「戸川少佐、君はしばらく中央からはずさせてもらう」
戸川の口元が微かだが明らかに不快そうに歪んだ。
「残念だ。海軍が誇る君を小国の軍事作戦なんかに参加させるなんて。
しかし君はこんなところで終わる男では無いと信じている。
立派に任務をはたして凱旋することを祈っているよ」
「ありがとうございます提督閣下」
戸川はそつなく答えたが内心は腸が煮えくり返っていた。
しかし戸川以上に怒りが沸騰していたのは戸川の部下達だった。


「九条閣下も君の今後には期待している。その期待に答えるように……」
「期待!?少佐を庇ってもくれなかった方がですか!?」
反町が我慢の限界とばかりに提督にくってかかった。
士官ですらない兵士が提督に生意気な口をきくなんて許されることではないのに。
「反町、黙ってろ。提督閣下に無礼だぞ!!」
軍規に厳格な戸川はすぐに制止をかけたが、戸川に心酔している反町の怒りは止まらない。
「少佐が今までどれだけ九条閣下のために血を流してきたか俺達は知っています。
その少佐を閣下は切り捨てた。よりにもよって若輩者の佐伯徹ごときのために――」


「反町!!」


戸川は怒りに震えていた。佐伯の名前を出されたからだ。
「……それ以上は言うな。俺に殺されたいのか?」
「……すみません」
「二度と同じ過ちはおかすな」
戸川は冷静そのものの口調に戻っていた。
感情をおさえることができる冷酷さ、それが戸川の恐ろしさでもあった。


「随行する部下の選択は君に任せる。なんなら全員でもいいという閣下のお言葉だ」
「いえ、お気遣い無用だと閣下にお伝え下さい」
提督が退室すると、部屋には戸川と4人の部下だけが残された。
「反町、泪、おまえ達は国に残れ。史矢、おまえもだ」


「白州、おまえは連れて行く。12時間で準備を完了しておけ」
「了解」


戸川は屈辱の派遣地域にすら白州だけは連れて行った。
他の部下とは明らかに扱いが違う。
白州の忠誠心を信用しているのか、それとも能力を頼りにしていたのか。
それは戸川本人でしかわかりようがない。
だが2人の出会いを知れば、信頼関係など生まれる間柄ではないと誰もが思うだろう。


白州はかつて国家要人を専門に暗躍したプロの殺し屋だった。
その殺害対象リストの中には九条時貞――艦隊司令官閣下――もいた。





鎮魂歌―白州将―




――12年前――


「将、銃を構えろ。そうだ、それでいい。今だ、引き金を引け」
ぱんという乾いた音、同時に雑踏の中で吹き上がる鮮血、周囲の人々の悲鳴がやけに騒がしい。
「そうだ。今の感覚を忘れるな。すぐに銃を解体しろ、引き上げるぞ」
将、当時6歳。彼の手を引いている男は貞本兼英(さだもと・かねひで)。
大金と引換えに殺しを請け負う闇の世界の住人だった。









「どういうことよ、あの子に銃を持たせないでって言ったじゃない!」
「あいつは筋がいい。いい殺し屋になる」
「冗談じゃないわ。もう我慢できない、あたしはあの子と一緒に出て行くわ」
「おい志保美、俺に逆らうのか。出て行くなんて俺は許さないぞ」
「約束を破ったのはあんたの方よ、これ以上の言いなりはごめんだわ。
将、将どこにいるのよ。今すぐ、ここを出るのよ。将――」
乾いた音。飛び散る肉片……そして硝煙の嫌な臭いが部屋に充満した。
「……おまえが悪いんだ。おまえが俺に逆らうからだ」


その日を境に将は母の姿を見なくなった。貞本は将に暗殺の英才教育を施した。
将が成長するに従い貞本は自分の手を汚す必要がなくなった。
貞本ジュニアが全て殺しの代行をしてくれたからだ。
貞本にとって将は実に優秀なトリガーだった。
何も考えず、何の疑問も抱かず、ただ命令に従ってくれる殺人機械。
将が15歳になる頃には、その腕は一流と言われた父を凌駕するほどだった。
そして、将が16歳になったある日、とんでもない依頼が舞い込んだ。
リスクが大きい仕事だった。その代わりに報酬も天文学的数字。
報酬の額は魅力的だったが、どんなに一流の殺し屋も、その依頼を受けようとはしなかった。
なぜなら殺害対象があまりにも大物過ぎたからだ。




海軍司令官・九条時貞――それが暗殺のターゲットだった。




誰もが逃げた。誰もが怯え断った。
ただ1人、依頼を受けたのは貞本だけだった。














「私の命を狙っているだと……ふざけるな!!」
九条はデスクを殴りつけた。
「すでに殺し屋は基地施設内に侵入しているとの情報があります」
「よく冷静でいられるな小次郎、この私を、海軍司令官たる私を殺すというのだぞ!」


「させません。俺があなたを守ります」


「……自信はあるのか?失敗は許されないぞ」
「その為の特撰兵士です。もう一度言います、あなたは死にません。俺が守ります」
九条は疲れ切った表情で戸川の両肩に手を置いた。
「……頼むぞ小次郎。おまえだけが頼りだ」
「当然です。閣下はどうぞ安心して平素の通りに振舞って下さい」














――監視ルーム――


部屋中血まみれだった。
「相変わらず仕事が早いな将。そうだ、それでいい」
貞本は将の背後からぽんぽんと肩に手を置いた。監視カメラを見ていた兵士は10人あまりいた。
その全員が息をしてない。反撃する暇さえ与えられずに、あの世への片道切符を強引に渡されたのだ。
貞本は長年の裏家業が災いして片足を失っていた。
だが義足にもかかわらず、裏世界での貞本の評価はうなぎのぼり。
今や仕事の全てを息子にやらせていたからだ。
今回の仕事も、この息子にやらせればきっと成功するだろう。
ただ一つ気になるのは、九条時貞は今までのターゲットとは比較にならない大物だということだ。
その為、警護のレベルも半端ではない。
特撰兵士の戸川小次郎が常にそばにいるという情報も入っている。
「いやいや、おまえならやってくれると信じているよ」
貞本は自慢の息子の耳元に口を近付け囁いた。
「おまえは誰よりも多くの修羅場を経験してきた。
おまえにかかれば特撰兵士といえど赤子も同然。そうだろう将?」
貞本は将に無線機を取り付けた。
「いいか将、俺はここで指示を出す。おまえはいつもの通り、俺の指示に従え。いいな?」
「ああ、わかった」









「……小次郎、警護態勢は万全なんだろう?ヒットマンなど、この司令室には近づけないな?」
九条は怯えていた。だが同時に海軍司令官の自分を殺せるはずがないとも思っている。
基地内の厳重警備の中、自分に近付くことすら難しい。
まして四期生の中でずば抜けて優秀な特撰兵士が護衛についているのだ。
「頼むぞ小次郎。私は命が惜しくて言ってるんじゃない。
下劣な殺し屋ごときに万が一にでも殺されてみろ。
全てが泥まみれだ。九条家の誇りも、海軍の体面も!」
「そんなことはさせません。俺の命にかえても阻止してみせます」
「頼むぞ」


「……静かだ」


「どうした?」
「静かなんですよ」
「基地の秩序が保たれている証拠だろう。やはり暗殺予告は、ただのいたずらだったようだな」
「……違う、静か過ぎる。警備兵の気配まで完全に消えやがった」
戸川の只ならぬ様子に九条は敏感なほど反応し、椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「こ、小次郎……!」
「閣下、冷静に。俺がついていることをお忘れなく」














「ふははは、そうだ。いいぞ将、その調子だ!」
貞本は監視ルームのモニターを眺めながら高笑いし続けた。
無線機を通じて将に逐一指示をだしている。
モニター越しにみる将はいつにも増して強かった。
見張りが少ない通路を選ばせているとはいえ、それでも戦闘を交えた兵士は1人や2人じゃない。
その全ての兵士を将は瞬きもしない間に倒していったのだ。
貞本は自分が育て上げた最強の愛銃の働きに酔いしれていた。
「そうだ。もう司令官室への道を塞ぐ邪魔者はいない。残るは九条時貞ただ1人」
そばにSPがいるだろうが、そんなもの将にかかればいないも同然。
貞本はスイス銀行の口座にはいる天文学的数字を思い浮かべほくそ笑んだ。









(……おかしい。気配がない)
九条の部屋まであと十数メートルという距離。なのに気配が全くない。
(警護がいないはずはない。なのに気配がない……。
つまり気配を完全に消せるほどの凄腕がいるということだ)


「依頼主は誰だ。吐けば楽に殺してやるぞ」


声は肩越しに聞えてきた。気配は今も感じない。
将は振り向かずに、「おまえ1人か?」と問うた。
「俺1人だ。さあ言え、誰の依頼で閣下の命を狙っている?」
「依頼主の名前は明かさない。それがプロの仕事だ」
将と戸川の会話はインカムを通して貞本に筒抜けになっていた。


『将、聞えているだろう。殺せ、おまえは強い、誰にも負けない。
相手が誰だろうと勝つのはおまえだ。さあやれ、おまえの強さを見せ付けてやれ』
貞本の指令はイヤホンを通して逐一将に出されていた。
将がその命令に逆らった事もなければ、まして失敗して失望させたこともない。
『わかったな将、さあやれ』
父の命令に対して将は常にたった一言だけを返してきた。
「ああ了解した。仕事を片付ける」
火柱がいっせいに噴出した。その業火は戸川に襲い掛かった。
将が仕掛けておいた爆弾が牙をむいたのだ。




「ちっ!」
これが並の兵士なら炎に飲み込まれ一瞬で炭クズとなっていただろう。
だが特撰兵士にこんなもの通用しない。
まして戸川は四期生の中でも群を抜いて優秀な兵士なのだ。
「死んでもらう」
将はさらに間をいれずに、手榴弾を2個投げつけてきた。
戸川は直ちに応戦した。銃を素早くホルスターから抜き取り発砲。
手榴弾は到達地点に落下する前に爆発した。爆風と爆煙が一気に戸川に迫る。
その煙の塊の中から将が飛び出してきた。


(早い!)


それは戸川にとって予想外の攻撃だった。人間が爆煙のスピードを超える動きをする。
それだけで、この少年は今まで戸川が見てきた殺し屋とはレベルが違うとはっきりわかる。
だが戸川も国家が誇るエリート軍人。
特選兵士は敗北が許されない存在。少なくとも戸川はそう思っている。
戸川はすっと銃口を上げた。狙うは将の左胸、つまり心臓だ。
だが戸川が引き金を引くのと同時に将も銃を発射させていた。
戸川は床に己の体を投げ出す格好で倒れた。


(際どかった!咄嗟に上体を反らさなかったら、原型も残らず頭が吹っ飛んでいた)


戸川の左こめかみから血が流れていた。
もちろん戸川が絶命していない以上将の猛攻は止まらない。
再び将の銃が火を噴いた。だが今度はダメージを負ったのは将の方だった。
戸川は倒れながらも発砲していた。狙いは将の銃、当然のことながら命中していた。
本来ならば将の左手も銃の爆発と共にぐちゃぐちゃになっていただろう。
だが将は銃から手を離し後ろにくるっと回転し、着地した時はすでに右手に銃を構えていた。
戸川は弾道を読みながら銃弾を紙一重で避けると柱の陰に飛び込んだ。




『将、何をもたついている!おまえの使命は銃撃ごっこを楽しむ事じゃない。
九条時貞の命を奪うことだ。早くしろ、奴の首には莫大な報酬がかかっているんだ』
「……Yes」
将は懐から缶のようなものを取出した。
(また手榴弾か?違う、発光弾だ!)
強烈な光が辺りを包み込んだ。
腕を目線まで上げ、目を保護していた戸川は人影らしきものが立ち去るのを確かに目撃した。
(閣下の元に行くつもりだろうが、そうはいかない)
すでに九条の執務室へ続く廊下はダミー壁で行き止まりになっている。
遠回りしても無駄だ。司令官の元には辿り着けない。


将はこの暗殺を委任された時から海軍基地の見取り図を頭に叩き込んでいた。
「前方は行き止まりだ。基地の見取り図と食い違いがある」
すぐに貞本に見取り図にない壁の報告をした。
『その壁の向こうに廊下が続いているぞ』
監視モニターを見ている貞本から逐一最新の情報が与えられる。
「そうか。ならば、この壁はダミーだ」
将は壁に手榴弾を投げ付けた。
その十数秒後、戸川が駆け付けた時には、すでに将の姿はなかった。
壁には人一人が通れるくらいの穴が空けられている。


(ダミーにすぐに気付いたのか?さもなければ……)
戸川は無線機を取出した。
『こちら久良木』
「史矢、すぐに監視ルームに向かえ。おそらく暗殺者は単独犯ではない。
命令を出している主犯がいる。すぐに捕えろ」
『了解』
戸川に存在がばれ貞本は焦った。
兵士達が凄い形相で向かってくる姿がモニターにしっかり映し出されたのだ。


「まずい……まずいぞ。将、何とかしろ!兵士どもを俺に近づけるな!!」
そのヒステリックな声は将に届いたが物理的にどうなもならない。
将がいるのは最上階、貞本は地下一階なのだ。
「今から駆け付けても間に合わない」
『何とかならないのか?!』
「九条を生け捕りにする。人質にして、あんたの安全を要求する。
殺すのはあんたが無事逃げたのを確認してからでいいな?」
『よし、わかった。それまで何とか持ちこたえてみる。早くしろよ』
「ああ、わかっている」
将は急に立ち止まり廊下の壁に備え付けられていた電源ボックスを強引にこじ開けた。
そして配線を力付くで引き千切った。最上階は一瞬で暗闇に染まった。




『小次郎、どうなっている。電源をやられたのか!?』
九条はいてもたってもいられず無線機で連絡をとってきた。
「閣下、落ち着いて下さい。敵は思ったより手強い。けれど俺が必ずお守りします」
『万が一ということもある。私は一旦基地から避難する』
「わかりました。直ぐにヘリコプターの手配をします」
戸川は将の後を追いながら無線機で指示を出し屋上にヘリコプターを待機させた。
九条は非常階段から、すでに屋上に向かっているだろう。
(問題は奴だ。ターゲットに逃げられまいと無謀な行動に出るかもしれない)









「閣下、さあ早く!」
「う、うむ」
九条は操縦士に促されヘリコプターに乗り込もうと搭乗口に足をかけた。
その時、ばんと扉が乱暴に開け放たれ、ついに恐怖の暗殺者が九条の前に姿を現した。
暗殺者はまだ年端も行かぬ少年だった。だが、九条を見るその目は子供の目ではない。
さらに九条は黒光りする銃口が自分に向けられるのを見た。


「閣下!」


プロペラが旋回する轟音に遮られ、その声は九条には聞こえなかった。
九条の意識は自分を見つめている銃口に集中している。
まるで暗示にでもかかっているかのように九条は身動きできなかった。
その暗示が解けたのはヘリコプターの装甲に穴が空いた直後。
九条はふらりと倒れかけた。後数センチ弾道が右よりだったら頭が粉々にふき飛んでいただろう。
弾が発射される瞬間、戸川が暗殺者に飛び掛かっていなかったら間違いなくそうなっていた。
命の灯が消されかけたショックで固まった九条に戸川は大声で逃げるように促した。


「閣下、今のうちに早く!」
はっとして我にかえった九条。
その視界では戸川と暗殺者が床を転がりながら激しくもみ合っている。
九条は慌ててヘリコプターに乗り込んだ。
急上昇するヘリコプターの様子はモニターを通して貞本にも見えた。




『将、何をしている!逃がすな、それだけは許すな!』
貞本自身絶対絶命の状況なだけに、かなり感情的になっている。
『もう持ちこたえられない。兵士がなだれ込んでくる!』
もはや将に聞こえてくるのは指令ではなく焦りからくる泣き言だった。
『破壊しろ!』
将の目元が僅かに動いた。
『全てを破壊しろ将!最上階エリアが破壊されれば兵士達の注意はそちらに向く。
俺に逃げるチャンスができる!それまで時間稼ぎをするんだ!』
「九条暗殺は?それが俺の仕事だろう」
『仕事より俺の命だ。おまえは俺あっての存在だということを忘れたのか?!
さあ破壊しろ、俺が教えた通りにやるんだ!』
「いいだろう。それが俺の仕事なら」
白州は遠隔爆破装置を取り出した。


「貴様!」
これ以上、海軍基地を破壊されてなるかと戸川は白州の手から装置を殴り落とした。
装置は勢いよく回転しながら床を滑っていく。
白州は戸川を蹴り飛ばすと装置を追った。もちろん戸川も後を追う。
装置を奪われてなるものかと、白州は急停止し素早く体を回転させ後ろ回し蹴りを繰り出した。
戸川は大きくジャンプ、一回転して白州の前に着地した。
(早い!何て反射神経と運動量だ)
白州は攻撃をかわされ、さすがに驚いたようだ。
戸川は一気に装置との距離を縮めた。
もはや白州が戸川より先に装置を手にすることはないだろう。
だが白州はスッポン以上のしつこさを見せた。
戸川が装置に手を伸ばした瞬間、体当たりを食らわせた。戸川にとって計算外の攻撃。
なぜなら装置は屋上の縁に位置していた。
そんな場所でこんなことをされたら屋上から突き飛ばされる。
ただし戸川だけではなく、将本人も共にほうり出されるのだ。


(こいつ自分の命はどうでもいいのか?!)
フェンスにつかまり落下を免れた戸川が見たのは空中で装置をキャッチする将の姿だった。
(押すつもりだ。自分の命は計算してない)
これ以上基地を破壊されたまるか!戸川はフェンスから手を離し、外壁を蹴った。
『将、まだか早くしろ。おまえの仕事だぞ!』
「ああ、わかっている」
将はボタンを押そうとした。
が、そこへ戸川が先程のお返しとばかりに体当たりしてきた。
空中でもみ合う二人の体は二転三転と回転しながら落下速度をましていく。
『将!』
その間にも貞本の催促は続いた。


「殺し屋風情が図にのるな!」
戸川の鋭い拳が将の腕を直撃、装置が将の手から離れた。
『将、何とかしろ。おまえの仕事だぞ!最後の手段を使ってでもだ!!』
最後の手段、その言葉を将は静かに聞き入れた。
「――了解した。自爆する」
(自爆だと!?)
直後、黒い炎の塊が空気を震わせた。














戸川と白州を乗せたイージス艦は太平洋の真ん中辺りまできていた。
「白州、俺は佐伯徹にこだわってエリートコースから一歩後退した。
おまえは俺がしたことを愚かだと思っているか?」
白州は静かに答えた。
「いいえ。小次郎様が佐伯抹殺を必要事項だと判断なさったのならば佐伯は死ぬべき存在でした」
白州はさらに言った。
「俺はあなたのトリガーだ。あの時からあなたの命令に従って戦うこと以外生きる価値のない人間です」














「小次郎様!」
久良木は瓦礫の中を駆け回っていた。
戸川が屋上から落下。その途中で暗殺者の自爆に巻き込まれ姿を消した。
肉片一つ残さずに逝ってしまったのか?
「……そんな」
久良木は基地に隣接している海を前にがくっとうなだれた。
その時だ。海面が盛り上がるのが見えた。
直後、久良木の視覚が捕えたのは戸川の姿だった。
「小次郎様!よかった無事だったんですね!!」
だが次の瞬間、久良木は凍りついた。もう一人いたのだ。
その男は意識がないのか、それとも死んでいるのか固く瞼を閉ざしてぴくりとも動かない。
戸川は男の腕を自分の肩に回し抱え上げ海岸に上がった。
一瞬ぎょっとなった久良木だが、すぐにはっとして戸川に駆け寄った。
男は岩壁の上に仰向けにされ相変わらず動かない。




「主犯は片付けたか?」
「は、はい。名前は貞本兼英、ここ数年は息子に暗殺の実行をさせていた殺し屋です」
「そうか。こいつがその息子か」
その時、将がぴくっと動いた。
「まだ生きている。とどめを刺してやる!」
久良木は慌てて銃を取り出したが、撃てなかった。戸川が銃口の前に掌をかざしたからだ。
「小次郎様、どうして?」
「おまえは暗殺に使用された銃を処刑するのか?」
久良木はきょとんとなった。
「こいつは父親のただのトリガーだ。戦ってわかったがこいつは一切保身を考えなかった。
ただ与えられた仕事をこなしていただけだ。そこに何の感情も挟まずに。
そこまで出来たのは父親に愛情や忠誠心を持っていたからじゃない。
それしか教えこまれてなったからだ」




「こいつはただの凶器だ。凶器まで処刑する法律はない」




「し、しかし、閣下を暗殺しようとした人間ですよ。そんな奴を助けたら……」
「勘違いするな史矢、俺はお情けの人命救助なんかに興味はない。
この男の暗殺技術は一流だ。俺は実力のある人間しか認めない。
こいつは戦うしか価値のない男だが、その技術は一流だ。このまま死なせるのは惜しい」
将がうっすらと目を開け、静かに戸川と久良木を見詰めた。




「聞こえていただろう。おまえの父親は死んだ」
将は取り乱しもせず、ただ「……そうか」とだけ呟いた。
戸川が推測したように将と貞本の関係は仕事で繋がっていただけで親子としては冷めた間柄だったのだ。
「……なぜ俺を助けた?」
ターゲットの息の根を止めることしか生存理由がない将にとって戸川の行動は謎だった。
まして、つい先程まで殺しあった相手を。
「……俺が再びおまえに害を加えると思わないのか?」
それは久良木が将にとどめを刺そうとした一番の理由でもあった。
「おまえに命令を出していた人間が死んだ以上その心配はない。
おまえは自分に命令を下す人間のためにしか動かない男だ」




「これからは俺の命令で動いてもらう。おまえを生かしたのは俺だ。
だからおまえの命は俺のものだ。たった今から俺がおまえの主人だ」




「危険です!こんな男をそばに置いたら小次郎様にいつ銃を向けるかわかりません!!」
久良木が当然のように声を上げたが戸川はその忠告に従うつもりはない。
「俺の方が強い。やられるとしたらこいつの方だ。
俺は実力のある人間が好きだ。その上こいつには野心がない。俺の理想通りの人材だ」
「おまえを殺そうとした俺を信用するのか?」
「俺は最初から誰も信じてない。心底信頼しているのは自分だけだ。
俺が必要なのは信用できる人間じゃない。結果をだせる人間だ。
おまえの父親はおまえの能力を使いこなせなかった。
だが俺ならおまえの能力を最大限に生かしてやれる。黙って俺に着いてこい」
将は幼い頃より自我を押さえ付けられ育った。自分の意志で大きな決断をしたことはない。
この人生の岐路に立っているにもかかわらず正直何が最良の選択なのかもわからない。
ただ、ぼんやりと思ったことを口にした。


「……もう、おまえと戦う気はおきそうもない」


将は考えても答えが出なかったので感情に従うことにした。
なぜかわからないが、それが正しい生き方のような気がしたのだ。
その後、将は戸川が用意したマンションに身一つで移り住む事になった。
自宅には一度も帰ってない。戸川が過去とは二度と接触するなと命じたからだ。
戸川の指示なら正しい判断だろうと信じ将は何の疑問も持たず素直に従った。
将の苗字も変わった。
『白州』、それが戸川が与えた新しい苗字。将は簡単に貞本の名を捨てた。
何の未練もなかった。
他にも色々あった。将が知らないところで事が運んだものもある。




「白州の過去はどうします?小次郎様の側近の経歴が元殺し屋ではまずいですよ」
「そんなもの俺の権限で抹消してやる」
そんな会話が戸川と久良木の間であったことも将は知らない。
「貞本は白州の死んだ母親の同棲相手で実父ではない事を教えておいた方がいいのでは?
肉親でなかったとわかればこの先、白州が復讐する危険がなくなりますし」
「必要ない。あいつは元々父親を愛していなかった」
こんなやりとりがあった事も白州は知らない。














貞本将がこの世から消え、白州将という人間が誕生してから戸川の戦績は飛躍的にアップした。
戸川は白州の才能を最大限に使いこなし、白州もまた戸川の期待以上の結果をだしてきた。
白州が忠勤に励めばそれだけ戸川は栄達し、戸川の栄光はそのまま白州自身の栄誉にも繋がった。
短期間で白州は戸川になくてはならない右腕となっていた。
戸川の野望達成に手を貸すことは白州の生きがいにもなっていた。
まさに順風満帆、だがその栄光に初めて亀裂が生じた。
四期生と五期生の特選兵士同士による私闘という前代未聞の事件が起きたのだ。
戸川もそれに関与していた。その結果、戸川は左遷された。
白州が戸川に仕えて初めて味わった挫折だった。


「白州、正直に言え。おまえは俺に失望したか?」
珍しく戸川は覇気がなかった。さすがにこたえたのだろう。
「いいえ。小次郎様は奈落の底からでも頂点に這い上がる方です。
俺は黙ってあなたについていくだけです」
戸川が例え鬼だろうが悪魔だろうが、白州には関係ない。
白州は善悪の区別でも思想でもなく、ただ戸川に属するだけの人間だ。
「小次郎様は、そう遠くない帰還に備え覚悟と自覚を忘れないで下さい。
それがあなたの今の役目です。俺の役目はどこだろうと、あなたに従うだけ」




「地獄の底までお供いたします」




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