ただでさえ威圧感のある声がさらに低くなっている。
それは調査兵団が誇る人類最強の男の機嫌がすこぶる悪くなっていることを示していた。
「やあリヴァイ、おはよう」
巻き添えを食っては大変と、そそくさと距離をとる他の団員たちとは反対にハンジは屈託のない笑顔を見せた。
空気が読めないわけではない。
この気むずかしい男に、こんな接し方ができるのは自分だけだという自負からでた態度だ。
しかし、それはリヴァイの機嫌をさらに悪化させた。
「てめえ、あれほど掃除しろって言っただろ。何だ、あのゴミ溜めは!」
リヴァイは容赦なくハンジの頭部をひっぱたくと間髪入れずに襟首をつかみあげた。
「落ち着いてよリヴァイ。今、研究がピークなんだ。あなただって知ってるでしょ?」
「で、何日寝てない?」
「……二日」
「てめえはいつから俺に嘘言えるようになった?」
「三日目です……って、ちゃんと仮眠とってるから心配しなくても――」
「心配して言ってるんじゃねえ!仮眠とる暇があったら風呂入れ、少しは女の自覚もて、この奇行種!!」
リヴァイは、さらにハンジの頭をひっぱたいた。
愛と嫉妬は表裏一体
「聞いたぞリヴァイ、食堂で随分と大人げないことをしたそうじゃないか」
報告書を提出するために団長執務室に訪れるとエルヴィンがため息混じりの説教をしてきた。
「あいつが悪い」
「相手は仮にも女性だぞ。おまえも他の女性兵士には手をあげないのに、どうしてハンジには厳しいんだ」
「ただの躾だ。あいつは俺の女だからな」
「ハンジは立派な大人なんだ。それも分隊長という立場。部下たちの前で恥をかかせるのは気の毒すぎる。
壁外調査がなければ、一番多忙なのは私でも君でもなくハンジだということはわかっているだろう?
少しは優しくしてやったらどうなんだ」
「おまえが甘やかすからハンジは周囲に女捨ててると言われるような状態になったんだ」
リヴァイの怒りの矛先はエルヴィンにも向けられた。
「独身主義なのはてめえの勝手だが、家庭をもたない寂しさ埋めるために団員を疑似子にしたてて、父親気分で甘やかすのは迷惑だっていうんだ」
「リ、リヴァイ……私にそこまで逆らうなんて。もしかして反抗期なのかい?」
「……話にならねえな」
リヴァイは「話は終わりだ」と、退室しようとした。
「待てリヴァイ、最後に一つだけ言っておく」
「何だ?」
「女性というのは男が優しくしていい女に成長するという面もあるんだぞ。
ハンジが女性らしくないのが不満らしいが、肝心のおまえが一番彼女を女扱いしないのが原因なんじゃないのか?
あまりハンジを手ひどく扱うと後悔することになるかもしれないぞ」
「どんな後悔だ?」
「たとえば素敵な男性が現れてハンジを横からさらっていったらどうする?
最近のおまえの態度を考えれば、いつ愛想をつかされてもおかしくないぞ」
「それこそ笑い話だな。あの奇行種の相手をしようって変わり者が俺以外にいるものか」
「ねえ、みたみた?」
「うん、すごく素敵!私、調査兵団に入ってよかったぁ」
その日は朝から騒がしかった。
「何があったんだ?」
リヴァイが尋ねるとミケはスンスンと独特な鼻音を出しながら「新人が入ったんだ」と言った。
「こんな時期に新兵か?」
リヴァイ自身、中途採用だったからありえないことではない。しかしミケの答えは違った。
「新兵じゃない。憲兵団から転属してきたんだ」
リヴァイは少し驚いた。わざわざ温室から荒野に移り住もうなんて奇特な人間がいたものだ。
「女どもが騒いでいるのは、そいつが原因か?」
「そうらしい。訓練兵時代はハンジと同期だったとか」
「ハンジと?」
リヴァイは妙な胸騒ぎを覚えた。
「この臭いは……噂をすればハンジだ」
ミケの視線の先には見慣れた女がいた。死角になっているので、ハンジからはこちらが見えないようだ。
「ハ――」
リヴァイが名前を呼ぼうとした瞬間、「ハンジ!」と威勢のいい声がした。
「あれが噂の元らしいぞ」
夢見がちな女たちが泣いて喜ぶ金髪碧眼の美男子。優美で気品があって、まるで王子様。
三白眼で無愛想なリヴァイとは対照的な男だった。
いや、問題はそこではない。
リヴァイの価値は外見ではなく、あくまで人類最強の代名詞に匹敵する戦闘力とカリスマ性。
ゆえに、相手がどんなイケメンだろうがリヴァイは他の男に引け目を感じたことなど一度もない。それどころか格下とさえ思ってきた。
それは女性兵士たちの憧れの貴公子だろうが例外ではない。
見逃せないのは、その男がハンジを抱きしめたことだ。
もともと強面だったリヴァイの顔は一瞬で鬼のような形相になった。
それはミケが顔面蒼白になり、びくっと硬直するほど恐ろしいものだった。
「会いたかったよ。久しぶりだねハンジ」
「あなたこそ元気そうで」
おい、これはどういうことだ?
ハンジ、てめえ、俺以外の男に、そんなふざけたマネされて何笑ってやがる?
そこは急所を蹴りあげて俺への貞節を証明すべきだろう!
「ここじゃあ何だから移動しようか。いい店を知ってるんだ」
もちろん断るよな?
「あなたと食事なんて久しぶりだな。とてもうれしいよ」
リヴァイは自分の中で何かが切れそうになるのを感じた。
その間にも二人は仲むつまじく移動している。
噴火寸前の火山のような感情を抑え、リヴァイは二人を尾行した。
「でも、どうして調査兵団に?憲兵団は給料いいし、仕事は楽だし、何より命の危険がないっていうのに」
「確かに。でも腐敗しきってて、とにかく気分が悪い職場だったよ。
民衆を守るために兵士になったはずなのに、その民衆から搾取して威張り散らすしか能がないんだ。
ここには居場所はないってすぐに気づいた時、あなたを思い出したんだ」
「私を?」
「そうだよ。訓練兵時代、言ってただろ?『私は人類の未来を切り開くために調査兵になる』って。
自殺行為だと思ってたけど、憲兵みてたら、どっちが命をかける価値があるかなんて考えるまでもなかった。
どうせいつか死ぬんだ。だったら生き方も死に方も価値のある方を選びたい。たとえ、それがどんなに過酷な道でもね」
「あなた、変わってないね。確かに、あなたみたいな純粋なひとは憲兵団に向いてないよ」
「固い話はもうやめよう」
その美男子は紅茶を一口飲むと、ほほえみながらとんでもないことを言った。
「ハンジはきれいになったね」
リヴァイが、この先、何年かけても言えないような歯の浮いた台詞をいとも簡単に。
ハンジの後ろのテーブル席から様子を伺っていたリヴァイは思わず手にしたコーヒーカップを握りつぶしそうになった。
「そう?」
「うん、もともと元はすごくよかったけど、しばらく会わないうちに大人っぽくなった。
もしかして特別なひとでもできたのかい?女は恋をするときれいになるっていうだろう」
「……えっと」
おい、さっさと言え!
『私の恋人は人類最強。私に手を出すと肉を削がれるよ』ってな!!
「いないのか?調査兵団の男どもは見る目がないんだね」
「……あのね」
「ハンジみたいに綺麗で頭もよくて性格も悪くないなんて三拍子そろってる子をほっておくなんてさ」
「実は……」
ハンジは、なかなかリヴァイの名前を出さない。リヴァイはかつてないほどの焦燥感を感じた。
『最近のおまえの態度を考えれば、いつ愛想をつかされてもおかしくないぞ』
気にも止めてなかったエルヴィンの忠告が脳内で再現される。嫌な予感しかしない。
どんなことがあってもハンジの自分への愛情は変わらないと思っていた自信に亀裂が入り始めた。
「……一応、いるんだ、彼氏」
絶望の中にも希望はあった。
もちろん、それはリヴァイを満足させるようなものでは到底ない。
何だ、その『一応』ってのは!
「へえ、誰?」
「あなたも名前だけは知ってると思うよ。兵士長のリヴァイ」
「リヴァイ?あの人類最強って名高いひと?」
「うん」
「大物釣ったねハンジ。でも、だったら、どうして、すぐに教えてくれなかったんだい?」
その意見にだけはリヴァイは反射的に頷いていた。
「今は付き合ってるけど……ね」
ハンジの返事は歯切れが悪い。
「何かあったの?喧嘩したとか倦怠中とか」
「それくらいならよかったんだけど……」
ハンジは俯きながら重い口調で言った。
「……もうダメかもしれないから」
あ?
リヴァイは思わず声に出してしまいそうだった。
ダメ?何がだ?
「最近、リヴァイ怒ってばかりで、顔合わせるたびに『そろそろ破局かな』って考えてばかりなんだ。
……はは、無理もないけどね。私みたいな女が恋人じゃあ」
それはリヴァイにとって、まさに青天の霹靂とも言える言葉だった。
「もともと喧嘩友達みたいな関係から始まったんだけど、それでも、あいつが『俺のものになれ』って言ってくれた時は嬉しかったんだよ。
あの時は本当にリヴァイは私を気に入ってくれてると思ってたんだ。でも……」
「でも、違ったのか?」
「リヴァイが私と付き合ったのは物珍しさからくる単なる好奇心だったんじゃないかって思えてきてね」
何だ、それは?
リヴァイにとって、ハンジの台詞は、まさに心外極まり無いものだった。
「よく考えてみたらリヴァイには一度も好きなんて言われたことないし」
「何、それ?」
「最近じゃあ怒鳴られてばかり。
他の女性兵士にだって、そんなこと言わないのに私だけにはやけに厳しくてさ。
さっきも頭叩かれた」
「まさかDV?!」
「大袈裟だな、そんなんじゃないよ。あいつも一応かなり手加減してくれてるから。
でも女の部下が、どんなミスしても、手をあげたことない男なんだよ。
ああ見えて女には結構優しいんだ。
それなのに恋人のはずの私にはフェミニストのフェの字もないから、女扱いしてるのかさえ疑わしいんだ」
ハンジは「まあ、こんながさつな女だからしょうがないけどね」と笑って言ったが、その口調は暗かった。
「と、いうわけで……最近、冷たいのは、いい加減私に愛想つかして苛ついてるのかなって……ね。
リヴァイと顔あわせる度に別れ話がいつでてくるんじゃないかって不安で……」
……おい、どういうことだこれは?
リヴァイは呆けていた。なぜ、そんな思いをハンジにさせているんだ、と。
確かに最近口うるさかったが、それもこれも一種の愛情表現ではないか。
どうでもいい相手なら口出しなんかするものか。
「ハンジ」
美男子がハンジの頭に手を優しくなでた。リヴァイは頭に血が昇った。
自分でさえ一度もしたことがないなれなれしいことを!
「あなたには慰めが必要だな。今夜、部屋においで」
リヴァイは耳を疑った。今、奴は何て言った?
「愚痴でも何でも聞いてあげるからさ」
リヴァイの理性の鎖は切れる寸前だ。全てはハンジにかかっている。
もちろん断るだろうなあ?
「ありがとう。じゃあ、今夜は久しぶりに一晩中、話をしよう」
ぶちっ!
リヴァイの中で何かが切れた。もう我慢ならない!
盛大に立ち上がった拍子に椅子がガタンと大きな音を立てて倒れた。
何事かと振り返ったハンジは当然のことながら驚いている。
「リ、リヴァイ!あなた、いつからそこにいたの!?」
「え、リヴァイ?それじゃあ、この男がハンジの彼?」
二人は何が何だかわからないと言った表情だったが、リヴァイのドス黒いオーラを感じたのか徐々に青ざめていった。
「リヴァイ、どうして、そんなに怒ってるの?」
「どうして……だと?」
リヴァイはハンジに近づくと腕をつかみ強引に立たせた。
「行くぞ」
「ちょっと!私は友達と話の途中なんだけど」
「黙れ!」
リヴァイはハンジのお友達とやらを睨みつけると、見せつけるようにハンジの腰に腕を回して抱き寄せた。
「俺はこいつと別れてやるつもりは毛頭ないからな」
美男子は、ぽかんとしている。
「削がれたくなかったら二度とこいつにちょっかいだすな」
リヴァイはハンジを連れ、さっさとその場を後にした。
「ちょっとリヴァイ!」
無言のまま歩くリヴァイにハンジは精いっぱいの抵抗をしめすように、その場に立ち止った。
「初対面の私の友達にあんな態度とって、あなた、どういうつもりなの?!」
「友達だと?男がいる女に、あんな馴れ馴れしい態度をとる奴がか?」
ハンジは混乱し頭を抱えた。
「だいたい、おまえに自覚がなさすぎるのが一番悪い」
「悪いって……私の何が?」
リヴァイは舌打ちした。まだ状況を把握してないハンジに心底腹がたったのだ。
かといって、いちいち説明するつもりもない。
「てめえは自分が誰の女か忘れたのか?!」
「……あの」
「何だ?」
「もしかして、あなたが不機嫌なのは……嫉妬してるの?」
この女は、作戦立案や巨人の研究で見せる非凡な頭脳を俺のために使わないのか?
そんなリヴァイの心の声に答えるかのようにハンジは続けた。
「……それは、あなたのプライドから?それとも……まさか、私を……」
『リヴァイには一度も好きなんて言われたことないし』
頭に血が上っていたリヴァイだったが、不安と期待の入り混じったハンジの瞳に気づいた瞬間、先ほど聞いた言葉を思い出した。
鈍感なのは自分も同じだった。ずっとハンジの本心に気づかなかったのだから。
「俺はボランティアで女と付き合うような暇人じゃない」
ハンジは、その言葉では満足しないらしく、じっとリヴァイを見つめてくる。
俺がここまで言ってるのに、まだ足りないのか?
リヴァイはハンジの後頭部に手を回し顔を近づけると、今までないほど、はっきりした口調で言った。
「ああ、そうだ。俺は、おまえが好きだ。心底惚れている。文句あるか?」
その言葉にハンジは俯き、その数秒後、「……ない」とつぶやくように言った。
「おい、泣くな……ハンジ」
「……だって」
リヴァイはハンジの手を優しく握り返した。
「……悪かったな、最近、態度が悪くて」
「もう、いいよ」
「おまえだからと気軽に言いたい放題してただけだ」
「うん」
「今後は注意する。だから、おまえも、あいつとは縁を切ろ」
「それはできないよ。彼女は訓練兵時代からの親友なんだもの」
「できないだと!?」
再び逆上しそうになったリヴァイ。だがハンジの台詞の中に妙な違和感をもつ単語に気づいた。
「……『彼女』?」
「ハンジ、あなた、ちゃんと愛されてるんじゃない。安心したわ」
リヴァイが敵視した『ハンジの親友』は残りの紅茶を口に含みながら嬉しそうに微笑んだ。
ナナバが調査兵団に入団したある日の出来事だった――。
FIN
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