これは、ある高貴な一族の、仲睦まじい家族の暮らしをつづった話である――。




鎮魂歌・季秋一族―1―




それは、ある日の午後だった。
職員会議の為、午後の授業は休止となった秋澄は早めに帰宅した。
車が停車すると召使いが玄関を開き、執事をはじめとする使用人達が出迎える。
いつもの光景だった。

「お帰りなさいませ秋澄様」
「ただいま」

いつものなら真っ先に弟達の様子を尋ねるところだが、まだ彼らは学校だろう。
秋澄はそう思ったが違った。


「実は秋利様が体調不良で早退なさり部屋でお休みになっておられます」
「秋利が?」

健康そうに見えた弟が早退を余儀なくされるほど体調を崩したとは。
弟思いの秋澄にとってただ事ではない。すぐに様子を見てやることにした。














部屋のドアをノックすると、「何?」と、やや感情の乏しい声が聞こえてくる。
「兄さんだよ秋利、調子はどうだ?」
「入っていいよ」
秋澄が入室すると、秋利は窓辺の椅子に腰掛けて読書をしていた。
「気分が悪いと聞いたけ大丈夫なのか?」
「平気だよ。兄さんは心配性だなあ」
声の調子はいい。どうやら大丈夫という言葉は本当のようだ。
「ん?」
しかし秋澄は秋利が手にしている本のタイトルを見て熱が出そうになった。


「お、おま……っ、おまえ何を読んでいるんだ!?」
「何って、みればわかるだろう。文学小説だよ」
「そ、そ、それは小学生が読むものじゃあないだろう!!」


『チャタレイ夫人の恋人』

何度も裁判沙汰になったという曰く付きの官能小説ではないか!
一見、純文学に見せかけ中身はポルノ!!


秋澄は慌てて秋利から本を取り上げた。

「こ、子供が、こんなものを読むんじゃあない!」

呼吸も絶え絶えな秋澄に、秋利は小学生らしからぬ微笑を浮かべた。




「固いなあ秋兄さんは」
「な、何だと?」
「断っておくけど、このネット社会。どれだけ温室に入れようと努力しても、子供は勝手に情報を手にするんだよ」


思えば、幼い頃から弟達は年齢の割にはませた子ばかりだった。
しかし秋利は見かけや物腰はお上品で、特に問題も起こさない子だっただけに秋澄は安心していた。
だが、それは大きな間違いだったかもしれない。


(そ、そういえば俺は秋利のことを、きちんと理解し把握していたのか?)


手の掛からない子だと思い、うるさいことは何も言わなかった。
秋澄は心底後悔した。これは弟を放任してきた自分の責任だと。




「あ、秋利、兄さんと一緒に遊ばないか?」
「いいよ。じゃあ、しりとりでもするか?」

秋澄はほっとした。
しりとり、子供らしいじゃないか。やはり秋利はいい子だった。
このいかがわしい本はたまたま手にしていただけだろう。


「よし、じゃあ兄さんからいくぞ。そうだな……魚(さかな)」
秋澄は小学生相手なので無難な単語をだした。
「な……な、か。じゃあ、な――」

(納豆とか、茄子ってところかな?)




「なかだし」




い、今……何て言った?


秋澄は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。
全身が麻痺したように動かず、足下が崩れ奈落の底に落ちてゆく。

「兄さん、『し』だよ」
「……」
「兄さん」

秋澄ははっとした。


(お、落ち着け……今のは何かの間違いだ。そうだ、聞き間違いだ。そうに違いない)


秋澄は無理矢理自分に言い聞かせた。




「し、だな。じゃあ、鹿(しか)」
「かんつう」
「……え?」
「か・ん・つ・う」


(か、かかか姦通ぅ!?)


秋澄は目眩に襲われた。意識がはるか彼方に飛んでいきそうだ。
秋利は笑いながら「う、だよ。兄さん」と続きを促している。


(かんつう、カンツウ、KANTSU!?)


秋澄の苦悩に全く気づいてないのか、秋利は「兄さん、降参なの?」と尋ねてくる。


(か、かかか貫通……そ、そうか、貫通か!そうだ、そうに違いない。
小学生の秋利がいかがわしい言葉を知っているはずがない。
俺は何を考えていたんだ。単なる同音異義語に戸惑うなんて)


秋澄は自分を納得させ復活した。




「う、だな。よーし、じゃあ、乳母(うば)」
「ばいた」
「……」
「どうしたんだよ兄さん。た、だよ。た」
「……」
「俺も暇じゃないんだよ兄さん。早くしてくれるか?」


「……鯛(たい)」
「いんばい」
「……インコ」
「こんどーむ」
「……村(むら)」
「らんこう」
「……う」


秋澄は耐えきれなくなっていた。
ただ、頭の中で「う」という一文字が繰り返し反復されている。
部屋の扉がゆらゆらと揺れながら近づいてくる。これは錯覚だろうか?




「兄さん、どこに行くんだよ。う、だよ。う」
「……うどん」

もう頭の中が真っ白で、何を言っているのか自分でもわからない。

「兄さんの負けだね」という言葉が返ってきた。
ああ、そうだ。もう負けで良い。負けで良いんだ。
いや、自分はもっと早く負けるべきだった。もう何も考えたくはない。


相変わらず周りの景色はゆらゆらと揺れている。
秋澄はやっとの思いで自室に戻ると部屋の鍵をかけた。

今日はもう寝よう。そうだ、それがいい……秋澄は眠りについた。
もしかしたら今までの事も全部夢かもしれない。そうだ、そうに違いない。
秋澄はそう納得することにした。でも、その後しばらく意識ははっきりしなかった。














「秋利、もう体調はいいのか?」
「ああ、ばっちりだ」

夕食時間には、秋利は元気な姿を家族に見せてやった。

「ところで秋澄兄貴は?」
「それがなあ。兄さん、気分が悪くなって部屋で寝込んでいるんだ」
「おまえ、何かしたのか?」

冬也が意味ありげに凝視してくる。
秋利は心外だった。まるで自分が悪いみたいではないか。


「別に。兄さんは生真面目すぎるから現実逃避したくなるところがあるんだろ。そのうち慣れるよ」


「それも、そうだな」
冬也は納得したのか、それ以上何も聞いてこなかった。
後で秋澄を見舞ってやろう。秋利は、そう考えた。


「次はどんなお遊びをしようかな」


――その日も何事も無く季秋家の夜は更けていった。




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