その日は菊地が用があるとやらで面会はなかった。
次の日、純生はいてもたってもいられずトレーニングウェアに着替えると訓練エリアをジョギングしだした。
もう無駄なことだが、何もしないよりマシだと思ったからだ。
途中、国防省の図書館に立ち寄り、何枚も無料配布されているペーパーをいくつか手に取った。
(俺のようにコネもない人間対象の採用枠ってあるかな?)
菊地の養子になれば入省次第即高官だったろうが、もはや、かなわぬ夢だ。
だったら下っ端でもかまわないので将来的には国防省の人間になりたいと思った。
理由は簡単だ。自分には他になりたいものはない。
そして、この一年半の苦労をゼロにしたくなかった。
それだけだった。
鎮魂歌―直人過去(後編)―
「え、局長とお会いできないのですか?」
今日こそ引導を渡されると覚悟していた純生は拍子抜けした。
だが次の瞬間、事態は思ったより重いことを知った。
「局長はおまえにかまっている暇はなくなかった。直人様が在籍なさっている学園がテロリストに占拠されたんだ」
「直人……さんが?」
テロリストだって?
いくら菊地が精魂込めて鍛え上げたとはいえ所詮直人はほんの少年。相手は冷酷非情なプロ。
その差は歴然のはずだ。
(神が与えてくれたチャンスか、それとも悪魔が仕掛けた罠か?)
現場に向かう菊地の部下に純生は無理を言ってついてきた。
もちろん一切邪魔はしないと誓ってのことだが、それでも希望がかなったのは純生自身驚いた。
「中の状況は?!」
菊地はすでに現場入りしており指示を出していた。
学園の敷地と隣接している公共の建物に対策本部はおかれ警官たちは萎縮している。
いくらテロリストが相手とはいえ、一事件に国防省の大幹部が乗り出してきたのだから無理はなかった。
大事な跡取りをむざむざ殺されるのを黙っているわけにはいかないのだろう
これが自分なら菊地は介入などしなかったと容易に想像できてしまう
それだけ直人は菊地家にとって替えの効かない存在だということだろう。
だが純生は心の奥底に僅かだがチャンスがあるのでは?と期待している自分に気づいていた。
こんな時に、人の命がかかっているのに、それでもなお非情な結末に一欠片の希望を感じている。
自分にそんな残忍な人間性があったなんて驚きだった、後ろめたさで菊地たちを直視できない。
幸いにも菊地は、そんな純生の本心に気づくどころか、純生の存在を無視していた。
「テロリストどもは何人いる?顔や名前は判明しているのか?」
「全く不明です。人質の生徒は全部で32名ですが、生死すら判明しておりません」
「奴らの要求は!?」
「来月死刑執行予定の7人の仲間を即時釈放し、金と逃走用のヘリコプターを用意しろとのことです。
聞き入れなければ生徒を殺害すると言っています」
相手が相手だけに、けっしてはったりではない。
その雰囲気を察したのか、駆けつけてきた保護者たちは騒然としており、中には、すでに冷たくなった我が子を想像し号泣している者までいた。
「奴ら、直人が私の息子と知った上で、この学園を占拠対象に選んだと思うか尾崎?」
「その可能性は低いでしょう。直人様の素性は厳重に秘密にしております。
姓も旧姓の桜井を名乗っていただいています。
局長のご子息が一般の学園に通学していることを知っている者など省内にすら知られていないのです。偶然でしょう」
「……そうか」
純生の目から見ても菊地は安堵したように見えた。
「直人様がおとなしく囚われの身でいられるかどうか」
「無理だな。私はあれには徹底して戦いぬくことを教え込んだのだ」
菊地は直人がテロリストどもを独自に倒すことを望んでいるようだ。
あまりにも無茶な期待だと思った。
「だが同時に決して正体がばれるようなへまをするなと厳命している」
どれほど能力があろうとも直人は実戦の経験値が乏しい。
下手なことをしようものならば、真っ先に見せしめのための死体にされることだろう。
「直人にとって想定外の実戦初体験というわけだ。事件はこちらの都合通りには起きない。
あれにとっていい経験になるだろう」
菊地の言葉は大切な跡継ぎの生死が冷酷なテロリストの手に握られているとは思えないほど自信に満ちたものだった。
一日目は何の変化もなかった。
数時間ごとに籠城している犯人たちと電話による交渉があっただけだ。
作戦本部では特殊部隊による強行突破も提案された。
だが広い校舎の中、生徒たちの居場所が全く特定されないため、容易に踏み込むわけにはいかなかった。
三度の食事は民間人を装った国防省の捜査官が運び込まれたが、連中は用心深く決して内部の様子を悟らせない。
二日目、犯人がしびれをきらしたように受話器を通して怒鳴りつけてきた。
『子供たちがどうなってもいいのか!あと五時間だけ待ってやる。それまでに要求をのまないと最初の犠牲者がでるぞ!』
人質は大勢いる。多少減っても状況は変わらない。
やるといったらやるだろう。
「どうします局長?」
「直人が選ばれたらどうなると思う?」
純生の心臓が大きくはねた。幸い顔にはでず菊地と尾崎は会話を続けた。
「直人さんは武器を所持してますか?」
「当然だ」
「それでは生徒たちに見られてしまいますよ」
「……数が多いと口止めも厄介だ。直人でないことを祈ろう」
「奴らの要求を一部飲んでは?」
「私はテロには屈しない主義だ」
「もちろん承知しています。要求を飲んだふりをするだけです」
菊地と尾崎は一人釈放する代わりに生徒の一部を解放する交渉を提案した。
もちろん本当に釈放するつもりはない。騙すつもりだ。
結論からいえばテロリストたちは、その要求を飲んだ。
「直人がしおらしい演技をしてくれていればいいが……」
交渉人と犯人との間に20分ほどのやりとりがあった後、五人の生徒が解放されることになった。
だが解放された五人の中に直人の姿はなかった。
「解放された生徒の特徴は?」
「女生徒三人、男子生徒二人、男子生徒の一人は喘息をわずらっており、もう一人は骨折でギプスをはめてます」
「弱者ばかり選んだわけか、当然の選択だな……すぐに生徒から直人の情報を聞き出せ」
だが五人とも直人とは別室にて監禁されていたため、有益な情報は何一つ持っていなかった。
「どうやら生徒たちは分散されているようですね」
「熱線暗視装置(サーモグラフティー)の結果は?」
「生徒たちは数人ずつ分けられています。おまけに数時間ごとに移動してます。
どのグループに直人さんがいるのかわからなければ手の出しようがありません」
「……時間を稼げ。いずれ直人から連絡がある」
菊地は確信しているようだった。このような場合を想定した訓練までしていたのだろうか?
純生の疑問に答えが出ぬまま数時間がすぎた。目立った動きはない。
犯人も対策本部も慎重になっており長期戦も辞さない構えを見せていた。
唯一我慢の限界を迎えようとしているのは菊地だけだった。
「あのバカめ、いつまでおとなしくしているつもりだ」
菊地は苛立ちを隠さなくなっていた。
純生は思った。
これが俺だったら、きっと、この人は感情的になったりしないだろう、と。
「局長!」
尾崎が盗聴器の録音テープを手に部屋に飛び込んできた。
「これをお聞きください」
『聞こえるか?盗聴器が仕掛けてあるなら合図を送ってくれ、曲目は――』
「やっとか直人、遅すぎるぞ!」
吐き出した文句とは裏腹に菊地は嬉しそうだった。
「食料を入れた箱に仕掛けた盗聴器からです」
「よし指定された音楽を夕刻を知らせる放送で流せ」
(何だ?)
純生にはいまいち状況が把握できなかった。しかし、それは事件の局面が大きく動いた瞬間だったのだ。
しばらくすると、また恒例の犯人と交渉人の電話でのやりとりが開始された。
「君たちの仲間を一人解放した。そちらも生徒を解放してほしい」
『いいだろう。五人解放してやる』
解放者の中にまたも直人の名前はなかった。
「他の生徒の無事を確認したい。親がうるさいんだ。電話でいいから話をさせてくれないだろうか?」
何とか直人と直接連絡をとりたかったのが狙いだったが犯人は応じなかった。その代わりにとんでもないことを言った。
『こっちも悠長に待ってやるのはいい加減に疲れた。ガキどもも精神的にまいってる。
一人完全にいかれちまった奴もいるんだ。
これ以上発狂者を出したくなかったら、さっさと全ての要求を飲むんだ、いいな』
「発狂者だと、その生徒の氏名は?」
『桜井直人ってガキだ。妙に落ち着いてかわいげのないガキだったから少し痛めつけてやったら完全におしゃかになりやがったぜ』
交渉人が凍てついた表情で菊地に振り返った。しかし菊地は眉一つ動かさない。
「それで、その生徒は……」
『地下の物置に監禁してたが、その必要がなくなったんで他のガキの元にいったん戻した。
今じゃあ屋内を徘徊しまわってるぜ。害がないから自由にさせてるけどな』
純生は菊地の口の端が僅かにつり上がったのをみた。
気が狂った?あの菊地直人が?
そんなのは演技に決まっている。現に直人は盗聴器越しに連絡をしてきたのだ。
「では食料と新しい寝具を」
生徒に配布される枕に精密な盗聴器が仕掛けられた。
それも直人が盗聴器を通じて指定してきた事だった。
「やったぞ。三人目が釈放された」
何も知らない犯人たちは歓声をあげていた。
反対に生徒たちは部屋の隅に固まり青ざめ俯いたまま言葉もない。
「見ろよ、あのガキ。完全に頭がおかしくなっちまってるぜ」
直人は枕を抱きしめぶつぶつと独り言を言いながらゆっくりと歩いている。
もはやテロリストたちにとって直人は虫より無害な存在になっていた。
直人が
「テロリストの人数は17人。司令室になっているのは校長執務室、常時リーダーと2人の幹部はそこにいる。
屋上に2名、中庭に2名、校舎の出入り口に2名ずつ。他は生徒の見張りだ。1年の各教室に生徒たちは分散されている」
と詳細な情報を口にしているとは思ってみなかった。
直人が手にしている枕に盗聴器が仕掛けられている事も。
「直人からの情報によると連中はすっかり気が緩んでいて見張りもさぼりゲームすら始めているそうだ。
釈放してやったテロリストどもには毒入りカプセルを飲ませている。
数時間後には自動的に死刑執行だとも知らずにな」
純生は心底ぞっとした。囚人とはいえ人権がある事を菊地は一切考慮してない。
そしてテロリストたちがもっとも気を緩めるのが午後2時、中庭でミニサッカーにふける時間だという事もわかった。
「強行突入だ。全員配置につけ」
純生は何かの聞き間違いかと思った。
「生徒たちを見殺しにするんですか?!」
名門学園だ。生徒たちの親は大物揃い、一人でも死者を出せば菊地の責任問題になる。
だが菊地は顔色一つ変えずに言った。
「生徒の見張りはこの時間はゲームに参加して残っているのは廊下にたっている3名だけだ」
「で、でも……でも、突入したらすぐに教室に戻ってくる……そうなったら」
「それは直人が何とかする。強行突入の合図の音楽を鳴らせ!」
それは爽快なファンファーレの音楽だったが、純生には惨劇の序曲にしか聞こえなかった。
国防省の特殊部隊が四方から一斉に飛び出した。
だが、最初の銃声は、その僅か前にすでに起きていた。
それは屋上の見張りを撃ったヘリコプターの爆撃によるものではない。
けたたましい銃声が何度も響き渡り、悲鳴と断末魔の叫びが純生の耳にまで轟いた。
純生はそのあまりの惨事に思わず両耳を塞ぎ瞼を閉じながらその場に膝をついた。
その間にも菊地も彼の側近達も微動だにしない。
そして僅か十数分で事件はあっけなく終わりを告げたのだった。
生徒は全員無事救出、そしてテロリストたちは全員射殺。
それが一般市民たちが知っている事件の結末だ。
テレビニュースにも新聞にも菊地直人の名前は一切出なかった。
特殊部隊が雪崩れ込む前に、すでに数名のテロリストが銃弾の餌食になっていたことなど警察でも把握してない。
生徒たちが兵士に救出され、それぞれの親に抱きしめられていた頃、直人も菊地の元に連れて来られた。
「生徒には見られてないだろうな」
それが仮にも父親である菊地の第一声だった。
純生はぎょっとして、恐怖に目を泳がせながら菊地と直人を交互に見つめた。
「二人の生徒に目撃された」
途端に菊地は直人を平手打ちをお見舞いした。
「その生徒と親には口止めが必要だ。私の手を煩わせおって」
「すまない親父」
「初めての実戦だ。このくらいは大目に見てやる」
愕然となるという言葉の意味を純生は頭では無く魂のレベルで理解した。
そして思った、いや骨の随まで思い知った。
(……俺なんかが選ばれるわけがない。格が違う、違い過ぎる!)
直人は間違いなくダイヤの原石だった。比較したら自分たちは道端の石ころに過ぎない。
菊地の目に狂いはなかった。しかし一つだけわからないことがある。
なぜ直人を連れてきた後も菊地は自分たちを追い出さなかったのだろうか?
あの時点で才能も器量も歴然とした差があるとわかっていたはず、それなのに。
その疑問を口に出す勇気は純生にはなかった。
こうして純生は菊地家から出され口止め料と共に身元保証人という新たな里親の元に引き取られた。
もう菊地親子と会うことは二度と無いだろう。だから疑問の答えも永遠にわからない。
だが純生以外にも、その疑問を持った者たちはいた。
それは菊地の部下たちだった。
彼らは純生と違い、その疑問を堂々と口にしていた。
「なぜ彼らをすぐに追い出さなかったのですか?
直人様がいる以上、彼らはもう必要なかった。金と手間の無駄だったのに何故ですか?」
菊地は
「石ころでもつまずけば転びもするし怪我もする。それを直人に教えるためだ。
何より石ころどもが結束して害をなすこともある。
その程度で潰れれば直人はそれだけの人間だったということだ」
と、淡々と言った。
自分たちが直人を鍛えるための道具に過ぎなかったことを知らなかったのは純生にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
「高尾晃司は手強い。堀川秀明といい、化け物の域に達しているといってもいい」
菊地は忌々しそうに言った。
「Xシリーズと同期であることは、おまえにとっては厳しい現実だ。
だが最終的に勝者になるのはおまえだ。私がそういう男に育てあげたんだ。
わかっているな、直人。おまえは、あの怪物たちをも超えなくてはならない」
「わかっている。必ず第五期、いや歴代の特選兵士最強は菊地直人だと認めさせてみせる」
「そうだ、まずは手始めに水島の息子を追い落とせ」
「了解した」
純生はその後、死ぬまで菊地親子への悶々とした想いを引きずることになる。
だが、菊地晴臣と直人は、もう純生の事は忘れた。
ただ、記憶の片隅に記号のように暗記されてるだけで思い出すことは無かった――。
TOP