近付いてくる足音には殺気が含まれている。
「どこだ~どこにいやがる~?」
その低く恐ろしい声と秋澄の距離は確実に縮まっていた――。
鎮魂歌―季秋秋澄―
東海の覇者・季秋家の次期当主たる秋澄は常に人々の羨望の眼差しを意識していた。
それもそうだろう。東海地区限定とはいえ、彼は王子様も同然。
その上、季秋家といえば東日本で三本の指にはいる超資産家。
彼の将来は光り輝くことが約束されている――と、いうのが第三者視点。
しかし彼自身に言わせれば、季秋家世継ぎの座は座り心地のいいものではなかった……。
(……落ちる、落ちる!)
秋澄は分厚い専門書が散乱したデスクに突っ伏して頭をかかえていた。
季秋家の世継ぎにふさわしく名門大学の優等生である彼だったが、祖父や叔父は満足してくれていない。
それどころか主席でないということがプレッシャーになって彼にのしかかっていた。
しかも秋澄に課せられたのは、ただ優秀な成績を収め卒業することだけではない。
この大東亜共和国は単位さえきっちり取り、特別試験をパスすれば通常よりも早く卒業資格をもらえる。
エリート中の超エリートである。その超難関エリートコースを祖父の命令で選択させられていたのだ。
三年で名門大学卒業資格を手に入れるため、秋澄は夜も寝ないで努力した。
その甲斐あって最後の試験にパスすれば卒業……と、いうところまでこぎつけた。
試験は三日後に迫っている。今は勉強に全神経を集中させなければならない。
「よーし、次はスリラーいくぜ!」
「いいぞ兄貴!!」
「うわぁー!!」
爽快すぎるホップのリズムも今の秋澄にとっては騒音。
こんな大事な時期に、弟達が最近カラオケごっこにはまり深夜まで騒々しいのだ。
いやカラオケなんて可愛いものではない。
ステージごっこといった方がいいだろう。コンサート会場のごとくわめきちらしているのだ。
温厚な秋澄もさすがに切れ、弟の部屋に怒鳴り込んだ。
「おまえ達!兄さんは今猛勉強中なんだ、少しは静かにしたらどうだ!!」
すると夏樹が不快そうに口答えしてきた。
「今夜は俺がやっとの思いでマスターしたスリラーダンス披露することになっていたんだ」
「スリラーだかホラーだかしらないが、そういうことは兄さんの試験が終わってからやりなさい!
おまえたちは気楽な高校生活エンジョイしてるだろうけど、兄さんは大学卒業がかかっているんだ!」
「卒業?ああ、あれか、あんなちょろいもんのために必死になるなよ兄貴」
「何てことを言うんだ夏樹!いいか、高校受験とはレベルが違うんだぞ!」
「ふーん」
夏樹は何を思ったのかデスクの引き出しから1枚の紙切れを取り出し秋澄に差し出した。
「……こ、これは!」
それは秋澄の大学の卒業資格認定書だった。
「暇だったから兄貴の大学の通信教育で取ったんだよ。秋利も冬也も持ってるぜ」
秋澄は愕然としながら秋利や冬也に視線を移した。
「ま、いつかは取るんだから今とってもいいかなー思って」
「暇つぶしくらいにはなったぜ」
秋澄のプライドは粉々に粉砕した。
現役大学生の自分が必死になっているというのに、遊んでばかりの高校生の弟達に先を越されていたなんて。
「兄さん、元気出して」
見かねた春海が慰めてきた。
「やっぱり、おまえは優しい子だね……春海だけだよ、兄さんの味方は」
「僕も兄さん達を見習って通信教育受けてたんだ。ちょうど兄さんと同じ試験受けるんだよ」
「は?」
「一緒に合格できるように頑張ろうね」
「…………」
秋澄の悲劇は、弟にやたら出来のいいのが揃っていたことだった。
だが、それ以上の悲劇は彼の兄の存在だった。
「茉冬はまだ立ち直っていないのか?」
「ああ、まだ上の空で出掛ける元気もないくらいだ」
佐竹からの報告に秋澄はがっくりした。
秋澄には妹が1人いる。弟妹は大勢いるが、やはり女の子は各別らしく秋澄は可愛がっていた。
そんな可愛い妹が極悪プレイボーイ・立花薫にたぶらかされてから一ヶ月がたとうとしている。
初恋の相手を誠実で優しい恋人と信じていた茉冬は今だに立ち直れないでいた。
「立花め~いつか思い知らせてやるからな」
だが今は妹が元気を取り戻すことが最優先。しかし、どうやって励ましてやったらいいのかわからない。
「……はあ、困った」
「何、溜息なんかついてやがる。辛気くせえな」
秋澄はあビクッと反応した。その声の主は、秋澄が最も苦手としている男だったからだ。
「に、兄さん!……戻ってきたんですか!?」
不良の長兄・秋彦が日本刀を肩に背負い立っていた。
「……何だ、てめえは。俺が帰宅したら困るかのよ」
「い、いえ、そんなことは決して」
「ふん、どうだか。長男の俺を差し置いて世継ぎの座にふんぞり返ってやがる性悪野郎だからなあ、てめえは」
なりたくもない跡継ぎになった上に、ネチネチと続く嫌味。たまったものではない。
「あ、あの兄さん。何か御用があって戻られたんでしょう?」
「そうだ、てめえの悪口いってるほど俺は暇じゃねえんだよ。やっと本題に入る気になったか」
秋彦は見合い写真を乱暴にデスクに放り投げた。
「兄さん、これは?」
「聞いたぜ茉冬のこと。昔の男を忘れるには新しい恋人が一番だろうと思ってな」
秋澄は驚愕した。この兄に妹を思いやる気持ちがあったとは!
信じられないが、徐々に胸の置くから熱いものがこみ上げてくる。
「兄さんもやっぱり人の子だったんですね……」
「……てめえ、どういう意味だ。まあいい、俺が花柳界の馴染みの女総動員して作った縁談だ。
いいか、絶対にまとめろよ。わかってるだろうな?」
さっさと用件をすませ秋彦は出て行った。
「……兄さんも何だかんだいって妹が可愛いんだ」
薄情なだけの兄と思っていただけに秋澄は嬉しかった。
こうして早速茉冬の縁談が勧められ、見合いはとどこおりなく終了した。
秋澄は親代わりとして見合いに同席したが、相手の青年をすっかり気に入った。
(礼儀正しくて上品、その上、家柄も将来性も申し分ない。立花薫なんかとは雲泥の差だ。
おまけに外見も、まるで王子様みたいじゃないか)
茉冬のためにも、相手の気がかわらないうちにさっさと婚約を成立させてやろうと秋澄は決意した。
「聞いたぜ兄貴、茉冬の婚約が決まりそうなんだって?」
夕食の席で夏樹が尋ねてきた。
「ああ、そうなんだ。先方が茉冬を気に入ってくれてね。
『今時珍しいくらい素晴らしいお嬢さんで、僕には勿体ないくらいです』って。
いやあ、あんな立派な青年が相手なら、もう茉冬は泣くことは無い。
めでたいじゃないか。ちょっと早いが今から花嫁衣裳を注文しておこうかな?」
秋澄は上機嫌だった。
「で、相手はどこの誰だよ?」
「水島克巳君といって国防省の超エリートなんだ」
その瞬間、弟達はいっせいに無口になった。そしていやーな目つきで秋澄を見詰めた。
あまりの重苦しい雰囲気に秋澄の笑いも止まった。
「な、なんだ、おまえ達……そ、その哀れみに満ちた目は……?」
シーンと静まり返った空気が数十秒続いた後に、弟達は一斉に大笑いしだした。
「あーははは!こんな傑作なことがあるかよ、立花薫の次は水島克巳だと!?」
「……な、夏樹?」
「こんな偶然仕組んでもそうそう起きないぜ、最高じゃねえか!」
「おい、冬也……?」
「ほんと、下手な漫才より笑わせてくれるなあ」
「秋利、おまえまで……」
「……ど、どういう事なんだ……おまえたち?」
顔面蒼白の秋澄を余所に夏樹達は笑いながら退室してしまった。
「……秋澄兄貴」
「春樹、どういうことなんだ!?」
「相手のことちゃんと調べたのかよ?」
「調べるも何も兄さんが持ってきた縁談なんだ」
「……だったら秋彦兄貴もわかっててやったんだな。やめたほうがいいぜ、大きな声じゃいえないが」
「……い、言えないが?」
秋澄はごくりと唾を飲み込んだ。
「水島克巳ってのは下手したら立花薫の上いく極悪プレイボーイなんだぜ」
秋澄の心に雷鳴が轟いた。
「俺に面会?」
相手が男というだけで水島は不快そうに眉を寄せた。
応接室で待っていたのは、随分と派手でさばけた格好をした男、一目で変人だとわかる。
しかし取り次いだ者から、随分と身分のある相手なので失礼のないようにと言われている。
男は水島が入室するなり、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
「よう、初めまして。いきなりで悪いが、おまえの力で色々とやって欲しいことがあるんだ」
「誰ですか、あなたは?」
「秋彦だよ、季秋秋彦」
「……ああ、季秋のおにいさんですか」
水島は憮然とした表情でソファに座った。秋彦は山のような書類を出した。
「何ですか、これ?」
「みりゃわかるだろ。交通違反やら俺に対する被害届やらが随分たまって、そろそろやばそうなんだ。
今まではじじいや叔父貴がもみ消してくれてたが、あいつら俺を勘当しやがった。
慰謝料も賄賂もだせなくなってな。だから、おまえが消してくれ」
あまりの堂々とした違法行為の依頼に、さすがの水島も開いた口が塞がらなかった。
「……国防省の応接室で何てこと言うんですか」
「いいじゃねえか義理の兄弟なんだから」
「何のお話で?お見合いの件なら昨日季秋家から断りの返事がきましたけど」
「兄さん、兄さん」
「……あ、ああ、春海か」
秋澄はぼうっと外の景色を眺めていた。
「あれを見て」
見ると遠く砂埃がたっている。しかも徐々に大きくなっているではないか。
春海は双眼鏡を覗き込みながら妙なことを言った。
「逃げた方がいいと思うよ」
「どうして?」
「秋彦兄さんがジープで向かってくる。凄い形相だよ」
「に、兄さんが!?」
秋澄は震え上がった。秋彦が怒り狂うとき、たいていその標的は秋澄なのだから無理は無い。
「しかもライフル持参みたいだ」
「ラ、ライフル!?」
などと言っているうちに秋彦は庭園をジープでつきぬけ、そのまま屋敷の玄関に激突してきた。
「秋澄ー!!てめえ、よくも俺に大恥かかせてくれやがったなぁー!!」
案の定、秋彦のターゲットは秋澄だった。もはや一刻の猶予もならない。
「兄さん、ここは僕に任せて早く逃げて。ヘリコプターでなら秋彦兄さんだって追いつけないよ」
「そ、そうだな」
秋澄は慌てて部屋を飛び出した。
「……あ、そういえばヘリは冬也兄さんが遅刻しそうだからって乗っていったんだった」
「秋澄、見つけたぜ!」
「ひっ、に、兄さん!」
こともあろうに廊下でご対面。即座にライフルの照準が秋澄の頭部に合わせられた。
「どういうつもりだ!俺が持ってきてやった見合いを断るたあ!
てめえ、よくも俺の顔に泥をぬりやがってくれたなあ!どういうことか説明しやがれ!!」
「に、兄さん!水島克巳は異性関係に問題があって……ですから」
「ふざけるな!!そんなことが理由になるか、浮気は男の甲斐性だ!!
俺の面子を潰すなんて、弟の分際でふざけやがってええ!!」
今には発砲されそうな雰囲気だった。気が遠くなりながらも秋澄は必死に反論を開始した。
「茉冬は兄さんとは価値観が違うんです!あんな男と一緒になったら茉冬が不幸になるんです!!」
「何だと!てめえは俺が選んだ男にケチつける気か!!
茉冬、茉冬と!てめえは妹のためなら兄の幸せはどうでもいいっていうのか!!」
「兄さんの幸せ?」
「そうだ!水島家と親戚になったあかつきには俺のレッドカード帳消しにしてもらうつもりだったんだ!
特に運転免許なんか剥奪寸前だぞ!バイクに乗れなくなったら、俺の足がなくなるだろうが!」
秋澄は兄がこの縁談を持ち込んだ真の理由をしった。
何の事は無い、自分の不始末を取り消す為に妹を利用しようとしただけなのだ。
「兄さんはバイクと茉冬とどっちが大事なんですか!」
「だったら俺もきくが茉冬は俺を背負って時速200キロで走れるのか!!」
秋澄はもはや反論も出来なかった。この理不尽な兄に正論は通用しない。
「言葉もでないか秋澄!どうやら、てめえの矛盾極まりない言動にやっと気づいたようだな」
秋澄は何か言おうとするも言葉が出なかった。
「だが許さん!てめえの非常識で身勝手な行動のせいで俺がどれだけ迷惑を受けたか!
さあ今すぐ結納金を持って水島の元へ行け!行って土下座して破談をなかったことにしてもらって来い!」
「そ、そんなこと出来るわけないじゃないですか!」
「何だとお!てめえって人間はどこまで性根が腐っていやがるんだ!!
優しくしてりゃつけあがりやがって!もはや我慢ならん、ぶっ殺してやる!!」
銃声が轟き、秋澄の背後の壁に掛けられていた絵に穴が空いた。
ヨーロッパで名の知られた巨匠によって描かれた名画も、もはや何の価値もない。
それでも秋彦の怒りは収まらない。
秋澄は恐怖のあまり廊下から階段の踊り場目掛けて一気に飛んだ。
上手く着地できず足首に激痛が走ったが止まっている暇は無い。
背後から血走った目の秋彦が迫ってきていた。秋澄は全力疾走で逃げた。
しかし秋彦も発砲しながら追いかけてくる。
秋澄はついに使用人しか普段立ち入らない厨房にまで逃げてきた。
もちろん秋彦も追ってくる。裏口から逃げようとしたが、何と外側から鍵がかかっていた。
絶対絶命、どこかに逃げ口はないか?と必死に厨房を見渡すと地下に通じる階段を発見。
迷っている余裕もなかった秋澄は、すぐに地下室に降りた。
「逃げられると思っていやがるのかあ!今日という今日は絶対に許さなねえからなあ!!」
地下室は真っ暗闇だったが、それでも秋彦の怒り狂ったオーラは遠目にもはっきり見えた。
秋澄はひたすら走った。行き止まりだ、手探りで真横に扉を発見、すぐに飛び込んだ。
そjこは味噌や漬物、酒類などの樽や壷が保管されている部屋だった。
「逃がしゃしねえぞ秋澄~!」
恐ろしい声は確実に近付いている。秋澄は慌てて隠れる場所を探した。
すると奥に置かれていた壷が殻だった。とりあえず、その中に入りじっと息を殺した。
(ど、どうか見付かりませんように)
見付かったら、自動的に秋澄の命は尽きる。
秋澄は必死に祈った。神様、仏様、観音様、どうか助けて下さいと。
そんな秋澄をあざ笑うかのごとく、ぎぎっと扉が開く音がした。
「どこだ~?どこにいる~?」
(げっ!)
秋澄は必死に口元を手で押さえ、悲鳴が漏れるのを防いだ。
滴り落ちる汗の音すら聞えているのでは?と思えるほどの恐怖。
「ここかあ!!」
(ひいいー!!)
がしゃんと派手な音がした。どうやら秋彦が壷をライフルで叩き割ったようだ。
「……いない。だったら、こっちかあ!!」
今度は銃声が聞えた。直後、やはり壷が破壊される音がした。
「でてきやがれ秋澄~」
(こ、殺される!兄さんは本気で俺を殺す気だ!)
「よくも俺に逆らいやがったな……思えば、てめえのせいでどれだけ俺が辛酸なめて生きてきたか」
それは秋彦の逆恨みだった。秋澄のほうが常にいわれのない理不尽な思いをしていたのだ。
「じじいが俺を勘当したのも、叔父貴が俺の素行に口うるさいのも、茉冬が俺に逆らうのも……」
秋彦の怒りのボルテージは堆積した過去の逆恨みまで全て吸収していた。
「全部、てめえのせいじゃねえか!姑息な手段でじじいどもに取り入り、跡継ぎの座を横取りしやがって!!」
かたっ……と秋澄の真上から音がした。
(ぎゃぁあ!)
秋澄が隠れている壷の蓋が動いている。
(お、終わりだ!もう駄目だ!)
「こ~こ~か~?」
秋澄の頭の中は真っ白になった。もう、何も考えることはできなかった。
「ちょっと待て雄大」
「父上、待ったはなしですよ」
季秋家の大御所と当主がチェスをうっていた。多忙な二人にとって久しぶりの親子の時間。
「それより、さっきからうるさいが何かあったのか?」
「秋彦が秋澄を殺そうとライフルで追い回したそうです」
「またか……あれにも困ったものだ。やはり除籍しておいて正解だったな」
秋彦は秋澄のせいで長男の自分は跡継ぎになれないと思っていたが現実は違った。
跡継ぎ問題で一族の中で揉めたのは事実だが、そもそも秋彦は世継ぎとしての立場が弱かったのだ。
秋彦の母は芸妓、本人に責任がないとはいえ血筋でいえば到底他の兄弟を押しのけられる身の上では無い。
家柄を重んじる世界において秋彦が後を継ぐことは最初から疑問視されていた。
まして秋彦の粗暴で非常識な行動が、それに拍車をかけていたことは言うまでもない。
反対に秋澄の母は没落したとはいえ華族の出で形だけとはいえ籍も整えられていた。
長男とはいえ庶子の秋彦と、次男とはいえ血筋正しい嫡子の秋澄。
思えばむごい組み合わせだった。
秋彦が曽祖父の葬式で醜態をさらし勘当されたことは結果的に跡継ぎ問題を一気に解消することになった。
しかし秋彦に世継ぎの資格なしとなった時、宗政が最初に考えた次期当主は秋澄でなかった。
秋澄では少々頼りない、長幼の順など無視して出来のいい三男・夏樹を跡継ぎに、それが宗政の本意だった。
だが肝心の夏樹が、そんな窮屈な身分は真っ平だ、家の祭祀を継ぐのは秋澄でいいと言い張り秋澄に決定した。
宗政と夏樹との間で、そんなやり取りがあったことなど秋澄はおろか一族の誰も知らない。
知っているのは現当主の雄大だけだった。
「……このまま平穏な時世が続けば秋澄でもやっていけないことは無いだろうが」
宗政は難しい表情で駒を動かした。
「皮肉なものだな……何故、秋彦や秋澄が最初に生まれたのだ。
夏樹にも秋利にも冬也にも季秋家の当主となる器がある……何故、もっと早く生まれてきてくれなかったのか」
宗政の口惜しさは雄大にも理解できた。
優秀な跡継ぎは大金を払ってでも欲しいものなのだ。
「大丈夫ですよ。私が長生きして、季秋を守れば済む事です」
「……そうだな」
父にはそう言い聞かせたものの、雄大は心配だった。
秋澄は律儀真っ当な性格で、次期当主にふさわしい男になるために真面目に努力している。
だからこそ、そんな甥が哀れであると共に心配でもあった。
(秋澄では優しすぎる……今に、この国は大きく動く)
雄大しか知らない秋澄の過去が心配の種となっていた。
秋澄には今は京極家の息女・葉月という申し分のない婚約者がいる。
頼りない跡継ぎに、せめて嫁だけはしっかり者をと宗政が必死になって選んだ女性だ。
その葉月との婚約前に、秋澄が他の女と結婚するなどと口走ったことは口が裂けても言えない事だった。
それは、ほんの数年前の出来事だった。
「お祖母さま、大丈夫ですか?」
秋澄は母方の実家に頻繁に帰宅するようになっていた。
幼き日に病弱な母を失った秋澄にとって、祖母は育ての母。
季秋家に正式に引き取られてからは別居しているが、その後も時々顔を見せに訪れていた。
その祖母が病に倒れたとあっては、帰宅の回数も増えている。
「私のことは気にせず勉学に励みなさい。季秋の御前様に孝養を尽くし立派な大人になるように」
「はい」
秋澄は女中の志乃に祖母のことをくれぐれもと言い聞かせていた。
志乃は秋澄にとって祖母を除けば、母といえる人間でもあった。
秋澄が生まれる前から、この公暁家に仕えており秋澄の乳母も勤めた女性だからだ。
彼女の娘の梓が、祖母の様子を伝える為に、秋澄の大学によく訪れるようになったのもこの頃だった。
「公暁の大奥様の様子はどうだね?」
跡取りの祖母なので、雄大が腕のいい医者を紹介し医療費も全て援助してくれていた。
「叔父上様のおかげで最近は持ち直しました。でも祖母も年ですし、今年の夏を越えられるかどうか……」
秋澄は半ば覚悟を決めていた。年齢的にも完治は難しいだろう。
せめて自分が成人するまで生きていて欲しかったが、天命を覆すことはどんな名医にも不可能だ。
祖母の死を現実的に受け止めようとしていた秋澄にとって一つ気がかりなことがあった。
「祖母が亡くなっても女中の桜庭と娘をあの家に置いてやってくれませんか?
俺は季秋にいる身、公暁家の墓や家を守る人間が必要ですし、それに彼女達には他に行く所がありません」
頼りになる親戚も財産もない乳母や乳姉妹のことを秋澄はとても心配していた。
「そんなこと気にするな。おまえがいいようにしてやる」
叔父の返事に秋澄はホッとした。
使用人といっても秋澄にとって二人は身内も同然だったからだ。
やがて秋澄が予感した通り、祖母は夏が近付くにつれやつれていった。
同時に秋澄の元に梓が訪れる回数も増えてきた。
「おい季秋、おまえの女か?」
そんな下卑た質問をしてきた男もいた。大宮司財閥の息子の友行だった。
曽祖父が若かった頃は季秋家のライバルだったらしいが、今では大きな差がついている。
もっとも大宮司家は、自分達の現状を理解する知性がなく友行も秋澄に馴れ馴れしい態度で接している。
「そんなんじゃない。祖母の世話をしてもらっている子だ。妹みたいな存在だよ」
それは事実だった。同じ家で育ったため、小学生の頃までよく遊んだものだ。
もっとも成長するに従って主人と使用人の差を梓が敏感に感じ取ったせいか距離ができるようになっていた。
秋澄が中学生に上がろうという頃には、用がなければ近付かなくなっていた。
まだ十歳ほどの子供にしては大した分別かもしれないが、兄妹同然に育った為か秋澄は少し寂しかった。
しかし、その秋澄も実の弟や妹の面倒に気を取られ、梓にはあまりかまわなくなっていた。
「じゃあ、おまえの女じゃないんだな?」
大宮司はいい噂をきかない男だった。
「変なまねするなよ。あの子は、そういう子じゃないんだ」
それから、しばらくして祖母の様子を伝えにやってきたのは志乃だった。
「梓は?」
「それが、あの子は塞ぎこんでいて……」
働き者の孝行娘だっただけに秋澄は何かあったのか気になったが、それよりも祖母の体調の方が気になった。
「奥様は黙っていろとおっしゃりましたが、実は先日発作を起こして……。
もし万が一のことがあったらと思うとたまりません。坊ちゃまが多忙なのは重々承知しています。
けれども一度戻っていただけないでしょうか?奥様にお顔をお見せになってやって下さい」
秋澄はすぐに承知した。そして、その週の日曜日に叔父と共に祖母の元に訪れたのだ。
「あれほど黙っていろと言ったのに……」
「お祖母様、志乃を叱らないで下さい。僕が無理に聞き出したんです」
秋澄と祖母の会話が終わると、雄大が大切な話があるからと秋澄を下がらせた。
おそらく秋澄の将来について、祖母に色々と聞かせることがあるのだろう。
その間、秋澄は久しぶりに梓に会って話でもしてやろうと思った。
今ではお互い事務的な話しかしなくなったが、かつては兄妹同然だった仲。
秋澄はあの頃に戻りたかった。それに志乃から、梓の様子がおかしいと聞かされていたことも気になっていた。
「梓、入るよ」
ノックをして梓の部屋の扉を開くと、秋澄は心臓が止まりそうになった。
梓が薬瓶から大量の錠剤を掌にあけている。その尋常ではない様子に思わず飛びつき、薬を床に叩き落した。
「何をしているんだ!これは何なんだ!?」
「……秋澄様」
梓は憔悴しきっている。二ヶ月前会った時は健康的だったのに、今はその面影もない。
「返してください、それがないと……それがないと!」
騒ぎを聞きつけて志乃が駆け込んできた。そして梓を見て秋澄と同じ様に驚愕した。
「梓、それは何なの!?」
薬瓶を取り上げた志乃はぎょっとした。どうやら、何の薬か心当たりがあるらしい。
「……おまえ、まさか」
志乃は顔面蒼白になった。
「何なんだそれは!?」
秋澄が厳しく問い詰めると、志乃は「……近所の医者の」と涙声で説明しだした。
その医者というのは悪評の耐えない人物で、違法な医療行為をしているらしい。
それは、自分が開発した怪しげな薬を売りつけていることだった。
しかし、その手の薬を必要としている人間は大勢いて、危険とわかっていても、こっそり買いに来る。
「……堕胎薬です」
秋澄は愕然とした。同時に梓が塞ぎこんでいた理由も判明した。
「相手は誰なの?」
泣きながら問い詰める母親に梓はただ嗚咽するだけで答えない。
騒ぎは奥の部屋にも聞えたのだろう。雄大までやってきた。
「何の騒ぎだ。秋澄、これはどういうことなんだ」
雄大は秋澄に説明を求めた。
だが、たった16歳の少女が妊娠して、こっそり危険な堕胎をしようとしたなんてとても言えない。
梓は真面目で純朴な少女だった。それだけに秋澄は今だ信じられないくらいだった。
しかし、この世の醜いことを常人の数十倍も見ていた叔父は、すぐに状況を察したらしい。
「相手は誰だね?」
梓はびくっと反応したが、床につっぷしたままで泣きじゃくるだけだ。
志乃も一人娘に起きた突然の悲劇にどうしていいかわからず泣いている。
「泣いていても解決しないだろう。相手がいるはずだ、一体誰なんだ?」
梓は頭を上げないまま、左右にふった。
相手の男を庇っているとは思わなかった。ただ、追い詰められているようにしか見えない。
「俺です、叔父さん」
その瞬間、鳴き声がぴたりと止んだ。そして梓は眼を開いて顔を上げた。
普段、冷静沈着で滅多なことで感情を出さない雄大が表情を硬直させていた。
『何を言っているんだ、この馬鹿は』
あからさまに、そんな顔をしている。
「俺です、叔父さん。すみませんでした」
秋澄は叔父に頭を下げた。妹のように可愛がっていた梓を見かねて自分が矢面に立ったのだ。
当然、雄大はカッとなった。
「おまえは自分が何を言っているのか、わかっているのか!
おまえは季秋の跡取りだ、時期当主だ!おまえの未来のレールは私や父上が万全に整えているんだぞ!!」
これは裏切りだと秋澄は理解していた。祖父や叔父、それに死に行く祖母の期待を踏みにじる行為だ。
それでも、乳姉妹の梓を見捨てることができなかった。
一番驚いたのは梓自身だっただろう、「違います、秋澄様ではありません!」と必死に否定した。
「いいんだ梓」
「秋澄様……!」
「だから、もうこんな危険なことはするな。その子は俺の子だ、二人で育てよう」
雄大は、「愚か者め!」と一喝すると、屋敷を後にした。
彼にはわかっていた、秋澄が腹の子の父親などではないことに。
どこの誰の子かは知らないが、季秋とは縁もゆかりもない子を秋澄の子にするなんて許しがたいことだった。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、あそこまでとは……いくら」
――いくら、ほかっておけないとはいえ、お人好しも度が過ぎる。
雄大は足を止めた。
(……それが、あいつの長所なんだろうが季秋家を背負って立つには甘さに繋がる)
せめて、秋澄が跡継ぎでなかったら、もっと自由にさせてやることも可能だった。
(お人好しなくらい優しい子なんだ……それは、わかっている)
――秋澄、人格だけでは季秋のトップは務まらない。
人格と能力は全く別物だと雄大は思い知らされた。
(……いい子なんだ。本当にいい子なんだ……だが愚か者め)
宗政にはとても言えない事だった。
どうしたものかと悩んだ雄大だったが、あまりにも早くこの事件は解決されることになった。
その数ヵ月後に梓が石段から落ち、打ち所が悪かったらしく呆気なく死んだからだ。
「……あの子は幸せ者でした。若様に良くしてもらって」
葬儀の後で志乃は言った。
「あの子は幼い頃から若様を慕っていました。ですから、私は厳しく言ったものです。
若様とでは住む世界が違う、だから二度とそんな考え起こすんじゃないよ、と。
そんな恐れ多い身の程知らずな想い捨てろ、その代わりに母さんを恨んでくれていい。
だから、若様のことはきっぱり忘れて二度と想ってはいけないよ、と。
あの子は、その言いつけを幼いながらに理解し守ってきました。
その若様が自分を庇ってくださったんです。きっと心の中では嬉しかったことでしょう」
志乃はさらに言った。
「ですから、もう私達のことはお気になさらずに季秋家の立派なお世継ぎになることだけを考えて下さい」
秋澄は、わかったと言うしかなかった。
人にはそれぞれ運命がある。これが自分の運命なら、最後まで全うしてみようと決意したのだ。
そして、その後は以前にもまして勉学や帝王学に励むようになった。
「そうか、わかった。秋彦はしばらく地下牢に繋いでおけ」
雄大は受話器をそっと置いた。
「それで、どうなった?」
「はい、たまたま帰宅していた夏樹が秋彦の後頭部を樽で殴打して気絶させたそうです。
秋澄は壷の中で半ば廃人同然になっていたらしいですが、しばらく静養させれば元に戻るだろうと」
「全く、情け無い。それが季秋の跡取りか」
宗政は顎の髭をさすりながら溜息をついた。
「いい子なんですよ、能力は夏樹や冬也の足元には及びませんが」
「わかっとる。だが、そんなことでは次期当主は務まらん……全く!」
「……そうですね」
――本当に、優しい、いい子なんですけどね。
雄大は空を見上げた。その日は、日本晴れだった。
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