直人は群衆をかきわけてテープが張り巡らされている殺人現場に直人は足を踏み入れた。
よれよれのコートを身にまとった刑事達が不機嫌そうに近づいてくる。
「ここはガキの遊技場じゃあない」
その口調もおよそ好意とは程遠いものだった。
しかし直人と彼らの立場は一瞬で逆転することになる。
「引き下がるのは貴様等の方だ」
身分証明証を提示しながら近づく熟年の男に、刑事達は慌てて煙草を捨て頭をさげた。
「こ、これは国防省の部長殿ですか」
「いいから、この方を案内しろ」
「え、こんなガキに?」
刑事達は胡散臭そうに睨んでくる。
「言葉に気をつけろ。菊地局長のご子息だぞ」
「ええ、局長の!?」
途端に、先ほどまでの直人を小馬鹿にしたような表情が消えた。
「直人さんは、ある調査の為に来られたのだ。失礼のないようにしろ」
「は、はい……では、こちらにどうぞ」
刑事達は頭を低くして直人を案内した。
下着姿の女が横たわり、無惨にも顔面を銃で撃たれていた。
「身元を証明するものはなかったのか?」
「はい、服ははぎとられ、バック類もありません」
「……そうか」
身元が割れるまでは時間がかかる。
直人は「邪魔したな」と再び群衆をかき分け現場を後にした。
鎮魂歌―菊地直人Ⅲ―
「何か収穫はありましたか?」
乗車するなり質問が飛んできた。
「別に何もない」
直人は言葉を選ばすそう言った。
あれ以来、義父はうるさいことは言わなかったが、さりげなく直人を監視するという手段に出た。
側近の尾崎を直人の見張りにつけたのだ。
おかげで、どこに行くにも、この男がついてくる。
「断っておきますが私が直人さんのそばにいるのは、お遊び好きの本部長からお守りするためです。
あの方は未成年に悪さしか教えないんですから」
確かに中学生にカジノ遊びは度が過ぎている。
「元々、あのひとはセレブですから、そこのところがいまいち常識が欠けてるんですよ」
「セレブ?」
佐竹の身の上など聞いたこともなかったが、セレブとはさすがに意外だった。
「何でも奥様は財閥の娘で、本当なら贅沢な暮らしできたはずなんですよ」
国防省本部の諜報部・本部長、それだって社会的地位と高給は保証されている。
しかしリスクを考えたら、本来の立場を捨てるほど価値のあるものではない。
佐竹自身が言っていたように、余程、この仕事が天職だったのだろう。
「局長が言ってましたよ。いい加減、引退して家庭に戻ればいいのにと」
「家庭?本部長は離婚したんじゃなかったのか?」
「私も詳しいことは知りませんが、奥様が離婚届けを出さなかったので、籍はそのままになっているそうなんです。
奥様は待っていらっしゃるんですよ。幸せなひとじゃないですか。
帰る場所があるんだから、こんなところにいつまでもいなくてもいいのに」
尾崎は呟くように言った。
(尾崎の言うとおりだ。天職にだって潮時というものがある)
体力、精神力ともに人間の限界の標準を越える仕事をしているのだ。
年齢を考えたら退職しても、誰も責めないだろう。
それなのに、なぜこの仕事にしがみついているか?
しかし諦めが悪いという点では自分も他人を非難できない。
国防省の人間が怪しい人間を尾行したところ、偶然起きたという殺人事件。
もしかして例のテロリスト絡みではないかと思うといてもたってもいられず現場に訪れてしまっていた。
もう自分とは関係のない事だというのに。
(来週には任務で関東に行かなくてはいけない。
……薫も無能な人間じゃない。その間に事件を解決しているだろう)
例のビルが怪しいという情報を、すでに薫は手にしている。
(忌々しいが、どうしようもない)
今は任務の事だけ考えよう。直人は自宅に戻るなり睡眠をとることにした。
常に任務と訓練に明け暮れている身、少しでも自由時間が生じれば睡眠をとる。
それが直人のライフスタイルだったのだ。
直人はショッピング街にいた。
クリスマスソングが耳にうるさい。
だが妙だ。こんな街に見覚えはない。
(ここはどこだ?)
いや違う、自分は知っている。
この並木道、ビル、街並み……見覚えがある。とても懐かしい。
(懐かしい?)
なぜ、そんな感情が沸くのか?
答えがでず、代わりに笑い声が聞こえてきた。
(あれは……?)
「ほら、もうすぐクリスマスよ」
「今年のプレゼントは何だと思う?」
若い夫婦が子供と手をつなぎ歩いていた。不思議な事に夫婦の顔は見えない。
しかし子供の顔ははっきり見え直人は言葉をつまらせた。
(……あの子供は)
自分は知っている。
いや覚えている、この光景を。
しかし、ずっと忘れていた。
「……あれは」
子供は笑っていた。三歳、いや二歳?
両親に愛され、幸せいっぱいだと一目でわかる。
この世には悲劇が溢れていることなど、知るよしもない笑顔だ。
直人の目はその子供に釘付けになっていた。
ただ見ていた――。
「危な――」
何が起きるのか、直人は知っていた――。
近くのビルが一瞬膨張し、次の瞬間閃光が辺りを包んだ。
クリスマスソングの音が一瞬で消え何も聞こえなくなった。
美しく飾られた街が破壊され、ドス黒い煙幕が辺りを包み込む。
まるでスローモーションのように、その地獄図絵はゆっくりと動いている。
子供の目の前で母親の体が熱風に飛ばされていた。
父親が子供を庇って倒れ、その背中には無数のガラス片が突き刺さっている。
――なぜ忘れていたんだ。
どん、と再び嫌な音がした。爆弾は一つではなかったのだ。
「崩れるぞ!」
誰かが叫んでいた。
直人は走っていた。鍛えられた足のはずだったのに間に合わない。
――あれは俺だ。
物心つく前に味わった惨事。
わかっている、これは現実ではない。助けられるわけがない。
あいつは、いや俺は死ぬ。
間に合わない、助けられない。
だが――だったら、なぜ今、俺は生きている?
煙の中からシルエットが飛び出していた。
「……ぅ」
わんわんと意識の彼方から騒々しい吠え声が聞こえる。
「……夢だったのか」
夢にしてはリアルな生々しさがあった。
直人は洗面台に向かうと蛇口をひねり、何度も冷たい水で顔を洗った。
屋外からは相変わらず、わんわんと犬達の鳴き声が聞こえてくる。
やがて吠え声はけたたましいものへと変化していった。
「どうしたんだ」
尋常ではない様子に直人は外に出て警備官に尋ねた。
「また奴が暴れたんですよ」
警備官が困惑しながら答えた。犬が喧嘩をしている。
喧嘩というよりも一方的に押さえ込んでいるではないか。
負けているのは最近菊地邸に配属されたレトリーバーの雄で、覆い被さっているのはマスチフだった。
ロックに勝ってボス気取りの犬というのはこいつだろうとすぐにわかった。
なるほど、体の大きさといい、凶暴性といい、一目見ただけで強いということがわかる。
しかし仲間に喧嘩ばかり売るとは、番犬としては落第だ。
「再教育するべきですね」
警備官が溜息をつきながら言った。
「そんなことより、負傷する前に引き離せ」
「は、はい」
しかし興奮しきっている犬に恐れをなしているのか、警備官は距離を縮めるだけで何もしない。
直人は舌打ちしながら歩きだした。
その直人の視界のすみをさっと影が動いた。
視線を向けるとロックが走っていた。
負傷して以来、落ち込み元気を無くしていたはず。恐怖も忘れてはいないだろう。
そのロックが仲間の危機に勇気を振り絞って再度戦いを挑もうとしているのだ。
(ロック)
ロックはマスチフに飛びかかった。
体格では劣る。しかし今度負けたら浮上するのは不可能に近いとわかっているのか必死だ。
その気迫に直人は思わず叫んでいた。
「ロック、リーダーの意地を見せてみろ!」
警備官が「直人様、怪我だけではすまないかもしれませんよ」と進言してきた。
しかし直人は止めず、二匹は絡み合いお互いの身体に牙を突き立てた。
緊迫した空気が数分間続いた後、最初に口をはなしたのはマスチフの方だった。
それを見届けるとロックも口を離した。
ロックはまた負傷していた。しかし、その目は輝いている。
「よくやったな」
直人は愛犬の頭を撫で、その勝利を誉めてやった。
(そうだな。俺も――)
直人は携帯電話を取り出し美紀彦に連絡をとった。
「すぐにビル周辺を調べろ。例の殺人事件は関係があるかもしれない」
『しかし直人様には時間が――』
「任務開始まで後二日ある。俺は薫ごときを相手に逃げるつもりはない」
「直人が?」
菊地春臣という男は非情だ。
スパルタ教育などというには及ばないほどの試練を直人に課してきた。
その教育のおかげで今日の直人がある。
春臣は「少々厳しすぎるのでは?」という周囲の声に対して、常にこう突っぱねてきた。
「私は直人には、どんな過酷な状況でも一人で生き抜くことができる力を身につけさせているだけだ」と。
その言葉を裏付けるように、厳格すぎる彼の教育方針は過酷ではあったが無茶苦茶ではなかった。
健康管理もプロの仕事の一つだと教え、徹底させていたのだ。
だから直人には心身を回復させるための安息日を与えていた。
任務の合間は、その貴重な時間だったのだ。
もちろんフリータイムを直人がどう使おうが、直人の自由。
しかも己の享楽のためではなく、国家のために使おうというのだから反対する理由はない。
だが疲労が蓄積されて任務に支障がでては元も子もない。
「……後先考えないような人間に育てた覚えはない」
春臣は溜息をついた。
「局長のお若い頃もそうだったとお聞きしましたが」
春臣は尾崎を睨みつけた。
「私はもっと慎重だった。職務に熱心だったが、直人のは、ただの若気の至りだ」
「はい、すみませんでした」
春臣は写真立てを手にした。弟と大勢の部下たち。
佐竹と自分以外、全員死んだ。当時の春臣を知るものは佐竹一人。
長年仕えている尾崎ですら、当時は別の部署にいたため詳しい事情を知らない。
先程、尾崎の言葉を否定したものの、それは正確なものとはいえなかった。
まだ若かった。仕事に対して使命感以上の情熱があった。
血気盛んな若者だった春臣を、テロリスト達は冷酷な人間に変えた。
純粋で生真面目な直人を見ていると、時々捨て去ったはずの熱い何かを胸の奥に感じる事がある。
「私が作り上げたものではない。おまえ自身が持って生まれた資質だな……直人」
テロリスト対策チームとして結成された、あの日。
春臣は佐竹や弟達と供に、片っ端から反政府組織に戦闘を仕掛けた。
恨みを買うような荒々しいことも平然とやった。
その甲斐あって、いくつかの組織を潰すことに成功した。
だが、その組織の一つが当時政府をも震え上がらせていた西園寺紀康のグループと同盟を結んでいた。
それが春臣たちのチームに悲劇をもたらした。
西園寺紀康の組織は超過激派。報復が開始された。
チームメンバーが1人、また1人と殺害されていったのだ。
その報復に西園寺がどれだけ関わっていたはわからない。
だが敵の正体がわからない以上、春臣が狙ったのはトップの命だったのだ。
西園寺紀康の息の根を止めれば、それで全てが終わる。
今でも、その判断に誤りはないと思う。
誤りがあるとすれば、西園寺の組織、いや西園寺の力を軽視していたことだけだ――。
尾崎は直人は自分の若い頃に似ているという。
常に冷静さを失念せず恐怖に打ち勝てる人間になるように、常軌を逸した教育を施してきた。
昔の自分のように苦い失敗をさせないために、だ。
(あの頃、部下を殺され感情的になっていた私は犯してはならないミスを犯した)
十年以上も昔の事だと、割り切れない悲劇だった。
――11年前――
「伴野もやられた。これで3人目だ」
非番に起きた突然の不幸。たった一日で春臣は部下を3人失っていた。
自宅でくつろいでいるところを急襲された者が2名。家族と外出しているところを襲撃された者1名。
任務中と違い隙だらけだったのだ。
負傷した者はその倍いた。死傷者は家族も含めると合計7名。
「……あいつら国防省を舐めやがって」
チームメンバーは報復の二文字を掲げて出動を待っていた。
だが上の命令は彼らの期待を裏切るものだった。
全く関係のない人間で成り立った特殊チームがこの件にあたると発表されたのだ。
春臣達は自重し身を隠せと申し渡された。
負傷者がいる上に感情的になっている彼らに任務遂行は難しいだろうと判断されたのだ。
春臣は納得できなかった。
「戦争を仕掛けられたのは俺だ。このまま黙ってみていられるか!」
佐竹がどんなに諭しても、春臣が頷くことはなかった。
そして違法ともいえる行動にでたのだ。
上の許可なしで報復する、今の春臣からは考えられない無謀な行為だった。
それを知った部下達は一斉に同調した。
「ばれたらどやされるだけじゃ済まないぞ。第一、生きて帰れる保証がない。おまえ達はやめておけ」
「嫌だ、俺も行きます!」
「俺もだ。菊地さん、一緒に死なせて下さい!」
部下達を巻き込むべきではなかった。
しかし、まだ若く感情に流されていた春臣は冷静さを失っていたのだ。
結果的に春臣は部下達の意思を尊重した。
それでも断固として同行を拒否した者達もいる。それは恋人がいる者だ。
「仕事より大事なものをもった奴はいざって時に生に執着する。
足手まといになる要素をもった奴を俺は使わない」
大事な一戦だ。春臣は不安要素を切り捨てなければならなかった。
実の弟すら例外ではなかった。
「なぜ俺をはずすんだ?!」
抗議する弟を春臣は睨みつけた。
「怪我人は国防省から出ていけ。ルールを破った奴に用はない」
「兄貴?」
「俺が何も知らないと思っているとしたら、おまえほど間抜けはいない。
女を作ったおまえに、この戦いに参加する資格はない」
弟は目を見開いた。危険な任務に従事する者ほど身近に大切な人間がいてはならない。
それが彼ら兄弟が己に課したルールだった。
実際、春臣はテロリスト一掃作戦が決定した次の日に、恋人に一方的に別れを告げている。
「三年も付き合っていたら、嫌でも俺の耳にはいるんだ。
おまえの経歴があれば、いくらでも安定した職につける。
年金だけでも食っていくことだけなら可能だろう。
国防省とはもう縁を切ろ。さっさと女のところに行って戻ってくるな」
「もう死んだ!!」
弟は悲鳴のような声をあげた。
「奴らが殺したんだ。だからもう俺に足枷はない。この世に未練なんかないんだ!」
「……」
「だから連れていってくれ兄貴!!」
「……生存者1名。散々な結果だったな」
春臣の義眼が怪しい光を放った。
「私の息の根を止めなかった事を後悔させてやるぞ」
失ったものは大きかった。片目、弟、生死を共にした部下達。
『この世に未練なんかないんだ!』
「……嘘つきめ」
春臣は写真立てをデスクに伏せた。
弟も部下達も死ぬ覚悟があるといった。死んでも後悔しないとも言った。
その言葉を信じていたはずだった。
「……馬鹿な連中だった」
彼らが最後の最後に何を考えていたのか、春臣は知る由もない。
だが自分の気持ちは知っている。後悔しているのは春臣自身だった。
己の短慮が彼らを殺した。
だが、この11年間、後悔などしていないと主張してきた。
そして今後も嘘をつき続けるために、直人を鍛え上げているのだ――。
「年齢は40歳前後だそうです」
「わかったのはそれだけか?」
検死結果は直人の満足のいくものではなかった。
「歯の治療痕が特徴的だったので、すぐに身元が割れると期待したんですが一致する人間がいなかったんです。
範囲を広げて調査させてますが時間が……」
直人は黙り込んだ。
死体の特徴がわかったのに肝心の身元がわからなければ話にならない。
「……範囲を広げるのは地域じゃない」
「直人様?」
「行方不明者限定ではなく、全てのカルテを照合しろ」
「所在がはっきりしている者もですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
わざわざ顔を潰したのは犯人が被害者の身元が判明することを恐れているからだ。
もしかしたら犯人は被害者になりすましているかもしれない。直人はそう考えた。
「行くぞ、尾崎。例のビルに」
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