「よっ、叔父貴。聞いたぞ、新事業成功で株がまた上がったらしいじゃないか」

不況の波もなんのその。
世間じゃ閑古鳥が鳴きわめいているというのに季秋大財閥は全く揺るがず、さらに勢力を増大させていた。
その当事者である季秋の現当主である叔父にねぎらいの言葉をかけてやる夏樹。
叔父は手を顎にそえソファに背もたれしていたが、その表情にこれといった感情の起伏はない。
常にクールな男だが、微妙に驚いていることを夏樹は気づいていた。


「何だよ叔父貴?」
「……おまえ、いつからそんな地味な格好をしている?」
「ああ、これか?イメチョンだよ」


いかにも優等生風のお上品な真ん中わけの髪型に、これまた優等生御用達の眼鏡に無難な服装。
普段の夏樹は眼鏡などつけず、派手なウルフカット。
身に着けるファッションはアメリカの某スターをイメージさせるものが多かった。
身内でなければ、おそらく夏樹とは気付かなかっただろう程の変化。
ここまでくるとイメージチェンジではなく変装の域まで達している。
叔父は相変わらず無表情だったが、疑問を胸に抱いているらしいことは目を見ればわかる。
夏樹はその疑問に答えてやることにした。




「なあ叔父貴、俺は超がつくハンサムで勉強もスポーツも№1といういい男だぜ。
その俺をめぐって学園は女生徒同士の紛争が絶えなくてな。
俺もいい加減に騒がしいのは飽きてきたから転校を機に学校ではいい子ちゃんぶることにしたんだ」
「それで成果は?」
「ま、今のところは予定通り。派手なもて方はプライベートだけにしておくぜ」
夏樹はソファに飛び込むように座った。


「冬也はどんなに騒がしくても、おまえのようなマネはしない」
「あいつは目立つのが一種の趣味だからなあ。
俺はたまには静かに過ごしたい、叔父貴ならわかるだろ?」

確かに私生活ではクラシックを愛し、ゆったりとした時間を過ごしている雄大には夏樹の気持ちはよくわかった。
同時に思った。厄介なものはあっさり捨てるのが夏樹の性格だと。
これさえなければ跡継ぎ問題は違う結果となっていただろうと。
宗政が次期当主にと熱望したのは兄達を差し置いて、三男の夏樹だった。
だが夏樹は「あんな面倒なものはごめんだ。秋澄兄貴がやればいい」と笑う始末。
長幼の順序から弟達より才能に恵まれていない秋澄を不憫に思っていた雄大は半分安堵して半分がっかりした。




「おまえは強い。おまえなら私に何かあっても安心だった」
「そんな事いうなよ。秋澄兄貴だって、ああ見えてなかなかしっかりしてる。
それなりにご立派な当主になってくれるだろうぜ。少なくても親父みたいに家名に泥を塗るようなマネはしないだろ」
「言われなくてもわかっている。だが、おまえ程の強さは到底ない。おまえは誰にも負けないものを持っている」
夏樹は「それは光栄だ。寡黙な叔父貴にそこまでお褒めいただくなんてよ」と、冗談っぽく笑った。


「私はジョークは苦手なたちだ。本当に思っている事しか口に出さない。
おまえは強い。おまえに勝てる人間など、まずいない。もし、いるとしたら――」

「いるとしたら?」




「敗北よりも死を選ぶ男だ」




鎮魂歌―季秋夏樹―




その日、季秋家は騒然となっていた。
現当主の雄大と今だ実権を握る先代当主の宗政が不在という事もあり、執事から下働きに至るまで大騒ぎだ。
それというのも大事な若君である春樹が流血姿で屋敷に運び込まれたからだ。
春樹は供も連れずに外出していた。
季秋の統治下だから安全だと思ったのだろう。
だが中学に上がったばかりの少年の浅はかな冒険心が生んだ結果は最悪だった。
すぐに主治医が呼ばれ、春樹は今はベッドでおねんね。
秋澄は弟の痛ましい姿にショックを受け盛大に取り乱した。


「落ち着けよ兄貴。今は兄貴がしっかりしてくれないと話にならねえぜ」

夏樹に諭され秋澄は「わかってる。わかってるんだ」と幾度も繰り返した。
平和的な性格の秋澄には衝撃が強すぎたのだろう。

(無理もねえな。兄貴は死人どころか修羅場ってもん自体知らないんだ)

幸い春樹は右足を捻挫した程度で、出血の割にはほとんど軽い打撲だった。
だが、傷の程度など関係ない。季秋家の御曹司が襲われ怪我をした、その事実が全てだった。




「……兄貴?」
「春樹、目が覚めたのか?」

秋澄は注意深く春樹を見つめ安堵の溜息をついた。

「……俺、どうしてここに」
「春樹、覚えてないのか?おまえ、血まみれになって帰ってきたんだぞ」

春樹はぼんやりしている。
秋澄は記憶障害でも起こしたのかと一瞬ぎょっとなったが、それは一時的なものだった。
「そうだ、俺、あいつらとやりあって……」
あいつら……つまり相手は複数ということだ。それが夏樹が気になった。

「……うわああ、くやしいよ!」

春樹は突然号泣しだした。よほど悔しかったらしい。




「春樹、相手は誰なんだ?!おまえにこんなマネをしたんだ、絶対に許せない。
兄さんに言ってごらん。おまえの仇をとってあげるから」
「兄貴、俺、もう学校には行きたくない!あんなダニに!悔しい、悔しいんだ!
あ、あいつら絶対に俺をのしたって言いふらしているに決まってる。
だから、もう学校には行かない!絶対に行かない、行かない!!」

春樹は枕に顔をうずめて再び慟哭した。


「……は、春樹~」
秋澄は困ってしまった。春樹の気持ちもわかるが登校拒否を許すわけにはいかない。
「春樹、落ち着くんだ。二度とこんなマネはさせないから学校には……」
「嫌だ!」
何とか春樹をなだめなければ。
そんな秋澄を嘲笑うかのようにとんでもない来客が現れた。




「アーハッハッハっ!聞いたぞ、春樹ー!!
てめえ無様にも成金不良集団にやられたらしいなー!!」




「ふ、冬樹!!」

秋澄は青ざめた。これは非常にやばい展開だ。
冬樹は春樹とは兄弟でありながら犬猿の仲。今回の事件は冬樹にとっては大爆笑ものだった。

「俺だったら返り討ちにしてたぜ、この弱虫、てめえなんか男じゃねえっての!」
「ふ、冬樹!おまえ何てことを……!!」

秋澄は慌てて冬樹を叱るが、もちろん冬樹には馬耳東風。
春樹はプライドをずたずたにされ声を殺して泣いている。
それすらも冬樹の笑いのツボにはいったようで、冬樹は腹を抱えてのた打ち回っている。
さらに春樹の脚にまかれている包帯に『負け犬』と落書きまでする始末。
しかも、さらに最悪な来客がやってきた。




「春樹ー!てめえ平民上がりのクズ連中に負けたとはどういう了見だー!!」




「げっ!あ、秋彦兄さん!!」
「何が「げ」だ秋澄。てめえ文句でもあるのか?」
「……い、いえ」
「だろうなあ。俺はいつだって正しいんだ、俺に意見できるわけがねえ」
秋彦の視線が秋澄から春樹に移動した。


「春樹、てめえなんざ男じゃねえ!どんな卑劣な手を使ってでもなぜ勝たなかった!?
さあ立て!今すぐ銃火器そろえて復讐しろ、皆殺しだー!!」

秋澄の背中に戦慄が走った。恐れていた展開だ。

「それが出来ねえっていうなら、春樹!今すぐ自決して果てろ!!」
「無茶言わないでください、兄さん! それに春樹は怪我人なんですよ、乱暴な扱いはしないで下さい!」
「何だとー!それでも、てめえは季秋の人間かあ!!」

秋彦は問答無用とばかりに秋澄を押しのけると春樹に鉄拳制裁。
その傍らで冬樹がさらにげらげら笑っている。




「兄さん、やめて下さい!」
秋澄は春樹を庇うように抱きしめた。
「どうしても春樹を殴るというのなら、代わりに僕を――」
「ぶっ殺されても構わないってかぁぁー!!」
「そ、そこまで言ってませんー!!」
秋彦の怒りの矛先は秋澄に。凄まじい暴力の嵐が吹き荒れた。



「やれやれ」



夏樹はその混沌として光景を他人事のように見ていたが、さすがに限界だと悟った。
このままでは秋澄は家庭内暴力の果てに、三途の川を横断する羽目になってしまう。


「おい秋彦兄貴」
「てめえは黙ってろ夏樹、この惰弱野郎はこうでもしないと改心しな――」

ガン!という鈍い音が秋彦の頭蓋骨に響いた。


「なーにが改心だ。しばらく寝てろ」


秋彦はそのままずるっとうつ伏せの体勢で床にダウン。夏樹は、その後ろ襟首を掴み歩き出した。
「こいつは俺が適当に捨ててくる。兄貴はその馬鹿をいい加減黙らせろよ」
夏樹は呆れ顔で冬樹を指差した。まだ爆笑している。
「あ、ああ……夏樹、助かったよ」
秋澄は心底ほっとしている。残った問題は春樹だけだ。
「それから春樹」
名前を呼ぶと春樹はびくっと反応した。

「ちゃんと明日から学校に行け。登校拒否なんて絶対に認めねえからな」














「あの生意気な小僧、これに懲りて二度と来ないだろうな」
「ざまあねえぜ。教師にちやほやされてるからって、いい気になりやがって」

春樹が通っている学園の高等部を影で支配している不良集団、そう春樹に怪我を負わせた連中だ。
中等部の春樹とは通常接触しないはずだった。高等部は隣接しているとはいえ敷地が違うのだから。
春樹が進学してしばらくすると、彼らは新入生から『集金』する目的の為に、わざわざ放課後の中等部にやってきたのだ。
春樹は身分を偽って学園生活をしている。
とはいえ周囲の教師達の態度からして特別なものだと同学年の者なら誰もが知っていた。


しかし高等部の連中は知らなかった。
不良のリーダーは暴力団ともつながりのある資産家の息子。
その為、自分に逆らう人間はいないとたかを括っていたのだ。
だが春樹は金を献上するどころか反抗した。当然、彼等は激怒し、結果春樹は痛い目にあったというわけだ。
相手が年上で、多勢に無勢、さらに自分は丸腰と不利な条件は揃っていた。
それでも負けは負け。春樹にとっては思い出したくもない屈辱だった。




夏樹は三人の弟を連れ、春樹の学園の高等部の屋上に来ていた。
高等部の屋上は彼らのたまり場。広くて日当たりもいい。
不良集団は今日も授業をさぼって屋上にやってくるだろう。
昇降口の扉が開いた。夏樹が待っていた人間どもの登場だ。
彼等は見慣れるものが視界に飛び込んだせいか不快そうに眼を細めた。
逆光のせいで彼等にはシルエットが一瞬見えただけだが、彼ら専用の癒しの場に先客がいる事だけはわかったようだ。


「何だ、てめえら?」
屋上が彼等の私物と化していることは、高等部の人間なら誰しも知っている。
教師でさえ滅多に近づかないはずだった、その場所に図々しくでかい面している人間がいる。
それは不愉快極まりない事だと表情を見るだけでわかった。
だが、夏樹は自分の方がはるかに不快な気分だという自信があった。
それでも、そんな気持ちを出さずに、ごく普通の口調で切り出した。




「よお、初めまして。腐ったダニ連中さんよ」




口調は明るいが、明らかに喧嘩を売る台詞だ。
ただでさえ短気な彼等の怒りの導火線は瞬く間に点火するだろう。
「何だ、てめえらは!」
予想通りの展開だ。腕力しか能がない奴は例外なくこれだと夏樹は思った。


「誰だっていいじゃねえか。それより、おまえら昨日、中等部の新入生に悪さしただろ?」
「それがどうした!」
「あいつがどういう人間が知ってるのか?」
「ああ?」

リーダーらしき下卑た男が歯をむき出しにして夏樹を睨みつけてくる。
見るからに小さい人間だ。間違いなく春樹の素性を知らないだろう。


「噂じゃ県政府の上級職員のガキらしいな。だから教師どもがペコペコしやがる。
だが俺からみたら、そんなお粗末な地位、全然怖くねえんだよ。
知ってるか小僧?うちの会社は、この東海地区の裏社会牛耳ってる組織と縁が深くてなあ。
県政府の職員なんか、俺の親父にかかったらすぐに潰せるんだぜ」
県政府の上級職員、つまりお役人の息子らしい。それが彼等の情報の限界だったようだ。
夏樹は思わず失笑した。それは弟達も同じで皆一様に馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
無知とは恐ろしいものだ。
春樹の素性を知った上で喧嘩を売ったのなら、その勇気を讃え寛大な態度に出てもいいと夏樹は考えていた。
だが、こいつがしたことは父親に連なる暴力組織を自分の力と勘違いし、子供に集団暴行をしただけなのだ。




「おまえが最低のクズで良かったぜ。こっちも、やりたい放題できるからなあ」
「クズ?!クズと言ったな、ふざけるな!!」

先ほどのダニ発言といい、ついにこのクズ達が怒りの頂点に達したようだ。

「ぶっ殺してやる!!」

夏樹は思った。クズはいつでもどこでも似たような台詞を吐くと。


「なあ、おまえ達――」

夏樹は弟達にチラッと一瞬だけ視線を移した。




「――これは、正当防衛だよなな?」




夏樹の拳が相手の顔面直撃。
ほぼ同時に秋利と冬也も不良の群れに飛び込んだ。




「可哀想に。兄さんの挑発にあっさり引っかかるなんて」

春海は腕時計を顔の位置まで上げた。秒針が的確に時を刻んでいる。

「五秒……もう終わりなの?」


屋上は三十人以上の人間の群れが横たわり呻き声をあげる異様な舞台と化した。
夏樹はリーダー格の不良に近づく。
顔面に受けたダメージが余程きつかったのか、声も満足に発することができないようだ。
夏樹はその哀れな不良の腹部目掛けて足を急降下させた。
ゲホゲホっと苦痛に満ちた声が発せられたが、夏樹はさらに容赦なく男の腹部を踏みにじった。


「俺達はあくまで話し合いに来ただけだから、今日のところはこれで勘弁してやる」

夏樹を見上げる男の目には今までの敵意に満ちたギラギラした眼光はすでにない。
あるのは天敵に怯える小動物のような哀れな目つきだけだった。




「てめえらが痛ぶった中学生は俺達の可愛い弟だ。
覚えておけ。今度、うちの弟にふざけたマネしてみろ。
その時は話し合いも糞もない。問答無用で暴力だけで片付けてやる」



男は何か言おうと口をパクパクしている。が、声は聞こえない。

「返事がないな。まさか、まだバックにいるヤクザを頼みに思ってんじゃねえだろうなあ?」

夏樹は男の足首を掴んで歩き出した。そして屋上から逆さ吊り状態。

「おい落として欲しいか?」

男は高速で頭部を左右にふった。

「なら誓え。二度と俺の弟に近づくなよ、今度その面を弟の前に現したら――」




「死んで逃げることもできねえようにしてやるからな」




「夏樹兄さんは優しいね。春樹をあんな目にあわされたのに、警告だけで済ませてあげるんだから」

春海はニッコリ微笑んだ。
夏樹は男をコンクリートの壁に投げつけた。

「俺達の苗字は『季秋』だ。弟の本名は『季秋春樹』、小椋ってのは仮名でなあ。
その名前をてめえの親父に告げてみな。
その上で、まだ文句が言いたいっていうのなら、その時はサシで決着つけてやるぜ」


「ほんと、兄さんは優しいなあ。弟の俺も感心するくらいだ」
秋利は眼鏡を掛け直すと「迎えが到着する時間だ」と告げた。
「用は済んだんだ。さっさと帰ろうぜ」
冬也も帰宅を促した。
「ああ、わかった、わかった。行くぞ、おまえ達」
夏樹達は昇降口に姿を消した。後には春海だけが残された。
春海は屈むと、じっと不良達の顔を見つめた。


「君達、本当に顔が悪いね」
「……な、なんだ……と」

春海はニッコリ微笑んだ。

「人相が悪いって意味だけど、そっちの意味でも通じたんだね。
僕はただ君達に忠告したいだけなんだ。聞いておいて損はないと思うよ。
君達には凶相が出ている。近いうちに酷い目にあうと思う。
気を付けた方がいいよ。僕の占いは、はずれた事が一度もないんだ」














春樹はまだ落ち込んでいた。
「春樹、これでも見て元気出せよ」
夏生が無修正ポルノビデオを差し出すも春樹の反応はいま一つ。
それどころか秋澄が「何てことを、おまえは中学生なのにそんなものを見てるのか!」と叱り飛ばす。
「……兄貴たちも自室に帰っていいんだぜ。一人にしてくれよ」
そう言われて、はいと言えるほど二人とも情に薄い性格ではない。
「春樹、ほら、おまえの好きなアニメがもうすぐ始まるぞ」
秋澄は気を利かせてテレビの電源をつけた。


『……高校生の集団を襲った悲劇は不幸な事故であり事件性はないと見解を警察は示しています』
ちょうどニュース番組が流れていた。


「高校生?……春樹、おまえの学校の事じゃないのか?」
布団に潜っていた春樹は興味が湧いたのか上半身を起こした。


『全員意識不明の重体だという事です』
不幸な交通事故とやらで生死の境を彷徨っている高校生達の実名が次々に発表された。




「……あいつらだ」
「あいつらって、おまえを襲った連中かい?」
「……ああ」
「集団でおまえに酷い事をした連中だ、叔父さんにしかるべき報復をしてもらうつもりだったが……。
しかし、こうして天罰が下った以上は、もういいだろう。
暴走運転で全員バイクを転倒させるなんて、自業自得とはいえ哀れな最後だったな」
部屋の扉が開き、視線を移すと冬也が入室してきた。
「冬也、ノックもせずに」
秋澄は礼儀知らずと咎めたが、もちろん冬也には馬耳東風だ。


「春海の占いが当たったようだな」
「そうか、春海の占いは本当によく当たるんだな。あの子は心が美しいから神様から才能を授かったんだろう」

素直に納得する秋澄。


「は、春兄の占いー!?」

対照的に夏生は猛スピードで後ずさり。


「しばらく病院生活だ。退院しても多分他県に転校するだろうぜ」

それは春樹にとっては朗報だったが、嬉しいというより都合がよすぎる結末に驚きが大きかった。


「だから明日からは登校しろよ。夏樹の命令だ」

春樹は戸惑っていた。
元凶が去っても、自分の不名誉な噂話が消えたわけではない。


「夏樹の命令だ、逆らったら夏樹兄貴の代わりに俺がおまえを殴るぜ」
「……あ、兄貴?」


「いいか春樹。勝敗なんてのは時の運だ、負けるのはダサい事だが恥ずかしいことじゃない。
本当に恥ずかしいのは敗北じゃない。恐怖から逃げる事だ」

春樹はハッとしてジッと冬也の顔を見た。

「敗北は勝利で塗りつぶせば済む。だが人生から逃げたら一生負け犬だ。
覚えておけ。季秋に負け犬は一人も存在してはならない」




「それが季秋の掟だ」




次の日から元気に登校する春樹の姿があった。
夏樹達は春樹を守るために裏で動いた事を一度も言わなかった。














「おまえは贔屓目に見ても善良ではないが」

叔父とのチェスは夏樹にとっては楽しい娯楽の一種だった。
駒を動かしながらの叔父との会話の中から、夏樹は自然と帝王学を学んだ。

「私が思っている以上に優しいのかもしれないな」
「どういう意味かわからないな」

騎士で女王の動きを封じる。チェックアウトだ。
叔父は決して「待った」とは言わない。今回の勝負は夏樹の勝利だった。




「案外甘い兄だと思っただけだ。おまえも秋利も冬也も」
「さあ、どうかな」
夏樹は長椅子に横になった。
「叔父貴は本当にあの親父の弟なのか?」
「何だ唐突に」
話したのは唐突だが、夏樹は半ば本気で、その疑問を長年抱いていた。
父と叔父は全く似ていないではないか。外見も人格も才能も。


「私は容姿は亡き母上に似たんだ。兄上も姉上達も父上似だから当然だろう」
実に簡単な計算だと叔父は言わんばかりだったが、それだけでは夏樹は納得できなかった。
「親父は女はとっかえひっかえだ。でも叔父貴は何で女を作らない?
叔父貴の社会的地位を考えたら妻を娶って家庭を持つのが自然だろう」
「結婚なんてものは人生でそう何度もあるものじゃない、一度で十分だ」
「自分の子供を欲しくないのか?」
「私は季秋の当主だ。だが私の後を継ぎ、季秋の家門を守るのはおまえ達だ。
おまえ達こそ私の全てを受け継ぐ大事な息子だ。私に他に子など必要ない」


学生時代から愛し合っていた愛妻を病で失って以来、独身を通している雄大。
その哲学は、女癖最悪の父と実の兄弟である以上、夏樹には信じがたい事だった。
思えば幼い頃から父親というものが必要な時は、常に叔父がその役目をはたしてくれた。
実父はといえば、女と遊ぶ暇はあっても子供のお守りは出来ない放蕩親父。
遺伝子は偉大だ。別々に育った肉親ですら性格や性質に共通する事があるとよく聞く。
にもかかわらず、いくら別人格とはいえ、ここまで差があるなんて異常すぎる。


「それなら私も言わせてもらおう。
おまえは間違いなく兄の子なのに、兄上に似ていないではないか」

確かに異性関係が少々(少々どころではないかもしれないが)派手という以外は、まるで共通点がない。


「おまえも秋利も冬也も、兄上より私の若い頃に似ている」


叔父は昔を懐かしむように静かに目を閉じた。

「おまえ達こそが、私と兄上が実の兄弟だという何よりの証ではないか」


――確かに。俺は親父よりも叔父貴に似てる。弟達も。


「だからこそ、おまえ達が時々哀れなほど心配になる時がある」

自由奔放に人生を謳歌している父と違い、季秋を背負っている叔父は冷徹な人間だった。
非情にならなければ東海自治省の王は務まらない。
中央政府に一度弱味を見せたら、奴らは季秋の領土を侵すだろう。
強くなるということは、冷酷になることでもある。


「秋澄にはそれができない。あれは自分が優しいから、他人にも良心があると信じている」
言外に『秋澄では有事の際、安心できない』と言っているようなものだった。
「大丈夫だ叔父貴。汚い仕事は俺がする、兄貴は季秋の体面を守ってくれさえいい」
「損な性分だな夏樹」
雄大は知っていた。夏樹が次期当主の座を蹴った本当の理由を。
当主の座が窮屈だというのは、とってつけた理由に過ぎない。


「おまえは親代わりとなってくれた秋澄が好きなんだな」

冬樹なら兄の立場なんか全く考慮せず、全てを手に入れようとするだろう。
しかし夏樹は魅力的な地位よりも、兄弟の情を優先させた。
叔父には全てお見通しだったようだ。
「美女程じゃないぜ」
夏樹は適当な返答ではぐらかした。
「それに義姉さんが兄貴を捨てない限り、ま、大丈夫だろうぜ」
夏樹は笑っていた。
季秋を脅かす敵勢力に破壊工作をする謎の人間が暗躍しだしたのも、この頃だった。














「冬也、少し付き合え」

夏樹は今や中央政府にテロリスト認定されている人間となっていた。
大がかりな破壊工作で次々政府の要人を叩きのめす驚異。
にもかかわらず、神出鬼没で、その正体は一切不明。
特選兵士まで乗り出して捜査にあたるも、夏樹の尻尾を誰もつかめなかった。
秋利や冬也まで、そんな兄に同調して公にできない行動をとっている。
先週も、季秋に対して強硬な締め付け対策を主張している政治家を奇襲攻撃してやったばかりだ。


「季秋に妙なマネする奴は例外なく潰してやるぜ」
「当然だな。だが兄貴、最近派手にやりすぎたようだな。
知ってるか?謎のテロリストNの正体を執拗に追っている人間がいることに」

勿論、夏樹は知っていた。国防省の水島克己という特選兵士だ。
特選兵士ということを抜きにしても何かと噂の多い男。


「……最低の下種野郎だぜ冬也。女に金や物を散々貢がせてやがる。
やるものが無くなった女は風俗に身を落として献上金を稼いでいるんだとよ」


夏樹自身、他人を批判するほど異性関係が潔癖とは言い難い。
しかし夏樹は純粋に女性との交際だけを楽しむのがプレイボーイのルールと思っている。
その楽しい交際に相手の女に金を出させたことは一度もない。
金銭面では常に夏樹が支出を担当していたくらいだ。


「プレイボーイの風上にもおけねえ野郎だぜ」


男女交際とは女の子のみが目的で無ければならない。
金が物品が目的なんて不純、それが夏樹の思想だった。
まして仮にも恋人を風俗で働かせるなんて、あまりにも度が過ぎている。
しかし冬也の考えは少々違っていた。


「俺から見たら女の方が馬鹿すぎるぜ。同情の余地はねえ」

冬也の口調は冷たかった。
元々、女の子大好きな夏樹と違い、冬也は女嫌いの気がある。

「シビアだな冬也。おまえのそういう所が心配なんだ」

「俺様は、ただ理路整然と真理を説いているだけだぜ兄貴。
暴力や脅迫で無理強いされてるわけでもねえんだ。
自分の意志でやっている以上、単なる自己責任。滑稽すぎて笑いも出ねえぜ。
美貌でも人格でも才能でもなく、金品でしか水島を繋ぎ止められない女どもだ。
どう考えても、この先、愛してもらえる可能性はゼロ。
そんな事にも気づかず、親鳥みたいにせっせと餌だけ運びやがって。
やる餌が無くなった時には、雛は巣立って他の女の元に飛び去ってるんだぜ。
その労力を自分のレベルにあった男に向ければとっくに幸せになってるだろうによ」

冬也の言い分は実に理屈っぽく、正論ではあるが感情面では完全肯定しかねるものだった。


「やれやれだ……おまえ、女を好きになったことあるのか?」
「……ちっ」

冬也は苦虫を潰したような顔をしてそっぽを向いた。

「おい、あるのか?」
「くだらねえ事言ってないで、さっさと行くぞ」














「正面玄関だ。そちらから俺の姿は見えるか?」
『ああ、よく見えるぜ。すぐにデータ保管室に行きな』

夏樹は小型インカムを通して冬也と連絡を取り合っていた。
あらゆる情報網を駆使し、国防省が最も手薄な今を狙って来たのだ。
水島が密かに収集したNの手掛かりの完全破壊。それが夏樹の狙いだった。
その水島も女との逢瀬で多忙の身。実に都合が良かった。


(俺の正体を突き止めようなんて生意気な事はさっさと阻止させてもらうぜ水島克己。
女の子を喰い物にする最低野郎なんか、出来る事なら片づけてやりたかったがしょうがねえ)

水島とその取り巻きの如何わしいギブアンドテイクは夏樹には関係のない事だ。
ただ生理的に夏樹の癇に障るというだけの話。

(女を泣かせるなんて俺のポリシーに反するぜ。あー、ムカつく)




「水島が留守で本当に良かったぜ。夏樹の性分考えると直接対決するっていいかねない」

冬也は国防省を一望できるビルの一室から慎重に様子を伺っていた。
今のところ異常なし。ところが黒塗りのリムジンが正面玄関に停車した瞬間、状況が一変した。
リムジンから優男が美女を伴い下車した。その姿を目撃した瞬間、冬也の形相が変わった。

「なぜ、あいつがここにいる!?」




「あまりにも簡単すぎて手応え無さ過ぎだぜ」

夏樹は自分に関するあらゆるデータを全て消去した。
国防省に忍び込み証拠隠滅を図ったのが自分だと悟られないように関係ないデータもいくつか削除した。
とどめはデータ保管室に遠隔操作の爆弾を仕掛け、後はさっさと立ち去るだけだ。
全てが順調だったが、インカムからとんでもない情報がもたらされた。


『兄貴、すぐに出ろ』
「どうした?」
『兄貴が毛嫌いしている色男がお出ましだぜ。鉢合わせはしたくないだろう』
「何だと?」

早急に計画を完了させなければならない。夏樹はすぐに非常口に向かった。


『兄貴、やばいぜ。水島の野郎、データ保管室に向かっている』
夏樹は思わず舌打ちした。
『爆破させる。今すぐ出ろ』
一刻の猶予もない。夏樹は窓から飛び降りた。
三階だったが夏樹には大した高さではない。夏樹が屋外に出たのを確認すると冬也は爆破ボタンを押した。
国防省は途端に騒然となった。後は、この騒ぎに乗じて外にでるだ。


(門扉は必ず閉鎖されている。塀を飛び越えるか……いや、監視カメラに映るのは避けたい。
と、なると地下か。いや、それも確実ではない)

確実なルート。咄嗟に思いついたのは緊急避難車だ。
敷地外に向けて避難用の車がでる。夏樹はそのボディに張り付いて脱出した。
そして公道で飛び降りた。監視カメラにも映ってない、完璧だった。

『兄貴、すぐに此方に来い。さっさとおさらばするぞ』
「ああ、今すぐ――」

夏樹が言葉を止めた。背後に気配を感じる、それも只者ではない。




「やあ、君かい?俺の国防省で大それたことをしてくれたならず者は」




「……水島克己か」

――最悪だった。




「夏樹め、しくじったな」
冬也はバイクに飛び乗ると現場に向かった。一刻の猶予もならない。




「やってくれたねえ君……俺の本丸ともいうべき国防省本部に悪さして。覚悟はできているんだろうね?」
「どうして俺の逃走ルートがわかった?」
「簡単な計算さ。もっとも安全かつ素早く逃げるとしたらどうするか……俺が君でも同じ手段を選ぶよ」
「おまえと思考回路が似てたなんてショックだぜ」
「ふーん、それは光栄だねえ。俺だって男と似てるなんて言われて……気分は最悪さ!」
水島はトリガーにかけた指を動かした。


「まだ死ぬのはごめんだ!」

夏樹は背後に向かって蹴りを繰り出した。
銃口の角度が微妙に変化し、弾丸は紙一重で夏樹を避けた。

「往生際が悪い子だねえ!」

水島は背後に腕を伸ばした。ズボンに予備の銃を差し込んでいる。
もちろん大人しくそんな物騒なものを握らせるわけにはいかない。
すぐに夏樹は間髪入れずに猛攻に出た。水島も舌打ちしながら背面飛びで蹴りを避ける。


「二度と女を泣かせられないように、その面、破壊させてもらうぜ!」

鉄拳が水島の顔面をとらえた。後、数センチで激突だ。
だが水島は掌で鉄拳を受け止めた。

「……おい、顔に攻撃はやめろよ」
「知るか。顔が命なんて女だけの特権なんだぜ」
「……ふざけるなよ」

水島の形相が鬼のように変化している。




「ふざけるな、糞野郎!てめえの面こそ二度とみられないようにしてやるぜ!!」

攻撃のスピードが上がった。ナルシスト野郎は二重人格者でもあったようだ。
夏樹はそれらの攻撃を全て紙一重で避ける。それ以上の余裕など全くない。


(参ったぜ。この野郎、性格は腐りきってるが戦闘力はそうでもない)


「終わりだよテロ野郎……おまえは、もう終わりだよ!!」

水島の攻撃、夏樹は大きくジャンプしてギリギリでかわした。
いや、かわしたつもりだった。頬に赤い線が入っている、避けきれなかった。


「…………」
「わかったかい。俺の実力が」


水島は勝ち誇ったように冷笑を浮かべた。だが、その笑みは一瞬で終わる。
ずきっと腕に痛みが走ったのだ。
夏樹は避けながら攻撃を仕掛けていた、それがヒットしていたのだ。

「……何だって?」
「今度は俺が言ってやるぜ水島克己」




「俺の実力がわかったか?」




水島は俯いた。先ほどの饒舌がどこにやら、無口になっている。
やがて、くくっと押し殺したような笑い声が聞こえだした。


「……やってくれるねえテロ野郎。じわじわ殺してやるつもりだったけど」
水島がナイフ類を取り出した。
「確実に息の根止める事を優先してやるよ!」
2人の熾烈な戦闘がさらにヒートアップした。




「いた!」
夏樹を発見した冬也はライフルを構えた。
(接近戦すぎて銃を取り出す余裕もないとは……特選兵士の称号はだてじゃねえってことか)
2人の動きが複雑に絡み過ぎている。
冬也の腕をもってしても、この状況で水島だけを正確に射殺することは至難の業だった。
どちらも一歩も引かず互角の勝負が続いているが、このまま長引けば国防省兵士が駆けつけるだろう。
(チャンスを作ってやる。一瞬の勝負だぞ夏樹、その刹那にスピードが勝っている方が勝つ)
冬也はトリガーを引いた。




「銃声?!」
「何!?」

弾丸は2人の足元すれすれの地面に被弾。爆発して土埃と共に煙幕を撒き散らした。




「……夏樹、勝負は一瞬だぞ」

煙幕が晴れた時、勝利を収めているのは夏樹か、それとも水島か。
断末魔の叫びは聞こえてこない。




「……貴様」
「勝負あったな水島克己」

煙幕が晴れた。
冬也が見たのは銃を構えている夏樹と、地面に片膝をついている水島の姿だった。


「終わった……夏樹の勝ちだ」


冬也は心底ほっとして銃口を降ろした。後は夏樹がトリガーを引くだけだ。

「……貴様、こんなことをして……ただで済むと思っているのか!」
「思うわけねえだろ。これで枕を涙で濡らす女が減ると思うと、心の底から嬉しさがこみ上げてくるぜ」


夏樹の指が動き、水島の悔しそうに瞼を閉じた。
それが最後の瞬間だと誰もが思った。




「やめてー!!」




それは一瞬の出来事だった。女が両腕を広げて水島の前に飛び出してきたのだ。
夏樹は内心ぞっとした。指を止めるのが、後わずかでも遅ければ女を撃つところだった。


「やめて、克己を殺すなら私を殺して!」
「……どけよ。俺は女は殺さないんだ」

銃口は黒光りし強い恐怖を煽っているはずなのに、女は一向にどく気配がない。

「その男はあんたが庇う価値なんかないぜ」
「……いいえ!」


『兄貴、女ごと水島を撃て』


「…………」
『どうした兄貴、こんなチャンスを逃すつもりか。構わねえ、撃つんだ』


「沙也加、もういい」
水島が腕を伸ばし女を抱きしめた。
「……狙いは俺だけなんだろう?この女は――」
「克己が逝くなら地獄まで一緒よ……1人にはしないわ」
「……そうかい。ありがとう」
女は本気だった。例え殺されてでも水島を見捨てない、目を見ればわかる。


「……そういうことか、まいったぜ」


夏樹は静かに銃口を下げた。

『……おい兄貴、おまえ何を考えている?』
「目的ははたした」

『夏樹!』


「俺は女は泣かせない」














――後日――


「よお冬也」
冬也は不機嫌そうにぷいと顔を背けた。
「まだ怒ってるのか?」
「……千載一遇のチャンスだったんだ」
「ああ、そうだな」
「女をおもちゃにする野郎は殺すんじゃなかったのか?」
「あの女、本気だったんだよなあ」
夏樹は溜息をつきながら前髪をかきあげた。


「水島を殺したら、あの女の精神は多分死んでいた。あんな美女を廃人にするのは勿体ないだろ?」
そんな答えでは冬也は納得できなかった。
「おまえだって言ってたじゃないか。女の自己責任だと。
だから俺は騙された女よりあっちの女を選んだ。それだけだ」
「今度やりあった時は勝てるかどうかわからないぞ」
「その心配はない」
夏樹は妙に自信たっぷりだった。


「水島を俺を殺す種類の男じゃない」
「おまえを殺す種類の男?」




「敗北より死を選ぶ男だ」




冬也は僅かに瞳を拡大させた。完全に呆れている。

「まあ、いいさ。戦ったのは俺じゃない、兄貴だ。だが二度と同じ轍は踏むなよ」
「ああ、わかってる」
「おまえは悪人のくせに情に流されやすいんだ。次は迷わずトリガーを引けよ」
「ああ、わかってる」




――敗北よりも死を選ぶ男




それは単なる言葉に過ぎない。
夏樹の戯言だろうと冬也は思った。

いや、願わずにはいられなかった――。




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