いつ出会ったなんて記憶にないくらい。
気がついたら傍にいて、これからもずっと一緒だと信じていた。
でも、そんな想いは、ただの幻想だって気づく日がきた。
変わらなかったのは私だけ。
でも、彼は私の想いをあざ笑うかのように大人になってしまった――。
おそすぎた恋
「
美恵ー!!」
ジローが飛びついてきた。すっかりお馴染みになったテニスコートでの光景。
「こらジロー、美恵が迷惑やろ。ドリンク落したら、どないするんや?」
忍足が注意するが、その言葉にきつさは全くない。
「叱ったって駄目だぜ侑士、ジローは反省なんて言葉しらねえんだぜ」
美恵を中心にテニス部は笑いが耐えない日々を送っていた。
美恵はテニス部のマネージャー。
三年間、レギュラー達と苦楽を共にしてきた大事な仲間。
美恵が入部した理由は簡単。
『マネージャーになれ、わかってると思うが、おまえに拒否権はねえ』
幼馴染の跡部の一言で美恵の入部は決まった。
最初は途惑ったが、すぐに好きになった。 テニスも仲間も。
レギュラー達も、もちろん美恵のことが大好き。
しかし誰もが部員とマネージャー以上の関係になろうとはしなかった。
跡部と美恵の間に他の人間には入り込む隙間のない絆のようなものがあったからだ。
誰もが思っていた、2人はいずれ幼馴染から恋人になるだろうと。
しかし、現実と理想との狭間には随分と隔たりがあったのだ。
「景吾、次の試合頑張ってね。あたし、絶対に応援に行くから」
「楽勝に決まってるだろ、頑張るまでもねえよ」
その声に美恵はびくっと反応した。
(……景吾)
跡部がテニスコートに入った、隣にいるのは氷帝学園でも評判の美女。
学生でありながら、すでに売れっ子のモデルで、文字通り学園の女王的存在。
モデルの仕事が多忙の為、出席日数が足りずに1年留年している。
この頃の少年にとっては、一年の年齢差は大きい。
彼女には他の女生徒にはない大人の魅力があった。モデルで培った勝気な自信も。
跡部が3年に進級して彼女と同じクラスになった時、美恵は不吉な予感を感じた。
彼女は跡部のタイプだったからだ。
程なくして、跡部は彼女と付き合いだした。
それまでも跡部は何度か女と付き合ったことがあったが、どれも遊び半分。
数回デートした程度で、あっさり別れ、結局美恵の元に戻ってきた。
でも、今回は違った。跡部は戻ってこなかった。
彼女は跡部を本気にさせた、付き合って二ヶ月。別れる気配は全くない。
今までは美恵と一緒に下校していたのに、今はろくに会話もない。
跡部はどんどん美恵から離れていった。
(……もう幼馴染ですらないみたい)
わかってる、私はただの幼馴染だもの。
景吾に恋人が出来たら、私なんて必要じゃなくなって当然よ。
今までだって、幼馴染のお情けで相手してくれてただけかもしれない。
私が勝手に自惚れていただけ……。
「ごめん、洗濯物取り込まなきゃいけないから。ドリンクとタオルここに置いておくね」
美恵は慌ててテニスコートを後にした。
露骨すぎたかもしれないけど、今は跡部の顔を見るのは辛かった。
もしかしたら泣いてしまうかもしれない、そうなったら、きっと友達ですらいられなくなる。
「……ちっ」
美恵がコートをでると、跡部は面白くなさそうに舌打ちした。
美恵が自分を避けているのは火を見るより明らかだったからだ。
「おい忍足!すぐにコートに入れ、ワンセットやるぞ」
「跡部、今日は試合形式の練習はなしや。監督がそうゆうてたぞ」
「……面白くねえ、どいつも、こいつも」
「なんや、可愛い幼馴染に無視されてご機嫌ななめか、勝手なもんやな跡部は」
「何だと?」
「彼女にばかりかまって美恵から離れていったんは、跡部、自分やないか。
それなのに、今さら、美恵の方がおまえを避けるようになったからってひがむのはどうかと思うで。
最初に垣根作ったんはおまえの方や。
まして美恵は彼女持ちになったおまえに以前と同じようには接する事はできひん思うてるんやろ。
当然やな、いくら幼馴染でも、ひとの男になった奴と必要以上に親しくなんかできる道理はない」
忍足の言い分はもっともだった。
誰かを愛すると言う事は、他の誰かを愛さないという事だ。
彼女に対する気遣いから美恵との距離を置いたのは他ならぬ自分で、これは当然の結果なのだ。
理屈ではわかっていても跡部は不愉快な思いを拭うことができない。
ずっと一緒だった。
今までも、そしてこれからも、一生友達でいられると思っていたのだ。
「それは無理な望みやで跡部、おまえも残酷な男だな。美恵の気持ちわかってたくせに」
ああ、知っていた。美恵は俺に友情以上の気持ちを持っている。
ずっと前からわかっていたさ。そんな鈍感な馬鹿じゃねえよ俺様は。
俺も、もし一生を共にする女がいるとしたら美恵だと思っていた。
他の女と付き合うことはあっても、何かが違う。俺の魂があいつらを求めちゃいない。
2、3回逢ってそれで終わり。いつも最後は美恵の元に戻っていた。
それでも、俺が他の女と歩いていると美恵は辛そうな顔をしていた。
いい加減、遊びは終わりにして、美恵を俺の手で幸せにしてやろう。
そんなことを考えている時に、あいつに出会った。
今まで見てきた女とはまるで違う。
俺ともあろうものが心臓を鷲掴みされるような感覚を味わった。
美恵から与えられる安らぎや温かさと違う刺激的な感情。
それが初恋だと気づくのに大した日数はかからなかった。
自分の気持ちに気付いた俺はすぐにあいつの手を取った。
他の事は考えられなかった。美恵を傷つけてしまうことすらも。
あいつに夢中になるあまり、自分でも気が付かないうちに美恵をないがしろにしていた。
忍足に言われるまでもねえ……距離を作ったのは美恵じゃない、この俺だ。
……もう、友達にも戻れないのかな。
景吾と話をしなくなってから随分たつな……。
景吾と彼女が付き合いだしてから、私は景吾にとって不要の人間になった。
恋人が出来たら当然のことだけど、やっぱり寂しいな。
「お疲れ様」
きつい練習の疲れも優しいマネージャーの労わりの一言ですぐに消える。
美恵はテニス部にとって無くてはならない存在だった。
「おい美恵」
跡部の呼びかけに美恵は緊張した。
上手く隠したつもりでも、きっと跡部の眼力は見抜いているだろう。
ずっと一緒にいたからこそ、嫌でもわかってしまう。
美恵は気まずそうに俯いた。
「……そんな顔するんじゃねえよ」
跡部の辛そうな顔をみると、強い罪悪感が胸の奥から押し寄せてくる。
「……今日は遅くなっちまったな。送ってってやる」
「……え?」
目を見開いて顔を上げると、跡部の大きな手が美恵の頭にそっと置かれた。
「……そんな顔することねえだろ。以前は毎日のようにしてたことだ」
「でも……」
――彼女がいるのに。
「今日は遅くなるから先に帰らせた、だから気にするな――」
「景吾、終わったかしら?」
跡部の言葉を遮るように、開かれた部室の扉の前に彼女が立っていた。
「帰れって言われたけど、やっぱり待ってたの。さあ帰りましょう」
跡部が困ったように美恵を見た。
「……景……跡部、何してるの。彼女がお待ちかねじゃない。早く行ってあげて」
「……悪いな」
跡部は「埋め合わせはする」と言ってくれたが、美恵は期待せず、跡部の気持ちだけ受け取ることにした。
「ねえ、景吾。買ってくれるって約束した指輪だけど、今からショップに行きましょうよ」
「今からかよ、もう夕飯の時間だぜ」
「指輪が気になって、呑気に食事なんてしていられないわよ」
「相変わらず我侭な女だな」
2人の様子を見て、美恵は不安にかられた。
(……景吾、今日は疲れているのに。大丈夫かしら?)
――魅力的な女性だけど、景吾のこと真剣に考えてくれてるのかな?
美恵はそれが心配だった。
跡部もわがままで自己中心的な人間だが、反面人一倍周囲に対する責任感が強く面倒見がいい。
部長としての立場をわきまえているからだ。
そんな人間だからこそ、他人に対する気遣いができない相手とは、いつか破局するような予感がしたのだ。
(『跡部』……か。美恵はこいつに気を使ったんだろうが、正直堪えたぜ)
「景吾、見て。これなんかいいと思わない?」
彼女が細長い指にした指輪には、結構な値札がついていた。
「おまえ、それ、前から目をつけていたのか?」
「どうして?」
「入店して真っ直ぐこのコーナーに来ただろう。だから――」
そこまで言って跡部は気づいた。このコーナーは高級品専門だ。
(……だからか。本当に値の張るものに対する欲求に正直な女だな)
「なあ侑士、跡部の奴、本当に続いてるよな」
「そうやな、でも――」
「でも何だよ?」
「何でもあらへんよ、上手くいくといいなあ」
(跡部のは急性の熱病みたいなもんだからなあ。
恋って言う名の熱が下がったとき、跡部、おまえに彼女への愛情は残ってるんか?)
忍足もまた、美恵同様に、2人の破局をすでに予感していた――。
「えー、それ本当?」
「うん、かなり激しい口論だったよ。離婚寸前の夫婦みたいだった」
「あの人、モデルでちやほやされてるだけあってわがままだもんね。
跡部君にしたって似たようなものだし、もし破局なら私にもチャンスあるかも」
渡り廊下を歩いている時、中庭から聞えた何気ない井戸端会議。
美恵は反射的に立ち止まり、つい耳を傾けてしまった。
跡部の名前が出ただけで、意識を向けてしまう自分が何だか情け無いような気もする。
「ケンカだったら私も見たことあるよ、熱愛カップルって一気に燃え上がって冷めるのも早いよね」
「そうそう、あれだけこじれたら、もう時間の問題よ」
(――景吾)
あんなに仲良かったのに……。
美恵は不思議と嬉しい気持ちにはなれなかった。
2人の間に何があったのかは、2人にしかわからないことだろう。
(でも、どんな経過でどんな結果でも、景吾が本気だったことは間違いないことだもの。
きっと景吾は傷ついてるわ……そんなこと意地でも認めないひとだけど)
程なくして跡部が彼女と別れたというニュースが学園中を駆け巡った。
「練習試合ですか?」
榊から来週試合をすると申し渡されて、跡部は少々途惑った。
「ああ相手は青春学園だ。おまえに異存はないだろう?」
青春学園にはライバルの手塚がいる、もちろん異存などない。
だが、あまりにも突然すぎる。本来なら、もっと前から話がでるはずだ。
「急な話だが、青学との試合はおまえ達を成長させてくれるだろう。
マネージャーの手柄だな。こんな急な話をまとめるのは大変だっただろう」
「美恵がですか?」
「ああ、先方に毎日のように足を運んで頼んだらしい」
(……美恵)
「時間がないから、おまえ達も試合だけに集中して練習に励め」
榊の『試合だけに集中して』という言葉で、美恵の真意に気づいた。
(俺とあいつが別れたから、余計なことを考えさえないために……か)
跡部の性格を誰よりも知っている人間だからこその処置だった。
跡部は苦境にあってもテニスには真剣に立ち向かう男だ。
むしろ辛いときだからこそ、余計な感情は切り捨てテニスだけに全力を注ぎ込む。
(……まいったな。やっぱり、俺のことを1番わかっているのは美恵だ。
わかっていたはずなのに、くだらねえ寄り道して……。
やっと頭じゃなく魂で理解できるなんて俺も馬鹿だな)
――三ヵ月後――
「美恵ー!」
ジローはテニスコートに入るなり、美恵に飛びつき、腕を首に回して無邪気に抱きしめた。
途端に跡部がジローの頭を引っ叩く。
「いったぁ!何すんだよ!!」
「それはこっちの台詞だ!ひとの女に抱きつくなって何度言えばわかるんだ!」
ジローは不満そうにほっぺたを膨らませて「跡部のケチ!」と叫んだ。
その様子を微笑ましそうに見つめるレギュラーの面々。
あれから時間はかかったが、跡部と美恵は恋人になった。
それはテニス部レギュラーのみんなが待ち望んでいたことでもあった。
特に忍足は何度もくどいくらいに、こう言った。
『二度と美恵を泣かせるんやないで。でないと俺が美恵を奪い取る、わかったな?』――と。
美恵は鏡の前で何度も自分の姿をチェックしていた。
本日は記念すべき跡部との初デート、最高の自分を愛しいひとに披露したい乙女心がそうさせたのだ。
『もっと自信もってもええんやで。美恵はめっちゃ綺麗や』
忍足は褒めてくれたけど、美恵はいまいち自信が持てなかった。
跡部が今まで付き合ってきた女達が例外なく美人だったということもある。
『安心し、俺が保証したる。美恵が今までで1番美人や。
あいつらは化粧で派手な飾りつけしてただけやないか』
ありがたい言葉だが、美恵はそれを仲間に対する義理だととっていた。
しかし、忍足はすぐばれるような嘘なんて絶対につかない男だった。
「いけない、もう、こんな時間!急がないと」
美恵は慌てて家を飛び出した。せっかくのデートなのに空は曇り模様だった。
駅の銅像前、時計の針は待ち合わせより数分前。何とか間に合ったようだ。
ただ肝心の跡部の姿がいない。
「もうっ、初めてのデートなのに彼女を待たせるなんて」
(そういえば、昔から遊びに行こうってさそってくれるのは、いつも景吾だった。
でも、遅れてくるのも景吾だったっけ……)
懐かしい思い出を記憶の中で辿っているうちに、気づけばすでに30分もたっていた。
「……景吾どうしたのかしら?」
何か事故でもあったのだろうか?美恵は心配して何度も携帯電話をかけたが通じない。
(景吾、どうしたんだろう?)
足元に雫がぽつんと落ちた。
(……雨だわ、どうしよう。傘もってないし、駅に入ろうかしら。
でも景吾と入れ違いになるかもしれない。もう少し待ってよう)
雨足がどんどん強くなっていく、携帯電話は相変わらず繋がらず、美恵の焦りだけが募っていった。
駅から大勢の人間が出てくる。その人ごみの中に見慣れた男の姿が垣間見えた。
「景吾!よかっ……」
……え?
跡部は1人ではなかった。隣には女がいた。
――あのひとは……景吾の前の彼女。
ほんの数ヶ月前には、美恵が今いる位置に立っていた女。
跡部が初めて本気で愛し付き合っていた女。
その女が、跡部の腕に自分のそれを回している。それも数ヶ月前にはおなじみだった光景だった。
どういうこと、彼女とは別れたんじゃない。どうして、彼女と一緒にいるの?
今のあなたの彼女は私なのよ。
それなのにデートすっぽかして、どうして彼女と腕組んでるの?
「ねえねえ彼女、こんな雨の中何つったってんの?どうせ男にふられたんだろ、なあ俺と遊ばない?」
そんなウザイ声が聞えてきたが、美恵の意識はただ一点に集中されていた。
「このままじゃびしょ濡れになるぜ、その前に俺とホテルに――」
美恵は踵を翻すと駆け出していた。
男にぶつかったせいで僅かにバランスを崩し、靴が片方ぬげたが、かまわず走った。
男の怒号が背後から聞えてきたが、そんなもの無視してやった。
今はここにいたくなかった。
どのくらい走っただろう、突然、何かにぶつかった。
「あいたぁ。お嬢さん、走るんなら前くらいちゃんと見……美恵?!」
「……侑士?」
「どないしたん、びしょ濡れやん。今日は跡部とデートのはずじゃなかったのか、跡部はどうした?」
「…………」
「美恵……自分、泣いてるのか?」
――私、泣いてたんだ。気づかなかった。
――景吾、あのひとのこと忘れられなかったんだ。私じゃ駄目だったんだ……。
「……何があったか知らんけど、俺のマンション近くなんや」
忍足は何も聞かずに美恵をマンションに連れて来た。
「ほら、せっかくのべっぴんさんが台無しやで」
そして、タオルで美恵の髪や顔をふいてくれた。
「言いたくなかったら、それでええよ。けど俺の特製ティーくらいは飲んでくれるやろ?
冷えた体にはこれが1番、あったまるで」
「……ありがとう。温かい……それに、すごく美味しい」
「当然、俺の特製やから。それに愛情っちゅう隠し味もはいってるしな」
忍足は本当に何も聞かずに、ただ何気ない会話をしてくれた。
その優しさに、拭いてもらったばかりなのに、また涙がこぼれ落ちた。
「……景吾、前の彼女と……より、戻したみたいなの……」
その後は、堰を切ったように全てを話した。駅前で見たすべての事を。
「……そうか。悪かったなあ、辛い話させて」
「ううん、すっきりした」
「なあ美恵、今、こんなこと言ったら卑怯かもしれんけど……俺と付き合ってくれへん?」
突然の告白に、当然ながら美恵は途惑った。
いくら跡部に裏切られたからといって、他の男の胸の飛び込めるほど美恵は器用な女ではない。
「あの……ごめんなさい。私、今はまだ景吾のこと……」
「……そうか」
「それに、今、申し出受けたとしても、それは侑士の好意を利用するだけだもの。
きっと景吾を忘れるための道具にしてしまう。そんな交際間違ってる。
侑士の気持ちは嬉しいけど、そんなことはできない。だから……」
「そう言うと思ったよ。おまえは誠実な女だからなあ」
「侑士に話きいてもらっただけで凄く救われた……ありがとう、私、もう帰る」
美恵は立ち上がった、その瞬間、視界がぐにゃりと曲がり体のバランスが足元から崩れた。
床に頭部が接触する前に忍足が受け止めた、その時見た忍足の表情を美恵は一生忘れないだろう。
「堪忍なあ、でも美恵が悪いんやで。素直に俺のモノになってくれたら、こんな手段とることなかったんや」
忍足の笑顔はこの世のものとは思えないほど恐ろしいものだった。
「……ゆ……侑士……?」
「美恵、初めてやろ?安心し、優しくしたる」
美恵を抱き上げ忍足は寝室に足を運んだ。
「……や……やめ……お願……ゆ……うし」
――跡部、自分が悪いんやで。俺はゆうたはずだったな、美恵を泣かせたら奪うって、な。
(美恵、どこにいるんだ。くそ!)
跡部はガラになく焦っていた。待合せの場所にも、自宅のマンションにも美恵はいなかった。
美恵との初めてのデートに跡部は欣喜雀躍していた。
待ち合わせ時間より30分も早く現場に到着、ひとを待たせることはあっても逆はなかった跡部には初体験だった。
5分ほどたった時だった、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「……何の用だ?」
見覚えのない電話番号に不審がりながらも、通話ボタンを押した途端、聞えてきたのは前の彼女の声だった。
『話があるの。会ってちょうだい』
「俺は今から恋人とデートなんだ」
『お願いよ景吾、もう一度会って。どうしても話したいことがあるの』
「おまえには新しい男ができたそうじゃないか。相談したいことがあるなら、そいつにいえ」
『それはダメ!あたし気づいたの、あなたじゃなきゃダメなのよ。
会ってくれなきゃ、あたし何をするかわからないわよ。ねえ景吾!』
「……もう切るぞ」
『待って。本当に大事な話なの。一度だけ……一度だけでいいわ。もう一度だけ会って』
仏心なんか出すんじゃなかったぜ。
会ってくれなければ死ぬなんて、どうせ嘘に決まってるじゃねえか。
案の定、重要な話は、くだらねえ復縁要求。
ふざけるのもいい加減にしろと、すぐに待合せ場所に向かった。
約束の時間を随分すぎてしまう。美恵に連絡をと思ったら、最悪なことに携帯電話が電池切れになりやがった。
俺としたことが、こんな些細なミスをおかすなんて。
電車がようやく目的地に到着、その時、初めてあいつがつけてきていることに気づいた。
無視して足早に駅をでると、あいつが勝手に腕を組んできた。
二度とするなと突き放してやった。待合せ場所は目と鼻の先なんだ。
美恵に見られたら誤解されるじゃないか。
その肝心の美恵の姿はどこにもなかった。
すぐに辺りを捜したが、やはりいない。美恵のマンションまで行ったが留守だった。
――美恵、おまえどこにいる。こんな雨の中、一体どこにいやがるんだ?
雨はもう上がっていた。すっかり暗くなった空に月が明るい光を放っている。
カーテンの隙間から月光がかすかに寝室に注ぎ込まれベッドを照らしていた。
「……美恵」
薄暗い部屋に浮かび上がる美恵の白い肌を愛おしそうに抱き寄せる忍足。
美恵は意識を失っており、その閉じられた瞼からは涙が――。
「……跡部、今頃、美恵を捜してるかもしれへんな」
忍足は携帯電話を手にして、登録番号1番を選択した。
『忍足、何の用だ。俺は今手がはなせねえんだ』
――美恵を捜してるんやな。けど、もうおそいんやで。
「美恵なら、俺が居場所知っとるで」
――俺がしたことしったら、おまえはどんな顔をするんやろうなあ。
『何だと、どこだ?』
「あのな跡部――」
――たった今、美恵は俺のモノになったんやで。
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