それとも、この体に流れる血のせいだろうか――。
鎮魂歌―緒方菜穂―
「満夫さん、食事に行きましょうよ」
訓練を終えてシャワールームに向かい歩いていると、赤いスポーツカーが軍用歩道に平行に停車した。
「満夫」
運転席に座っていたのは、満夫の姉・菜穂だった。
「姉ちゃん、久しぶり」
「久しぶりだから一緒に食事どう?私がおごるから、ついておいで」
「うん!じゃあ、俺、行くね」
満夫は、仲間たちにバイバイと手を振ると助手席に乗り込んだ。
「相変わらずカッコいいいな、満夫さんのお姉さん」
「下手な男性タレント真っ青だよ」
菜穂はすらっと背が高く、髪の毛も短め。
着ているものも彼女の中性的な個性を高めるようなものばかりだった。
一目見ただけでは男か女かわからないくらいに。
「でもさあ、先輩から聞いたんだけど、昔は髪のばしてたみたいだぜ」
「そうなのか?あのひとの長髪なんて一度もみたことないよ」
「2年前までは胸元まで豊な長髪で、服装だって女らしいものだったって。
その頃は、どこからみても女で、男には全く見えなかったって。
あんな宝塚みたいになっちまって、がっかりした男が何人もいたらしい」
「美味しいかい?」
「うん!姉ちゃん、追加注文していい?」
「ああ、好きにしろ」
菜穂にとって満夫はたった一人の家族、菜穂は弟が可愛くて仕方なかった。
科学省に生まれ育った兵士に通常家族はいない。
親もいない、いるのは遺伝子提供者だけ。
勿論、兄弟もいない。だが例外もいる。
菜穂と満夫の緒方姉弟がその例外だ。
2人は父違いの姉弟だ(父親たちは科学省が他の軍部から推薦された兵士らしい)
母親は科学省で生まれ育った女性兵士、つまり科学省自家製の人間。
科学省出身の兵士はそれぞれ担当の博士の思惑で誕生している。
その博士が作った養育カリキュラムの元で育つ。
2人の母もそうだった。
そして、その兵士は成長しても担当博士によって、その後の人生が決まる。
博士に所有権があるといってもいい。
その兵士から生まれた子供も、大抵は親の担当博士の思惑で誕生し、博士の元で育つ。
よって彼らはたまたま母が科学省出身ということで一緒に育つことができたのだ。
「姉ちゃん、この後、何か予定ある?」
「いや特に」
「だったら母さんの見舞いに行こうよ」
菜穂の眉がぴくっと動いた。満夫は気づいて無い。
「ねえ行こうよ」
「……悪い満夫、思い出した。外せない用事があったんだ」
「何とかならない?俺と姉ちゃんが見舞いに行けば母さん元に戻るかもしれないよ」
そんなことあるものか、あのひとは一度も母親の顔を見せたことはない。
最初から最後まで女でしかないんだ、もう期待するのもやめた。
「ごめん、どうしてもはずせない」
「そっか、だったら俺1人で行くよ」
彼らの母はもう半年も意識不明で科学省病院のベッドにいる。
母が健在だった頃は上の方針で月に1、2度しか会えなかった。
植物人間も同然の状態になって、やっと自由に会えるようになったのだ。
もちろん面会に行こうと、母は口もきけないし微笑んでもくれない。
それでも、まだ幼い満夫は母を慕っているらしく足しげく病院に通っているのだ。
しかし菜穂のほうは満夫のような気持ちには到底なれなかった。
科学省の兵士たちは例外なく代理母から生まれる。
しかし代理母にも二種類ある、受精卵を移植され分娩する赤の他人。
遺伝子を人工授精され、生まれた子供の親としての権利こそ持ってないが、間違いなく実母。
2人の母は後者だった、科学省では数少ない実の親子。
血を分けた我が子が可愛くない母親は通常いない。
たとえ自らの手で育てることができなくても、親は子供を慈しみ見守るものだ。
だが菜穂は幼い頃から母の愛を信じることができなかった。
月にほんの数回の面会でも、心を開いたことはない。
素直に母を慕っている満夫とは大違いだった。
なまじ勘がよく疑り深い菜穂は気付いていた。
母が本当に産みたがっていたのは自分達ではないことを――。
「今期は取得したライセンスの数が少ないぞ菜穂」
菜穂と満夫、そして2人の母・江利の生みの親とも言える緒方博士が渋い顔をして言った。
「江利もおまえと同じくらいの年齢の時に急に調子が悪くなった。
やはり親子だな。その点、満夫はマイペース過ぎる。あれは父親似だろう」
母親に似ている――それは菜穂にとっては最も苦痛な言葉だった。
弟の満夫は母に全く似ず天真爛漫な人間に育った。
しかし菜穂は全くの逆。外見も、中身も、母に似ている。
満夫と違い、母と上手く親子関係を築けないのもそれが原因だろう。
母を見ていると自分の欠点を見せ付けられているような気がするのだ。
母の生き方を嫌っている娘にとっては、母を避けてしまうことは当然の心理だったといえよう。
自分と母は違う。自分は母の過ちを繰り返したりしない。
そんな思いから母とは正反対の人生を送ることばかり考えて生きてきた。
母とは全く違う兵士養成コースを選択し、長い髪をばっさり切った。
少しでも母に瓜二つだった外見から遠ざかろうと思ったからだ。
でも結局変わったのは外見だけ、むしろ以前より母に囚われた気持ちすらする。
「あれは私の最高傑作だった……高尾晃司の子を生ませてやりたかったよ」
緒方博士は溜息をついた。菜穂は表情を強張らせた。
「江利が現場を引退して代理母になるといったとき私は正直驚いたんだ。
あれは、ずっと兵士でいるとばかり思っていたから。
だが、すぐに理由がわかった。Ⅹシリーズ第二世代誕生プロジェクトを知ったからだろう。
江利はファーストに強い好意を持っていたからな」
現在科学省に至宝と呼ばれ尊重されている高尾晃司は二代目だった。
かつて同じ名前の、やはり当時最強の兵士が科学省にはいた。
二代目高尾晃司の遺伝学上の父親にあたるひとだ。
「江利が若い頃、ファーストに憧れいたのを私は知っていた。
だからファーストの相手を上が選抜すると知ったとき、私は江利を推薦したくらいだ。
けれど内心、江利に望みはほとんどないことはわかったいた。
当時、科学省には折笠美空という優秀な女がいて、彼女にほぼ決定していたんだ。
案の定、折笠が幹部の圧倒的支持を得て高尾の相手に決まった。
その高尾も科学省を裏切り、外の女と駆け落ちして裏切り者として殺された。
高尾が犯した事件のせいでⅩシリーズ計画は凍結されたが、それがやっと解除されたんだ。
江利は奴の子供が欲しくて代理母に志願したんだろう。
けれど科学省の方針でⅩシリーズの代理母は外の女を使うことになった。
江利は遺伝子提供者としても拒否された。
だから私はせめて優秀な子供を生ませてやろうと、必死になって遺伝子提供者を探しだしたんだ。
その結果、おまえと満夫が生まれた。あれも喜んでいるだろう」
菜穂は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
この話を聞くのは初めてではない。
初めてきいたとき、母の自分達に対するよそよそしい態度への疑問が氷解した。
緒方博士は、母が自分達を誇りに思っていると想像しているようだが、菜穂の考えは違う。
母は自分達を産んだ後もずっと自分達を見ていなかった。
(それでも無邪気に母を慕う満夫は別かもしれないが、可愛げの無い娘の自分はそうだろう)
その母も半年前に事故に合い今に至る。
お母さん、私はあなたのようにはなりたくない。
女としての過去に囚われ、未来を見ることができずに、今はただ死を待つだけの人間には――。
母はもう意識を取り戻すことはないだろう。
緒方博士の強い希望で治療は継続されているが、それもいずれ終わる。
科学省は動けなくなった人間を必要としない。
生命維持装置が外されるのも時間の問題だろう……。
(それもいいかもしれない。無理やり生かされるより尊厳死のほうがずっと人間らしい。
もう、あのひとの意識が戻る可能性はないし、もってあと1ヵ月くらい……)
ところが菜穂の予想を覆す出来事が起きた。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
満夫が満面の笑みを浮かべ、ノックもせずに菜穂の部屋に飛び込んできた。
「満夫、いくら姉弟でもマナーくらいは守って――」
「母さんの意識が戻ったんだよ!」
「……え?」
菜穂の表情が凍りついた――。
菜穂は科学省の中庭のベンチに座り本を読んでいた。
「緒方、隣いいか?」
菜穂に声をかけてきたのは科学省でも最も優秀な兵士の1人・薬師丸涼だった。
「どうぞ」
菜穂が了解すると、薬師丸はベンチに腰を降ろした。
「まわりくどいことはいいたくないから、単刀直入に言うぞ。
なぜ母親に会いに行ってやらない。満夫が悲しんでいる」
薬師丸は、満夫が所属する部隊の隊長だった。
母の見舞いを拒む菜穂をどうにかしようと、薬師丸に泣きついたのだろう。
「多忙で会いに行く時間が……」
「なければ作ればいいだろう。おまえの実の母親だぞ。
俺達科学省の人間は通常親はいない。だがおまえ達は違う。
俺達からみれば、おまえは贅沢すぎる。何が気に入らないんだ?」
菜穂は薬師丸を尊敬していたが、同時に苦手だった。
薬師丸は勘がよすぎる。
菜穂が隠していた母への複雑な感情にも気付いているようだ。
「おまえにも理由があるだろうが、一度会いに行け」
「……でも」
「でないと後悔するぞ。満夫は母親はすぐに全快すると楽観視しているが……」
含みのある言い方に菜穂はぎょっとした表情で薬師丸を見詰めた。
「担当医の話だと長く無いらしい。最後くらい一緒にいてやれ」
「母は私が会いにいったところで喜ばないでしょう」
母が事故に合った直後に一度だけ面会に行った。
その時、母はうわ言で、ただ一言だけを繰り返していたのだ。
『……い……大尉……』
誰のことかすぐにわかった。ファーストの最終階級は大尉だ。
そのうわ言も満夫が駆けつけた時には消え、後はずっと無言だった。
「緒方博士から話をきいてます。
母は高尾大尉や堀川大尉に会いたいと言っているとか。
無理なことを……科学省が大尉達にそんな無駄な時間を与えるはずがないのに」
かつて愛したひとの忘れ形見を一目みたいのだろう。
どこまでも、あのひとは女なのだ。
女の嫌な面ばかり見せてくれる。おそらく最後までそうだろう。
「とにかく一度会いに行ってやれ」
薬師丸はそれだけ言うと、立ち去っていった。
「母さん、早くよくなってね」
満夫は薬師丸を伴って母の見舞いに来ていた。
「ありがとう満夫……少佐、どうか、この子のこと宜しくお願いします」
江利は何度も薬師丸に頭を下げていた。
「あの……堀川大尉と高尾大尉に面会の件は……」
薬師丸は満夫に、「何か飲み物を買ってきてくれないか」と頼んだ。
「うん、いいよ」
それが満夫に席を外させるためだとも気付かずに、満夫は退室した。
「やはり不可だ。2人は海外いるから尚更な」
「……そうですか」
「高尾や堀川よりも、緒方と満夫のことだけを思ってやれ」
「私は母親としての資格はありませんし、最初から与えられてもいませんでした。
それでも菜穂があれほど私を嫌うとは思ってませんでしたが……。
あの子が髪を切ったのも、私と繋がるものを少しでも消したかったからでしょう」
「それが科学省の母子だ、だが最後まで科学省に付き合ってやることはない。
最後くらいは普通の親子に戻ればいい。高尾や堀川のことはもう忘れろ」
「いいえ!」
江利は強い口調で言った。
「いいえ、いいえ、私はどうしても一度彼らに会わなければならないんです。
きっとその為に神が最後に私の意識を戻させてくれたのですから」
部屋の外に誰かいる、薬師丸はそれに気付いたが江利は全く気付いてなかった。
「なぜ、そこまで2人にこだわる?」
「私は2人に告白しなければ……謝罪しなければいけないんです」
「謝罪?」
「……先代の……2人の父親の高尾大尉を……死なせたのは、いえ殺したのは私です」
窓から入る風がカーテンをかすかに揺らしていた。
静寂が部屋を支配している。
数秒か、数十秒か、数分後か……時間の経過すらわからない・
その静寂さを破るように薬師丸が意を決して静かに言った。
「どういうことだ?」
江利は目を閉じた。それでも涙は溢れシーツを濡らしている。
「……私は大尉に好意をもってました。
でも大尉の相手は美空が選ばれると薄々気付いていたんです。
当時の長官の秘書の護衛を担当していたときの事でした……」
「……よし次の任務はこれでいこう」
長官は書類に名前を書き込むと、たまたまそばにいた江利にそれを差し出した。
「コンピュータに打ち込んでおいてくれ」
書類には、某財閥令嬢の警護と関東テロリスト殲滅の任務が記載されていた。
その任務を担当するⅩシリーズの名前も。
高尾晃司――ファースト――はテロ殲滅作戦。
その名前の横に折笠美空の名前があった。
江利は全身が硬直するような感覚を味わった。
上の意向はわかっているつもりだったが、それでもショックだった。
上はすでに正式に美空を選んだのだ。
その為に、高尾と一日でも早く打ち解けるようにと同じ任務につかせようというのだろう。
自分が高尾と結ばれることは決して無い。
だが、その事実を受け入れるには、あまりにも時間がなかった。
それから一時間後、長官は帰宅途中で事故に合い死亡した。
これまた突然の出来事だった。
江利は驚いたが、同時にこれはチャンスだと思った。
愚かな女心が彼女に理性の無い行動をさせたのだ。
高尾と美空が同じ任務につくことは、死んだ長官と自分しか知らない。
いずれ2人は結ばれるだろう、だが一日でも先延ばしにしたかった。
江利はコンピュータに長官最後の命令を打ち込んだ。
一箇所だけ変更を加えて。
翌日、高尾に伝えられた命令は某財閥令嬢の護衛だった。
江利が高尾と本来令嬢の護衛になるはずだった兵士の名前を入れ替えたのだ。
「……本当に愚かでした。大尉は、その令嬢と恋仲になって科学省を裏切った。
私は後悔しました。でも、そんなもの比べ物にならない苦しみを味わう羽目に……」
江利は両手で顔を覆った。
「まさか科学省が大尉を抹殺するなんて……!」
「あの時、私が馬鹿なことをしなければ、大尉は彼女と出会うこともなかった。
血を分けた仲間に殺されることもなかった。私が大尉を殺したんです!」
江利はずっと胸中に秘めていた重いものを嗚咽と共に吐き出した。
「それなのに私はⅩシリーズの代理母になろうとしました。
許されない行為です。私が選ばれなかったのは当然です。
あの子達は……菜穂と満夫は私には勿体ないくらいいいこでした。
月に2度しか会えなかったけど……けれど私は幸せでした。
あの話を偶然聞くまでは……」
「あの話?」
「高尾大尉の奥様は……彼の子供を身篭っていたそうです。
でも奥様も大尉と共に殺され……その子も……」
科学省のトップシークレットともいうべき事件。
それゆえ科学省は詳細な情報を全て隠蔽した。
高尾の妻が身篭っていたことを知っているのは一部の幹部だけだ。
江利はそれを偶然知ってしまった。
忘れかけていた罪悪感が怒涛のように彼女に押し寄せた。
それからというもの、彼女は子供達の顔をまともに見れなくなった。
まだ菜穂が五歳になったばかり、満夫は赤ん坊だった。
「死ぬ前に……彼の息子達に一言お詫びを……その為に私はほんの一時生き返ったんです」
「事情はよくわかった。だが、高尾と堀川は父親の悲劇など意に介さないだろう。
2人にとっては、ただの遺伝子提供者に過ぎないし、あいつらは感情自体希薄だからな。
あなたが謝罪しても、人事のようにきくだけだ。
2人のことはもう忘れろ。あいつらに謝罪は必要ない」
「……でも」
「あなたは言った、自分が生き返ったのは、彼の息子たちに償う為だと。
俺はそれは間違った判断だと思う」
薬師丸は立ち上がった。
「あなたは自分の子供達に償う為に生き返った、俺はそう思っている。
満夫の為、それに……今、そこにいる緒方のために」
江利は驚いてドアに視線を向けた。ドアの影から菜穂が姿を現した。
江利が知っている菜穂は、一度も自分に感情を向けたことの無い娘だった。
満夫のように自分に甘えることもない、恨み言をぶつけることもない。
ただじっと椅子に座って、面会時間が終わるまで適当な言葉でその場を繕うだけの娘。
まるで母親に対して無関心だといわんばかりの。
その娘が泣いていた。
「俺はこれで失礼する。もうすぐ満夫も戻るだろう」
薬師丸はそれ以上何もいわなかった。菜穂とすれ違ったときも無言を通した。
それから二ヵ月後、江利は逝った――。
「姉ちゃん、みて、ほら。高尾さんがいるよ」
満夫が指さした先には菜穂の婚約者がいた。
その隣には
天瀬良恵がいる。
いつも氷のように冷たい表情だった晃司の顔が少し柔らかそうに見えた。
菜穂は胸の奥がちくっと痛むのを感じた。
『苦しかった。自分でもわけがわからず、あんなことをしたの。
あの時は、ただ美空に彼を奪われたくない、それだけしか頭になった』
あの後、母とは腹を割って話し合った。
12年間を埋めるようにを、母が死ぬまで毎日、毎日。
『今ならわかる。私は幻を愛していた……でも、あの時は彼が全てだった。
もしも、彼が私とは違う人間だと気付いていれば、私は別の人生を歩んでいたかもしれない。
本当に愛するべき、大切な存在に……もっと、早く気付いていたかもしれない』
「姉ちゃん、どうしたの?」
晃司と良恵を、ただじっと見詰める姉の顔を満夫が怪訝そうに覗き込んだ。
「……いや何でもない」
『おまえは私に似ている。これは遺言よ……いえ、最初で最後の母親としての忠告だと思って』
「行こう、満夫」
「高尾さんに声かけなくていいの?」
「ああ、いい」
『おまえは決して私のようになっては駄目よ。
ありもしない愛にすがり付いて馬鹿な女にはならないで』
――母のようになりたくないと思っていた。
――でも、皮肉なことに私は母によく似ている。
――今なら素直に認められる。母を拒んでいたのは、それが怖かったからなのかもしれない。
『私にとって本当に大切な人間はおまえ達なのに気付くのが遅かった。
おまえは私の過ちを繰り返さないで……それが私の最後の願いよ』
母さん、私はどんな人生を歩むのでしょうね。
あなたのようになりたくないと思っていた。
でも、そのあなたが今は1番身近に感じる。
「姉ちゃん、だったら早く帰ろうよ。おなかすいたよ」
「ああ、わかった」
菜穂は満夫の頭に手を置くと、愛おしそうに何度も撫でた。
「行こうか」
最後にもう一度だけ振り向いた。
晃司は良恵だけしか見て無い。
婚約者という肩書きには遠すぎる距離を菜穂は痛いほど感じた。
(彼は振り向いてもくれない。もしかしたら一生――)
それなのに、彼を想う事は過ちだろうか。
私は母と同じことを今繰り返しているのだろうか。
婚約者という名の幻に執着し、その結果、本当に大切な存在を失うのだろうか?
満夫が、「早く、早く」と大声で急かしてる。
菜穂は、微笑みながら歩き出した。
――本当に大切な存在をいつか失うのだろうか?
その答えを菜穂は考えるのをやめた。
その日が、そう遠くない未来だということも知らずに――。
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