――初めて、あの女を見た時、俺は10歳のガキだった。

肖像画の中にしか存在しない女だったが、今まで俺が見てきたどの女よりも美しかった。
琥珀色の肌、艶やかな唇、憂いを秘めた瞳に長い睫毛、柔らかい栗色の髪は波をイメージさせた。
優しげな微笑、絵画なのに花の香が漂ってくる錯覚にすらおちいった。
包容力溢れる妖艶な美しさはローマ神話のヴィーナスの化身そのものだっただろう。

「美しい女性だろう。私は50年生きてきたが彼女ほど美しい女性を見たことがない」

いかつい容姿で、常に無表情のあの男がじっと肖像画を見つめ、そう言った。
この男がこんな情熱的な視線を向けることに子供心に驚いてもいた。

「この世の全ての美を象徴するような女性だった」

その言葉に特に異論は無い。だが俺は同時に思った。

――俺は、この女が嫌いだ。




鎮魂歌―箕輪尚之―




「……夢か」

箕輪はゆっくりと体を起こした。時計の針は五時を差している。
尚之は総統の息子の護衛官だ。早朝に起床し護衛の準備をしなくてはならない。
その総統の息子は宗徳といって、数多い総統の子供達の中でも、もっとも下劣で低脳な人間だった。
頭脳、品性、人間性、出自、外見、およそどこから見ても欠点だらけ。
この世に完璧な人間はいないが、完璧に最低な人間はいると証明しているくらいのクズ。
そんな宗徳に仕えなくてはいけないことは尚之にとっては耐え難い屈辱だった。
幼い頃から、あらゆる面において尋常ならない才能を発揮していた人間だけに余計に悔しいことこの上ない。
容姿と才能に恵まれた分、運だけは恵まれなかったのだろう。




「箕輪さん、おはようございます!」
着替えて職場に姿を現すと部下の胡桃沢が挨拶してきた。
それに続くように次々に少年達が尚之に頭を下げてくる。
宗徳に仕えている人間で、あのクズを尊敬している人間は1人もいない。
(強いて言えば、媚を売るしか能がない尚之の両親だけだろう)
宗徳に代わって、彼らの敬愛を一身に受けているのは尚之だった。
尚之は決してお優しい性格ではない。どちらけといえば非情な方だ。
だが、妙な事に彼らを引き付けるだけのカリスマ性を持っていたのだろう。
よく言われたものだ。


「箕輪尚之には生まれながらの気品がある。とても箕輪家の息子とは思えない」――と。


「箕輪さん!」
1人の少年が慌てて駆け寄ってきた。手にはメモのようなものが握られている。
「た、大変です!たった今、電報が入って四位さんが危篤だと!」
「何だと?」
四位とは宗徳の後見人。宮内省の幹部の1人だった。
総統と宗徳の母親の仲立ちをしていた縁で、宗徳の後見人に抜擢され栄職についた男。
そして、もっとも最悪な形で尚之を裏切った男でもあった。
去年から病気で寝たきりになり職を辞して田舎で療養生活をしていた。


「……わかった。箕輪夫妻にすぐに伝えろ、殿下には起床次第伝えておけ」
「あの、今すぐお伝えしなくていいんですか?殿下にとって恩人ですよ」
四位は私生児の宗徳を総統に認知させた男。
今、宗徳が庶子とはいえ正式に皇家の人間として尊大な態度をとっていられるのも四位のおかげだった。
「恩なんて……」
あのクズが感じているものか。報恩精神の欠片もない人間だからな。
「今起こして体罰を受けたいなら好きにしろ」
その一言で、もう誰もそれ以上の意見は言わなかった。


「あ、あの……箕輪さんは、お見舞いは?」
「俺には何の関係もない人間だ」


尚之は宗徳にべったりな両親によって孤児院のような施設に8年間放り込まれていた。
四位が苦労の末に宗徳が正式に総統の息子と認められた後、やっと引き取ってくれたのは親ではなく四位だった。
理由はわからない。ただ箕輪家の息子として宗徳に仕えろと宣告された。
その為に必要な知識や戦闘術を習得するための教育を与えてくれたのは四位だった。
関係ないと突き放すわけにはいかない相手だったのだ。
だが、誰もそれ以上尚之に何も言わなかった。
四位が尚之にした仕打ちを、そして尚之の無念と怒りの大きさを誰もが知っていたからだ。




宗徳は恩人危篤の報を受けてもうざいとばかりに突き放した。
「俺は総統陛下の息子だ!あんな男の助けなんかなくてもいつか父上は俺を認めて下さってたんだ!
なのに、あいつが骨を折ってくれたおかげとか誰もかも言いやがって、恩着せがましいんだよ!!」
それは大きな間違いだった。
娼婦の息子を認知することに総統は周囲から猛反対されていた。
そして総統自身、自分にも、かつての愛妾にも全く似てない醜い息子に愛情を持ってなかった。
四位が命懸けで認知を懇願したからこその結果だったのだ。




『正直、宗徳の写真を見たときぞっとした。こんな醜い人間が私の息子なんて。
私にも、あれの母にも似てない。私の愛しい美の女神から、こんな化け物が生まれたなんて……。
私の思い出を穢すだけの存在だ。顔も見たくない』
それは仮にも父親の息子に対するには、あまりにも非情な言葉だった。
『陛下、確かに宗徳様は偉大なる陛下の遺伝子を受け継いでいることが疑わしいほどの人間です。
しかし、どれだけ否定なさろうと陛下の血の分けた息子である事実は変わらないのです。
どうか宗徳様に総統の息子としての地位と待遇を!
陛下が愛した女性の息子です。あの方への供養と思って……どうか、どうか陛下!』
『……あれの供養のために、か』
その言葉が頑なだった総統の心を動かした。
周囲の反対に屈し、子まで生ませた愛人を捨てたことへの罪の意識もあった。
『……わかった』
その一言で、それまで日陰の身だった宗徳は一夜にして殿下と呼ばれる身分になったのだ。
そして四位は宗徳の後見人として権力と財力を手に入れた。
引換えに宮内省の同僚達からは白い目で見られた。
『総統に高級娼婦を紹介するという恥知らずなことをしでかし、今度は自身の出世の為に忠義面か』――と。




四位は宗徳の母を総統に献上した男だったが、それは同時に悲劇の始まりでもあった。
もともと四位は自分で彼女を選んだわけではない。
自身の栄達のために総統に女を差し出す人間はいくらでもいる。
しかし、そんな型どおりの女たちに総統は飽きていた。
そこで四位は閃いた。着飾った名門の女性ではなく、手練手管に長けた玄人を推薦しようと。
その手の高級クラブから1人の女を紹介され、そのまま彼女を総統に勧めた。
総統はたちまち女に夢中になった。総統がこともあろうに娼婦相手にだ。
四位の計算通りだったが、一つだけ計算外のことが起きた。
四位自身彼女の美しさにまいってしまったのだ。
しかし、その頃、彼女はすでに総統の愛妾で、しかも妊娠していた。
とてもじゃないが、四位が手が出せる存在ではなかったのだ。
やがて男の子が生まれ、総統は諸手を挙げて喜んだ。


『おめでとうございます総統陛下、玉のような男の子ですよ』
『そうか、そうか。どうだ私に似ているか、それとも母親似か?』
『陛下の凛々しさと母上様の美しさを兼ねそろえてらっしゃいます。
大変、健やかで賢そうなお目をなさってます。末が楽しみですな』
『そうか。名前も立派なものを考えてやらなければな』


大喜びの総統と違い、周囲の視線は厳しいものだった。
娼婦の産んだ子供など誰が父親かわかったものじゃないと公言する者までいた。
そこで総統はDNA検査までして息子の血を証明してみせた。
結果は間違いなく総統の息子とのことだった。
総統は意気揚々として誕生した我が子とその母親を正式に後宮に迎えると宣言した。
ちなみに、総統の御曹司誕生のたった2日後に、四位の部下だった箕輪夫妻にも男の子が誕生していた。
総統は娼婦を公妾にすることに反対する側近の言葉にも耳を貸さなかった。


ところが、よりにもよって妻や他の公妾たちの猛反対にあった。
総統は後宮のことは極力口を出さず、妻達に一定の配慮をしている。
総統の母が先代の総統の公妾(つまり父の愛人)にないがしろにされ辛い思いをしたからだ。
寵愛と奥向きの秩序は別問題。それが総統の信条だったのだ。
後宮を実際に支配している彼女達の反発に、総統の決意は揺らいでしまった。
そんな優柔不断が仇となり、結局女との仲は破局。
さらに、我が子の写真を見た途端に、総統は憑き物が落ちたように息子に対する興味まで失ってしまったのだ。














「お、おい特撰兵士だ」
「いつ見ても迫力あるな。見ろよ、あの勲章の数、やっぱ俺達とは次元が違うよな」
少年兵士達の声に尚之は思わず振り返った。
士官用の軍服をまとい威風堂々と歩く特撰兵士達に少年達は羨望の眼差しを向けた。
(……面白くない)
尚之はすぐにその場から立ち去った。特撰兵士とは顔を会わせたくなかった。


――特撰兵士、親もコネもない孤児でも将官への道が約束されている輝かしい超エリート


尚之は第四期の特撰兵士に立候補したことがある。
特撰兵士の試験を受ける資格に出自も今の地位も関係ない。
必要なのは有能である事、そして自薦他薦を問わず保証人がいること。
特撰兵士は生半可な覚悟では到底なれない。
過酷な試験をいくつもパスして、ようやくつかめる栄光の座。


しかし栄光には常に影がつきもの。
特撰兵士への道のりは過酷極まりない。試験の途中で死ぬ者も1人や2人ではないのだ。
めだたく特撰兵士に確定した後も、厳しい任務が待っている。
その為に(書類の上でとはいえ)本人に特撰兵士になる資格があると保証するべき人間の存在が必要だったのだ。
大した能力もなく、ただただ権力だけを欲して図々しくも特撰兵士の試験を受けようという輩が大勢いる。
国家が誇る特撰兵士選考会が、そんな愚か者どもに付き合っている暇は無い。
ゆえに最初の書類選考で無能な者は落としてやろうというわけなのだ。


保証人は親か上官が大抵なる。尚之にはそのどちらも当てにできなかった。
両親は、「特撰兵士だって?冗談じゃないよ、おまえは宗徳殿下の下僕なんだ」の一点張り。
親ですらそうなのだから四位が保証人になってくれるはずもなかった。
ダメもとで尚之は四位に頭を下げた。
特撰兵士がどれだけ過酷なものかは軍人でない四位も知っている。
最初は尚之の決意に唖然となり、次に反対してきた。
だが茨の道を選んででもチャンスを掴もうという尚之の意志の強さ、
何よりも、「どうしてもダメなら直接選考委員会に直訴する」という言葉で四位は折れた。
自分の能力を自分の為に遺憾なく発揮できる、何よりもあの醜い化け物とこれでおさらばできる。
尚之が、ようやく自由と栄光への階段を一歩のぼっ瞬間だった――。




(……あれから四年か)
尚之は忌々しそうに前髪をかきあげ空を仰いだ。
(特撰兵士の軍服は俺には眩しすぎる)
特撰兵士四期生は九名。その中に尚之の名前はない。
『でへへへ、おまえなんかが特撰兵士になれるとでも思っていたのかよ。
おまえは一生俺様のお情けに縋って生きるしかないんだ』
宗徳があの時吐き捨てた言葉が今も脳裏を離れない。
特撰兵士になれなかった以上、後三年尚之は我慢するしかなかった。
二十歳になれば親や後見人の保証などなくても、学費のいらない士官学校に入学できる。
そうなれば、もう宮内省に辞表を叩きつけて、宗徳とも両親とも完全に縁を切る事ができる。
つまらない半生に、やっと終止符をうてるのだ。


(後三年……後三年の我慢だ。今、感情的になって全てを捨てたら負け犬人生しかない)


宗徳や両親から受ける屈辱に耐えているのも、いずれ訪れるであろう輝かしい人生の為の布石。
自分を蔑んできた者に対する尚之の最大の復讐は自力で連中より上の立場に立つことだった。














「四位が俺に会いたがっている?」
「はい、箕輪さんは多忙だからお会いになれないと伝えたのですが……」
多忙だから面会はできないというは半分事実で半分嘘だった。
尚之は四位に会いたくなかったのだ。
その理由は四位自身が1番よくわかっている。
四位は箕輪夫妻以上に宗徳の側近中の側近。
じっと感情を殺して嫌々宗徳に仕えていた尚之を1番苦々しく思っていたのは四位だと尚之は考えていた。
宗徳も箕輪夫妻もあからさまに尚之に敵意や嫉妬といった感情を向ける。
だが四位は陰に尚之の邪魔をしているくせに、尚之の目ですらまともに見ようとしない。
いつも尚之の顔を見るだけで露骨に顔を背けるのだ。
そんな男が今さら何の用があるというのだ。


「何度も言ったとおり、俺には見舞いに言っている暇なんかない」
「それがどうしても死ぬ前に箕輪さんに直接お話しなくてはいけないことがあると」
「話?」
まさか、『生涯、殿下にお仕えしてくれ』などと、お涙頂戴の遺言でも残そうというのか?
「俺には話すことなんて何もない」
「はあ、そうですか。箕輪さんがどうしても来られないというのなら、あちらがこちらに来るという事です」
「何だって?」
危篤状態で枕もあがらない病人が?
尚之は忌々しそうに舌打ちした。どうやら四位との対面は避けられそうもない。
仕方なく尚之は明日来訪すると約束した。














「……ふん、主人と同じで胡散臭そうな邸宅だ」
四位の屋敷は広くて立派だったが、どこか陰湿で古めかしい感じがした。
主人の寿命が付きかけていることに屋敷まで反応しているのだろうか?
手入れされていない庭は雑草が生い茂り、まるでお化け屋敷のようでもあった。
尚之の顔を見ると四位の執事は、「……あ、あなた様が……一目でわかりました」と突然泣き出す始末。
(主人が主人なら、執事のほうもウザイことこの上ないな)
さっさと用件をすませようと、尚之は四位の寝室のドアをやや乱暴にノックした。
「……入れ」
部屋の中から、かすれたような声が聞えた。


「……この女は」
扉を開くなり尚之は一枚の肖像画に釘付けになった。
知らない人間が見たら、美の女神ヴィーナスをモチーフにした絵画だと思うだろう。
「……覚えていたか。おまえは、この絵を一度しか見てない……が」
幼い頃に一度だけ見た。あの日の会話が脳裏に蘇る。




『この世の全ての美を象徴するような女性だった』
『……でも俺は好きじゃない』
『なぜだ?』
『なぜかわからない。でも俺はきっとこの女は好きじゃない。誰、このひと?』
『……宗徳殿下のお母上だ』




「……まだ持っていたのか」
総統が彼女と涙の別れをした直後、この肖像画も手離した。
それを四位は貰い受けて、こうして人目に触れさせず、ただただ己の感情を封印してきたのだ。
仕事一筋で浮ついた話一つない四位にとって、生涯ただ一度の激しい恋だったのだろう。
そして、相手に伝えることすら出来なかった苦い思い出。
彼女は総統の次は海軍の将官の愛人に納まり、そこでも息子を産んでいる。
その後も何人かの男と付き合ったらしい。
多少の程度の差はあるが、どの男も社会的にいえば、とてつもない地位と権力を持った者ばかり。
とてもじゃないが四位が買えるような相手ではなかったのだ。


(ならばきっぱり忘れて自分に釣りあう女でも捜せばいいのに未練がましく肖像画を所有とはな。
本当に知れば知るほど小さい男だ。さっさと用件をすませて帰ろう)


「で、俺に話と言うのは?」
「……おまえは今年17歳だったな」
「正確にいえば明日で満17歳だ。何の因果か殿下と2日しか違わないせいで誕生祝いもしてもらった覚えもない」
尚之の誕生日の二日前には毎年盛大なパーティーが開かれた。
そのパーティーは血税を思いっきりつぎ込まれ三日三晩酒乱が続く。
尚之の誕生日はその間に誰にも思い出されることなく過ぎていくのが恒例だった。
幼い頃は多少ひがみもしたが、毎年続けば嫌でもなれる。
今は、そんなこと何とも思ってない。ちょっと嫌味をいってやっただけだった。
ところが四位はぶるぶると手を震わせだした。


「おいどうした。気分でも悪くなったのか?」
「……殿下は……殿下は今でもおまえのことを……」
「相変わらずだ。安心しろ、殿下のわがままにももう慣れた。後三年は我慢してやる」
四位は今度は全身で震え出した。その上、顔色が徐々に蒼くなっていく。
「大丈夫なのか?」
「……殿下は……あいつは、おまえに、まだ、そんなことを……?」
「『あいつ』?殿下に1番忠実だった、おまえの口からそんな言葉がでるなんてな」




「違う、違うんだ!!全てが間違っていた、いや私の罪だ……悪いのは……!!」




「……四位?」
突然、興奮し出した四位に尚之は呆気に取られた。
いつも感情があるのかないのかわからず、むすっとした無骨で無口な男、そんな顔した見たことがなかったのだ。
その男が命の終わりという特殊な状況とはいえ、これほど感情的になるとは。
「あ、あいつは……あいつは違う!……あいつは……うっ!」
四位は自らの左胸を鷲掴みにして苦しみ出した。
急激な呼吸困難。そして目は血走り、皮膚がドス黒く変色してゆく。
医者ではない尚之から見ても、やばい状態だということは一目瞭然だった。


「待ってろ、すぐに医者を――」
「ま、待て……」
尚之が部屋を出てゆこうとすると四位は必死になって残された力を振り絞り、尚之の服の裾を掴んだ。
「何をするんだ。死にたいのか?」
「は、話がまだ……わ、私は……私は、祖父の代から……宮内省の人間として……」
四位の言葉は途切れ途切れだった。
「へ、陛下に……皇家にお仕えしてきた……。へ、陛下に……陛下に……」
「陛下?」
妙な話だった。宮内省の人間とはいえ、四位は単なる中堅、軍で言えば中佐くらいの地位。
総統とは直接係わる事などない。唯一、宗徳の母に関することを除いて。




「お、恐れ多くも陛下……陛下に不忠を重ねたまま……死にたく無い!
私は地獄に落ちる……!こんな秘密をかかえたまま死んだら……私は……私は……!」
「秘密?何のことだ?」
「……わ、私は……ぅ!」




『ねえ、あの男、あなたに気があるんじゃない?』
四位の脳裏に17年前の出来事が蘇った。
『もう陛下に操を立てる義理もなくなったんだから、一言くらい優しい言葉でもかけてさしあげたら?』
高級レストランでの高級娼婦たちの他愛ない会話。
叶わぬ想いだが、せめて彼女の姿だけでも陰から見守りたい。
そんな思いで四位は後をつけ、近くの席からそっと会話に耳を傾けていた。
『冗談じゃなくてよ』
四位が期待に胸躍らせ待った彼女の言葉はとてつもなく冷たいものだった。
『あの程度の男が私のお相手になれると思う?全財産払っても無理だわ。
いえ、仮にお金が払えたとしてもお断りよ。あんな暗そうな男、見てるだけで嫌になるんですもの』
四位は全身を震わせテーブルクロスを握り締めた。
深すぎる情愛は時として強い憎悪に変わる。その瞬間を四位は体験したのだった。




「待ってろ、医者を……」
「もう私は死ぬ……その前に、そ、その前……に……!」
「おい離せよ」
「違う、違うんだ……!お、おまえは……い、いえ……あなたは!」




「……違うんです!あ、あなたは……あなたは、箕輪の……!!」




「俺が何だ?」
「……ぐっ!」
「四位?」
四位はそのまま泡をふき、動かなくなった。もちろん、それ以上、言葉が紡がれることもなかった。
永久に――。














宗徳の後見人として、葬儀はそれなりに盛大に執り行われた。
四位は独身で子供もいない。兄弟やこれといった親戚も。
かつての部下だった尚之の父が葬儀を取り仕切った。


「まあ殿下が立派に成長されたんだ。四位さんも、あの世で喜んでいるだろう」
「ほんとよねえ。四位さんの分もあたしたちがしっかり殿下を盛りたてないと。
ところで、あんた。四位さんの遺産、相続人もいないんだったら、あたしたちで管理してあげたらどう?」
「そりゃあそうだ。俺達は身内みたいなもんだからなあ」
箕輪夫妻は葬儀の席だということも忘れて下卑た話に華を咲かせていた。


「話がある」


しかし、突然の息子の登場に2人とも苦虫を潰したような顔になった。
「何だ、尚之」
「四位は死ぬ間際、話があるといって俺を呼び出した」
途端に2人の顔色が変わった。
「な、何だって!?なんていったんだ、あいつは!!」
「話す前に死んだんだ」
2人は露骨にほっとした。
「どうやら見当がついているらしいな。だったら話せ」
「……知るわけないだろう。おまえに話すことなんかなにもない!」
「そうとも、おまえは殿下に誠心誠意お仕えあるのみなんだよ!!
わかったら、明日からまたしっかり働きな!」
両親からはこれ以上は何を聞いても無駄だろう。尚之はその場から立ち去った。


「……四位のやつ、土壇場で裏切ろうとしたんだな」
「冗談じゃないよ。自分だって美味しい汁すっておきながら……本当に死んでくれてよかったよ」




――違うんです!


(……何が違うんだ?)


――あ、あなたは……あなたは!


(……俺が何だと言いたかったんだ?)




四位は自分に何を言いたかったのだろう?
ふと見ると、あの肖像画を大切そうに運んでいる執事の姿が見えた。
「御主人様が大切になさっていたものです。墓に入れてさしあげようと……」
「……そうだな。勝手にしろ、俺には関係ない」
肖像画の中の女は相変わらず美しかった。


(俺はきっとこの女が嫌いだ)


今でもなぜかそう思う。でも、もう二度と見ることは無い。
そして思い出すこともないだろう。




~END~




TOP