そう信じて、信じきって育った少女がいた。
ひとは彼女のことを傲慢だと思うだろう。
しかし彼女は、それを誇りだと思っていた。
いつか必ず、自分には他者には生涯味わえない栄光が訪れる。
それは希望ではなく確信だった。
自分はただ、自分を磨き、その時を待っていればいいだけなのだ。
そして、その日は、意外にも早く訪れた――。
鎮魂歌―諸星まどか―
「やっと終わったぜ」
「今日のトレーニングはいつにもましてきつかったな」
「食堂に行こうぜ。俺、もう腹ペコだよ」
科学省の見習い兵士たち。彼らといえども、まだ幼さが残る少年。
科学省所属の兵士と、他の部署の兵士とは大きな違いがある。
科学省の兵士は、科学省の意志の元『作られた』人間だけによって構成されていた。
軍部はもちろん、あらゆる分野において優秀な人間をリストアップして、その遺伝子を提供させる。
そうして採取した遺伝子を人工的に掛け合わせて誕生させた人間、それが彼らだ。
だから彼らの多くは親を知らない、一生知る必要も無い。
科学省の為に生き、科学省の為に死んでゆくだろう。
家族なんて最初から存在しない。
強いて言えば同じ境遇で育った仲間が兄弟とでもいうべきか?
「江崎、おまえも行くか?」
誰かが江崎寿にも声をかけた。科学省の定義から言えば寿だって兄弟に違いない。
「おい、そいつは駄目だ」
しかしすぐに寿を拒絶する冷たい声が響き渡った。
「そうだぜ、そいつと一緒にいて、うっかり口滑らせたら、あの女に筒抜けになるだろ」
「そうそう、長官の機嫌かうために告げ口でもされたらことだぜ」
「……あ、あのさ」
寿は反論しようと試みているようだが、生来押しが弱い性格のせいか言い出すきっかけさえもつかめない。
「なあ、あんまり警戒しすぎるのもあれじゃないのか?これじゃあ仲間はずれだろ
江崎は上にちくるような卑劣な人間じゃないぜ」
寿に声をかけてくれたやつが庇ってくれた。
しかしすぐに、「そいつにそんなつもりはなくても、あの女にはあるんだよ」と確信に満ちた声が返ってきた。
「……それもそうだな。悪いな江崎、また今度な」
寿は苦笑いしながら、「はは、気にするなよ……」と軽く手を振って見せた。
彼らの姿が完全に見えなくなると、寿はガクッと肩を落とした。
「……あーあ、また俺だけミソッカスか」
もう慣れたとはいえ、やはりこういうのは気分が悪い。
「……でも、あいつらの言い分もわかるなあ。俺なんかと付き合えないって気持ちも」
「寿、ちょっと寿!」
はっとして振り向くと、幼馴染のまどかが立っていた。
「ま、まどか!」
「何、ぼんやりしてるのよ。あたしの声が聞えなかったの?」
「……うん」
「ところで、さっき、あんたの班の連中が食堂に行くのみえたんだけど、あんたは一緒に行かないの?」
「あ……それが」
先ほどのやりとりを、この幼馴染は知らないし知られたくなかった。
「また仲間はずれにされたのね」
まどかは思った。
(こいつって、本当にあたし以外に友達できないのね。
可哀想だから面倒見てやってるけど、いい加減に自立してもらわないとこっちが困るのよ)
「あたし、この前のテストでAとったのよ。寿、あんたはどうだったの?」
寿ははっきり答えずに苦笑いしている。どうやら、ごまかし笑いのようだ。
「また合格すれすれだったんでしょ。そんなことじゃ将来みえてるっての」
「……きついこと言わないでくれよ」
「あたしは将来士官になるけど、あんたはこのままじゃせいぜい下士官よ」
「……脅さないでくれよ」
「あんたなんか脅すほどあたしは暇じゃないっての!」
「はっはっは、相変わらずおまえ達は仲がいいな」
黒服にサングラスという出で立ちの男を大勢引き連れたスーツ姿の男が現れた。
「長官、おはようございます!」
科学省の最高権力者・宇佐美が登場した途端にまどかは猫なで声になった。
「あ、長官、細菌研究主任の長崎が『長官は人遣いが荒い』って文句たれてましたよ」
「何だと?」
宇佐美の目つきが変わった。
「あいつ研究の成果がすすまないのを、長官の予算の出し惜しみだって」
「……そうか。あいつには自分の立場ってのをわからせてやったほうがいいようだな」
宇佐美は満足げにまどかの頭をなでた。
「よしよしよしよし、まどかおまえは本当にいい子だねえ。
これからも私に逆らう奸悪な連中を逐一報告するんだよ、いいね?」
「はい!」
まどかは精一杯宇佐美の為に余計な気を利かせていた。
そのおかげで宇佐美のお気に入りにはなれたが、敵もたくさん作っていることには気づいて無い。
「可愛いおまえに私は特別なプレゼントをやろう」
「プレゼント?」
まどかの目がきらきらと光った。
元々、顔立ちは可愛いだけに素直にしてれば愛らしくも見える。
「おまえの相手が決まった」
それは科学省生まれの人間には必ず訪れる運命の瞬間だった。
大抵は担当者が無機質に書類を渡して知らせるのだ。
それを長官自ら教えてくれるというのだ、まどかは自分が特別と言う思いをいっそう深くした。
問題は相手だ。まどかにはずっと以前から意中の人間がいる。
例えAクラスの兵士だろうと、まどかは嫌だった。
狙うは科学省、いや軍最強と名高いⅩシリーズ。
他の男なんて絶対も嫌だ。まどかは期待と不安をこめた目で宇佐美の言葉を待った。
「晃司だ。我が科学省の最高傑作・高尾晃司がおまえの相手だ」
まどかの顔がぱあっと明るくなった。
高尾晃司だ。科学省で最高の男が未来の夫!
何と言う幸運、いえあたしの実力と才能考えたら当然よ!
高尾晃司は兵士としても優秀だが、その外見は大変な美形でもあった。
兵士としての才覚なんてなくても十分すぎるほどいい男なのである。
「優秀な子供を期待しておるぞ、まどか」
「はい!」
「おまえたちなら私の望みとおりの優秀な第三世代のⅩシリーズを生んでくれると信じている」
「え?」
おまえ『たち』?
「あの長官……たち、って?」
「おまえと菜穂と結衣、我が科学省の女性兵士の中でも、もっとも優秀なおまえ達に私は期待している」
あたし1人じゃなかった!まどかは愕然とした。
(しかも結衣も?あの女、長官の歓心かって、えこひいきばかりされてる上にあたしの大尉を!
悔しい、いつもいつもあの女、あたしを出し抜いて!
ううん、あたしはまだ負けてない。あたしは大尉に気に入られてやる。
あんな女には絶対に負けないわ。絶対にギャフンと言わせてやる!)
「なあ、まどかぁ」
「何よ寿」
「やっぱりまずいんじゃないのか?」
「うるさいわね。つべこべいう暇があったら、ちゃんと見張りしないさよ、このグズ!」
「……うん、わかった」
寿は心配でたまらなかった。なぜなら、今2人がいる場所は立ち入り禁止区域。
科学省の至宝・Ⅹシリーズの居住施設がある特別区域なのだ。
科学省の中でもⅩシリーズの担当グループ以外は幹部以外近付くことも許されない。
そんな場所にまどかは大胆にも不法侵入したのだ。
まどかを心配する寿は何度も止めたがぬかに釘。
なりゆきから、寿も同行する羽目になり、いつの間にか見張り担当となってしまったのだ。
「どうしてこんなことすんだよ?」
「決まってるでしょ未来の夫と親密になるのよ」
「で、でもさあ。俺も2度高尾さんを見たことあるけど」
寿は躊躇しながら切り出した。
「何よ?」
「あのひと、なんていうか人間らしい感情が無いって言うか……。
多分、女の子にちやほやされて嬉しがるタイプじゃない思う」
「うるさいわね。ほら、あそこが大尉の個室らしいわよ」
『高尾晃司』と記入されたネームプレートが掲げられているドア、間違いないようだ。
まどかは一週間かけて編んだセーターを抱きしめた。
「大尉の体のサイズに合えばいいけど」
ちなみにそのセーターは寿の体型に合わせて製作されたものだった。
(なぜなら、まどかには寿以外男友達がいないからだ)
さらに半分以上は寿に編ませたものだった。
「大尉、喜んでくれるかしら?」
ピンク色の可愛らしいメッセージカードもちゃんと用意してある。
女の子から手作りのセーターをプレゼントされて喜ばない男はいない――はず。
(きっと大尉は感動してあたしを特別だって思ってくれるわ)
後はそっと部屋の中にプレゼントを置くだけ……あれ、鍵がかかってる。
「ほら寿、あんたの出番よ」
寿は仕方なく胸元から道具を取り出してドアの前に屈んだ。
「あたしは廊下の向こうを見張ってるから鍵はずしたら教えなさいよ」
誰かに見付かったら全ての苦労が水の泡。
下手したら上に大目玉くらって、せっかく射止めた高尾晃司のフィアンセの座だって剥奪されかねない。
そうならないためにも全てを隠密に終わらせなければならないのだ。
まどかは廊下の角からちょっと顔を出してキョロキョロと忙しそうに左右を確認。
誰もいないようだ。気配すらない。
全てが順調だった。本日は大吉らしい。
「寿、ちょっとまだなの?」
超小型無線機からは「もうちょっと」という台詞だけしか聞えてこない。
「さっさとしなさいよ。もう、本当にあんたってグズね。
あんたのせいであたしはガキの頃から苦労の連続よ」
「あなた誰?ここは立ち入り禁止区域よ」
突然だった。まどかはぎくっと全身硬直した。
まどかも幼い頃から特殊訓練を受け、ひとの気配に敏感なのだ。
にも係わらず、周囲にひとの気配はなかった。それだけに安心しきっていた。
そんな時に突然予想外の声、ぱっと左に顔を半回転させると自分と同じくらいの年齢の少女が立っていた。
知らない少女だったが、明らかに自分とは種類が違うことだけは瞬時にわかった。
人種が違うというわけではない、それ以上に何か異質なものを感じたのだ。
人間らしい臭いが希薄なくらい透明感があるといったらいいだろうか?
ただ、まどかは本能で思った。
(この女気に入らないわね。味方じゃないわ、何よ、この女)
「聞えなかったの、あなたは誰?」
「そういうあなたは誰だっていうのよ。立ち入り禁止区域にいるのはあなただって同じじゃない」
「私はここの居住者よ。あなたとは違うわ」
「居住者?」
「そうよ。だから、あなたとは違うわ」
まどかの口調も棘があったが、その少女も柔らかいとはいえない言い方だった。
元々ひとあたりの良くないまどかはカチンとなった。
「あんたみたいな小娘がここの居住者?いい加減なこと言わないでよ。
ここはⅩシリーズの居住地区なのよ。ここに住めるのはⅩシリーズとその担当教官だけだわ」
「そうよ。だから私はここにいるの」
「言ってる意味が全然わからないわ」
「あたしを誰だと思ってるのよ、高尾大尉のフィアンセよ!」
「え?」
少女の顔色が変わった。明らかにショックを受けている。
(ははーん、わかったわ。この女、大尉に惚れてるのね。
残念だったわね、あんたがぞっこんの大尉はあたしの彼氏なのよ。
でも、ちょっと可哀想だったかしら。でも現実って残酷なものなのよ)
「残念だったわね。でも、それはしょうがないのよ。
優秀な男には優秀な女がつけられるものなよ。だから長官があたしを選んだのも至極当然ね」
「ひとの気持ちは無視なのね。いつもそうだわ、それがあいつのやり方ですもの」
「何よ、それ。あいつって長官のこと?ふざけたこと言うんじゃないわよ。
長官はいつも正しいのよ。今度の件だって正しい判断だわ。
大尉は任務には忠実だもの。あたしたちきっといい関係になるわよ」
「あなたも晃司の気持ちは考えないのね」
まどかの口元がぴくっと引き攣った。
「晃司、ですって。あんた、大尉を呼び捨てにするなんてどういうつもりよ!」
そんなことフィアンセのあたしですら、まだ言ったこと無いのに!
「晃司とはずっと名前で呼び合ってきたのよ。あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「うるさいわね、さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれて!
あんた、一体何者なのよ。長官にいいつけて厳重処罰にしてくれるわよ」
「
天瀬良恵。私はⅩシリーズの眷族よ、だからここにいるわ」
「天瀬……良恵ですって?」
耳にしたことなら何度もあるその名前。何かの手違いで女に生まれてしまったⅩシリーズ。
そのため正式なⅩシリーズとは認められず、別扱いになっている存在。
「わかったなら早く出ていったほうがいいわ。
こんなことがばれたら、あなた自身のためにもならないんじゃない?」
「何ですって?」
「そのセーター、晃司へのプレゼントらしいけど、賭けてもいいわ。晃司は着ないわよ。
晃司はハート模様の黄色いセーターなんか絶対に着ないわ。
彼、そういうものには興味ないの。目立つ服装は任務の支障になるから」
「なんて女……さてはあたしと大尉の関係に嫉妬してるのね!」
「…………」
無言になった良恵に、まどかは、やっぱり!と確信した。
今までの暴言もただのひがみだったのね、偉そうなことほざいちゃって。
ふふん、大尉の相手に選ばれたのはあたしですものね。
あんたは、あたしにヤキモチやいてるだけなのよ。
「哀れね、大尉に相手にもされなくて。でも、あたしは違うのよ。
あたしは長官のお墨付きなんだから。
そんな、あたしを妬みたいあんたの気持ち、わからないでもないわよ」
「そう思いたければ勝手にどうぞ。私は忠告はしたわよ」
「何ですって?」
「けれどこれだけは言わせて貰うわ。
あなたに少しでも晃司を大切に想う気持ちがあるなら二度と上の権威は振りかざさないで。
そんなことで晃司の気持ちは動かないわよ。晃司は私の大切な人なの。
今度、そんなことを口走ったら、私はあなたを許さないわ」
「……あ、あんた」
まどかは同じ科学省の同年代の少年兵士の中では男にも負けたことは無い。
そのまどかに、この生意気な女はふざけた態度でふざけた台詞を吐いたのだ。
元々短気なまどかの怒りの導火線は一気に短くなった。
「まどか、まどかー。駄目だ、やっぱりパスワードがないと……」
寿が廊下の先から駆け寄ってきた。
そして 良恵を見るなり、真っ赤になって一瞬ぼーとした。
しかし、すぐに自分達の立場を思い出してギョッとした。
「み、見付かった!まどかぁ、だから俺はやめようって言ったのに!」
「安心して私は係わるつもりはないわ。上に報告する義務もないもの」
「え?」
「だから、さっさと逃げたら?あとはあなた達次第よ」
「あ、ありがとう……あ、あの……」
良恵はこれ以上問答無用とばかりに背を見せて歩き出した。
もう二度と振り向かなかった。
「な、なんて……なんて……!」
まどかはぎゅっと拳を握り締めた怒りのあまり次の言葉が出ない。
なんて生意気で底意地の悪い女なの!
あんな女が身内なんて高尾大尉が可哀想過ぎるわ!!
そうだわ、あたしが可哀想な大尉を慰めてあげるのよ。
そうすれば、大尉もあたしを快く受け入れてくれて一石二鳥。
勿論、そのあかつきには大尉に忠告して、二度とあんなとは女とは係わらないようにするのよ。
でないと、また、あたしと大尉の仲を裂こうとするに決まってるもの。
「ああ!本当に思い出してもムカつくわ、何よ、あの――」
「……綺麗なひとだったよなあ」
――ぴくっ……まどかの額に怒髪筋が浮んだ。
「なあ、まどかも見ただろ。あんなすげー美人、俺、生まれて初めてみたよ!」
「…………」
「ここにいるってことは、もしかして大尉の身内なんじゃないのか?
ほら、名前なんだっけ?そうだ、思い出した良恵だ、天瀬良恵さん!」
まどかが俯いていたが興奮して喋り捲っている寿は気づいて無い。
「やっぱり高尾さんや堀川さんの血筋だけあって俺達とはレベルが違うって感じだよな。
美人だとは思ってたけど、まさかあれほどなんてさ。科学省が隠しておきたい気持ちわかるよ」
「……寿」
「目の保養になったよ。な、まどか。今日はラッキーデーかな?」
ブツン……何かが切れた音がした――。
「むっ」
まどかが寿と科学省幼年兵訓練所の廊下を歩いていると向こう側から菜穂が弟を連れて歩いてきた。
前々から好意を持っていたわけではないが、フィアンセの件があってから、まどかは菜穂を敵視している。
「やっほー諸星、元気だった?」
菜穂の弟の満夫は無邪気に挨拶してきた。
それすらも、まどかには空気を読めないガキの浅はかさの象徴に見える。
「ふん」
まどかはぷいっと顔をそらした。
「今日はいい天気だね」
しかし、満夫はまどかの敵意に全く気づいて無い。
「ねえ、ところで江崎さん、その顔どうしたの?」
寿の顔は三日前から変わっていた。
右目の部分には目立つ引っかき傷、それに痣。さらに両頬は腫れ上がっている。
満夫は気付いてくれたが、他の人間は寿が口を開くまで誰かわからなかったくらいなのだ。
「……階段から落ちたんだ」
「えー、だって、その傷って爪痕だろ?」
「あ……いや、その……」
寿がまどかの顔色を恐る恐る伺っている、まどかが殺意をこめた視線で寿を射抜いた。
「ね、猫にやられたんだ!」
寿は咄嗟にでまかせを言った。
「へえ、タチの悪い猫がいたんだね。でも、おかしいなあ、だって、その爪って猫とは違うんじゃない?」
「やめるんだ満夫。他人が口出すことじゃない」
満夫の無邪気な尋問は、菜穂の気配りでやっと停止した。
「そうだね。あ、そうだ。ねえ、高尾さんたちが今日来るって知ってる?」
勿論、知っている。男専用の訓練施設にしか来ないらしいが。
「もうそろそろ到着する頃だよ、見に行こうよ!」
「そうだね」
満夫と寿は早急に立ち去った。気まずい雰囲気のまどかと菜穂を残して。
「やっぱ俺達とはレベルが違うよな」
「ああ、なんていうか雰囲気っていうか立ってるだけで空気が違うんだよな」
寿と満夫が駆けつけると、すでに彼らは来ていた。
科学省の至宝にして最高傑作の高尾晃司と堀川秀明。
他の少年兵士達は彼らを遠巻きに見詰め話に花を咲かせている。
彼らが騒然となっている理由は、科学省の英雄がお出ましになっただけではなかった。
「俺ら本当にラッキーだよな。まさか噂の彼女まで同行してたなんて」
「噂の彼女?なあ、それどういうことだよ」
寿が問うと、「ほら見てみろよ、彼女だよ。噂のⅩシリーズのお嬢さん」と、指をさした。
その指先に視線を送ると、3日前に出会った彼女がいるではないか。
突然の再会に寿は胸を躍らせた。
同時に全身の傷に3日前にまどかによって与えられた激痛が走る。
体はあの時の悲劇をまだ忘れてなかったのだ。
Ⅹシリーズは科学省の少年兵士の目標でもあり憧れでもあった。
しかし、同時に近寄りがたい存在でもあり、誰もが近付こうともしない。
そんな中、「ねえねえ!」と元気よく、兵士達の群れから飛び出した人間がいた。
「み、満夫さん、駄目ですよ!」
それは満夫だった。
慌てて寿が止めようとするが、時すでに遅く、満夫は晃司や秀明のすぐそばまで来ていた。
「サイン。サインちょーだい」
そしてメモ帳とサインペンを取り出し、すっと差し出している。
寿は勿論、他の少年兵士も一斉に青ざめていた。
「す、すごいな満夫さん……さすがに時期特撰兵士候補は違うよな」
「ああ、俺なんてちょっと怖くて自分から近付くなんてとても……」
誰もが固唾を飲んで満夫と晃司たちを見詰めた。
晃司も秀明も、無言のまま差し出されたメモ帳をじっと見ている。
こういう体験は初めてなのか、どう対応したらいいのかわからないようだ。
「晃司、秀明、サインくらいいいんじゃない?」
ぴんと張り詰めた空気を瓦解したのは良恵の一言だった。
「彼、あなた達を慕っているのよ。応えてあげたら?」
「そうか。良恵がそういうのなら、それもいいだろう」
晃司はメモ帳とサインペンを受け取ると、すらすらと達筆な字でサインした。
「ありがとう!」
満夫は無邪気に喜んでいる。
「そうだ。江崎さんもしてもらいなよ、サイン」
「ええっ!?」
全くの予想外の出来事に寿は途惑った。
「そうか、いいだろう」
晃司はすっと寿に右手を差し出した。どうやらメモ帳を受け取るつもりらしい。
(ま、まずい!)
寿は焦った。寿は訓練の帰りで筆記用具なんて一切持ってない。
あるとすれば訓練に使用したウェアやシャワー道具一式くらい。
かといって、せっかく恐れ多くも高尾晃司がサインをやるといってるのに断るわけにはいけない。
(そうだ!)
寿は突然閃いた。そして買い物袋から新品のパーカーを取り出した。
シャワールームに隣接していた売店で購入したばかりの品だった。
「あの、これにサインお願いできますか?」
本来ならTシャツなどにお願いするものだが、そんなもの持ってないから無いよりマシだという苦肉の策。
晃司は別段怪しむことなくパーカーにサインしてくれた。
「まどか、まどか!見てくれよ、満夫さんのおかげで……あれ?」
『ちょっと、後でしっかり大尉の話聞かせなさいよ。図書室で待ってるから』
そう言っていた本人は誰もいない図書室の窓際の席で居眠りをしていた。
「まどかぁ、こんなところで寝たら風邪引くぞ。ほら、起きろよ」
背中に手を添えて揺さぶってみたが、まどかが起きる気配は無い。
デスクの上には外国語試験の試料が山積みとなっている。
「そっか……おまえ、外国語試験も受けるのか……ほんと、こういう所は感心するよ。
あれだけ資格とりまくったのに、まだ満足してないんだな」
付き合いが長い寿だからこそ知っている、まどかの数少ない長所の1つ。
「試験、もうすぐだもんな。あんまり寝てないんだろ。
もう少しくらい寝かせてやりたいな……でも、こんな所じゃ風邪引くし……」
あ、そうだ!寿は鞄の中からパーカーを取り出すと、そっとまどかにかけてやった。
「あんまり無理するなよ」
「……ん、やだ、あたし寝てたの。あら?」
見覚えの無いパーカー、一体誰がかけてくれたんだろう?
まどかはパーカーを手にとった。
「こ、このパーカーは!!」
パーカーに記された名前は間違いなく『高尾晃司』だ。
「つ、つまり、これは高尾大尉のパーカー!」
大尉が、大尉が……あたしに自分のパーカーをかけてくれたのね!
あたしが眠りに付いている時に、大尉がそっと近付いてこれを……。
そんなさりげない優しさをかけてくれるなんて、大尉はあたしを認めてくれたのね。
あたしをフィアンセとして受け入れてくれた証拠よ。
まどかは天にも上る気持ちだった。
「早速、このことを科学省の兵士達に教えてやらなきゃ。
結衣や菜穂にも思い知らせてやる。何より、あの生意気な女に!」
まどかはルンルン気分で科学省中に言いふらした。
「その話本当かよ?」
「ああ、あの女、すげー自慢げだったぜ」
少年達の井戸端会議はまどかの自慢話で持ちきりだった。
「ねえ、何の話?」
突然の第三者の声に、少年達は振り向いた。
「「み、満夫さん!!」」
そこにいたのは緒方満夫だった。
「ねえ何の話?」
「……実は」
「あたしが直接教えてあげるわよ。ふられ女の弟さん」
何と言う多インミグだろうか、噂になった本人の登場。
「じゃーん、これ、なーんだ」
まどかは自慢げに例のパーカーを取り出した。
「高尾大尉の愛の証よ」
「何で?」
「あの女の弟だけあって鈍い子ね。だからガキは嫌いよ。
大尉が眠るあたしにそっとかけてくれたのよ」
まどかはパーカーを抱きしめて頬を寄せた。
「何で?」
「何でですって?まだわからないの、大尉が――」
「だって、そのパーカー。江崎さんのものだよ」
「……え”?」
まどかの自慢話は勘違い女のお笑い話へと変化して科学省中の少年兵士の間を駆け抜けた。
「ふわぁ……やっぱ、早朝練習はきついなあ」
寿はまだ思い瞼をこすりながら、だるそうに扉をあけた。
「うぉ!?」
そこに俯いたまどかが立っていたのだ。
「なんだ、まどかか。脅かすなよ」
「…………寿」
「どうしたんだよ、暗い声してさあ。こっちは幽霊かと思って一瞬びびったぜ」
まどかがゆっくりと顔を上げた。
その顔は――羅刹だった。
「よくも大恥かかせてくれたわね!あんた、あたしに何の恨みがあるのよ!!」
「え?」
「この最低の糞野郎!!」
直後、蛙が轢き殺されたようなおぞましい悲鳴がこだました――。
本日は晴天なり。
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