「和雄、朝よ、起きて」
海辺で夕日を見たあの日から
二人が深い関係になるのに、そう時間はかからなかった
そう、今まで素敵な大人の男を何人もフッてきたのに
5歳も年下の、この少年を
美恵
はとても愛しいと思うようになっていたのだ
愛と青春の旅立ち―後編―
「……もう、朝か」
少々眠たそうな桐山
桐山の、こんな表情を拝めるのは自分だけだろう
コーヒーを入れながら、美恵は優越感に浸った
「……美恵
」
食事の支度をする美恵の腰に手を回す桐山
教え子に手を出すなんて、私って悪女かしら?
「で、ボス、どこまでいったんですか?」
最近、笹川がしきりに聞いてくる、そして
「バッ、バカ野郎!!そんなこと聞くんじゃねぇ!!」
必ず、顔を真っ赤にした沼井が間に割ってはいる
「京都だ」
「へっ?」
「美恵
と行った所だろう?一番遠くは京都だった」
「……いや、ボスそういうことじゃなくて」
「美恵はオレの知らない場所を沢山知っている」
それに桐山が知らないことをたくさん教えてくれた
美恵との毎日は不思議と飽きない
最近は、美恵のマンションに泊まることも多い
美恵は自分の事を全て教えてくれた
中学卒業間近に家族を交通事故で失ったこと
その後は、親の生命保険とバイトで生活し大学に入った事
そして大学の資金にする為に桐山の家庭教師になった事
自分自身の力で生きている美恵に比べ自分がちっぽけに見えてきた
以前の自分なら、そんな事考えなかっただろう
「ボス~、じらさないで教えて下さいよ。プライベートレッスンの内容」
「プライベートレッスン?」
「色々教えてもらってるんでしょ?女の抱き方とか」
「竜平、てめぇ!!!」
ついに切れた沼井に追いまわされる笹川
「彰」
「なあに桐山くん?」
「笹川はエスパーなのかな」
「ええっ!どうして?!」
「なぜ知っているんだ?」
「……ま、まあ…桐山くん……」
今だ追いかけっこの笹川と沼井を尻目に月岡は感動していた
愛する息子を見守る母親の心境なのかもしれない
もっとも、その横では黒長が固まっていたが
「「「若様、お帰りなさいませ」」」
いつもと同じ型どおりの挨拶、
しかし今日は嬉しい日だった
美恵が来る日だからだ
「天瀬様は旦那様とお話されています」
話?そう言えば、そろそろ契約が切れる頃だ
桐山はいったん部屋に行き、机の引き出しから小さな箱を取り出した
「家庭を考えたことはある?」
いつだったか、そう問われたことがある
その時は、深く考えもせずに、こう答えた
「ない」
しかし、今は……美恵は受け取ってくれるだろうか?
「先生にはお世話になりました」
ソファにもたれながら、桐山の父はそう言った
「これは約束の契約金です」
差し出された小切手の額面をみて美恵は目を見開いた
「あの金額が多すぎますが」
「これは私の気持ちですよ。先生には個人的にお世話になったみたいですからね」
瞬間、
美恵の表情が固まった。
桐山との関係は、ばれていたのだ
だが雇い主の息子と恋人になったのは美恵にとっても計算外だった
もちろん、その関係を終らせるなんて考えられない
それほど桐山を愛しているのだ
だからこそ今まで勉強一筋で男なんか眼中になかったのに
桐山には全てを許してきたのだ
それにしても、この男は何を考えているのだろう?
雇った女が、跡取息子と深い関係になって怒るのならわかるが
反対に大金を出すなんて
まさか、手切れ金?これで別れろというつもりじゃ……
美恵は、これ以上ないくらい強張った表情をした
「先生、そう固く考えないで下さい。これからも和雄と逢ってもかまわない」
「えっ?」
「もちろん、深入りしてもらっては困る。和雄には、花嫁候補が大勢いるんでね」
『花嫁』その言葉が、まるで氷の剣のように、美恵の心に深く突き刺さった
それにしても、わからない。付き合うのはかまわないと言いながら
花嫁候補は他にいると断言するなんて、それでは、まるで……
「私に愛人をやれというんですか?」
怒りで身体中が震え出した
「今だって同じようなものだと思うがね。これでも私は息子のことを心配しているんだよ」
美恵は怒りで声もでなかった
「あれも年頃だからな。しかも桐山家の息子ということで誘惑もあるかもしれん。
変な虫がついてからでは遅すぎる。
おまけに和雄のクラスメイトは顔だけはいい女が揃っているということだしな。
そんな、くだらん一般庶民の娘どもと関わりを持たせるわけにはいかんのだ」
だから、と一息ついて桐山の父は屈辱の言葉を吐いた
「予防策として同年代の女など比較にならない相手を傍に置いておこうと思ったんだよ」
なん…ですって……?
「くだらん女に入れ込むよりはマシだと思ってね」
美恵は思い出した、他の家庭教師候補の女たちを
自分と同じように大金を必要としている若くて美しい女たちを
「外の女と違って、私の支配下にある者なら色々と都合がいいし」
世間的なことを教えてやってほしいといった……あれは
「まさか、ここまで親密な間柄になるとは予想外だったが」
……最初から、そのつもりで?……この男は……
「和雄も先生のことが気に入ってるようだし契約を更新しますか?」
「………!!」
「もちろん和雄が婚約するまでの話だが」
ふざけないで!!そう叫ぼうとした時だった
――部屋のドアが勢いよく開いたのは
「……和雄」
「なんだ、聞いていたのか。だったら話は早い」
「そういうことだ。先生は金を手に入れ、おまえは後学の為になっただろう」
「ち、違うわ!!」
違う!!私は違う、お金の為なんかじゃない、本気だった!!
息子に女をあてがっておこうなんて最低の男とは違う!!
本当よ!!!!!!!!
「さあ部屋に戻りなさい。おまえたち、和雄を連れて行け」
父の側近たちが桐山の腕をつかんだ
「待って和雄!!私の話を聞いて!!!」
走り出そうとした美恵の腕を、桐山の父が掴んだ
「さあ、これを持って帰ってもらおうか」
目を見張るくらいの金額が記入された小切手を美恵の手に握らせた
キッと睨みつける美恵、そして……
――部屋に響くような激しい音だった
桐山の父が赤く腫れた頬を押さえ呆けている
「……一度でも、いい父親だなんて思った私がバカだった」
惜しげもなく小切手を破り捨てた
「あなたに父親の資格はないわ!!」
必死に涙を堪え桐山邸を飛び出した
あんな奴の前で涙を見せるのはプライドが許さなかった
悔しい……でも、それ以上に……
「……和雄……」
美恵は海に来ていた
何度も桐山と来た思い出の場所
あれから桐山とは一度も会っていない
携帯はいつも電源が切ってある
学校の前で待っていたことも一度や二度ではない
でも、リーゼントの風変わりな男が済まなさそうに
「桐山くん、ずっと休んでるのよ」と、教えてくれるだけだ
「……和雄、私のこと憎んでるの?」
「美恵は、いつも、ここに来るんだな」
「!!!!!」
美恵は振り返った、その声に、その愛しい声に
「マンションにいなかったから、ここだと思った」
そう言って、美恵の横に立った
「……和雄」
「一つだけ聞きたい」
桐山が真直ぐな瞳で美恵を見詰めた
「オレと付き合ったのは金の為だったのか?」
「本気で、そう思っているのなら救いようのないバカだわ」
強い意志を秘めた瞳だった
やましい部分など一つもない自信を持った瞳
「帰る家がない」
唐突な言葉に美恵はキョトンとした
「ずっと家に閉じ込められていたんだ。だが今日は強硬手段を使った」
「………?」
「強引に屋敷を出ようとしたら父の側近たちに止められた。
だから全員、抵抗できないようにしてやった」
美恵は呆気にとられた。その頃、桐山邸は主治医が緊急呼集されていた
「ついでに父もだ」
「オレは桐山財閥の御曹司でも何でもない。ただの男だ」
「……和雄……あなた……」
「それでもいいのか?」
「和雄!!」
桐山に抱きついていた
「受け取ってほしいものがある」
ポケットから小さな箱
あの日渡そうとして出来なかった
――それは……
フタを空けると、プラチナリングが光を放っていた
美恵の薬指に、そっとはめる
微笑む美恵
太陽が沈み始めた
そして二人が何度も見てきた、あの景色が鮮やかに二人を包み込む
「和雄」
「なんだ?」
「家庭を考えたことはある?」
「ない」
「美恵以外の女とはな」
もう離れることはない
―――そう永遠に―――
END