「失礼ですが書面による許可がないと……」
受付嬢は困惑した目で直人を見上げてきた。
「俺は国防省の人間だ。身分証明書を見せただろう?」
「で、ですが、お客様はどう見ても……失礼ですが未成年ではないですか」


受付嬢が戸惑うのも無理はない。
直人は年齢上は中学生、国家公認の諜報部員などと言われて信じろという方が無理だろう。
かといって直人が所持している身分証明書は間違いなく本物。
「ただいま上に相談致しますので少々お待ちください」
この多忙な時に余計な時間をかけられてしまう。直人は思わず舌打ちした。
「直人様、俺の身分を提示致しましょうか?」
美樹彦が提案してきた。しかし年上といっても美樹彦も未成年。
この融通のきかない女の事だ。どちらにしても同じ事。


「どきな、おまえさん達じゃあガキのイタズラだと思われてもしょうがない」


聞き覚えのある声に直人は振り返った。
いつの間にいたのか、佐竹が立っていた――。




鎮魂歌―菊地直人Ⅳ―




「国防省に未成年がいるなんて一般人は知らない人間が多いんだ無理もない」
佐竹が身分証明書を提示すると受付嬢は「失礼しました」と低姿勢で謝罪を繰り返した。
「これで文句はないな。通らせてもらうぞ」
「ですが、もうこのビルの定時時間になります。ビル内の人間はほとんど帰宅していますよ」
「なあにすぐ終わる。それから、これは極秘任務だ。内密にな」
「は、はい」
「じゃあ行くぞ、ひよっこども」
エレベーターに入るなり直人は佐竹に尋ねた。


「本部長がどうしてここにいらっしゃるんですか?」
「どうしたもくそもあるか。
殺人事件が起きるような物騒な場所だから気になって来て見たら、おまえらがこのビルに入るのが見えてな。
春臣からは何も聞いてないんだ。独断で何かしようとしてるんじゃあないかと思ったまでだ」
「例の殺人事件に国防省が乗り出しているんですか?
もしかして被害者の身元が割れたんですか?やはり、何かはわけありだったと?」
「いや、今のところは、まだ何もわかっちゃあいない」
エレベーターが地下三階で停止した。


「直人様が怪しいと睨んでいるのはここでしたよね」
「ああ、そうだ。クリスマス休業のはずだが……」
仮に営業していたとしても、こんな時間だ。社員は帰宅しているだろう。
だが廊下の奥に灯りが見えた。
「直人様、あれ」
「ひとがいやがる」
直感で直人は怪しいと感じた。
注意深く近づくと、ガラス扉の向こう側に女と作業着姿の男達が見えた。
昼間なら何でもない光景だが、時間が時間だけに怪しくみえる。
向こうも此方に気づき、ぎょっとした。
その表情が、なおいっそう直人の疑心を深めた。




「何だ、おまえ達は!」
作業着の男達が怒鳴りながら近づいてきた。
「それはこっちの台詞だ。ここで何をしている?その機材な何だ?」
「何だと?」
柄の悪そうな男達だったが、女が「やめるのよ」と指示を出すと借りてきた猫のように大人しくなった。
「私はここの責任者です。コンピュータトラブルがあったので出社してきたんです。
あなた方はどういった理由でここに?」
「こういう者だ」
佐竹が身分証明書を差し出すと女は驚いたようだが、すぐに「何のご用でしょうか?」と尋ねてきた。


物腰が柔らかくスーツ姿も板についている。
いかにも、やり手のキャリアウーマンという風情。怪しい点などなにもない。
何もないが、直人は直感でそれを否定していた。
理屈ではない。経験と本能で感じたのだ。
だが勘で動くほど直人は単純な人間でもない。
佐竹が適当に話を作り上げ、事務所内を見せて欲しいと要求した。
女は幾分戸惑ったが、すぐに「どうぞ」と先導して歩きだした。
その行動には、やはり怪しい点などない。
ほとんどの機械は停止していたが、所長室のコンピュータは機動していた。




「所長なのか?」
直人が尋ねると女は「はい」と応えた。
「このフロアは誰でも自由に出入りできるのか?」
「いいえ。原則的には、このIDカードが無ければ無理ですわ」
女がカードを提示してきた。
「そうか。あの作業員達は?」
「年末に向けて今のうちに機械のメンテナンスなど色々とやっておきたいことがありますの」
「では、ここの従業員ではないのか?」
着ていた作業服には、明らかに、この会社名とは違うロゴが入っていた。
それを知った上で直人はあえて質問した。
女は「はい、そうですわ」と、にっこり答えた。
「彼らは、この所長室に自由に出入りを?」
「いえ、この所長室には立ち入り禁止です」
その言葉だけで直人は即座に判断した。


「そうか、わかった」


直人は、いきなり女に銃を向けた。
「な、何をなさるんですか!?」
「直人様!」
女は勿論、美樹彦も焦った。
いくら国防省の人間とはいえ、何の落ち度もない民間人に銃口を突きつけるなど問題になる。


「この女は、ここの所長じゃない。嘘をついている」


女は、「何を証拠に。乱暴な!」と、叫んだ。
「証拠は、そのけばけばしい口紅だ」
直人は女の唇を指差した。美樹彦は、まだわけがわからないようだ。
反対に佐竹は煙草を所長用デスクの上にあった灰皿に放り投げ、「なるほどなあ」と呟いた。
灰皿には、ぱっと見ただけで十数本の煙草の吸い殻がある。
それを見て美樹彦も、ようやく全てを悟ったらしく、懐から手錠を取り出した。


「吸い殻には全く口紅がついていない。貴様が嘘をついている確かな証拠だ」


女の顔が醜く歪んだ。
「何てこと、あの女に足をすくわれるなんて!」
女は忌々しそうに叫んだ。
「おまえはここの人間じゃないな。だがIDカードを持っている。このカードの所有者をどうした?」
本性を現した女からは、もう知的なキャリアウーマンの顔など微塵もない。
演技が剥がれた後に残されたのは血の臭いがする裏の人間の姿だけだった。


「殺したよ。死体はおまえたちが発見したはずだ」
あの殺人事件もこれで解決だ。
被害者は哀れにも、この女が、このビルに出入りするためだけに殺されたのだ。
その理由さえも知らずに。
「どこの組織の人間だ?」
罪のない民間人をつまらない動機で平然と殺害したのだ。ろくな組織ではないだろう。
女は唇を噛み直人を睨みつけてきた。
組織の名前だけは口を割らないという覚悟の表れだろう。
もっとも直人は、そんなことで怯む人間ではない。




「尾崎、ドアの外に出て見張っていろ」
あの作業員達も間違いなくテロ組織の人間だ。気づかれてはならない。
「な、何をするつもり?」
美樹彦が室外に出ると女はひきつった顔を見せた。
「貴様の子分達が暴れる前に終わらせてもらうぞ」
時間がない。直人は女の手首をつかんだ。
女は抵抗するも直人には、まるで歯が立たない。
あっと言う間に後ろ手で縛られ、動きを完全に封じられてしまった。


「最後のチャンスだ。組織の名前と、この作戦の全容を吐け。
でないと痛い目に合うことになるぞ。これは脅しじゃない、俺はやるといったらやる」
「お、おまえ、こんな、人権を無視した尋問が許されるとでも思っているのか!?」
「俺は警察じゃない。テロリストの命なんか虫けら以下だ。そうですね、佐竹本部長?」
佐竹は煙草を吹かしながら、「女をいたぶるのは趣味じゃないがしょうがないな」と言った。
女の口元はぴくぴくと痙攣しているように動いたが、その目はまだ意地を見せていた。
「わ、私は拷問なんかで口を割ったりはしない」
「いつまでもつかな?」
鈍い音がして女が絶叫した。


「ひっ……!」
いくら国防省の人間とはいえ直人は、まだ子供。
まして女相手に乱暴な事はできまいと女は内心期待していたらしい。
その思いを見事に裏切られ、女は驚愕の眼で直人を凝視してきた。
「ゆ、指の骨が……ひ、ひとでなし!」
「貴様が吐かないからだ。今度は二本同時にいくぞ」
直人は本気だった。その気迫は女にも伝わったらしい。
女は、「やめて」と命乞いの言葉を口にした。
しかし直人が要求したのは助命ではなく自白だ。直人は女の指を二本握った。
女は慌てて「私は爆弾を仕掛けるように依頼されただけだ。組織の人間じゃない!」と絶叫した。


一度吐かせたら後は簡単だった。女は後の台詞を雪崩のように吐き出した。
女は数人のグループで活動してる殺し屋で反政府組織とは直接関係ないこと。
三ヶ月前に、ある組織から依頼を受けたこと。
その為に、このビルに事務所を構えている某企業の女所長を殺し、そのIDカードを手に入れたこと。
そして、殺した女になりすまして、このビルに出入りしていたこと。
このビルに爆弾を仕掛けた事をぺらぺらと喋ったのだ。


「あの作業員達はおまえの仲間か?」
「あ、あいつらは爆弾を運んできただけよ。組織の人間かどうかもしらない」
「爆弾の数と場所は?」
「わ、わからないわ。ただ下の倉庫に可燃物が大量にあるから、そこに設置すると言っていたわ」
急がなくて行けないようだ。
直人はすぐに、このビルの閉鎖を指示しようと思い立った。
しかし、そんな暇など、もうないことを直人は直後に知った。
数発の銃声が聞こえ、美樹彦が慌てて部屋に飛び込んできたのだ。


「大変です直人様。あいつら気づいたようで逃げて行きました!」


次の瞬間、爆音が聞こえ床や壁が一斉に振動した。














「近づくな。危険だ!」
ビルを取り囲んだスーツ姿の男達は、ぴりぴりしながら一般人を遠ざけていた。
黒塗りの高級車が猛スピードで現場に到着。

「中の様子はどうなっている!?」

後部座席から下車した男にスーツ姿の男達は一斉に頭を下げた。
国防省・西日本最高権力者といっても過言ではない菊地春臣だからだ。


「それが一向にわかりません。地下室に通じるルートは塞がれており、中と連絡も取れない有様で」
「この役立たずどもめ……犯人達は捕らえたのか?」
「逃げられました。ただ、犯人も複数中に取り残されているようです」
「……おのれ」
春臣は忌々しそうにビルを睨みつけた。
「佐竹本部長、ご子息の直人様、それにうちの不肖の息子の美樹彦も未だ生死不明です」
「なぜ中に入らない?」
「まだ爆弾が残っているかもしれないので動きがとれず……」


「この愚か者どもめ!」


春臣は声を張り上げた。捜査官達はいっせいにびくっと体を硬直させる。

「貴様等、それでも国防省の人間か!
命が惜しくて動けない臆病者など国防省にはいらん、今すぐに突入しろ!!」














「尾崎、しっかりしろ」
直人が声をかけると美樹彦は額を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
「動けるか?」
「万全とはいきませんが……」
「歩けるならいい、行くぞ」


直人は無事だった。
崩れた天井の瓦礫に直撃された美樹彦が軽傷を負っただけで済んだのだ。
このビルの地下倉庫にある大量の可燃物こそ連中の目的。
爆弾そのものは大した威力ではなかったようだ。
連中は全てがばれた為、作戦そのものを放棄し爆弾を爆破させて逃げたのだ。
三人は地上に出るために非常階段に向かった。
「おい静かにしろ」
佐竹が低い声で言った。壊れたドアの向こうに人影が見える。
直人達は即座に銃を構え、銃口を向けながらドアに近づいた。




「おい、まだかよ!」
「もう少しだ」

あの作業員達だった。
仲間に置き去りにされ、直人達同様にこのビルに閉じこめられてしまったのだろう。
「さっさとしないと時間がなくなるぞ。爆発したら俺達も死んじまうんだ」
奴らは焦っている。どうやら連中が持ち込んだ爆弾は一つではなかったらしい。
「こいつを止める事はできないのかよ?」
「ダメだ。一度スイッチ押しちまったら、きっちり時間通りにボンなんだよ。
無理に分解してみろ予定より早く爆発しちまう」


(あいつらパニックになって爆弾のスイッチ押しまくったんだな。何てバカな連中だ)


ドアの隙間からのぞき込むと、思ったよりも大勢いた。
爆弾を持ち込む連中だ、当然武器も持っているだろう。
多勢に無勢だが黙って見ているわけにはいかない。
安全の確保よりも拘束するのが優先、それが国防省のルールだ。


「尾崎、おまえはここにいろ」
美紀彦は怪我人、佐竹は国防省の幹部。ここは自分が戦うしかない。
その前に様子を詳しく見ようとした時だった。
天井の一部が落下して派手な音が発生した。
直人達がいる場所から数メートル離れていたので、直撃することはなかったが連中が一斉に此方を見た。
そして懐から次々に銃を取り出したのだ。

(ちっ、気づかれた!)

直人は半壊したドアにタックルを仕掛けながら連中の前に姿を現した。




「国防省の犬だ!」
「畜生、やっちまえ!!」

直人は敵に銃を構える時間を与えるつもりは毛頭ない。
連続してトリガーを引いた。
乾いた音が連続して発生し、その度に流血を伴いながら彼らは床に転がっていった。
しかし直人の銃も弾切れだ。直人は柱の陰に飛び込むと弾装を取り出した。
その間に奴らも体勢を立て直したのか応戦してきた。
銃弾が何発も飛んでくる。まるで射撃場だ。


「直人、いったん下がれ!」

佐竹の声が銃声の合間から聞こえてきた。そして援護射撃も。
その最中、「開いたぞ!」と熱のこもった声が聞こえた。
連中が次々に通気口に飛び込んでいくのが見えた。
通気管は一番下の地下まで通じている。
連中は、おそらく地下から下水道に出て逃げきるつもりなのだろう。


「逃がすか!」


まだ若かった直人は己の保身など一切考えずに追いかけた。

「直人、やめろ!」

佐竹の声をかき消すように、爆音が再び直人の耳に衝撃をもたらした。














「……うっ」

舞い上がる瓦礫の粉の中、直人は忌々しそうに瞼を開いた。
異様な重みを感じ、その正体を知って愕然とした。


「本部長!」


佐竹が覆い被さっていたのだ。
そのおかげで直人は無事だったが代償は大きかった。
「本部長、大丈夫ですか?!」
手にべったりと血の感触があった。爆風により飛んできた破片がわき腹に刺さったらしい。
気を失っている、一刻の猶予もならない。


「本部長、しっかりして下さい」
天井や壁が崩れ、廊下が塞がっている。瓦礫を一つ一つどかしている暇などない。
直人は力任せに瓦礫の山を押してみたが、その程度では破片が落ちてくるだけだ。

(どうしたらいい?)

何か道具はないかと、直人はあたりを見渡した。
廊下の隅に赤い箱が設置してある。消火栓箱だ。
直人は中からホースを取り出すと、先端をきつく縛った。
それを瓦礫の下の隙間にホースを詰め込み水道栓を一気にひねる。
簡易水圧ジョッキの完成だ。
ホースはどんどん膨らみ、瓦礫の山を持ち上げだした。
直人は再度瓦礫の山にタックルを食らわせ一気に崩した。
その音で佐竹が意識を取り戻した。




「……直人」
「本部長、俺の肩につかまって下さい。すぐに外に――」

ぱんっと、乾いた音が頬から聞こえた。
わけがわからず佐竹を見ると、その目は赤く染まっている。




「おまえは……それでも国防省の……人間か!
……俺なんかにかまっている暇があったら……奴等を……奴等を追え……!!」




佐竹は連中が消えた通風口を指さした。

「しかし本部長の怪我は……」
「よおく覚えておけ小僧……国防省の人間は例え血反吐をはき地面に這いつくばることしかできなくても……」

佐竹は途切れ途切れの息の下から言った。




「最後の一秒までテロリストと戦うものなんだ!
これは命令だ。さっさと行け!1匹たりとも奴らを逃がすな!!」




佐竹の出血量は尋常ではない。
それでも青白い顔をしながらも佐竹は任務を優先しろと直人をどなりつけた。


「……了解しました」


そして上司の命令は絶対だ。まして、それが任務中であれば尚更の事。
直人は通風口に飛び込んだ。
ちらっと肩越しに苦しそうに呼吸をしている佐竹を見た。
それが生きている佐竹の姿を見た最後の姿だった――。














事件は解決した。
直人は逃亡した犯人達を捕らえ拷問し口を割らせ黒幕の組織を突き止めたのだ。
大手柄に義父は一言「よくやった」と言ってはくれたが、あまり嬉しそうではなかった。
それから数日後、国防省では佐竹の葬儀が盛大に執り行われた。
列席者のリストは角界の大物が名を連ねていた。
国防省の幹部はもちろんだが、財政界の人間までだ。
一見華やかだが常に影と隣り合わせの世界で生きていた佐竹には不釣り合いなものだった。
直人は当初不思議に思ったが、その理由は簡単なものだった。
喪主として姿を現した女性の存在があったからだ。
佐竹がとっくに絶縁したという妻、確か財閥の娘という肩書きの持ち主。
義父から聞いていたものの、そのバックは直人の想像をはるかに超えるレベルだったらしい。
その縁戚ということで佐竹はさして顔も知らない人間から送られる事になった。


佐竹の妻は上品で威厳のある婦人だった。
佐竹は家族を捨ててまで、この道を選択した。ようやく再会を果たしたのは死んだ後。
直人と同じくらいの年齢の少年も神妙な面持ちで着座している。
一目で佐竹の孫息子だとわかった。
義父の命令で直人は佐竹の遺品の整理をした。
佐竹の自宅の書斎のデスクの引き出しに隠すようにひっそりとしまってあった写真の中の幼子の面影がある。
とっくに捨てたはずの家族なのに、心のどこかでは断ち切れない想いがあったということだ。
直人は佐竹の心がわからなかった。
自分のように他に選択肢がないわけではない。
その気になりさえすれば愛しい家族と裕福な人生があったのに、なぜ此方の世界を選んでしまったのだろう?




格式張った葬儀が終了の後、佐竹の夫人は最後の挨拶の為に春臣の元に訪れた。
夫人が尋ねたい事があるというので直人と美紀彦も同席した。
しんと静まり返った応接室の中、夕陽が差し込んでいる。
夫人は落ち着いた口調で「あなた達は、あのひとの最後に一緒にいたそうですね」と切り出した。
佐竹は自分を庇って死んだ。直人は非情だが木石ではない。
遺族を前にすると胸がちくりと痛んだ。


「本部長は最後までご立派でした。ご立派な最後でしたよ」
美紀彦がはっきりと言った。もちろん直人に異論はない。
「あのひと、最後に何か言ってなかったかしら?」
直人は表情こそ変えなかったが、心臓の鼓動が一瞬大きくなったのをはっきり感じた。
数秒の沈黙の後、美紀彦が口を開いた。
「本部長は奥様の……ご家族の名前を呼んでいらっしゃいました」
美紀彦の表情は真剣そのものだった。
そこに演技臭さなど一切ない。オスカー賞に匹敵するものだった。
夫人は何も言わず、じっと此方を見つめている。

「本当です。何度も奥様の名前を――」




「本部長の最後のお言葉は『奴等を逃がすな』です」




美紀彦の言葉をかき消すように直人は強い口調できっぱり言った。
美紀彦が困惑している、しかし直人は強い意志を持って真実を告げた。
夫人には全く動揺がなかった。
それどころか納得したように、「あのひとらしいわ」と微笑した。
少し寂しそうだったが、嬉しそうな笑みだった――。




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