宇佐美は歓声を上げた。その日、科学省に新生児が一人誕生したのだ。
女の子だ。宇佐美は事のほか、その子の誕生を喜んだ。
ⅩシリーズでもF5でもない、ただのナンバーズの誕生がこれほど祝福された例はない。
「おまえの母は特別だ。おまえも科学省にとって特別な子供なんだ」
産声をあげる嬰児を抱きながら宇佐美はほくそ笑んだ。
女児には、ある女の面影があった。それが宇佐美をさらに喜ばせた。
「おまえは、この世で唯一の存在だ。名前は……『結衣』にしよう」
鎮魂歌―折笠結衣―
科学省で生まれた仕組まれた子供達、通称メンバーズ。
父も母も科学省に選ばれた遺伝子提供者。
彼らは学界、スポーツ界、その他、各分野で優秀な実績を残している者ばかりだ。
科学省で徹底した英才教育を施され育つ完全管理された子供だった。
それぞれ担当博士の元で数人ずつのグループの中で成長する。
その共同生活を強制されている子供達の中、唯一の例外が結衣だった。
一人の後見人、一人の担当博士、一人の副担当、一人の教育係、一人の指導官が彼女一人についている。
このような待遇はⅩシリーズとF5以外例がなかった。
結衣の後見人である宇佐美の独断で特別待遇を受けているのだ。
にもかかわらず彼女はⅩシリーズのように能力がずば抜けているわけではない。
つまり宇佐美の理由無きえこひいきだと見る者も少なくなかった。
「見てよ、長官のお気に入りが歩いているわ」
「おい、よせよ」
廊下を歩いているだけで、そんな言葉がちらほらと聞えている。
結衣にとって決して望ましいとはいえない環境だった。
「おいⅩシリーズだってよ!」
「上が丸秘にしてた化け物だろ?どんなごつい連中なんだよ」
そんな話題がナンバーズの間でしきりにされるようになっていた。
秘密のベールに包まれていたⅩシリーズがついにその姿を披露するというのだ。
しかし結衣には興味が無い。結衣は他のメンバーズのように野心もなければ上になろうという意気込みも無い。
結衣は戦うことが嫌いだった。人を傷つけるのも傷つけられるのも彼女には耐えられない。
宇佐美の期待とは裏腹に結衣は民間人の子供以上に大人しく内向的な子に育っていた。
「結衣、おまえは特別なんだ。おまえの中に流れる血は他の連中とは違う」
宇佐美は何度も呪文のように、その言葉を結衣に聞かせた。
「将来、Ⅹシリーズ最強の男をおまえの婿にしてやろう」
聞きたくも無い話を宇佐美は恍惚の表情で盛大にする。
「最初のⅩシリーズにも最高の花嫁が宛がわれるはずだった。すばらしい傑作だ。
彼女は美しかった。そして素晴らしい能力の持ち主だった。おまえは彼女になれる。
いや、おまえにしか彼女にはなれない。その為に、おまえは生まれてきたんだ」
宇佐美の繰言に結衣はうんざりしていた。
宇佐美の異常な感情は執着なのだとは幼い結衣にはまだわからない。
「美しいだろう、美とはこういうものだ。科学省は戦闘能力のみならず美まで生み出すことに成功したのだ」
宇佐美は1枚の肖像画を前に語った。
絵の中の美女は確かに宇佐美の言葉を体現していた。清らかで透明感のある美しさ。
だが、人間臭さがない。まるでファンタジーの世界の女神や妖精のような浮世離れした異質な美しさだ。
何より表情が無い。人間というよりも、まるで完璧に作られた人形のようだった。
「後、十年もすれば、おまえも彼女のように美しくなる」
宇佐美の戯言を結衣は不思議そうに聞いていた。
(こんな綺麗な人みたいに?そんなわけないのに)
「すげえ、最強のメンバーズがまるで相手にならねえぞ!」
堀川秀明、高尾晃司、それがメンバーズに公開されたⅩシリーズの名前だった。
メンバーズの最強クラスの少年達が束になってかかっても敵わないほど強かった。
だが結衣は彼らの無機質な強さに怯えた。他の少年達のように憧憬の念など抱けない。
(彼らはきっと長官のお気に入りなんだ。私と違って長官の期待に応え続けている)
宇佐美の繰言は年月を重ねる度に量も質も粘着質になってゆき結衣を苦しめていた。
理由は明白だ。結衣が宇佐美の期待に応えてない苛立ちがそうさせている。
(私はあんな風に攻撃なんかできない。怖い……普通に暮らしたい)
『おまえは特別なんだ。おまえの中には特別な血が流れている』
言葉だけでは人は殺せないという。それは嘘だと結衣は思った。
宇佐美の言葉が重くのしかかる。宇佐美の執着心が怖かった。
(私は長官の望み通りの兵士にはなれない。なのにどうして……どうして私なんかに、あれほど)
結衣の心はドス黒い闇に飲み込まれる寸前だった。
ある日、結衣は指令を受けた。
「珍しいじゃない。お気に入りが任務なんて」
きつい口調だった。結衣は同年代のメンバーズ達に比べ危険な任務に従事したことは一度もない。
それも彼らの反感を買っている理由の一因だ。
宇佐美は結衣を失う事を極端に恐れていた。その日の任務も安全なもののはずだった。
確かに任務自体は無事に済んだが帰りの道中で事故が発生し結衣達は意識を失い科学省病院に搬送された。
結衣が目覚めると宇佐美がベッドの脇にいた。
「おまえが無事でよかった。おまえは他の子供とは違うんだ、おまえは特別だ」
「……そばにいてくれたの?」
「ああ、そうだ。おまえが事故にあったと知って私がどれだけ心配したか……。
おまえの中には流れる血は私にとってかけがえのないものなんだ」
結衣は震えながら宇佐美に長年抱いてきた疑問を口にした。
「どうしてなの?もしかして私の……私のお父さんは……あなたなの?」
宇佐美は「いいや違うよ」と首を左右にゆっくりとふった。
「おまえは私の死んだ妻の遺伝子から生まれたんだ」
結衣は愕然とした。そんな結衣の気持ちを弄ぶように宇佐美は彼女の手を自らの頬に当てる。
「折笠美空、科学省が生み出した最上の女性。作り出したのは私の父だ」
まるで傑作を生み出した芸術家のように宇佐美は熱く語りだした。
「最上の女には最高の男との配合がいい。だから彼女は早い時期から高尾晃司の相手に選ばれた。
高尾があんな裏切りをしなければ最強のⅩシリーズが誕生しただろう。
高尾が死に他のⅩシリーズも全滅し私は悲嘆にくれた。美空を誰かに嫁がせなければならない。
そんなことができるか?私は美空を愛していた、最高の美しさを持つ父の作品を。
Ⅹシリーズ以外の男などには汚させない。だから私の妻にしたんだ、生涯清らかなまま生かしておくために。
だが私にも人並みの欲望はある。美空の遺伝子を残したくなった。
Ⅹシリーズがいない当時の科学省に美空に相応しい相手などいない。
だから私は外部から最高の遺伝子を手に入れた。わかるか?おまえの血は特別なのだ」
宇佐美は高揚する感情を抑えきれずに両拳を握り締めながら熱弁した。
「おまえの体の中には高貴な血が流れている。他のメンバーズとは次元が違うのだ!」
結衣は顔色を失っていた。しかし宇佐美は、まるで気づいておらず尚も話は続いた。
「わかるか?おまえは最高の遺伝子を持って生まれたのだ、誕生させたのは私だ。
この世でもっとも高貴なお方と最も美しい私の妻との遺伝子の集大成なんだよ!
皮肉なことに美空は受胎が確認された直後に病に倒れ半年後に死んだ。
病魔のせいでお腹の子は育たなかった。予備で保存してあったもう一つの受精卵、それがおまえだ。
長い年月を経ておまえが誕生した時の私の喜びがどんなものだったか想像できるか?
おまえは美空の胎内に宿った子の、いや美空自身の生まれ変わりなんだ。私の宝物なんだ」
――狂ってる
宇佐美の特殊な思考に平凡な少女である結衣はついていけなかった。
『おまえなら出来る!おまえは特別なんだ、おまえは出来るんだ!』
宇佐美は多忙な時間を裂いて、何度も結衣の教育現場に足を運んだ。
そして期待した成果を出せず途惑っている結衣に何度も何度も繰り返し同じ言葉を吹き込んだ。
『おまえはやれば出来る子なんだ。おまえはできる、おまえは特別だ、おまえにやれないはずは無いんだ』
宇佐美は結衣自身を一度も見なかった。常に自分の理想で築き上げた虚像だけを押付け続けた。
『私はおまえが可愛くて仕方ないんだ。そろそろ私の希望にそった成長を見せておくれ。
おまえはその為に生まれてきたんだ。だから、おまえに出来ないはずはないんだからな』
幼い結衣に課せられた宇佐美の期待は重いプレッシャーとなって常に結衣を押さえつけた。
月日がたつごとに過剰になっていく宇佐美からの重圧。
それに反比例するかのように結衣は内向的な少女へと成長してゆく。
精神不安定な日々が続いた。それでも宇佐美は結衣に何度も囁いた。
『おまえは出来るはずなんだ!』
結衣はある日食事中に吐いた。医師の診断は拒食症だ。
宇佐美は「そんなはずはない!」と診断を下した精神分析医に食ってかかった。
「情緒不安定になっています。もともと大人しくて内気な子でしたから……」
「何だそれは?結衣が精神病だというのか、そんなはずはない。あの子は特別なんだ!」
自分の信じているものを真っ向から否定され宇佐美は真っ赤になって激怒した。
「しかし現にあの子の精神は……」
医師は反論しようとしたが宇佐美は許さなかった。
「ただの怠惰だ!私はあの子に甘すぎた、もっともっと厳しく育てるべきだった!」
医師の反対など長官の命令の前では何の効力もない。結衣には今まで以上に厳格な特殊教育を課せられた。
それは彼女の精神を蝕んでいる心の病を即座に悪化させた。
結衣は拒食症に続き不眠症まで発症、しばらくすると今度は夢遊病の症状まで出始めた。
もはや誰の目から見ても結衣が精神的に限界なのはあきらかだった。
結衣が倒れ完全にドクターストップがかかった途端、ようやく宇佐美は夢から覚めた。
病院に駆けつけた宇佐美が見たものは痩せて顔色も悪い哀れな少女の姿。
宇佐美の理想とした完璧な少女の断片すらなかった。そこにいたのはただの負け犬だった。
「……なぜだ?」
宇佐美が抱いたのは結衣に対する憐憫の情ではなく、期待を裏切られた失望感だけだった。
「私の教育は完璧だった。ミスは何一つなかったはずだ!」
自分に非は無い。あるとすればシナリオ通りにならなかった結衣自身だと宇佐美は決め付けた。
結衣に注ぎ込んできた愛情は一瞬で怒りに変わった。
宇佐美は結衣から目をそらすと、くるりと背を向け立ち去った。そして二度と見舞いに訪れる事はなかった。
半年もの療養生活の後、結衣はようやく以前の彼女に戻った。
特別な少女などではない。ごくごく普通の愛らしい少女に。
退院と同時にあるメンバーズのグループに入るように指令が出た。
結衣はようやく宇佐美から解放されたことを知った。
他の兵士達と同じ待遇になったのだ。だが、ここでも結衣は嫌われた。
「知ってるか?俺はミスをするたびに殴られた。でも、おまえは一度も殴られた事は無い」
宇佐美という防壁を失った結衣に対する風当たりは凄まじいものだった。
ただ結衣は贔屓はされていたが、その立場に勘違いをして他の少年達に傲慢な振る舞いをしたことは一度もない。
その為、結衣個人に対する印象自体は悪くなかった。
時間はかかったが、結衣が控えめで大人しい普通の女の子と理解してもらえるようになった。
仲間として受け入れられ結衣は初めて平穏な日々を体験できた。しかし、その時間も長くは続かなかった。
結衣の仲間達は上のやり方に反抗して科学省からの逃亡を企てたのだ。
その事件が結衣の運命をも変えた。
「なぜ命令に従わなかった?」
事件後、逃亡犯殺害を拒否した結衣に対して尋問が行われた。
「……あの時言ったとおりです。私は人殺しになりたくない」
「……おまえは!」
宇佐美は苦々しい口調でデスクを殴った。
「おまえは、どれだけ私を失望させれば気がすむんだ……おまえに人生をつぎ込んだ私をあざ笑うのか?」
沈黙が二人の間に流れた。実際は数分間だったろうが、結衣には数時間に思えた。
「もういい。今、やっとわかった……おまえは美空とは違う、美空の出来損ないめ!
おまえは科学省から追放する!メンバーズとしての地位も特権も剥奪して一民間人として暮らすがいい!」
結衣は呟くような声でそれ受け入れた。
処分が決まり立ち去る彼女の背中に宇佐美は怒鳴りつけた。
「だが忘れるな!今におまえは、この世界でしか生きていけない人間だったと思い知り後悔するだろう!
おまえは私の庇護の元でしか生きていけない人間なのだ。せいぜい思い知るがいい!!」
宇佐美の執着は未練と化して非情な形で結衣の心に突き刺さった。
――でも、それもこれきりだわ。もう長官に会うことは無い。
結衣は知らなかった。
これは悲劇の前の、ほんの一時の静けさに過ぎない――宇佐美は決して自分を手放すことは無いということを。
END
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