幼い頃から何度同じ台詞を聞かされてきたことか。 克巳、11ヵ月しか違わない俺の弟。
ひとは俺達をそっくりだというが、まるで違う。
同じ顔なのに、いや外見が違うからこそ余計に際立ってわかる。
――俺とおまえの違い。そして、俺は、おまえの足元にも及ばない存在だということに。
鎮魂歌―水島博巳―
「克巳、今日からおまえは特選兵士だ。よくやったぞ、おまえは水島家の誇りだ」
「本当におまえを生んで良かったわ。おまえは我が家の希望の星よ」
「いやあ、本当に良かった良かった」
「お祖父様、母様、父さん、それほどでもありますよ」
その日、水島家はお祝いムード一色だった。
難関中の超難関と言われる特選兵士に克巳が就任したのだから無理もない。
「お披露目パーティーは後日やるとして、今日は身内だけの内輪の祝いだ」
身内だけといっても、その豪勢さは群を抜いていた。
その騒々しいくらいの賑やかさは自室で静かに読書をしている博巳の耳にも届くらいに。
(……特選兵士か)
水島家の息子というだけで十分すぎる肩書きに、もう一つ究極的な肩書きが加わった。
(これで水島家の跡取りは克巳で決定だな……わかっていたが、はっきりして良かった)
水島家には二人の息子がいる。 長男・博巳、そして次男・克巳。
しかし、どういうわけか祖父と母が幼い頃から盲愛しているのは弟の克巳の方だった。
反対に兄の博巳は疎まれて育った。
婿養子である父は訳隔てなく子供達に接しようと努力はしてくれている。
しかし義父や妻の手前、差別される長男を庇ってやれず避けているのが事実。
(無理もないな。俺は克巳と違って優秀な人間じゃないから)
博巳は常に克巳に対して劣等感を持って育った。
物心ついた頃から祖父と母が露骨に兄弟の扱いに差をつけたのだから無理もない結果といえよう。
(俺はどうして克巳のように生まれてこなかったんだろうな)
――克巳は明るくて華やかで積極的で社交性がある。あいつの周りにはいつも人がいる。
――反対に俺は地味で不器用。つまらない人間だ。
その事実に博巳が始めて気づいたのは、ほんの幼児の時だった。
それは国防省でも稀なほど煌びやかなパーティーだった。
当時の総統陛下の娘が新婚旅行から帰国し、国防省にてお披露目パーティーが開催された。
なぜなら彼女の相手が国防省のエリート官僚だったからだ。
博巳と克巳が、幼少でありながら出席を許されたのは一重に祖父である国防省副長官のコネに他ならない。
祖父は将来水島家を背負って立つ孫息子に総統一族とお近づきになれるチャンスをと思ったのだろう。
幸い、孫達は幼いながらも大変な美貌の持ち主。
新妻となった総統の娘に花束を贈呈する役目を与えることにした。
「さあ博巳、花束を」
母・華子は博巳の背中を押した。しかし博巳はパーティーのヒロインに近付こうとしない。
幼い子供が会場の雰囲気に飲まれ気後れしているのだろうと思った者のいる。
しかし、博巳が嫌がったのは、そんな単純な理由ではなかった。
博巳は見たのだ。今、この場で一番幸せであるはずの女の醜い本性を。
一時間ほど前、博巳と克巳は共にパーティー会場を抜け出しある部屋に入り込んだ。
やはり幼い子供には窮屈だったのだ。だから大人のいない部屋でゆったりしたかったのだろう。
だが彼らの計画はすぐに破綻した。廊下の奥に位置する人気のないはずの部屋に誰かが入室してきたからだ。
「誰だろう?」
「扉には『関係者以外入室禁止』ってあったよね?」
完全に宛がはずれた二人は、慌ててデスクの影に隠れた。
「ああ、本当に嫌になっちゃうわ」
女の声がした。しかし足音は二人分、どうやら連れがいるようだ。
「でも、あなたがいないと会場は大騒ぎになりますよ。本日の主役はあなたなんだから」
「そうね。すぐに戻らないと……でも、その前に。ねえ」
何だか妙な雰囲気だった。それが男女の色事なんて、幼い二人にはわからない。
ただ、嫌な感じだということだけはわかった。
「悪い人だ……結婚したばかりなのに」
「結婚したら身を清くしろっていうの冗談じゃないわ。ねえ、早く来てよ」
やがて、熱い吐息まじりの妙な声が聞こえだした。
二人はお互いの顔を見詰めあい最初はきょとんとした。
こんな声をきいたのは生まれて初めてだったからだ。
幼い博巳に、それがどういうものなのかわからないが、ただ、怖くて堪らなかった。
克巳が不思議がって身を乗り出し、博巳も恐る恐る覗き込むようにして見た。
男と女が絡み合っていた。服を着崩し、男が息も荒く女の体を揺さぶっている。
その度に女が不気味なほど甲高い声をあげた。
「何してるんだろう?」
克巳が小声で囁いてきたが、聞かれても勿論博巳もわからない。
ただ、恐ろしくいかがわしいことだということは本能的に悟った。
そして、その行為に夢中になっている女が、本日のパーティーの主役である総統の娘だったのだ。
相手の男は――彼女の夫では無かった。
「博巳、どうしたの?」
博巳は怯えた目で彼女を見上げていた。その目には強い嫌悪の色が現れている。
完全に怯え、まるで化け物でも見るかのような、その視線に総統の娘も気づき露骨に不快の表情を表した。
華子は焦った。こんなことで総統の娘の機嫌を損ねては大変だ。
「博巳、失礼でしょう。さあ、お花を」
普段は親の指示に従う良い子だったが、博巳は「嫌だ」と完全なる拒絶をした。
博巳には、皆から美しいと賛美されている、その女は汚いモノにしか見えなかったのだ。
「結婚、おめでとう!」
凍てついた空気を一瞬で変えたのは克巳だった。
克巳は博巳が手にしていた花束をぱっと奪うと、彼女に駆け寄りニッコリと笑ってそれを差し出したのだ。
その愛らしい仕草に会場の誰もが、顔をほころばせ同時に安堵した。
あれほど不快感を示していた総統の娘も、「ありがとう僕」とニコニコと笑顔で答えた。
それが博巳と克巳の最大の違いだった。
祖父も母も大喜びで、それからというもの克巳を盲目的に可愛がるようになった。
克巳はその期待に応えるかのように、公の場所で人々に愛想を振りまく。
博巳にはできなかった。汚いものに目を瞑り、嫌いな人間にも満面の笑みを見せることなど。
克巳は平然とやってのけた。幼いながらも処世術をわきまえ、どんな相手にも嫌な顔一つしない。
博巳はあまりにも生真面目で融通がきかない性格だった。
反対に克巳は世の中の醜いものを平然と肯定し受け入れ、見て見ぬふりもお手の物だった。
成長するに従い、その違いはくっきりと目立つようになっていった。
特選兵士になりたいと言った時も、祖父や母は猛反対した。
『克巳が特選兵士になるから、おまえがそんなものになる必要は無い』
その一言で博巳の人生のルートは一つ消えた。
(祖父も母も克巳を溺愛している。父も内心克巳が可愛くてたまらないんだろうな)
家族の縮図は、そのまま兄弟を取り囲む人間関係の基本でもあった。
学校でも克巳は派手にもてた。
自分から積極的に他人にかかわる克巳は、常に人の輪の中心となっていた。
対して目立つのが嫌いな博巳は、気がつけば克巳の影のような存在になっていた。
――誰もが克巳に惹かれる。俺個人を見てくれる人間なんて存在するだろうか?
――数年後――
『博巳さんは、あの人とは違うわ。だって、とても温かい目をしているもの』
別れ際に美恵がかけてくれた一言がなぜか忘れらなかった。
(そういえば家族以外で俺と克巳の区別がつく人間は久しぶりだったな……)
家族以外で博巳と克巳の区別がつく人間なんて限られている。
博巳が知る限り、そんな人間は克巳の特別の恋人だけだった。
(克巳は昔から俺と見間違えられることを嫌っていた。だから区別がつく真壁や鹿島がお気に入りなんだ)
しかし弟と混合されることは博巳自身、あまり気持ちのいいものではなかった。
『あ、あの私、水島君のこと好きです』
頬を染め必死に告白してくる女生徒に何度同じ台詞を吐いたかわからない。
『俺は兄の博巳だ。弟はもう帰宅した』
そして女生徒はバツの悪そうな顔をする。それは毎度お決まりのパターンだったものだ。
克巳は同じ年頃の男子が憧れの女性を遠くから眺めて満足している頃にはすでに女の体を知っていた。
誰よりももてるということは、克巳にとって重要なビタミン剤のようなもので山より高い自信とプライドの原動力にもなっている。
反して博巳は、そういうことにはあまり興味がなかった。
実に対照的な兄弟だったといっていいだろう。
二人揃って名門学園の優等生ではあったが、克巳が学園のプロムで楽しんでいる間も博巳は自宅で読書をしていた。
博巳は派手なことが生来苦手で、人見知りする性質だったからだ。
誰にでも気軽に話しかける克巳の方が家族や周囲の人間に可愛がられるのは必然だと誰よりも博巳自身理解していた。
トントンと、誰かが扉をノックしてきた。
「兄さん、いる?」
博巳は舌打ちしたい気分だった。あの弟が自分に用があるなんてろくなことじゃない。
「入るよ」
許可も出さないうちに克巳は勝手に入室してきた。
「何の用だ?」
「とぼけるんじゃないよ。驚いたよ、兄さんが俺に逆らうなんてね」
博巳は克巳から目を反らした。美恵を逃がしたことは、やはりバレバレだったようだ。
それでも今はシラを切るしかない。
「何の事かわからないな」
「あくまで知らないフリするんだねえ、まあいいさ」
克巳は、ふいに博巳の頭部をつかむと顔を上に向かせた。
「……本当に嫌になるよ。それは俺の顔だ、同じものを他の人間が持ってるなんて」
ナルシストの克巳にとっては、こんなつまらないことが許せないことなのだ。
「つまらないことを言うな。おまえは全てを持っているだろ」
「ああ、そうだったねえ。俺は全てをもっている、兄さんと違ってね。
知性、名誉、才能、輝かしい未来……本当に完璧とは俺のためにあるような言葉だよ」
「だったらつまらない嫉妬なんかするな」
「嫉妬だって?」
途端に克巳の美しい顔が醜く歪んだ。
「ふざけたこと言うんじゃないよ。おまえなんかに、どうしてこの克巳様が下卑た感情もつっていうんだ?」
「言葉は慎重に選べよ」
「……ああ、わかった」
下手なことを言えば克巳は暴走する。この冷酷無比な弟の怖さを誰よりも肌で感じているのは博巳だった。
「彼女……なかなか綺麗だったねえ。いつか俺がつかまえるよ、その時は二度と邪魔するんじゃないよ」
「…………」
「聞えてないのかい?彼女にかかわるなって言ってるんだ」
「……かかわるわけがないだろう」
「ああ、そうだったねえ。何しろ兄さんとかかわる女は、いつも不幸になるんだから」
克巳は、「肝に命じなよ」と捨て台詞を残して去っていった。
『兄さんとかかわる女は、いつも不幸になる』
「……言われなくてもわかっているさ」
博巳は二年前の悲劇を思い出していた。
「俺は二度と彼女とは会わない。それが彼女のためだ――俺は疫病神だから」
――二年前――
博巳と克巳は共に某学園にいた。将来の士官や官僚を育てる名門中の名門学府だ。
すでに特選兵士である克巳は今さら学生などするような身分ではなかったのだが気まぐれなのか入学していた。
と、いっても任務もあるので通学はままならないが、それでも克巳は今まで同様女生徒にモテモテだった。
ここでも博巳は克巳の影となっていたのだ。
そんな、ある日の放課後のことだった。学園で有名な綺麗な女生徒が博巳に告白してきた。
「私、水島君のこと好きなの。よかったら付き合ってくれないかしら?」
博巳は定番となっていた台詞を吐いた。
「悪いが俺は兄の博巳だ。弟の克巳じゃない」
ここまではいつもと同じ。だが、次の瞬間予想外の言葉を彼女は口にした。
「だから告白しているのよ」
博巳は驚いた。こんな場面は彼のシナリオには全くなかったのだ。
「私はあなたが好きなの。弟さんじゃなく、あなたの事が」
彼女とは同級生といっても特別親しい関係ではない。
出席番号が同じためか、日直を共にやるくらいの間柄だった。
「私は克巳君みたいな派手なひとよりも、真面目で優しいひとが好きなの」
そう言ってくれた彼女の言葉は嬉しいというよりも戸惑いの方が大きかった。
学園一の美人と評判の彼女が、克巳ではなく自分を見てくれていたのだ。
この時、教室の扉の外で二人の会話を聞いている人物がいることに気づいていたら、悲劇は避けられたかもしれない。
彼女から告白を受けて二日がたっていた。
返事はいつでもOKと言われていたが、早い方がいいだろうと考えながらの下校中。
そんな時に着信音が鳴った。携帯電話の画面を見て驚いた、克巳からだ。
『兄さん、まだ学園の近くだろ?俺、ノート忘れたんだ。悪いけど取りに戻ってくれないかな?』
学園には十分もあれば戻れる。人のいい博巳はすぐに承諾し来た道を逆に歩き出した。
教室の扉を開くと西日の中に人影があった。誰かが自分の机の上に座っている。
夕陽が眩しくて良く見えない。
「……水島君?」
「そうだよ。告白の返事しようと思って待ってたんだ」
放課後の校舎は静まり返っており、他にひとの気配はまるでなかった。
「君は学園一の美人だし、俺に相応しいと思うよ」
頬に手を添えられ、その大胆な行動に彼女は驚いた。
「ちょっと待って」
「悪いけど、そんな野暮なお願いは聞くつもりないんでねえ」
「……あなた」
彼女の目の色が変わった。
「あなた水島君じゃない!」
胸を押し返されたが男はびくともしない。それどころか、そのまま教壇の上に彼女を押し倒した。
「何言ってるんだい。俺は『水島君』だよ」
彼女は震え出した。
「……全く嫌になるよ。困るんだよ、ああいうことをされちゃあ」
「……あ、あなた……何をしているのかわかってるの?」
「おまえこそ、わかってるの?今まで俺にこんな恥かかせてくれた女は一人もいなかったんだよ。
誰もが俺に夢中、俺に恋して愛して愛して、そして全身全霊を捧げてやっと振り向いてもらっている。
そう、誰もがだ!それなのに、その俺を差し置いて……」
「あいつが好きだって!?そんなこと許されるとでも思っているのか、ふざけるんじゃないよ!!」
「思ったより日が暮れるのが早かったな」
博巳は急いで教室に向かった。
(……人の気配?)
誰もいないだろうと思われた教室に誰かいる。最初は教師かと思ったが違った。
突然、扉が開き女生徒が飛び出してきたのだ。制服や髪の毛は乱れ、その顔は涙で濡れている。
「……大久保!」
つい、数日前、この同じ場所で自分に告白してくれた女生徒・大久保早苗だった。
「……水島君」
「……大久保」
何があった?などと聞かなくてもわかった。そして、早苗は狼狽している博巳を振り切るように走り去っていった。
「遅かったじゃないか」
暗い教室の中から男の声。灯りなどつけなくてもわかる。
幼い頃からずっと耳にしていた声なのだ。
「……克巳」
「一応言っておくけど彼女に返事する必要はないよ。もう兄さんには近付かないから」
自宅にいるはずの弟がそこにいた。そして勝ち誇ったように笑みを浮かべている。
「何をした?」
それは愚問だった。しかし問い詰めずにはいられなかった。
「答えろ克巳、彼女に何をした!?」
克巳の胸倉をつかんで怒鳴りつけていた。博巳が弟にこんな態度に出たのも初めてだった。
克巳は何も言わず、しばらく静かに博巳の目を真っ直ぐ見つめた。
博巳の目は赤かった。反対に克巳の目は氷のように冷たかった。
「離してくれよ兄さん」
克巳は博巳の手を取ると、ゆっくりと自分から引き離した。
そして今だ感情が昂ぶっている博巳に、恐ろしいほど穏やかな口調でこう言った。
「何をしたのか本当に聞きたいのかい兄さん?」
博巳は言葉が出なかった。ただ、握り締めた拳を振り上げた。
「まさか俺を殴るの?そんなことして只で済むと思うのか?」
克巳は笑っていた。克巳はわかっている、祖父も母も父も、周りの人間は誰もが自分の味方という事を。
そして、博巳がこの件を公にできない性格だということも。
「出るところにでたいのなら兄さんの好きにしたらいいよ。彼女がそれを望んでいるかはしらないけどね。
優等生で社会的地位のある俺を皆疑うかな?俺は構わないけど、晒し者になるのは彼女だよ」
――悪魔
博巳はこの時、生まれて初めて心の底から弟を憎んだ。
今まで博巳は弟を羨ましいと思ったことはあっても、ただの一度も妬んだり恨んだことはない。
だが初めて弟を激しく憎悪し、そして、それ以上に恐怖した。
――克巳は悪魔だ。俺なんか太刀打ちできない。
――克巳に人間の心なんてない。あるのは冷たい感情だけなんだ。
博巳は窓の外を見た。西日は沈みかけており、辺りは薄暗くなっている。
あの時と同じ景色だ。この時間になると博巳はいつも憂鬱な気分になる。
あの忌まわしい事件の直後、博巳は逃げるように転校した。
とても早苗の顔を見る気にはならなかったし、何よりも彼女自身、自分に会いたくないだろうと思ったからだ。
自分にかかわったせいで彼女には一生消えない傷をつけた。
それが博巳の心を深く傷つけ、博巳はそれからというもの意識的に他人とかかわらなくなった。
自分とかかわったら早苗の二の舞になるかもしれない。それを避けたかったのだ。
克巳は特選兵士として華々しい活躍を遂げ、出世街道を駆け上っていった。
風の噂で早苗が克巳の女になったときいたのもその頃だった。
何があったのか知らないが、今では随分と克巳のお気に入りだという話だ。
『彼女にはかかわるな』
克巳の冷たい声が頭に何度もエコーする。言われなくてもそうするつもりだ。
もし今度どこかで偶然出会うことがあっても視界にいれるつもりはないし口もきかない。
完全に無視して、二度と関与することはしない。
それが彼女のためだ。でないと大久保早苗と同じ悲劇を彼女に味あわせてしまう。
「わかってるさ……」
「……俺は二度と彼女とかかわらない」
――俺は疫病神だからな。
太陽は完全に沈み、夜が訪れていた。
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