚いている彼女に笑ってみせてやった。
そのまま階段を降りようとすると、背後から腕をつかまれた。
「……おい、何を考えてやがる?」
「何よ、それ?」
「いつものおまえなら頭にきて怒鳴りつけるはずだ」
「言っても、あなたには糠に釘でしょ。無駄なエネルギー使うなんて損なだけだわ、離してちょうだい」
跡部の手を振り払い、その場から立ち去ってやった。














図書館で調べ物をしていると、忍足が声をかけてきた。
「いつも熱心やなあ」
美恵が机の上に広げている分厚い本は、ドイツ語とギリシャ語の辞典にテニスや応急手当の専門書だった。
美恵は跡部の影響で外国語に興味をもっている。
マネージャーとして役に立ちそうな知識と共に貪欲なほど勉強し吸収していた。
「仮にもテニスの名門・氷帝のマネージャーだもの。これくらいしか私にできることないものね」
「謙遜やなあ。自分ほど最高のマネージャーはいないで」
「お世辞でも嬉しいわ」
「ほんまや。この前も、謙也が羨ましがっていたで。
『うちにも天瀬さんみたいな美人で優秀なマドンナ欲しい』ってな」
それは嬉しい言葉だったが、美恵は素直に喜べなかった。


「どうしたん?」
「私、自分の事くらいわかってるつもりだから」
「何があったん?」
忍足は心配そうに尋ねてきた。
「大したことじゃないの。私は景吾が相手してる彼女達と違うし……」
美恵は自分の手を見詰めた。中学時代からのマネージャー業で荒れている。
「彼女達は白くてほっそりした綺麗な手をしてるでしょ。手だけとっても私とは大違いよ。
あの人たちみたいに絵に描いたような素敵なひとから見たら私なんて平凡でつまらない――」


「……ストップ、そこまでや」


忍足の顔から笑みが消えていた。なんだか少し怒っているようだった。
「自分、本気でそれ言ってるのか?」
「本気も何も事実じゃない」
「その手は俺達をずっと支えて守ってきてくれた証拠やないか。世界一綺麗な手や。
俺はマニキュアやネイルアートばかりで働いたこともない手の女には興味ない。
いつから自分をそんな卑下するような女になったんや?
自分はこの学園の女生徒で成績トップで、顔だって心だって最高に綺麗やないか。
少なくても俺はちゃらちゃら自分を着飾ることだけに夢中で頭からっぽな女は好きやない。
俺達の為に、いつも必死になって励ましてくれる自分の笑顔が一番綺麗や思ってる」
忍足は強い口調で言った。その真剣な眼差しが嘘では無いと雄弁に語っている。


「ありがとう」
自信をなくしていた美恵に、その言葉は最高の贈り物だった。
「なあ美恵、あの時の言ったこと、本当にする気ないか?」
忍足は美恵の手に、自らのそれを重ね、熱のこもった目で見詰めてきた。
「……あの時って」
ランチの時、怒りのあまりついつい口にしてしまった浮気宣言。
「どうせなら浮気じゃなく本気にして欲しいんや」
「……侑士?」
「ずっと自分の事が好きだったんや」














「ゆ、侑士、私、やっぱり……」
「いいからいいから。俺にまかせてればいい」
本日はテニスはオフ。いつもなら跡部と帰るのだが、忍足は強引に美恵を連れ出して街に繰り出した。
高級そうなブティックに連れ出し、「俺が見立ててやる」と言って綺麗な服を購入した。
無理やり美恵を着替えさせると、今度は美容室。
「俺の恋人やから、めいいっぱいオシャレしてやってな」
「ちょっと侑士!」
美容師は忍足の姉の友人で、「まかせて、侑士君の好みに仕上げてあげるわ」と張り切ってくれた。
髪をカットさせ、化粧を施し、最後に忍足は「俺が選んだ口紅や」と、高そうなルージュを美容師に渡した。
「はい、できた。ほら鏡みて」
等身大の鏡の前に立たされ美恵は息を呑んだ。


「……これ、私?」


思えば、今時の同年齢の女の子に比べると、おしゃれにはあまり熱心ではなかった。
テニス部や勉強に全力投球するあまり、外見を磨く暇はなかった。
「な、これでわかったやろ?自分は世界一綺麗やで。知性や気品があるもんなあ」
その後、二人で街中を歩いたが人目が気になって仕方なかった。
恥かしいかったけど、それ以上に爽快な気分だった。こんな気持ちにしてくれた忍足に心から感謝した。
公園までくると噴水のそばのベンチに腰掛けた。


「マネージャーに、こんなヒラヒラしたファッションは不釣合いだけど、たまにはいいものね」
「そうやろ、そうやろ」
忍足はニコニコ笑っていたが、ふいに真剣な表情になって美恵の肩に腕を回した。
「……なあ、本気で考えてくれた?」
「侑士?」
「俺は本気や……跡部なんかやめて俺にしい」
怪しい雰囲気に美恵は慌てて身を引こうとしたが、忍足が腰に手を回して離さない。
「跡部じゃ自分を幸せにはできひん……証明してやろうか?」
予告も無く忍足の顔が急接近し美恵は目を見開いた。唇に熱を含んだものが重なり美恵は反射的に目を閉じた。




「忍足!てめえ、ひとの女に何してやがる!!」




突然の怒声。その直後、横から腕が伸びてきて忍足がふっ飛んでいた。
「け、景吾!?」
怒りの色に染まった目をした跡部が視界に飛び込んできた。
跡部とは物心ついた時からの付き合いだが、これほど激怒した跡部を見たのは初めてだ。


「……よう言えたな。自分のしたことは棚にあげて」
「何だと?」


忍足は口の端から滲んでいる血を手の甲で拭うと立ち上がった。
「俺は美恵が好きや、ずっと美恵を見てきた。他の女抱いてる最中でも美恵の事で頭がいっぱいだったくらいや」
忍足の開き直りに跡部の形相がさらに怒りのボルテージを上げてゆく。
さらに挑発するように忍足は言った。


「俺は美恵を幸せにしてやれる自信ある。跡部、自分なんかよりずっとな!」
「ふざけるな!!」


跡部は忍足の胸元を掴み上げると拳を握り締めた。
「やめて!」
突然の事に呆気にとられていた美恵だったが、ようやく我に返り慌てて跡部の腕にしがみついた。
「侑士に怪我を負わせる気なの!?」
「……その格好」
いつもとまるで違う美恵に跡部は露骨に顔を歪めた。
「綺麗やろ?俺の見立てや」
「……何だと?」
跡部は美恵を睨みつけると吐き出すように叫んだ。


「全然似合わねえんだよ!!」


美恵の表情が一瞬で凍りつく。
「何やと跡部!ふざけてるのはどっちや、自分の目は節穴か!!」
今度は忍足が跡部の胸元を掴んだ。
「うるせえ、ぶっ殺してやる!!」
「やめろ二人とも!!」
尚も殴り合いをしようとした二人を、駆けつけた宍戸が必死に羽交い絞めをした。
「そうだぜ、冷静になれよ!!」
宍戸だけではない。向日もジローも割って入った。














「悪かったな。俺が口滑らせたばっかりに」
宍戸は美恵に頭を下げた。
「そうだぜ、宍戸は口は軽いんだよ」
「……美恵が浮気発言しこと言ったのは俺だけど、忍足とのデートばらしたのは岳人おまえじゃねえか」
宍戸の説明によると、放課後跡部が美恵を迎えに来たらしい。
美恵が跡部を迎えに行くことはあっても、跡部から赴いてくるなんて滅多にない事だった。
美恵とクラスメイトだった宍戸は不思議そうに跡部に尋ねた。




『よお跡部、珍しいじゃねえか。どうしたんだよ?』
美恵はどうした?』
『もう帰ったぜ』
『何だと?』
跡部は見るからに焦っていた。恋愛に関しては鈍感な宍戸でも、すぐに何かあったと察した。
『喧嘩でもしたのかよ?そろそろ本当にやばいと思うぜ』
『何かあったのか?』
『冗談だと思うけど、美恵の奴、おまえの浮気に腹立てて自分も浮気してやるって言ってたぞ』
『どういうことだ!?』
跡部は宍戸の胸倉をつかみ声を荒げた。
『……だから、頭にきて口走っただけだろ。本気にとるなよ』
そこに向日がと面白半分に興奮しながら飛び込んできた。
『なあ侑士の奴、美恵を連れて街に繰り出していったぜ。浮気のことまじだったんじゃないのか?』
そして跡部を見て、『しまった!』と呟き逃げようとしたが遅かった。
跡部に捕まり、ペラペラと忍足との極秘デートを全て白状してしまったのだ。





その後の跡部は凄まじかった。
美恵の居場所を突き止める為に、美恵が契約している通信会社に圧力をかけ携帯電話の電波で位置を調べさせた。
跡部があまりにもタイミングよく美恵達を発見できたのは、そういう理由があったのだ。
「あいつ、相当焦ってたぜ。そりゃあ理不尽な野郎だけど……おまえのことは本気なんだよ」
宍戸は複雑そうに跡部をフォローしてやった。














「……痛っ。なあ岳人、もう少し優しゅうしてくれんか?」
忍足と跡部は別室で向日とジローから手当てを受けていた。
「跡部、素手でひとを殴っちゃいけないよ。手はテニスプレイヤーの命なのにさ」
「何いうてんのジロー?跡部の怪我は自業自得や、俺の心配してや。色男が台無しやで」
「ふん、美恵の唇奪った代金としては安いくらいだぜ」
岳人はビックリ仰天。反してジローは「それ、どういう意味?」ときょとんとしている。


「あーあ、いい加減に仲直りしろよなあ。それにしてもさあ、美恵、綺麗だったよなあ」
「うん、すげー美人だった」
向日とジローの言葉に忍足は、「そうやろ?」と何度も同意を求めた。
「それなのに跡部は、全然似合わないって悪態ついたんやで」
「えー何でだよ。跡部の浮気相手連中より、ずっといいじゃんかよ」
岳人の意見に跡部はまともな反論もしようとせずに顔を背けた。随分と立腹しているようだ。
「何で、そんなに怒ってんだよ。自分の彼女が綺麗になるのはいいことだろ?」
跡部はますますご機嫌斜めになっている。


「ねえねえ跡部。もしかして忍足が美恵を綺麗にしたのが気に入らないの?」


跡部の口元が敏感に引き攣った。ジローは天然のくせに、やけに勘が鋭い。
「ほう、そういう事だったんか。まあ、しょうがないなあ。俺の方が真摯な心で美恵を見詰めてき……」
跡部はふいに立ち上がると、すごい勢いで退室してしまった。
「行っちゃった。ねえ忍足、本当に跡部から美恵をとる気なの?」
「あいつの態度次第やな」














凄い勢いでドアが開いた。美恵と宍戸は驚いてドアの方を見た。
「……景吾」
美恵は化粧を落とし、いつもの服装になっていた。
「あの格好は止めたのか」
「景吾の言うとおりだものね。私には、女らしい格好は似合わないのよ。
景吾が付き合うひとはモデルみたいな人ばかりだし、私が勝てるわけないじゃない」
跡部は近付いてくると美恵の手を強引につかみ歩き出した。
「け、景吾?」
そのまま屋外に連れ出された。秋の夜空は綺麗だったが風が寒い。
震えると跡部が上着を脱いでかけてくれた。


「ありがとう」
「……悪かったな」
跡部とは長い付き合いだったが、彼が謝罪の言葉を口にしたのは数年ぶりで美恵は目を丸くした。
「他の女とは全員きっぱり別れた」
「景吾?」
「俺が他の女と一緒にいるとおまえは怒るだろ。それだけ俺に惚れてるんだと思って正直いい気分だった。
だから、おまえが俺の浮気現場目撃して平静だったのに内心びびった。
宍戸や岳人から話聞いて焦った。おまえが俺以外の男と一緒にいると考えるだけでカッとなった」


「私と侑士のキスシーン見てどう思った?」
「……最悪だった」


「私はいつもそうだったのよ」
跡部はばつが悪そうに俯いて前髪をかきあげた。
傲慢な自己中ゆえに、自分がその立場になって、やっと美恵の辛い気持ちがわかったらしい。
「……本当に悪かった。二度としない」
本当はもっと文句を言ってやりたかったが跡部は約束は違えない男だ。だから美恵も、もう何も言わなかった。
「もう一つ謝っておく」
(まだ何かあったのかしら?)
「おまえは綺麗だ、似合わねえっていったのは嘘だ。俺はただ……」




「他の男の前で、おまえが女になっていたのがムカついただけだ」




そう言った跡部は何だか恥かしそうに赤くなっていた。
「……それって嫉妬してたってこと?」
跡部は何も言わなかったが、その拗ねたような表情を見れば一目瞭然だ。
宍戸の言葉が脳裏に過ぎる。『おまえのことは本気なんだよ』――その言葉は真実だった。
「侑士に告白してくれた時、少し胸がときめいたの。私って結構移り気な女みたいよ。
心変わりして欲しくなかったら、私のこと大事にしてね」
「ああ、わかってる」
跡部は美恵を抱きしめた。その後は跡部が家に送ってくれた。




「でも口紅だけは本当に似合ってなかったぜ。おまえに、あの色は紅すぎる。
おまえには、もっと淡いピンクが似合う」
「そう?侑士は凄く似合うって言ってくれたけど」
「とにかく二度とつけるな。よく覚えておけよ」




「男が女に口紅を贈るときは『唇を奪う』って下心があるんだぜ」




そう言って跡部はポケットからリボンに包まれた小箱を取り出して美恵に差し出した。
中には淡いピンクの口紅が入っていましたとさ――。




END




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