「急がないと遅れちゃうわ」

美恵は電車を降りると全力疾走した。
ロングスカートは走りにくかったし、第一おしゃれな靴は走りに適してない。
しかし今の美恵には急ぐ理由があった。 今日は恋人の桐山と初めてのデートだったのだ。
大好きな桐山に最高の自分を見せたいがゆえに、あまりにも念入りにおしゃれしてしまった。
おかげで待ち合わせ時間ギリギリだ。

(早く行かなくちゃ。時間に遅れちゃう)

美恵は必死に走った。他のことは何も目に入らないくらいに。
頭上ではペンキ屋が鼻歌まじりに梯子を降りてきていたが、それすらも気づかない程だった――。




初デート




「……遅いな」

桐山は約束の時間より30分も早くから待ち合わせ場所に来て待っていた。
月岡が男はデートにそのくらい早く行くのが常識よと桐山に吹き込んだからだ。
桐山は、それをあっさり信じ健気にもずっと待っている。
しかし、すでに指定時間は5分を過ぎていた。
にもかかわらず美恵は姿を現さない。どうしたのだろう?


桐山は心配になってきた。 感情が希薄な彼にとっては人生初の経験かもしれない。
美恵は時間にルーズな人間ではない、何かあったのだろうか?
しかし月岡が「女の子は少しくらい遅れるものなのよ」と言っていた。
ならば、もう少し待ってみよう。 そう思っていても、やはり気になる。


連絡くらいはしておこうと思い、桐山は携帯電話を取り出した。
すると美恵の携帯電話の着信音が聞こえてきた。
携帯電話の向こうからではない。実際に聞こえている。
ほんの微かな音量なので普通の人間だったら聞き逃していただろう。
桐山は音のする方に近づいていった。音量は少しずつ大きくなる。


『もしもし和雄、あの、ごめんなさい』
美恵、何があったんだ?」
『あの……実はね、急用ができて来れなくなったの』
「それは違うんじゃないのか?」
『え?』


「おまえはそこにいるじゃないか」
「あ!」


桐山は美恵が隠れている木のそばまで来ていた。

「どうして姿を見せなかったのかな?」
「か、和雄、見ないで!」
美恵?」
美恵の様子が変だ。桐山が近づくと美恵は慌てて逃げようとする。
もちろん桐山は見逃さない。すぐに手をつかんで動きを封じた。


「……美恵」
「……うっ、和雄……」


泣き出してしまった美恵
その髪の毛にはペンキがべったりくっついていた。














「逃げることはなかったんじゃないのかな」
「……だって、こんな姿を和雄に見られたくなかったんだもん」

美恵は差し出されたハンカチを顔に当てて泣きじゃくった。
せっかく、この日のために新しい洋服を用意して、髪型だって綺麗にセットしたのに。


「ごめんね和雄、せっかくのデート台無しにして……」
美恵のせいではないだろう」
「だって、私が注意してたら、こんな事にはならなかったよ」
「上から落ちてきたんだから仕方がない。俺はそう思う」


桐山の口調は淡々としていたが、美恵を慰めよういう気持ちは伝わってきた。
それだけに美恵は申し訳なくてすまなかった。


「幸い服は無事だ。髪の毛も先端が汚れただけじゃないか、すぐに美容院に行けばいい」
「ダメだよ和雄、こんなにべったりじゃ絶対に切るって言われるよ」

自慢のロングヘア……でも、この長い髪を大事にしてきたのは、ずっと願掛けをしてきたから。


『桐山君と恋人になれますように』


願いがかなった後も、美恵はお守り代わりにこの髪を大事にしてきた。
切ってしまったら、桐山との関係も切れてしまうような気がする。
昔から女の断髪は失恋の象徴とも言うし……。


「迷信かもしれないけど、私……」


美恵は俯いてしまった。桐山が呆れているだろうと思うと、とても恥ずかしい。
桐山は無言のまま、美恵はとてもいたたまれなかった。
しばらくすると桐山がある事を提案した。




「美容院が嫌なら俺が切ってやろう」
「え、和雄が?」
「昔は男が将来を誓った女から髪をお守りにもらうという風習もあったくらいだ。
だったら俺が切るのなら問題はないのではないのかな?」
確かに戦争に行く若者が恋人から髪の束を「私と思って」と渡されたという話もきく。
桐山なりに髪の迷信にこだわる美恵の気持ちを尊重してくれたのだ。


「ありがとう和雄、でも……」
「どうせ、切らなくてはいけないだろう。それでは街も歩けない」
桐山は上着の内ポケットからナイフを取り出した。
「じっとしていろ」
桐山は器用に美恵の髪の毛を切りだした。
ばさっと長い髪が地面に落ちたのを見ると美恵は内心動揺した。
桐山はあらゆることに天才的な才能を持っている。それはヘアカットも例外ではなかった。
ほんの数分で桐山は「これでいいか?」と手鏡を差し出してきた。
(月岡が暇さえあれば身だしなみをチェックしろと桐山にプレゼントしたものだ)




「……和雄って本当に何でもできるのね」

綺麗にレイヤーカットされた髪。
今風の綺麗なヘアスタイルだったが、美恵の気分は沈んだままだ。
「気に入らなかったのかな?」
「そうじゃないの和雄、ただ……」
美恵は溜息をつきながら、「……和雄、私のロングヘア好きだって言ってくれたでしょ?」と言った。
桐山は記憶をたぐり寄せた。確かに言った覚えがある。


『俺は美恵の綺麗なロングヘアをきっと好きだと思うんだ』と。


美恵」

桐山はそっと美恵を抱きしめた。


「俺はショートヘアの美恵も好きだぞ」
「……和雄」


美恵が美恵でさえあれば俺は髪型なんかどっちでもいい。
美恵の髪なら、ロングもショートも好きだ。 それではいけないのかな?」

「ううん、そんなことない。ありがとう和雄」


美恵も桐山の背中に手を回し強く抱きしめ返した。

「和雄、大好き」
「ああ、俺も同じ気持ちだと思う」


美恵は嬉しそうに微笑んだ。
そして、お互いの手を強く握りしめ、デートを再開するために街に出たのだった。




END


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