『崇弘、ほら両手挙げて』

――もう何年になるでしょう。記憶の中の姉は自分より目線が上でした。

『はい、上着きて。次はズボンよ、足あげてね』

――姉は自分にとっては母のようなひとでした。

『崇弘は本当にイイコね。よしよし』


――その姉が、来週……嫁ぎます。




僕の姉さん




「崇弘、ちょっといい?」


――その日の姉は、いつもよりハイテンションでした。
――よくマリッジブルーという言葉を耳にしますが姉には当てはまらないようです。
――この結婚が決まってからというもの、姉は零れ落ちそうな笑顔しか自分には見せません。
――……ちょっとだけ焼けます。









「姉さん、ここは……」

――そこは結婚式場でした。今さら結婚式の打ち合わせでしょうか?
――不思議に思う自分を半ば引っ張るように姉は中に入りました。

「ちょっと目を閉じてて」
「?」
「ふふ、いいから目を閉じてなさい」

――姉は微笑みながら自分に指図しました。言われた通り目を閉じました。

「もう、いいわよ。見て崇弘」

――目を開きました……絶句しました。

「どう、似合う?」

――よく純白のウエディングドレスと形容されますが、自分が実際にそれをみたのは初めてでした。
――自分は物心ついた時から、ずっと姉を見てきました。
――姉は弟の目から見ても、美しい女性だったと思います。
――しかし、今、目の前にいるひとは自分が見たことがない女性でした。


「もう、何とか言いなさいよ」
「……綺麗です」
「そう、良かった。彼も、そう思ってくれたら、いいんだけどね」


――そう言って微笑む姉を見て自分は気づきました。
――自分が知らない女性だと思ったのは当然です。
――自分が知っている樺地美恵という女性は、『姉』の顔しか自分に見せたことがありません。
――しかし、今、目の前にいる女性は『姉』ではなく『女』なのです。


(姉さんは、来週には、もう遠くに行ってしまう……)


――姉の結婚が決まってから、初めて寂しい……と、感じました。














「よう樺地。こっちだ、こっち!」

宍戸が手を振っていた。もう、すでに氷帝テニス部の元レギュラーは全員そろっている。
今夜は跡部家で、ちょっとしたパーティーが催されていたのだ。
跡部が、寂しそうな樺地を慰めるために開催したのだ。

「樺地、今夜はうんと楽しめよ」
「ウス」


――跡部さんは、とても優しい人です。自分が、誰よりも尊敬するひとです。
――彼をよく知らないひとは尊大な男だと言いますが、とても努力家で何より優しい人です。
――氷帝テニス部のひとは誰もが知ってます。
――心の広いひとでなければ、テニスが上手いからといって200人の人間の心を掌握できません。
――跡部さんは、本当に凄いひとです。




「樺地、飲め」
差し出されたグラスを受け取ると、跡部は極上のワインを手に取った。
「跡部さんに注がせるなんて、そんなことできません」
「いいから飲め。俺様に酌をしてもらうなんて貴重な経験だぞ」
跡部はワインを注ぎながら、こう言った。
「樺地、いつもありがとな。おまえには感謝してる。我侭な俺に文句一つ言わずついてきてくれて」
「跡部さん、変な事は言わないで下さい。自分は跡部さんの傍にいられて幸せでした」
「そいつはありがたいな。それから――」

「……悪かったな」

――跡部さんが謝るなんて、自分にとっては、これも初めての体験でした。




「……ワルツだぜ」
静かで優しい曲が流れ出した。
「ほら、樺地。踊って来い」
樺地は途惑った。円舞曲には縁がない、相手もいない。
「見てみろ樺地」
跡部が指差す方向、中庭の噴水の前。白いワンピースが目に入った。
「……あ」
樺地にとって、誰よりも大切な女性が優しそうに手を振っていた。
「行ってこい。おまえの姉の独身最後の夜だ」
跡部に背中を押され、樺地は静かに歩を進めた。
美恵のそばまで来ると、彼女はそっと手を差し出してきた。
月光の下、二人は曲に乗った。




「崇弘、あなたは本当にいい弟よ」
「姉さんこそ、最高の姉さんです」
「ありがとう。これからは少し離れるけど、これだけは覚えておいてね」


「私は、どこに行っても、あなたの姉さんよ」


「……はい。あの……姉さん」
「何?」
「どうか幸せになって下さい」
「もう十分すぎるほど幸せよ」


――はい、わかってます。あなたが選んだひとは最高の男ですから。









「良かったな跡部、樺地の奴、ふっきれたようだぜ」
宍戸は「安心したぜ」とグラスを高く上げた。
「花嫁の父以上にしょぼんとしてたもんなあ。ほんま、安心したわ」
忍足もほっとしたようだ。やがて、ワルツは二曲目に入ろうとした。
すると樺地は美恵の手をひいて、慌てて此方にやって来た。
そして、姉の手をそのまま跡部に差し出したのだ――。




「……この手を取るのは、これからは、あなたの役目です」




樺地はそっと頭を下げた。

「跡部さん、姉を、どうか宜しくお願いします」

美恵は、頭を上げようとしない樺地と跡部を交互に見詰めた。
跡部は樺地の肩に手をおくと顔を上げさせた。




「約束するぜ、世界一幸せな女にしてやる」




その言葉を聞いて、樺地は安心したように微笑んだ。
樺地からバトンタッチされた美恵の右手を跡部は勢いよく引き寄せると、その腰を抱いて歩き出した。
そして噴水の前までくると、いったん美恵から手を離し、軽くお辞儀をした。


「Shall we dance?」
「Yes I shall」


「……跡部さん、姉さんを選んでくれてありがとうございます」

樺地の呟きを聞いていたのは夜風だけだった。
とても幸せで……ちょっとだけ切ない夜だった。


――自分には姉がいます。その姉は明日、嫁ぎます。
――相手は自分が世界一尊敬するひとです。
――姉は自分にとっては世界一素晴らしい姉でした。
――だから、わかります。姉は……。


――明日、世界一の姉から、世界一の花嫁になるでしょう。




END




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