『僕は本当に冷たい人間なんですよ』
―光―
「……夢?」
美恵は、ゆっくりと上半身を起こした。
薄いカーテンが朝の風に揺れ、雀たちのコーラスが聞こえてくる。
朝が訪れたのだろう。しかし朝日は見えない。気配を感じることができるだけだ。
目覚まし時計がけたたましく鳴り響くことで美恵はようやく時間を確信できる。
夢の中では、あんなに鮮やかに何もかもが見えるのに目を開くと暗闇が全てを覆い尽くしてしまう。
美恵が光を失って、もう一年近くたとうとしていた。
手のひらをぺろっと舐められた。
「おはようムク」
愛犬のムクは視力を失った美恵に両親が与えてくれたペット。介助犬の訓練も受けている。
「よしよし。今日もいい天気みたいね」
美恵は機嫌がよかった。その理由は夢見がよかったからだ。
「あのねムク、また、あいつの夢をみたのよ。相変わらず慇懃無礼な男だったわ」
一年前、美恵は、ある男と出会い恋に落ちた。
しかし男はわけありのようで、自分の素性は何も明かさず美恵の元から姿を消した。
名前は『六道骸』それしかわからなかった。
その直後だった。美恵が交通事故で光を失ったのは。
「早く手術できればいいのに」
いつか彼が戻ってきたとき、はっきり彼の顔をみたいもの。
「あいつって優しそうな笑顔みせるんだから。
あんな微笑みみたら、どんな女だっておちるわよ。本当にずるい男」
最後に会った時のことを覚えている。
『ねえ骸、明日も会える?』
『僕と約束なんてしないほうがいい。僕はすぐ嘘をつく人間ですから』
『そうかしら?あなたは悪ぶってるけど、優しいところもあるひとよ』
『おや、心外ですね。僕を優しい人間だなんて思わない方がいい。幻滅どころか失望しますから』
『いいえ、あなたは本当は優しいひとよ』
美恵は骸の目をまっすぐ見つめ、はっきり言った。
『私にはわかるの』
骸が最後に見せた笑顔は、どことなく寂しいそうだった。
「あなたの名前も彼からもらったのよ」
ムクはきょとんと首を傾げている。
「きっと骸は戻ってくるわ。だから、その前に手術しておきたい。彼の顔をみたいから」
美恵は、ゆっくりと階段を降りだした。
「あの子が失明してから一年になるな」
(お父さん?)
両親の会話が聞こえてきた。父は『失明』と言っていた。
どういうことだろう?確かに今の自分は目が見えない。
しかし手術するまでの一時的なもののはずだ。
「明るいいい子だ。そろそろ本当の事を教えてやっても」
「でも、あなた……いくら、美恵が、しっかり者でも、きっとショックを受けるわ。
あの子が……あの子は二度と目が見えないなんて知ったら……」
美恵は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
(……今、何て言ったの?)
その後の事は覚えていない。美恵は、しばらく、その場から動けなかった。
両親の会話からかろうじて覚えている事を整理すると事故で美恵は眼球に深い傷を負ったらしい。
美恵はふらふらしながらも、両親に気付かれず外に出た。
「……大丈夫よムク」
心配そうに、くぅんとなく愛犬の頭を美恵は、そっと撫でた。
「……ただ、骸が戻ってきたとき彼の顔が見られないのが残念なだけ……それに……」
――それに骸が今でも私のこと想ってくれているかわからないし……ね。
もう二度と目が見えない事実に対する精神的ショックなのか、美恵は骸の夢を見なくなった。
期待したくない心がブレーキ作用を生み出していたのかもしれない。
そして三ヶ月がたった。
「……ここは」
骸とよく会話をした小さな丘の上。鮮やかな緑が、はっきりと見える。
「久しぶりですね」
その声に美恵はびくっと反応した。
「僕が怖いんですか?」
「まさか……ただ私は、もう……あなたの顔を見れないから」
「おや、おかしいですね。では、今、あなたが見ている景色は何なんですか?」
「え?」
――そうだ。私、目が見えてる。緑も空の青も……どうして?
その答えはすぐにでた。
――ああ、そうか。私、夢を見てるんだ。夢の中でなら骸の顔だって見れるかもしれない。
振り向くと、そこには変わらない笑顔があった。
「……相変わらず不敵な笑みを見せるのね」
「愛想がいいと言ってください」
――よかった。夢の中でも彼に会えて。
「どうしてですか?」
「何が?」
「君はずっと僕を拒絶していたでしょう。
今までは夢の中で会えていたのに、君の拒絶でそれすら出来なくなっていた」
「あなたを拒んでいたわけじゃあないわ。ただ私……」
骸の手が頬に……美恵は、その手に自分のそれを、そっと重ねた。
「君は、まだ僕の力を見くびっているんですね」
「骸?」
「僕が本気を出せば不可能はないんですよ」
相変わらず慇懃無礼な奴。
「もっとも閉じこめられていたせいで、その本気も出せない状態でしたけど」
「それ、どういう意味?閉じこめられていたって……もしかして、そのせいで会いにこれなかったの?」
「しゃべりすぎました。そろそろ帰ります」
骸は驚くほど、そっけなかった。
「ああ、そうだ。夢から覚めたら瞼を開いてみたらいい。僕からのプレゼントがありますから」
「何、それ?」
骸からは返事はなかった。
ただ最後に作り笑顔ではない微笑みを見せてくれ、同時に美恵は夢から覚めた。
「……夢……?」
美恵は、ゆっくりと上半身を起こした。
薄いカーテンが朝の風に揺れ、雀たちのコーラスが聞こえてくる。
いつもと同じ朝。しかし、いつもとは明らかに違う朝。
「……どうして」
いつもは感じるだけだった。でも今は見えている。朝日が眩しい。
『僕は本当は優しいひとなんですよ』
骸の声が聞こえたような気がした。美恵は俯きながら呟くように言った。
「あなたは本当に冷たい人間よ」
その目からは温かい涙が流れていた。
「あなたは本当に冷たい男よ」
――だって、こんな幸せな時間に、そばにいてくれないんだもの
『すぐに会いに行きますよ』
「すぐに会いに来なさいよ」
今日の朝日は今まで見たどんなものよりも輝いていた――。
END
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