「大変だが頑張るんだぞ」
誇らしげに花束を抱える藍に微笑む両親。
その顔がどんどんぼやけてくると共に鮮明な光が視覚を刺激してきた。
「……夢」
藍は下着姿で、だるそうに上半身を起こした。
薄布のカーテンの向こうからスズメの鳴き声が聞こえてくる。
視線をサイドテーブルに向けると一枚の写真が目に飛び込んできた。
国防省学校の卒業式に両親と撮った記念写真。
あれから半年以上たっていた。僅か半年ではあるが、その中身は今まで生きていた人生の中でもっとも濃い。
だからこそスタート地点を夢にみたのかもしれない。
しかし今の藍には思い出に浸っている余裕など一切なかった。
写真立ての隣に安置されている時計が如実現実を告知している。
藍は飛び起きると衣服を整え颯爽と職場に向かった。
鎮魂歌―家重藍―
ご大層な門をくぐり何十階もあるビルに足を踏み入れると、そこはすでに戦場だ。
大勢の人間が蟻のように右往左往し、怒鳴り声のような号令が飛び交っている。
熱気をかいくぐり藍は自分のデスクに着席した。
タイミングを見計らったように、内線ベルがけたたましく鳴り出す。
受話器を手にするとヒキガエルのような低い声が聞こえてきた。藍の直属の上司だ。
「家重です」
『すぐに部長室に来てくれ』
上司のそのまた上の上司の部屋だ。何事かと藍はすぐに部長室に向かった。
軽くノックし入室すると先客が二人いた。
国防省学校で共に学び、この警察庁の特殊部隊に配属された顔なじみ。
しかし共通点は、もう一つある。どちらも女という事だ。
「待っていたぞ家重、まあ座れ」
部長に促され、藍は一礼してソファに着座した。
思えば卒業以来、この二人に会うのは久しぶりだ。
同じSITの隊員とはいえ、任務地がばらばらだったので偶然出会う事すらなかった。
「他でもない。おまえ達のうち一人が栄転することになる」
部長は突然切り出した。藍は他の二人と思わずと顔を見合わせた。
「出世のチャンスだぞ。国防省の本丸で働けるんだからな」
藍の瞳は大きく拡大した。警察庁は国防省という巨大な組織の末端の一つにすぎない。
国防省上部で働けるということは、藍の夢というよりも野望に近かった。
「おまえ達も知っているだろう。特選兵士というものを」
勿論だ。しかし、会ったことなどない雲の上の人間。
まるで歴史上の人物の話を聞いているのに近い感覚すら覚えるほどだ。それほど遠い存在。
「その特選兵士の立花薫少尉の部下になりたくないか?」
藍は言葉が出なかった。数秒後にハッとして他の二人を見ると、彼女達もポカンとしている。
「少尉は任務上女の部下も必要ということで、そこで一人推薦することになったんだ」
夢の国防省上部への階段は特選兵士の部下という破格の待遇付きだった。
「もちろん、おまえたちの意志も尊重する。よく考えて三日後に返事をするといい。志願者のみテストしよう」
上司が言い終わる前に、すでに藍は決断していた。
こんなチャンスに乗らないバカはいないだろう。
他の二人も同じ思いのようだ。そのぎらぎらした目つきには野心の光が見える。
懐かしい同期の桜は、今や邪魔な敵となっていた。
藍達は言葉も交わさず部屋を後にした。
(テストは何だろう。今までの実績は考慮されるのだろうか?)
仕事中も藍はそればかり考えていた。
「どうした家重、上の空だぞ」同僚の先輩が忠告してきた。
人質を取った強盗がスーパーに立てこもってから、すでに五時間が経過されている。
強行突入が決定され藍達は召集された。
「しっかりしろ家重、おまえらしくない」
この危険な職に就いて以来、その先輩には多くを学んできた。
SITの花形的な存在で女性隊員からの人気も高い。藍も密かに憧れてさえいた。
だが、今やその存在は曇って見えてしまう。
特選兵士と比較したら、武装しただけの素人相手に戦っている男など田舎の兄ちゃんにしか見えない。
(立花少尉……一体どんな方だろう。
その方に気に入っていただければ私の未来は広がる。あの二人は邪魔だわ)
ゆっくりしてなどいられない、当日まで一週間ある。その間にリードを広げる策を練らなければ。
藍はその日の夜は一睡もできなかった。
次の日、藍は上司に入庁以来初の有給休暇届けを出した。それも三日連続でだ。
上司は渋い表情をしていたが、輝かしい未来が見えてきた藍には、そんなもの気にもならなかった。
翌日、藍は知り合いの新聞記者を訪ねていた。
軍事関係の有名ジャーナリストを父に持つ彼女とは高校時代の友人でもある。
そんな人脈を持っている事に藍は初めて神に感謝した。
彼女は国防省によく取材で出入りしている。立花薫の名前を口にした途端、即座に反応があった。
その表情は驚愕と何か別の感情が入り交じった複雑なものだった。
嫌悪という程ではないが好意にも程遠い。危機感に近いものだろうか?
「あんまりいい噂はきかないわよ」
友人の第一声は、忠告に近い響きがあった。
「やめた方がいいんじゃないの?あなた美人だから目をつけられるかもしれないわよ」
藍は整った顔立ちの持ち主ではあった。しかし職業柄おしゃれに熱心にもなれない。
女の自覚を捨てて職務に打ち込んでいるとすら思っていた。
今だって簡単な化粧にシンプルな服装だ。髪型も、ややぼさっとした豊かなセミロングを束ねアップしているだけ。
清潔感こそあるが、女らしさとは無縁のものだった。
「私はキャリアアップしたいのよ」
藍の決意に友人は溜息をつきながら、「だったら少しは着飾ることね」と呆れたように言った。
友人のつてで国防省関係者とやらに話をきく機会もあった。
しかし返事は友人と同じ。どうやら立花薫という人間は、かなりのプレイボーイらしい。
噂などに左右されてはいけないというのが藍の信条だったが、無視できるほど小さなものでもなかった。
しかし立花薫は、ただ女癖が悪いということではないこともわかった。
女なら誰でもいいというわけではなく、余程の令嬢か、かなりの美女か、らしい。
(私には当てはまらないわ)
「あなたなの。特別見学者は?」
藍は上司に頼み、かなり内部まで許可される特別見学を申請していた。
時間にして僅か30分程度、監視付きだが、国防省の奥まで足を踏み込める。
その監視は、てっきり屈強な男だと思っていたが姿を現したのは、グラマーな美女。
さばさばとした容姿の藍とは正反対。
その美貌と漂う色香は、女の藍でも思わず息を飲んでしまうほど鮮烈だった。
「特別秘書室の妻木美鈴よ。ついてきなさい。わかっていると思うけど問題は起こさないでちょうだい」
案内された国防省の本丸は藍の予想以上に凄い場所だった。
スーツに身をまとった精鋭達、最新のコンピュータ、出入りしている人物も新聞の一面を飾るような国家の重要人物が多い。
何もかもが警察庁とは差がありすぎた。
「あの立花少尉は……」
立花薫の情報をつかまなければと焦っていたのか尋ね方が露骨になってしまった。
「あなた、薫に何か用でもあるの?」
(薫?)
美鈴は薫を名前で呼んだ。
仕事一筋で色恋沙汰には無縁だった藍でも微妙な違和感を覚えるには十分だった。
「あの私……もしかしたら少尉の部下になれるかもしれないんです。だから」
「それで薫の周辺を下調べしておこうって腹ね」
図星をつかれ藍は返答に困った。
そんな藍の気持ちを察したのか美鈴は遠慮なく言葉を続ける。
「他の二人も同じらしいわね。明日、あなたのライバルも見学と称して来訪予定よ」
考えていることはライバルも同じ、藍は心の中で舌打ちした。
そんな藍の耳に妙なざわめきが聞こえた。女の集団が何やら黄色い声をあげている。
「あなたのお目当ての薫かもしれなくてよ」
確認する事もなく美鈴はあっさり告げてきた。
藍は背伸びするように見つめたが人垣が邪魔して見えない。
「あの、本当に少尉なのでしょうか?」
「覚えておきなさい。国防省であの声が聞こえたら50%の確率で薫の登場よ」
やがて人垣をかき分けるように現れた息を呑むほどの美しい男に、藍は呆然と立ち尽くした。
これほどの美貌の男を藍は知らない。テレビドラマの中にだって存在していないほどの容姿だった。
男は極上の笑顔で近づいてきた。
そして「会いたったよ」と美鈴の頬に軽いキスをした。
絵に描いたような美男美女によるワンシーンに藍はますます言葉を失った。
「彼女は?」
男は、その笑顔を藍に向けた。藍は体温が上昇するのを、はっきりと感じた。
「あなたの側近候補よ」
「僕の?こんな綺麗なお嬢さんなんて嬉しいな」
(このひとが立花少尉……)
薫が手を差し出してきた。藍は戸惑った。
「握手だよ」
藍は、ハッとして「失礼しました」と慌てて手を差し出した。
薫の手の感触に藍はさらに熱くなった。
心臓の鼓動が薫に聞こえているのではないかと焦ってしまう。
「あ、あの……」
薫がなかなか手を離さない。
半ば困惑して薫を見つめると、とんでもない言葉が返ってきた。
「この手が離したがらないんだ」
(……え?)
藍の頭は一瞬真っ白になった。
数秒後、これは社交辞令だと理性が判断を下したが、それでも熱は下がらない。
「薫、あなた任務があるんでしょ?」
「ああ、そうだったね。じゃあ、また」
薫は手を振って颯爽と立ち去っていった。
(また?確かに今『また』って言ったわ)
いつもの冷静な藍ならば、単なる言葉のあやだと思っただろう。
しかし、薫の笑顔と最後の言葉は頭から離れず、その日、藍は眠れなかった。
そして二週間後に辞令が下り、晴れて出世街道への列車に乗車できたのは藍だったのだ。
藍は無意識に、いつもより派手な化粧をして初出勤に臨んだ。
(立花少尉には妻木秘書官という恋人がいる。私なんかお呼びじゃないわ)
藍は身の程知らずな想いを抱くほど愚かな女になりたくなかった。
だから自身に何度も念を押したのに、いざ薫の顔を見た途端に胸が高鳴ってしまう。
「そんなに固くなることないよ。困ったことがあったら遠慮せずに言いなよ」
薫はニッコリと笑みを浮かべた。まるで中世欧州の名画のようだ。
「僕の部下は男ばかりだ。女性の部下は初めてだから扱い方がよくわからなくてね」
薫が近づいてきて、藍の肩に腕を伸ばしてきた。
「花びらだよ」
おそらく中庭を通過したときについたものだろう。
「僕も花びらになりたいな。君の肩は居心地が良さそうだ」
(それって……)
藍は言葉がでなかった。
薫が用意してくれた室は趣味のよい雑貨や家具に彩られていた。
デスクの上には華麗な薔薇がおかれ、『君の今後の人生が薔薇色に輝くように』とカードが添えられている。
「……何て素敵な方なの」
無骨な男に囲まれていた藍にとって薫はあまりにも鮮烈すぎた。
「よぉ家重」
薫の心遣いにうっとりしていると、ノックもせずに男が入室してきた。
薫に先ほど紹介された鍋島だ。同じ薫の部下として、これからは共に戦うことになる男。
今までの藍ならノックなど気にもとめなかったが、薫を知った後では、その無礼な態度は鼻についた。
「なあ今夜一緒に飲みにいかないか。二人きりで」
図々しくも肩に手を回してくる。
「いいえ、まだそんな余裕はないので」
「何言ってんだ。仲間同士、親睦を深めようじゃねえか」
その露骨な目つきは藍を不愉快にさせるのに十分だった。
ノックの音に藍はホッとして即座に「どうぞ」と言った。
鍋島は不機嫌そうな表情を隠さなかったが、入室してきた相手を見ると神妙な面持ちに。
そして、すかさず藍から距離をとった。妻木美鈴だった。
「どう、この部屋は気に入ったかしら?」
「はい、本当にこんな素晴らしい部屋を頂いていいのですか?」
「このくらい当然よ、気に入ってもらってよかったわ。足りないものがあったら遠慮なく言ってちょうだい」
「あの……もしかして、この部屋は妻木秘書官が?」
「ええ。男では女性の部屋なんてわからないでしょう?」
薫が彼女に頼んだのだろう。
長官秘書室の彼女には関係のない仕事を承諾するなんて、薫と美鈴は公私共に円満な関係のようだ。
藍は胸の奥にちくりと得体の知れない痛みを感じた。
「あなた。まさか、彼女に変なマネしなかったでしょうね」
「ま、まさか。俺はただ仲間として挨拶にきただけですよ」
鍋島は半ばびびっている。藍に対する不遜な態度とは大違いだ。
説明されずとも美鈴の地位の高さが思い知らされる。
美貌の特選兵士と才色兼備の秘書官。お似合いのカップルに藍は複雑な思いを感じた。
「薫の顔を潰さないために自戒することね」
図星をつかれた鍋島は、ひきつった愛想笑いを浮かべながら退室した。
「犬は飼い主に似るものね。変な事を言われたら私に言いなさい。遠慮はいらないわよ」
「はい、ありがとうございます」
細やかな気遣いまでしてくれる。本当に非の打ち所のない女性だと藍は賞賛の眼差しで美鈴を見つめた。
「もう特殊警察官ではないのだから、着るものもきちんと揃えないとね」
美鈴は藍をブティックに連れ出した。
藍も危険な仕事に従事してきたので貯金はかなりの額だったが、それでも贅沢すぎる値段だった。
「妻木さん、私には分不相応です」
「何をいうの。高級スーツが国防省の基本なのよ。外見をけちったら、それなりの対応しかされなくなるわ」
美鈴はスーツを数着選び出した。それらに似合うアクセサリーも。
「心配しなくても私からのプレゼントよ」
「え?」
一万二万の代物ではない。藍は耳を疑った。
「そんな、こんな高価なもの……」
「いいのよ。薫がお世話になるんですもの」
美鈴は戸惑う藍を無視してさっさと会計を済ませ、帰りもタクシーで送ってくれた。
「薫は女癖が悪い男よ。任務に支障がないか心配がつきないわ。
薫が女に現をぬかさないように監視して欲しいのよ」
「……少尉を、ですか?」
「ええ。あなたの忠告を無視するようなら私に報告してちょうだい。
薫の管理を怠ったら、そのしわ寄せは部下のあなたにも及ぶということを忘れずにね」
「はい」
恋人の美鈴がここまで言うのだから、薫の困った性癖とやらは噂以上らしい。
藍は本来プレイボーイというものは嫌いだった。
しかし帰宅して留守電のメッセージを耳にした途端、藍の理性は空気の抜けた風船のように萎んだ。
『今日はご苦労様。明日から大変だろうけどお互い頑張ろう。
大丈夫、僕がついてるよ。君は一人じゃないということだけは忘れないで欲しい』
「思った通りね。よく似合っているわよ」
藍はブランドのスーツを身を纏い、昨日のお礼の為に美鈴の私室に訪問していた。
「ありがとうございます」
藍は埃にまみれていた頃には考えもしなかったほど、身だしなみに気合いを入れて登庁していた。
それでも薫の顔が脳裏に浮かぶと地味ではないかと気になって仕方ない。
ふと視線を下にそらすと、美鈴のデスクの脇にある髪飾りが目に留まった。
斬新なデザインで、藍はそれを付けた自分の姿を想像した。
「素敵なアクセサリーですね」
以前は興味すら沸かなかったのに、薫と出会った日から藍は宝飾品が自然と目に留まるようになっていた。
「あなたに似合いそうね。よかったらあげるわ」
「え?」
もしかして物欲しそうな目をしていたのだろうか?
藍は焦って「い、いえ」と即座に辞退した。
「いいのよ。薫の素行が良くも悪くもなるのもあなた次第だもの」
美鈴は高価そうな装飾品をあっさりと藍に差し出してきた。
驚く藍に美鈴は言った。
「薫は仕事はできるけどプライベートは最悪よ。時として仕事に私情を持ち込むことも度々」
藍は胸の奥がチクリと痛んだ。
「あいつの飼い犬達は男同士だけあって誰も薫に忠告しないの。それどころか増長させているだけ。
だから女の部下であるあなたに私は期待しているの。わかるわね?」
「はい」
「薫に忠実でいたいなら、薫が女で仕事をおろそかにしないように注意してちょうだい。
薫が無視をするようなら私に言えばいいわ。私の言うことなら薫もさすがにきくでしょうから」
「……はい」
美鈴は自分に随分と自信があるようだ。
藍は納得しながらも、羨ましさのあまり泣きたくなった。
あれから二ヶ月が過ぎた。仕事はハードだが藍は充実した日々を過ごしていた。
警察庁にいた頃とは全てが違う。景色まで違う色に見えるくらいだった。
それは高度な仕事を任されているという自信や誇りもさることながら、薫のそばにいられるからだろう。
思えば男に囲まれての仕事でありながら藍は女を捨てていた。
しかし今の自分は違う。薫のそばにいるだけで、生々しいほど女として自覚していた。
それが色香に現れていたのか、同僚の鍋島はしつこく言い寄ってくる。
しかし、その煩わしさを差し引いても藍の生活は薔薇色だった。
「藍、いいかな?」
「はい何でしょう少尉」
「今夜空いてるかな?」
「仕事ですか?」
「僕と高級レストランで食事だよ。任務内容はお堅い考えは一切排除して恋人同士のようにふるまうこと」
「え、でも……」
藍の胸の鼓動が早くなった。嬉しい、でも薫には美鈴というれっきとした恋人がいる。
美鈴には何かと世話になっている。罪悪感が沸き上がった。
「人目が気になるのなら僕のマンションでもいいよ」
藍は立っているのがやっとのほど動揺した。
凶悪犯が人質をとって籠城している銀行に強行突入したときにも味あわなかった感覚だ。
「返事はYes以外許さないよ」
薫の手が藍の顎に。そのまま顔の角度を上げらる。すぐそばには薫の顔。
藍は魔術にかかったように「はい」と答えた。
一人暮らしの男のマンションに夜訪問するということがどういう意味なのかわからない年齢ではない。
上官と部下という関係を越えることが好ましくないことも恩人の美鈴に対する背徳行為だということも重々承知だ。
だが、薫の微笑みは藍から全ての理性も常識も排除した。
藍は自然の成り行きとしか思えないほど、薫という渦に飲み込まれ、その夜、初めて男を知った。
「そう、わかったわ」
「妻木さん、彼女を少尉から引き離して下さいますか?」
「度が過ぎるようならね」
あれから藍は何度か薫と寝たが、薫のマンションに呼ばれることは二度となかった。
任務先で時間ができると薫は藍を抱いてくれた。
滅多にない逢瀬ではあったが、相手は多忙な薫、自分は浮気相手、藍はそれを弁え満足していた。
しかし、その任務中に自分以外の女を薫が抱くのは我慢ならなかった。
薫に美鈴がいる以上、藍が薫の恋人でいられるのは遠方任務の時だけ。
その貴重な時間を奪う女に藍は激しく嫉妬した。
『薫のためにならない女を』美鈴に報告するという密命は、藍にとって私情を挟んだものになっていた。
「下がっていいわよ」
「はい、少尉のために早くあの女を……お願いします」
一礼して退室しようとすると「今度の任務に必要でしょ」と美鈴が大きな箱を指さした。
パーティー出席のカップルを装った潜入捜査がある。そのためのドレスだろう。
「いつもありがとうございます」
「いいのよ。これからも、しっかり働いてちょうだい」
藍は美鈴に対しても忠実に仕えていた。その見返りに十分な恩恵を与えられる。
これがベストだと自分に言い聞かせていた。
決して美鈴にばれてはならない。
もし美鈴に全てを知られたら、おそらく薫は自分を切り捨てるだろう。
それだけは嫌だ。そのためなら藍は日陰の身でもよかった。
「他の二人は図に乗るタイプだったわ。彼女を選んで正解ね」
薫のマンションのベッドの上で美鈴は言った。
「君を出し抜こうって女は事前に排除?怖いな美鈴は」
「最終決定権をくれたのはあなたでしょ」
選考をまかしていた石崎には「ブスはごめんだよ」と念を押してあった。
異性の部下なんて、任務先で楽しめる愛人も同然。
だから薫は美鈴にも判断を仰いだ。薫なりに気を使ったのだ。
それでも嫌味の一つでも言われると思っていたのに、薫の予想に反して美鈴はあっさり賛成してくれた。
「反対したところで、あなたが私の目の届かないところで他の女とよろしくやるのは変わらないもの」
選ばれたのは藍。飾りっ気のない女だが、素材は悪くなかった。
原石は磨けば持ち歩くのに最適な宝石になる。
薫は美鈴に藍をまかせ必要な金も渡した。
美鈴の名で面倒をみさせることで、美鈴の立場への配慮も強調した。
美鈴は美鈴で義理堅い女を選んだ。
自分を差し置いて高望みを抱く女は除外し、一番都合のいい女を選んだのだ。
「私が預かり知らない女にあなたのそばをうろつかれるくらいなら、私の管理下にある女の方がずっとマシよ」
「女って本当に怖いな」
「ただの妥協よ。あなたみたいな男と付き合うのなら感情より計算を優先させないとね」
『藍、聞いたぞ。おまえが国防省で名誉ある職につくのは嬉しいが……』
久しぶりの父の声には含みがあった。
大事な一人娘を心配して、父なりに情報収集したのだろう。結果、薫の噂を耳にしたらしい。
「ええ、毎日が充実しているわ」
『藍、少尉はおまえを粗末に扱ってないだろうな?親は娘の幸せが一番なんだ。
仕事が全てじゃない。おまえにいい縁談がきてるんだ、だから――』
「私は十分幸せよ!」
藍は思わず声を張り上げていた。ハッとしたが後の祭りだ。
『……そうか。ならいいんだ』
父の声には張りがない。
「大丈夫よ。父さんが心配するようなことは何もないから」
『ああ、わかったよ』
受話器を本体にそっと置き、藍はゆっくりとソファに座った。
「……何があるっていうのよ。少尉には美人の恋人がいるんだもの」
そうよ。私は遠方任務の間の恋人。
その間だけは少尉は私を愛してくれる。妻木秘書官ではなく私だけを。
これは二人だけの秘密……それで私は満足だわ。
藍は時計にそっと視線を送った。針は12をすぎている。
明日は早い、今夜はもう寝よう。
「……少尉」
明日になれば薫の笑顔がまた見れる。
それだけで藍は幸せだった――。
TOP