背後からの呼び声を無視して美恵
は歩く速度を上げた。
「てめえ、俺様の声が聞えねえのか!」
伸びてきた腕に肩をつかまれ強引に停止させられ、さらに体の向きを変えさせられた。
すぐ目の前には二日前まで恋人という肩書きだった男の顔。
「離して、もう私達別れたんだから!」
「ふざけるな!てめえが一方的に言っただけで俺は受け入れてねえ!!」
「散々浮気しておいてなによ今さら!」
「何だと!!」
跡部は逆ギレ寸前だ。その態度に美恵
の怒りは増幅するばかりだった――。
ハロウィン
美恵
と跡部はテニス部の部長とマネージャーという関係だった。
最初は跡部に対する印象は決していいものではなかった。
目立ちたがり屋の俺様で学園内では絶大な権力を振り回す独裁者。
おまけに女癖も酷く、常にゴシップと縁が切れない男。
周囲の女生徒がキャーキャー騒ぐ横で美恵
は冷淡な目で跡部を見ていたものだ。
だが困った事に反比例してテニスには強い興味があった。
中学に進学したらテニス部のマネージャーになろうと思っていたくらいだ。
ところが、そのテニス部は生意気な新入生にあっと言う間にしめられた。
強烈な入部事件を起こした跡部は、その日以来氷帝学園のキングに納まってしまった。
当然のように女生徒にもてるもてる。
来るもの拒まずなのか、ある程度お眼鏡にかなった美人に告白されると即OK。
しかし相手は常に不特定多数。しかも、同じ女と三ヶ月ももたないときている。
生真面目な美恵
から見たら、まさにとんでもない男というイメージしかなかった。
そんな跡部に対する最低のイメージが改善されるきっかけになったのは季節が秋に変わった頃だった。
図書委員として書籍の整理に追われていた美恵
は図書館の窓からテニスコートをふと見下ろした。
もう、すっかり暗くなって他の部員はいない。
そのテニスコートで跡部は一人黙々と練習に励んでいた。
そんな場面を目にしたのは一度や二度ではない。
(……努力家なんだ。いつも天性の才能だって威張り散らしていたのに)
天才跡部は、彼自身の陰の努力によるものだと知った美恵
は少しだけ見直した。
(でもテニスだけよ。テニスと人間性は別だものね)
しかしテニスに対する跡部の真摯な想いを知って、彼のプレイに魅了されるようになったのも事実。
意外にもあれほど嫌っていた跡部に尊敬の感情を抱くようになっていた。
その尊敬が恋愛感情に変わることになったのは二年に進級してから。
何と跡部と同じクラスになった。
それも学園中の女生徒から妬みのターゲットとなる跡部の隣の席。
最初は女生徒達の嫉妬の眼差しという針のむしろにうんざりするだけだった。
だが隣席ということで自然と接する機会が多くなった跡部に対して好意を感じるようになった。
話してみると意外にも軽薄な男ではなかった。
跡部の方も、自分に媚を売らず自然に接してくれる美恵に好意を持つようになった。
男女の垣根を越えた親友になったのだ。それがきっかけで他のレギュラーとも仲良くなった。
そのうちに美恵がテニス部のマネージャーになりたかったという話題が自然と出た。
「あーん?だったら何で入らなかった?」
「だって跡部みたいな俺様が部長なんて最悪と思ったもの」
「ああ?」
そんな毒舌をはけれるようになったのも、二人の間に信頼関係が生まれていたからだろう。
もっとも、その日のうちに跡部が勝手にマネージャーの入部届けを出したことは随分な行為だったが。
こうして美恵はテニス部のマネージャーになった。
辛いときも楽しいときも跡部と時間を共有した。跡部への想いはどんどん膨らんでいった。
同時に跡部が他の女と付き合うのを見るのが苦痛になっていった。
思い切って告白してみようか、と考えたこともあった。
しかし恋人に昇進するどころか、友達としての関係も崩れてしまうような気がしてできなかった。
年月だけが過ぎ、美恵は、その間、跡部の一番そばにいて彼を支えた。
氷学園高等部の卒業式。
すでに氷帝大学に進学する事も決まっていた二人だったが、卒業式が終わると跡部が美恵を呼び出した。
「跡部、どうしたの?こんな人気のない場所に呼び出して」
いつもと違う跡部の様子に美恵は訝しげに感じた。
「どうもこうもあるか。俺様がてめえの本心に気づいてないと思っていたのか?
俺のインサイト舐めるんじゃねえよ」
美恵の心臓がピクリと跳ねた。動揺を顔に表さないように務めながら「何の事?」と平静を装った。
でも、その声は僅かに震えており、跡部は勝ち誇ったように微笑した。
「俺に惚れているんだろ?」
突然核心をつかれ美恵は一気に赤面した。
「まあ無理もねえな。俺みたいな最上の男のそばにいて何も感じなかったら精神異常だぜ」
「わ、私……私……」
もう隠し切れなかった。
「私、だからって跡部に付き合って欲しいとか……友達のままで十分だから……その」
「友達のままだと?は!俺がごめんなんだよ」
「もう大学生になるんだ。やっと人生に一区切りついた、だから俺のそばにいろ」
美恵は跡部に飛びついていた。跡部は優しく抱きしめてくれた。
人生最高の瞬間だった。それは今後も続くと信じていたのに――。
『跡部様ってあっちも最高よね』
『学園祭の女王でしょ。跡部様と歩いていた相手って』
『年上の美人に告白されてOKしたみたいよ』
跡部は浮気を繰り返した。美恵が何度も頼んでもやめてくれない。
『あいつらは遊びだ、本気はおまえだけだから浮気ぐらいでガタガタ言うな』
頭にきて別れようと思ったのは一度や二度ではない。
だが悲しいことに跡部を前にすると、『別れて』の一言が口に出せない。
悔しいことに美恵は跡部にベタ惚れだったのだ。
けれども、そんな我慢のついに限界を超えることになった。
跡部は一応彼女と浮気相手の区別はしっかりつける男で、公の場所にはいつも美恵を伴っていた。
それなのに美恵が風邪で寝込んでテニス部の同窓パーティーに行けなかった時のことだ。
こともあろうに浮気相手を連れて行ったのだ。
おまけに、その女は、それを大学内でおおっぴらに自慢しまくった。
愛情だけでなくプライドまで傷つけられた美恵は、ついに切れた。
そして構内の食堂にて公衆の面前で跡部にコップの水をぶっかけたのだ。
「てめえ何をしやがる!」
生徒達の前で大恥をかかされた跡部は激怒したが、美恵の怒りには到底届かない。
「そんなに、あの女が良かったら好きなだけ付き合いなさいよ!
私はもう二度と文句言わないわ、一生ね。お別れよ、さようなら!」
美恵の口から別れの言葉が出るとは思わなかった跡部は珍しく驚愕していた。
「もう景吾の顔も見たくないわ!!」
そのまま踵を翻すと全速力で走った。
そして跡部が止めるのも聞かずに構外に飛び出すとタクシーに乗って逃げ去ったのだ。
帰宅すると、その夜は一晩中泣いた。
強い意志をもって別れたはずなのに、残ったのは哀しみだけ。
デスクの上に飾られている跡部とのツーショット写真を捨てる気にはなれなかった。
跡部から何十件もメールや電話が入ったが全部無視してやった。
次の日は大学を休んだ。こんな赤い目で大学に行ったら、どんな噂が流れるかわかったものじゃない。
(……景吾に未練があるなんて、絶対に知られたくない)
跡部を簡単に嫌いになれる魔法があればいいのに――。
跡部からのメールや電話はその日はこなかった。
(……景吾のことだから、きっと私も今までの女と同じだわ。去る者追わず……完全に終わったんだ)
そう思っていたのに、大学に行ってみると何と門の前で跡部が待ち構えていた。
そして美恵を見るなり追いかけてきたというわけだ。
「もう、あなたと話すことは何もないわ!」
「こっちがあるんだ、来い!」
跡部は美恵を力づくで裏庭に連れ出した。その時間帯は人気もなく二人っきり。
「……意地張ってるだけだろ?」
跡部は立ち止まるなり、そう切り出した。
「……何よ、それ」
「てめえが俺から離れられるわけがねえ。本気で別れる気なんかないんだろ?」
美恵はふいっと顔を背けた。悔しいが半分当たっている。
跡部の事は今でも好きだ、二日前の言葉を無かったことにしたいと思っている自分がいるのは事実。
けれども、跡部の度重なる浮気に心底傷つき別れたいと思ったのも本当だ。
しかし今は、跡部に本心を悟られたことが、美恵の心を頑なにしていた。
「……本気よ。もう景吾……跡部のこと好きじゃないの……疲れたのよ」
意識して『景吾』ではなく『跡部』と呼んだ。
跡部の顔色が変わったが、跡部から視線をそらしている美恵は気づいてない。
「私は本当に跡部のこと愛してた」
過去形で今の気持ちを言った。本当は今でも『愛してる』。
「でも跡部は私じゃなくてもいいんでしょ?私は私だけを愛してくれるひとを捜すわ。
あなたはあなたで、自分の都合のいい付き合いをこれからも繰り返せばいい。
私はもうあなたとはかかわりたくない。私だって幸せになりたいのよ」
「……俺じゃあ、おまえを幸せにできないっていうことかよ」
「じゃあ私も聞くわ。私と付き合っている間、あなたは私を幸せにしてくれていたの?」
跡部の手の力が緩んだ隙に、美恵は腕を振り払い走り去った。
もう、これ以上跡部と対峙していたくなかった。
「なあ美恵、もう一度跡部と話し合う気ないんか?」
午前中の講義が終わり廊下にでると忍足が待っていた。何だか随分疲れ切った表情をしている。
「跡部の奴、美恵が別れ話してから機嫌悪くて、俺達にまで当たって大変なんや」
「……え?」
跡部が自分に構うのは、女の方から捨てられることは跡部景吾のプライドが許さない。
ただ、それだけなんだろう――美恵は、そう思っていた。
「跡部な、今度ばかりはかなりまいってる。美恵に愛想つかされるなんて考えてなかったんやな。
信じられへんかもしれんけど本気で後悔してるんや。ああ見えて美恵には心底惚れてたからな」
「……嘘よ。だって大勢の女の人と」
「美恵も知ってるやろ?今までの女とは長く続かなかった、それに跡部が自分から告白したのも美恵だけや」
「……でも!」
「跡部も今回の件で、さすがに反省してるようやし二度と過ちはおかさないやろ。
だから、もう一度チャンスあげて欲しいんや。な?」
帰宅してからベッドにうつ伏せになり、何度も忍足の言葉を思い返した。
跡部が後悔している――それは嬉しいと思うと同時に信じられないと思っている自分がいる。
(こんなに悩む羽目になったのも、元はといえば景吾が女遊びするからよ。景吾の馬鹿!)
「今日って学園祭だったかしら?」
登校した美恵は、構内ではしゃぎまわる仮装一団を見て目を丸くした。
「違うやろ美恵、今日は何の日か忘れたんか?」
「あ、確かハロウィンだったわね。じゃあ、あの人たちは……」
「そう、大学生にもなってお祭り騒ぎが大好きなお子様連中や」
確かに妙な仮装をして走り回っているのはほんの一部の者だけだ。
「じゃーん美恵!!」
「きゃあ!!」
突然、背後に現れたカボチャに美恵は少々大袈裟なリアクションを見せてしまった。
カボチャのマスク、しかもカーテンのような真っ黒な服を着ている。しかし声に聞き覚えがあった。
「ジ、ジロー?」
「大当たりー♪」
……氷帝テニス部にもお祭り騒ぎが大好きな人間がいたということだ。
「ねえねえ美恵、跡部と仲直りした?」
美恵は口元を引き攣らせたが、天真爛漫なジローはさらに続けた。
「ねえねえ美恵だって今でも跡部の事、好きなんだよね?跡部はね――」
「言わないで!」
「……美恵?」
いたたまれなくなった美恵は、その場から走り去った。
「……自分が嫌になるわ」
美恵は中庭のベンチに座っていた。
(ジローに悪気はないのに……それどころか、私、ジローに八つ当たりしたんだ……。
あんなに優しくて可愛いジローに……酷いことしちゃった。謝らないと……)
その時、気配を感じて真横を見ると誰かがちょこんと座った。
見覚えのあるカボチャ、それは間違いなく先ほどのジローの仮装だった。
「……ジロー」
――言わなくちゃ。
「さっきはごめんなさい……私、最近いらついてて当たったの」
自分で自分の気持ちがわからない。跡部を突き放したいのか、抱きしめて欲しいのか――。
いつの間にか涙が頬を伝わっている。
無言のまま差し出されたハンカチ、ジローの優しさが嬉しかった。
「私もジローみたいに素直になれればいいんだけど……」
不思議だった。ジローの前だと素直になれる。それはジローが純粋無垢だからなのだろう。
どんなに荒んだ人間でも天使の前では生まれたときのような気持ちになれる。
「……本当は今でも景吾のことが好き」
言いたくても言えなかった言葉が自然に出てきた。
「本当は許したいのに景吾の顔見ると頭にきて意地を張ってしまって……。
このまま景吾と本当に駄目になってしまったら泣くのは自分だってわかっているのに。
それなのに自分から歩み寄る事が出来ないの……本当に馬鹿な女でしょ?」
――突然、抱きしめられた。
「……ジロー?」
――温かい。
予想外のジローの行動に驚きはしたが嫌ではなかった。
なぜなら、その腕の温もりがあまりにも居心地が良かったからだ。
――どうして?
その答えはすぐにでた。
――私、この温もりをしっている。この腕は……。
「あ、あなたジローじゃな……!」
「話を聞いてくれ」
抱きしめてくる腕にさらに力がこもった。
「……馬鹿なのはおまえじゃない。馬鹿は俺だった」
その声はかすかに震えていた。
「俺は自惚れていたんだ。おまえは俺の元から去るようなことはないと思って調子に乗っていた。
おまえは本気で俺を愛してくれていた。その愛情を勘違いしていた。
どんな仕打ちをしても、おまえは許してくれると思っていた」
「……景」
「俺は生まれて初めて恐怖を味わった。おまえが本当に俺を嫌いになったんじゃねえかって……。
……もう二度とおまえを傷つけない。だから、俺のそばにいてくれ」
――景吾
どのくらい時間が過ぎただろうか。美恵はポツリと言った。
「……私の本心聞くためだけに、氷帝の帝王がそんな格好したの?」
跡部がカボチャ男に扮するなんて、こんな状況でなければ大笑いしてやるところだ。
「ほら答えてよ。あなたのプライドどうしたのよ?」
「プライドより、おまえの方が大事だからな」
その言葉を聞いた時、美恵は初めて笑顔を見せた。
「……あなたみたいに我侭で理不尽な男いないわよ。そんな男、普通ならついていかないわよ」
カボチャのマスクで見えないけれど、跡部は今きっと悲しそうな顔をしているだろう。
「でも私は馬鹿な女だから。ただし大目にみてやるのは今回だけよ」
瞬間、さらに抱きしめられた。カボチャのマスクの下から、「……良かった」と小さい声が聞えた。
「俺のカボチャー!」
「ジロー、もうわめくなや。ほら、戻ってきたでカボチャ」
美恵と手をつないで戻ってくるカボチャ……もとい跡部を見て忍足は心の底からホッとした。
「良かったな跡部、ところで何でまだその格好してるんや?」
「……うるせえ」
不機嫌な跡部、反して美恵はクスクス笑っている。
『でも罰は必要よね。今日一日、その格好でいて。そうしたら仲直りしてあげる』
『……ちっ』
ほんの十分前、そんな会話
があったとは神のみぞ知る――メデタシメデタシ。
END
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